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新札幌市史 第3巻 通史3
(札幌神社祭典)
札幌神社
祭典
札幌神社
の例祭は六月十五日をはさむ三日間行われるが、祭典区をあげての山車行列あり、夜店,写真-2 明治30年代の
札幌神社
例祭
札幌神社
の例祭は、一人札幌区のみならず近隣の町村にとっても,表-1 明治四十四年度
札幌神社
例祭祭典区 祭典区の区域 祭事費用支出の分担額定率 山車の種類 1区 南,そのうち四十四年度の年番である第一区の代表が、三基の神輿を
札幌神社
に迎えにゆく。,
札幌神社
の例祭は明治期に創られた新しいものであるだけに、
札幌神社
宮司額賀大直は、「祭典の故実」(北タイ /
札幌神社
祭典
新札幌市史 第2巻 通史2
(札幌神社の活動)
札幌神社
の活動 ここでは通常の神社の活動以外の、この時期特有のものを中心に略述したい。 ,さらに五年五月、開拓使は教部省あて「北海道後志胆振両国以奥各郡産土神社無之地エ、
札幌神社
遙拝所ヲ仕立、,神躰奉祭いたし候見込ニテ」(
札幌神社
諸留 道文四五五)神鏡二〇面を新鋳した。,これについてはまず五年六月に白石村が神武天皇遙拝所設立願を提出したのに対し、開拓使はそれを許さず、
札幌神社
遙拝所建設,写真-2
札幌神社
氏子札(明治4年発行、札幌市長岡武夫氏蔵) /
札幌神社
の活動
新札幌市史 第3巻 通史3
(日露戦後の札幌神社)
日露戦後の
札幌神社
日露戦後の
札幌神社
では、戊申詔書奉読祭が明治四十二年五月二十三日、
札幌神社
の神殿,で行われ、衆議院議員東武、東北帝国大学教授南鷹次郎、拓殖銀行頭取美濃部俊吉、
札幌神社
宮司額賀大直らの講演会,四十一年九月一日には、
札幌神社
鎮座四〇年祭が執り行われた(北タイ 明42・8・31)。 ,三十四年九月一日の失火で焼失した
札幌神社
の遙拝所は、四十三年十一月三日天長節を期し頓宮と改称し、
札幌神社
旧拝殿,また大正三年九月一日、第一次世界大戦への宣戦奉告祭に、
札幌神社
へと勅使が参向した。 / 日露戦後の
札幌神社
新札幌市史 第3巻 通史3
(官幣大社札幌神社)
官幣大社
札幌神社
札幌神社
毎年六月十五日ニハ、北海道ノ小学校、皆其業ヲ休ム、コレハ、
札幌神社
ノ祭日,/
札幌神社
ハ、札幌ノ西ノ方、マルヤマ村ニアリ、明治四年六月、コヽニ社ヲ建テヽ、オホクニダマノ神、オホナムチノ,三十二年に官幣大社となる
札幌神社
の六月十五日の祭日には、北海道中の小学校が休業となり、札幌区の小学生が,このように社会で大きな意味をもつ、
札幌神社
の官幣大社への昇格の問題を考えてみたい。 ,明治三十二年九月一日、官幣中社
札幌神社
(現北海道神宮)は官幣大社へと昇格する。 / 官幣大社
札幌神社
新札幌市史 第2巻 通史2
(札幌神社の活動)
札幌神社
の活動 ここでは一般祭祀等以外の活動について記したい。,これについては一つは祭典の執行であり、事例としては二十二年五月、三吉神社祭典には
札幌神社
宮司、主典等が,現市域内の神社について、この時期
札幌神社
の神職が社掌を兼務したのは丘珠神社、大谷地神社、諏訪神社、白石神社 /
札幌神社
の活動
新札幌市史 第4巻 通史4
(札幌神社の整備)
札幌神社
の整備
札幌神社
は国家神道の強化、敬神思想の高揚とともに社格に合った境内や周辺の整備が推進されていくようになる,十一年九月に陸軍大演習が本道で実施され、昭和天皇も
札幌神社
へ参拝する予定となっていたので、一六万円の予算,により立案されたが、まもなく神社の造営・改修も節約の対象とされこの計画は中止となったが、外苑の整備は
