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新札幌市史 第1巻 通史1
(松浦武四郎)
松浦
武
四郎
武
四郎は文政元年(一八一八)二月六日に伊勢国一志郡雲津の川南須川村(現三重県一志郡三雲町小野江,名は弘、字は子重、幼名竹四郎、後に
武
四郎と称し、柳を愛したことから柳田また柳湖、その外に雲津、多気志楼,少年時代に津藩の儒者平松楽斎の塾に学び、天保四年(一八三三)に一六歳で家郷を出て、以降関
東
、山陽、四国,、北陸、
東
山、
東
海、山陰、九州を遊歴する。 / 松浦
武
四郎
新札幌市史 第1巻 通史1
(武藤勘蔵)
武
藤勘蔵 串原正峯らのシコツ越えから六年後の寛政十年(一七九八)、幕府は連年異国船が蝦夷地に来舶するようになり,この一行中に、三橋藤右衛門に従って西蝦夷地を宗谷まで巡回して往返した用人
武
藤勘蔵は、その著『蝦夷日記』,船路にて
東
蝦夷地ユウブツに着船。一日逗留。 /
武
藤勘蔵
新札幌市史 第1巻 通史1
(武四郎の新道検分)
武
四郎の新道検分 新道開削にともない、松浦
武
四郎は安政五年六月に、サッポロ越新道を検分し、新道沿いの,地名・地理・様子を記述した「新道日誌」(『戊午
東
西蝦夷山川地理取調日誌』所収、以下『戊午日誌』と略記),
武
四郎がこのルートを通行するのは、弘化三年(一八四六)以来二度目であった。 ,
武
四郎はサッポロ越新道に関し、安政三年以降、各地で開削された新道は、「元より有来りし道を再興等なして、,
武
四郎によると、サッポロ越新道のみが唯一の新道で、「(蝦夷地)開地の第一業」であった。 /
武
四郎の新道検分
新札幌市史 第1巻 通史1
(東夷成敗権)
鎌倉末期の幕府関係の法律書『沙汰未練書』に「
武
家ノ沙汰」として、 一 六波羅トハ、洛中警固幷西国成敗御事也,一 鎮西九国成敗事、管領、頭人、奉行、如六波羅在之 一
東
夷成敗事、於関
東
有其沙汰
東
夷者蝦子事也,以上、如此等、御成敗
武
家ノ沙汰ト云 とある。,すなわち、六波羅探題の洛中警固と西国成敗、鎮西探題の鎮西九国成敗と並んで、関
東
にあっては
東
夷=「蝦子(,建久二年(一一九一)十一月二十二日の条に、京中の強盗ら一〇人が六条河原で、検非違使の官人より頼朝方の
武
士 /
東
夷成敗権
新札幌市史 第1巻 通史1
(松浦武四郎の調査)
松浦
武
四郎の調査 新道開削の目的をかね、蝦夷地一円の地理・地形の調査をおこなったのが松浦
武
四郎であった,
武
四郎は安政四年三月二十三日に、「石狩行被仰付候」とあり、また「蝦夷地一円山川地理等取調方申渡候へば、,新道新川切闢場所其外見込の趣追々取調申上候様可致」との申渡しをうけ(簡約松浦
武
四郎自伝)、四月二十九日,この四年度の調査をまとめたのが、『丁巳
東
西蝦夷山川地理取調日誌』であった。,また『村垣淡路守範正公務日記』(幕末外国関係文書付録、以下『公務日記』と略記)には、二十三日に「松浦
武
四郎 / 松浦
武
四郎の調査
新札幌市史 第1巻 通史1
(松浦武四郎と蝦夷地)
松浦
武
四郎と蝦夷地 松前藩復領期に蝦夷地を探検した人物に松浦
武
四郎がいる。,弘化二年(一八四五)を皮切りに、翌三年と嘉永二年(一八四九)の三回にわたって
東
西蝦夷地のみならず、カラフト,松浦
武
四郎は、伊勢国出身であるが、天保年間(一八三〇~四三)に諸国遊歴の旅に出、長崎で北方の急務を聞き,松浦
武