札幌神社
/
札幌神社
の整備
新札幌市史 第3巻 通史3
(札幌神社と台湾神社)
札幌神社
と台湾神社 しかしながら、
札幌神社
が明治三十二年に官幣大社に昇格する背景には、日清戦争後の最初,三十三年九月十八日(内務省告示第八一号)に台湾神社を官幣大社として創建するためには、内国植民地における本家の
札幌神社
,ニ其ノ御跡ヲ垂レ給ヒシト云フ御功績ニ依リ、領土開拓ノ神トシテ、維新ノ初メ、北海道ノ新開地ニ、官幣大社
札幌神社
,勅裁在ラセラレ、新領土鎮守官幣大社トシテ、此クハ御発表相成リシ御儀ト拝承セリ ここには、官幣大社
札幌神社
,としての開拓三神を祀ることが、第一義的に重要であった(台湾神社社務所編纂 台湾神社誌、高木博志 官幣大社
札幌神社
/
札幌神社
と台湾神社
新札幌市史 第2巻 通史2
(札幌神社の創建)
札幌神社
の創建 しかし同年秋から初冬にかけて札幌本府建設が再決定され、十二月には立案にあたった開拓権監事西村貞陽,そして同年五月十四日付太政官布告の、官社以下定額及神官職制等に関する件の別紙中、国幣小社の末尾に「
札幌神社
,其管内
札幌神社
へ差紙ノ通被御出候為心得相達候事。 ,但祭式ノ儀ハ従神祇官可相達事 (差紙)
札幌神社
[石狩国札幌郡鎮座] 国幣小社列自今官祭被仰出事 /
札幌神社
の創建
新札幌市史 第2巻 通史2
(札幌神社崇敬講の結成)
札幌神社
崇敬講の結成 前編七章で述べたように、円山村民を中心とした近傍住民は、
札幌神社
に対して地域の,この一つの成果として、明治二十四年二、三月頃、
札幌神社
崇敬講が結成され、次第に発展して講員二〇〇人以上,官幣中社
札幌神社
ハ恐クモ今上帝陛下ノ勅願ニ座マシ、本道ノ宗社、開拓ノ守護神トシテ祭セラル所ナリ、我輩ハ,故ニ明治二十四年以降同志ヲ募リ、
札幌神社
崇敬講ナルモノヲ組織シ、有志者年々加ハリ今将ニ二百余名ニ及ヘリ,(
札幌神社
崇敬講組合名簿 北海道神宮) 頭取として上田万平、副頭取藤森銀蔵(共に円山村)、さらに崇敬講世話方 /
札幌神社
崇敬講の結成
新札幌市史 第5巻 通史5上
(札幌神社から北海道神宮へ)
札幌神社
から北海道神宮へ 戦後一〇年を経て、社頭の賑わいは復活しつつあったが、神社神道としての教化活動,こうしたなか、
札幌神社
では、戦前からの宿願であった明治天皇を増祀して(市史第四巻 一〇五一頁参照)、社名,三十四年には「ご鎮斎九十周年記念祭」を行ったため、
札幌神社
奉賛会が結成されるのは三十六年のことである。,この年、国土緑化大会に出席する昭和天皇の北海道行幸があり、
札幌神社
への参拝も行われた。,本殿の改築は三十七年に始まり、あわせて神社本庁へ「
札幌神社
に明治天皇をご増祀し北海道神宮とご改称方申請 /
札幌神社
から北海道神宮へ
新札幌市史 第2巻 通史2
(社号変更建言)
社号変更建言 これよりさきの二十九年七月、同社白野宮司は、当時北海道の管轄省であった拓殖務省あて、「
札幌神社
社号改替,その要旨は、
札幌神社
は勅裁によって全道の宗社、開拓の守護神として鎮座した。,この状況下では「北海ニ宗社タル開拓ニ守護神タル我官幣中社ニシテ、其社号ヲ呼フト同一視シ、
札幌神社
ハ札幌一地方,写真-1
札幌神社
社号改替ノ建言 (願伺届留 三 北海道神宮) これによれば、
札幌神社
の全道一一州総鎮守,また、社名変更願を提出した
札幌神社
自体も、三十年に官幣大社昇格願を提出した際、「古来氏子場ノ区域戸口」
新札幌市史 第2巻 通史2
(祭典区の性格)
まず、前掲広告文では、「
札幌神社