四郎が、はじめてイシカリ場所を訪れたのは、弘化三年であったが、それより二年前、蝦夷地へ渡ろうとし,ここでは、江差の人別に加わり、和賀屋孫兵衛の手代ということで
東
蝦夷地に入り、シレトコ岬を回って箱館にもどり / 松浦
武
四郎と蝦夷地
新札幌市史 第3巻 通史3
(有島武郎など)
有島
武
郎など ここでは文学に止まらず、たとえば後述の黒百合会などの美術運動その他広範な活動を行って札幌,周知のように、有島は明治二十九年に札幌農学校に入学、三十六年に米国留学、四十年に昇格した母校
東
北帝国大学農科大学,まず農大では文
武
会の学芸部長となったこともあって、『文
武
会報』には五三号(明治四十一年)に「イブセン雑感,写真-4 有島
武
郎 周知のように有島は『白樺』によって活躍したが、札幌を主題として扱ったものの,またこの時期の札幌出身作家としては、前巻に引きつづき
武
林無想庵が活躍し、大正十一年に「結婚礼讃」などを / 有島
武
郎など
新札幌市史 第1巻 通史1
(武四郎その後の去就)
武
四郎その後の去就 以上のような、六回におよぶ強靭な精神と肉体に支えられた蝦夷地調査は、想像を絶するものであった,ところが安政六年十二月十二日に
武
四郎は「当春以来出瘡甚敷難渋仕候療養仕居候処、此頃逆上之症に相成候眼疾,是又療治仕候得共、未だ全快も不仕候間何卒御雇入御免相願上候間篤と養生仕度奉存候間、右御免の程奉願上候」(簡約松浦
武
四郎伝,
武
四郎は驚嘆すべき踏査行を繰り広げながら、その傍ら詳細な覚書を記し続けていた。,、三〇巻の紀行集、その他建言集、調査報告書類、見聞記、雑纂、野帳、自伝類、それに二八枚の詳細きわまる
東
西蝦夷山川地理取調図 /
武
四郎その後の去就
新札幌市史 第1巻 通史1
(武四郎の新道構想)
武
四郎の新道構想 かつて幕府が文化四年(一八〇七)に西蝦夷地をも上地して、全蝦夷島を直領とした直接の,ところで
東
蝦夷地は、その海岸線に沿ってネモロに至る陸路はそれほど困難はなかったが、西蝦夷地の箱館よりソウヤ,この特命に応じた
武
四郎は、その調査の結果、以下のような策を上申しているのである(札幌越大新道申上書)。,からサンル川をたどってホロナイ川上流に出て、そして北海岸(オホーツク沿岸)のモンベツ領ホロナイ(現在雄
武
町,さらに
武
四郎はこの大新道を幹線として、これからトカチ、クスリ、シャリ、ネモロ、ルルモッペ、マシケ、サル /
武
四郎の新道構想
新札幌市史 第1巻 通史1
(武四郎の蝦夷地調査の主目的)
武
四郎の蝦夷地調査の主目的
武
四郎の蝦夷地全域にかかわる調査は六回におよぶとさきに述べたが、このうち,前三回、すなわち「初航」、「再航」、「三航」の調査行では、
武
四郎自身いまだ北辺の危機を憂える一介の志士,とはいえ、この三回で早くも、ほぼ海岸線沿いに限定されていたとはいえ、
東
・西・北の各蝦夷地の全行程をつなぎ,ところで
武
四郎はこの三回にわたり、
東
・西・北の蝦夷地全域を、沿岸・内陸を問わず縦横に巡り巡って、想像に,さらに安政五年の「戊午」の調査行においては、正月十二日に
武
四郎自身が、「蝦夷地山川地理取調に付伺書」を /
武
四郎の蝦夷地調査の主目的
新札幌市史 第1巻 通史1
(松浦武四郎のイシカリ川筋探検)
松浦
武
四郎のイシカリ川筋探検 カラフトに渡るために江戸を立った
武
四郎は、福山、江差にいたり、四月十一日松前藩,乗組員は、番人一人、首長一人、アイヌの水主三人と
武
四郎の六人だったようである。 ,シビシビ 本川筋
東
岸にアイヌの小屋1軒。皆この前にて漁猟。,