区祭ノ儀」とあって、例祭とはなっていない。,またこの二十六年六月、宮司から区長あてに「
札幌神社
祭典御届」が提出され、同月十四日夜宮祭、十五日本社より,これらによれば札幌区の区祭は、
札幌神社
遙拝所において一部
札幌神社
例祭と重複しつつ行われるものであって、,このほか、『北海道毎日新聞』にも「来る十四日より十七日迄例年の通り
札幌神社
遙拝所に於て祭典執行に付」(,これらをふまえて考えると、まず前編に記したように十年に宮司から
札幌神社
市中移転願が提出され、却下されると
新札幌市史 第4巻 通史4
(札幌敬神講社の設立)
札幌敬神講社の設立 札幌敬神講社は大正十五年一月十五日に、
札幌神社
にて発会式及び奉告祭が行われて設立,同社は、「国民道徳の本源たる敬神の念を一層深からしむ目的の下に、官幣大社
札幌神社
を崇敬し祭典其他の事業,同社は従来の祭典区委員会の組織を改組し、「規約」によると「官幣大社
札幌神社
ヲ崇敬シ、祭典及維持拡張ニ関,同社は「官幣大社
札幌神社
を崇敬し国民道徳の向上、精神の作興を図り祭典及維持に関する事業を翼賛し、併せて,札幌市と円山地区が
札幌神社
への奉仕、祭典の実行組織として協調して両敬神講社の創設を図ったのであった。
新札幌市史 第1巻 通史1
(菊池重賢)
菊池重賢 写真-4 菊池重賢 (
札幌神社
九十年誌より) 菊池大蔵は後に重賢と名をかえ、明治三年十二月,に
札幌神社
(現北海道神宮)の禰宜(ねぎ)となる。,五年二月に権宮司(ごんぐうじ)となるも、
札幌神社
の経営をめぐって開拓使と衝突し、ついに八年七月に辞職し
新札幌市史 第7巻 史料編2
(三 宗教)
三 宗教 一六五 三吉神社村社昇格の件(明治一五年) 一六六
札幌神社
官幣中社昇格願(明治二六年一一月,) 一六七
札幌神社
官幣大社昇格願(明治三〇年九月二五日) 一六八 寺院沿革調
新札幌市史 第4巻 通史4
(強まる国家神道)
開戦とともに十二年八月一日には
札幌神社
では国威宣揚祈願祭が執行されたが、十八日には札幌市主催の国威宣揚,この時期の
札幌神社
の様子につき『北海タイムス』は、以下のように報道している。,緊張した日支の情勢を反映して最近の
札幌神社
は武運長久を祈願する民草の一群で一段と厳粛な空気に満ちてゐる,(北タイ 昭12・7・27) 支那事変勃発以来聖戦茲に三月、三百万道民の総鎮守
札幌神社
に日毎祈願する人々,写真-1 戦時色を強めていく
札幌神社
の社頭風景 三吉神社の例祭でも十三年五月からは宵宮の十四日
新札幌市史 第3巻 通史3
(大正四年大正大礼と国家神道)
一家団欒して聖寿の万歳を祝し奉ること 一、神社に参拝すること 大嘗祭当日(十一月十四日) 一、当日
札幌神社
,家内一同会食すること また札幌の学校の奉祝については、大嘗祭当日は、第一第二中学および北海中学は、
札幌神社
,行い、各小学校では即位礼当日は三大節の時と同じく、御真影開扉、君が代合唱、教育勅語奉読、大嘗祭当日は
札幌神社
,であり(北タイ 大4・11・15)、北海道全体の行政の長が総鎮守の
札幌神社
に勅使として派遣され、警察が,同様に、北海道神職会札幌支部会では、
札幌神社
や札幌支庁管内の神社で行われる地域の大嘗祭庭積机代の米作付
新札幌市史 第3巻 通史3
(北海道の官幣大社)
そしてその頂点に、三十九年四月の官国幣社国庫供進制度により、経済的基盤を確保した
札幌神社
が位置づくのである,また
札幌神社
の分霊についても、三十二年四月八日、分霊手続きには地方長官が内務大臣経伺という煩瑣な手続きが,明治三十年代から大正期、
札幌神社
の開拓三神の「分霊奉斎の最盛期」となり、特に十勝・上川地方で活発で、明治三十八年,から大正九年までの
札幌神社
の分霊社数は二六社にのぼった(北海道神宮史 上巻)。 ,かくして「開拓ノ守護神」たる官幣大社
札幌神社
は、五八〇社(明39現在)もある北海道内の神社の頂点に立ち
新札幌市史 第4巻 通史4
(開拓神社の創立)
開拓神社の創立 道庁では十二年に開道七〇年記念事業として
札幌神社
境内に開拓慰霊塔の建立を計画した(北,内務省では祭神が開拓功労者という異例に属するので、認可上には問題があったのであるが、 (一) 社格は
札幌神社
,の末社として社殿を
札幌神社
に寄附し供養料は地方費より支出す。,ことで決着し、十三年十一月十八日に「北海道開拓ノ先覚ニシテ功労最モ顕著ナル三十六柱ヲ祭神トスル開拓神社ヲ
札幌神社
境内
新札幌市史 第2巻 通史2
(官幣中社への昇格)
官幣中社への昇格 前編七章で述べたように、
札幌神社
は明治五年(一八七二)に官幣小社となって以来、度重,これに関し『北海道毎日新聞』は、
札幌神社
を「官幣大(ママ)社となさんとの議東京なる某筋に起り」(二十五年二月二十日付,同願書は、本文のほか、「
札幌神社
社格等願ノ理由」が添付され、七項の理由が述べられている。,神勲ニ報答シ、社格昇進ヲ奉願セスンハアラス」(北海道神宮)とした上で、今後の開拓守護、道内神社に占める
札幌神社
新札幌市史 第5巻 通史5上
(境内地の確保)
ことに、かつて官幣大社として維持運営費を全面的に官に依存していた
札幌神社
は、重大な局面にあった。 ,
札幌神社
の場合、運営費だけでなく、国有地を境内地としていることから「寺社に無償で貸し付けてある国有財産,一時は、
札幌神社
そのものを頓宮に移す案さえ考えられたという。,払い下げの資金は、
札幌神社
崇敬講社の精力的な募金活動が支えていたが、飛地境内地五〇〇町歩余の払い下げは,ちなみに、
札幌神社
の小作地総面積はさらに大きく、四九万余坪だったとされている。
新札幌市史 第2巻 通史2
(祭典区の設置)
祭典区の設置 前編七章で述べたように、
札幌神社
例祭終了後の同社遙拝所、区中への神輿渡御は、札幌区民の,『北海道毎日新聞』同年三月二十四日付には、
札幌神社
社務所、祭典区世話係幹事の名で、次のような広告が掲載,六月十五日官幣小社
札幌神社
区祭ノ儀、今迄一定ノ世話係ナル者無之、年々差支ヲ生シ候処、今般区内ヲ四区ニ分,表-1
札幌神社
区祭祭典区割 区 地 域 第1区 創成川西 大通南側より南三条北側まで創成川以西一円
新札幌市史 第3巻 通史3
(新社殿の造営)
新社殿の造営 官幣大社昇格後の
札幌神社
をめぐる大事業は、新社殿の造営である。,植民地神社としての官幣大社台湾神社が、三五万六〇〇〇余円の予算で建設されたのに対し、「これと南北相対する
札幌神社
,
札幌神社
造営会が記者を招待した際の、額賀大直宮司の演説では、 今日は官幣大社として北海全道の守護神社,写真-1
札幌神社
社殿建築工事現場(明44頃。,四十二年の伊勢神宮の遷宮に参列した額賀宮司の懇請により、伊勢神宮の古材が
札幌神社
に払い下げられることとなるが
新札幌市史 第2巻 通史2
(まつりと遊興の世界)
ことに遊楽性の著しいのは、六月十四日から十六日にかけて催される
札幌神社
の例祭や、毎月二十七、二十八の両日成田山境内,
札幌神社
の例祭は、六年の「当日は業を休み参拝又は遙拝するように」との達により、官衙、学校、会社等にいたるまで,
札幌神社
遙拝所では、子供の手踊や相撲が奉納される一方、近傍には見世物小屋や露店が並び、氷店やパン屋も繁盛,これは二十年代に同鉄道で、
札幌神社
例祭のために路線各駅より札幌へ直行する人びとの乗車賃を二割引にしたため,札幌の社寺暦をみると、五月の三吉神社の例祭を皮切りに、同月の成田山、六月の
札幌神社
、七月の中央寺鎮守三社祭
新札幌市史 第5巻 通史5上
(氏子崇敬者の生活にねざす祭祀)
札幌神社
の場合、二十二年、頓宮に分霊を奉遷して末社とした。,二十四年には、
札幌神社
と市内の各神社が申し合わせて、七五三詣を一カ月繰り上げた十月十五日に行うようにした,この時、新聞に日程繰り上げを掲載して市民への周知をはかったところ、
札幌神社
での祈禱は二七件あり、四年後,神前結婚式は、戦前から
札幌神社
で行っていたが、戦後は末社となった頓宮でも行うとともに、結婚式場に特別神璽,
札幌神社
の初詣は、大正十二年に市電が円山公園まで延長したことにより、翌年から参拝者が増え、昭和十四年には
新札幌市史 第4巻 通史4
(明治天皇の合祀と神宮昇格)
明治天皇の合祀と神宮昇格
札幌神社
に明治天皇を合祀し神宮へ昇格させる運動は、昭和九年から行われるようになる,その後、池田は十一年十二月三日の道議会にても
札幌神社
の改称、昇格を当時の道庁長官であった池田清に要望し,、池田長官も「及ばずながら努力する」と答弁しており(北海道議会史 第四巻 昭38)、この問題は
札幌神社
,昭和十一年十二月に
札幌神社
の高松四郎宮司は道庁と協議を行い、翌十二年一月に内務省へ「明治天皇増祀願」が
新札幌市史 第2巻 通史2
(祭と娯楽)
一方、開拓使が六年七月
札幌神社
祭日には官員をはじめ庶民にいたるまで休業・遙拝すべきことを達した
札幌神社
,このほか六月三十日と十二月三十一日に
札幌神社
では大祓が行われた。,一方、十五年の廃使置県後、札幌本府建設を後世に伝えるモニュメントとして開拓紀念碑設立の運動がおこり、
札幌神社
宮司杉戸大角
新札幌市史 第2巻 通史2
(神道講習会)
会主などで中心となったのは
札幌神社
阿由葉宗三郎、ほかに向井嘉兵衛、立花座主で
札幌神社
の祭典区の成立・運営
新札幌市史 第3巻 通史3
(神社制度)
神社制度 神職の養成は明治期の北海道では重要な問題であったが、明治四十一年三月には、
札幌神社
北海道皇典講究分所内,組織する北海道神職会が、四十一年九月五日に発足するが(札幌の寺社、北タイ 明41・9・7)、官幣大社
札幌神社
額賀大直宮司,規約では、事務所は
札幌神社
内におかれたが、のちに北海道庁内に置くと改正される(大3・4)。,札幌においても、官幣大社
札幌神社
以外のすべての神社は、郷社・村社以下の格の低い神社であったため影響が大
新札幌市史 第5巻 通史5下
(三角山採石問題と市の買い上げ)
同山は大正二(一九一三)年、国が
札幌神社
に付与した七〇〇ヘクタールの一部で、
札幌神社
が境内に使用していたが,三十二年三月に、所管の北海道財務局が
札幌神社
に立木とともに三角山を含む四三一ヘクタールを払い下げたところ,、市内の採石業者が
札幌神社
からそのうちの四〇ヘクタールを購入した。
新札幌市史 第4巻 通史4
(成立の経緯)
公区及聯合公区設置規程案ヲ提示シ、爾後議ヲ練ルコト数回ニシテ成案ヲ得、次ノ如キ経過ニ依リ四月三日官幣大社
札幌神社
,設置経過 昭和年月日 諸会合其ノ他 摘要 一五、一、二三
札幌神社
祭典区委員会 聯合公区区域設定ニ付協議,第二点は、市長案の実質的審議が
札幌神社
祭典区委員会と紀元二千六百年記念事業委員会においてなされ、市会はその,第三点は、公区創設を紀元二千六百年記念事業とし、結成奉告祭を
札幌神社
で行ったことである。,市内における地区区画としては、もともと
札幌神社
の祭典区があり、旧総代人制時代の選挙区、小学校通学区、衛生組合
新札幌市史 第3巻 通史3
(青年団の活動)
決定、式に移り君が代合唱、戊申詔書捧読、団長の告辞、来賓祝辞、団員総代答辞ありて閉式、夫より一同打揃ひ
札幌神社
,、在郷軍人会分会長といった名望家が役職についたことがわかり、発会式の儀式過程には、君が代、戊申詔書、
札幌神社
,一 毎年元旦早暁
札幌神社
ニ参拝スルコト 一 毎年春季弐回、夏季壱回、秋季弐回、基本財産地ニ於ケル植樹事業
新札幌市史 第5巻 通史5上
(氏子組織の再編)
札幌神社
の「札幌敬神講社」は戦時下に改組され、総長を札幌市長、「札幌市公区員ヲ講員」とし、経費を町内会,そのため、二十一年三月、名称を「
札幌神社
敬神講社」と改め、「
札幌神社
ヲ崇敬スル講員ヲ以テ組織スル」こと
新札幌市史 第2巻 通史2
(年中行事)
立春初午 氷遊び 中島遊園地 紀元節 十一日 拝賀式 旧正月十六日 近郊農村休業 豊年祭 祈年祭
札幌神社
,・大灯籠・大幟・山車・神輿御渡・子供手踊・素人相撲・見世物・氷店・パン屋等繁盛(市中)、神楽(円山村
札幌神社
,汽車割引 札幌共同競馬会 十五・十六日 中島遊園地 東皐園牡丹、芍薬縦覧 中旬 夏越の大祓 六月三十日
札幌神社
,市中往来は人力橇や馬橇に乗って年賀に行き交う人びとで賑わい、南二条東三丁目の
札幌神社
遙拝所は初詣客で賑,札幌に夏の訪れを知らせるのは、六月の北海道の総鎮守
札幌神社
の例祭である。
新札幌市史 第2巻 通史2
(教導職の設置)
当時市中唯一の仏教施設であった東本願寺の札幌管刹輪番ほか僧職三人を、権少講義、一四級試補等に任命し、また
札幌神社
常雇,さらに同年十二月、札幌出張の河井の指示により、河井、
札幌神社
宮司菊池重賢、東本願寺管刹輪番武田良秀らが,結局十一年六月、中教院四神をうけ、
札幌神社
内に設立された。
新札幌市史 第3巻 通史3
(札幌の諸神社)
豊受大神 新琴似神社 大 4. 8 大 6. 3 大14村社昇格 天照皇太神,豊受大神,神武天皇 藻岩村
札幌神社
,明治四年
札幌神社
の円山に遷さるゝや、上田万平外円山伏見の有志等計りて崇敬講を起し、毎月一日十五日神社に,(伏見史稿)
札幌神社
の崇敬講の消滅に取って代わって地域の信仰の対象となるのが、明治四十四年に遷座,さらに大正二年九月の官幣大社
札幌神社
造営に際して、旧神殿、幄舎、渡殿、神門、玉垣、祭典器具一式、旗一流,伊勢神宮の古材が
札幌神社
へ、そして
札幌神社
の古材が稲荷神社へという、国家神道のヒエラルヒーである。
新札幌市史 第2巻 通史2
(監獄教誨)
同年十月には
札幌神社
も出願、許可を得、まもなく東本願寺管刹もこれに加わった。
新札幌市史 第2巻 通史2
(神社等の増加)
. 9 創建時
札幌神社
遙拝所 諏訪神社 札幌村 明治15 明治31. 2 花岡神社,まず、村で神社設立の事情も若干知り得るものとして、平岸村の
札幌神社
遙拝所をあげたい。,二十三年の暮になって、
札幌神社
の白野宮司らが、平岸村に村社創建についてうちあわせていることが伝聞として,そして結局は二十七年に
札幌神社
遙拝所として設立されるに至る。,さらにこれは
札幌神社
が神社創出に関し、行政的に活動していたことをも推察させる。
新札幌市史 第2巻 通史2
(崇敬講の活動と性格)
三十年の例祭について、
札幌神社
の『日誌』は「崇敬講員モ凡ソ六七拾名供奉ヲ仕レリ」と記している。,すなわち名目はともかく、同講は円山村を中心とする近辺農民が
札幌神社
を、地域住民の産土神社とした氏子組織
新札幌市史 第2巻 通史2
(市中移転問題と遙拝所の建立)
しかし開拓使は翌十年三月に「現今
札幌神社
ノ在ル所ハ幽邃潔浄ノ地ニシテ極テ其処ヲ得タル者ナレハ」(開拓使公文録,写真-3 官幣小社
札幌神社
遥拝所(札幌繁栄図録)
新札幌市史 第2巻 通史2
(戦勝祈願と追弔)
やがて陸軍将校の予餞会を皮切りに、出征兵士の予餞会が様々な単位で行われるようになると、北海道の総鎮守
札幌神社
,でも屯田兵の「健康安全ノ祈禱」を行うようになり、南二条東三丁目の
札幌神社
遙拝所の「軍人安全」の祈禱と合
新札幌市史 第3巻 通史3
(初詣・神前結婚式の創出)
明治二十一年正月には、「
札幌神社
遙拝所(編注・のちの頓宮)に詣ずる昔気質の人に多く、恵方詣の人なきは八百万,神社詣り」では、 三十一日に歳を取った札幌の士女は新年の吉例として除夜の鐘鳴り渡ったから陸続と円山村の
札幌神社
,同様に、
札幌神社
における神前結婚式の嚆矢は、明治四十二年六月二十八日であった(北海道神宮史 上巻)。
新札幌市史 第3巻 通史3
(札幌興風会の結成)
札幌興風会の結成 短歌結社については、明治二十年代に白野
札幌神社
宮司らによって札幌和歌会が結成されたことが,同会は翌四十一年一月に額賀
札幌神社
宮司を選者に依頼したが、この時点での規定は大略次のとおりであった。,第五 会員の歌什はすべて小杉文学博士及額賀
札幌神社
宮司両大人の添削を乞ひ、一は新聞紙に搭載し、一は雑誌
新札幌市史 第2巻 通史2
(例祭と近傍住民)
例祭と近傍住民 例祭については五年四月十九日付で、来る六月十五日
札幌神社
御祭典執行の旨開拓使へ達せられたが,社頭の状況を記したものに、八年元鶴岡藩士堀三義の『北役日誌』があるが、その六月十五日の項には「此日当
札幌神社
新札幌市史 第4巻 通史4
(稲荷神社)
藻岩村にはすでに官幣大社である
札幌神社
があり、村内の円山地区は
札幌神社
の氏子という意識が強く稲荷神社とは,その後、
札幌神社
が北海道総鎮守と強調されるにつれ、一村一社の関係から稲荷神社が藻岩村の「村社」となっていくのである
新札幌市史 第2巻 通史2
(「札幌開府に付当使一般会計の目途」の札幌経営案)
建設予定の施設は、
札幌神社
、本府、長官邸、判官邸、判任官役邸、農家三七五戸、東京府貫属一二〇軒分の家作,
札幌神社
は現在の北海道神宮で、その神体は島判官が東京から運んできたものである。,
札幌神社
建立入費の三〇〇〇両五〇石について、「何之神社御建立相成哉、幾社御建立相成哉、壱社ニ候ハヽ、莫大過当之御入費
新札幌市史 第4巻 通史4
(札幌祭と見世物)
札幌祭と見世物 六月十五日は、
札幌神社
の例祭で、アカシヤの花が停車場通りいっぱいに散った。,
札幌神社
といっても、子供の頃は、遠い円山の宮の森の神社にお詣りにいった記憶はなく、すぐ町中を流れる創成川
新札幌市史 第2巻 通史2
(北海民燈)
北海民燈 同新聞は二十六年五月、
札幌神社
宮司をやめて北海道毎日新聞社に入社した阿由葉宗三郎を主宰として
新札幌市史 第4巻 通史4
(都市計画風致地区)
創成川通、4大学雁来通、5伏籠西公園通、6豊平川下、7白石平岸、8月寒台、9豊平川上、10藻岩山、11
札幌神社
新札幌市史 第5巻 通史5上
(敗戦直後の祭典風景)
五月、桜の開花を前にして、「今までかたい一点張りの
札幌神社
」は、「新生日本を祝福」すべく全境内を市民に,六月、「国家神道と切り離されてから最初の
札幌神社
例大祭」は、例年どおり十四日の宵宮から十五、十六日の三日間執行
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