武
四郎と同行のアイヌたちは、イシカリ川河口より九里半遡ったツイシカリでまず一泊したらしい。,以上が弘化三年、
武
四郎がイシカリ川筋よりシコツ越えした時の観察概要である。 / 松浦
武
四郎のイシカリ川筋探検
新札幌市史 第1巻 通史1
(【主要参考文献・史料】)
【主要参考文献・史料】 『松前御所置御主法替一件書物』(阿部家文書
東
京都阿部正道氏蔵)、田端宏「幕府,の蝦夷地経営―寛政~文政期の諸問題―」『北からの日本史』(北海道・
東
北史研究会)、『蝦夷地勤番之者心得向,』(道文)、松浦
武
四郎「再航蝦夷日誌」『三航蝦夷日誌』下巻(吉田
武
三編)、『松前箱館雑記三』(
東
大史),金田一京助解説・成田修一撰『番人円吉蝦夷記』、河野常吉編『石狩場所・札幌市街・石狩町資料』(道図)、松浦
武
四郎,天保十四年松前御用留』(函図)、山田三川『示後貽謀録』(道文)、『水戸市史』中巻(三)・(四)、松浦
武
四郎
新札幌市史 第1巻 通史1
(【主要参考文献・史料】)
【主要参考文献・史料】 『幕末外国関係文書』、「村垣淡路守公務日記」『幕末外国関係文書』付録、松浦
武
四郎,『簡約松浦
武
四郎自伝』、同「燼心餘赤」(吉田
武
三編『松浦
武
四郎』)、同『丁巳
東
西蝦夷山川地理取調日誌』,御場所見廻り日記』(余市町史資料叢書第一~三及び余市町蔵)、窪田子蔵(官兵衛)『協和私役』、成石修輔『
東
徼私筆,』、「高島運上家日記」(越崎宗一『鰊場史話』)、広瀬豊「肝付兼
武
伝」『伝記』第四巻一号~六号、杉浦勝誠,函図)、「石狩往復」(道図)、「箱館蝦夷地江御出張所御取立一件」(西本願寺)、「箱館裁判所評決留」(
東
大史
新札幌市史 第1巻 通史1
(【主要参考文献・史料】)
【主要参考文献・史料】 松浦
武
四郎『丁巳
東
西蝦夷山川地理取調日誌』、同『戊午
東
西蝦夷山川地理取調日誌,』、『近世蝦夷人物誌』(日本庶民生活史料集成 第四巻)、同『燼心餘赤』(吉田
武
三編『松浦
武
四郎』下巻)
新札幌市史 第8巻2 年表・索引編
(出典一覧(明治以前))
22 元禄御国絵図(『新撰北海道史』第2巻所収) 23 松前藩支配所持并家中扶持人名前帳(
東
大史料編纂所蔵,「天明四年御収納取立目録」(岐阜県下呂町教育委員会蔵) 51
東
遊記(平秩
東
作著・高倉新一郎編,(
東
慰寗元稹『日本庶民生活史料集成』4所収) 85 千島誌(ポロンスキー 道文蔵) 86 ,』下所収) 189 入北記(玉虫佐太夫 玉虫諠蔵自筆稿本) 190 丁巳
東
西蝦夷山川地理取調日誌, 水戸大高氏記録(
東
大史料編纂所蔵) 197 西蝦夷地絵図(『江差町史』資料編2所収) 198
新札幌市史 第1巻 通史1
(道南館主の動向)
で安
東
政季と改名して、田名部を知行していたが、享徳三年(一四五四)八月二十八日、
武
田信広、相原政胤、河野政通,政季は河北千町に知行し、以後檜山安
東
氏を称し、のち湊安
東
家を併合して代々蝦夷島を領した。 ,家政に預け、河野政通を副え、松前は下国定季に預け、相原政胤を副え、上之国は政季の婿、蠣崎季繁に預け、
武
田信広,を副え置いた(『新羅之記録』ははじめ上之国は
武
田信広に預け、蠣崎季繁を副え置くとしているが、そのすぐ後,の所で上之国の花沢の館主蠣崎季繁、上之国の守護
武
田信広と記しているので、上之国は季繁に預けたとみるべきであろう
新札幌市史 第1巻 通史1
(【主要参考文献・史料】)
岡本氏自伝』(北大図 写本)、『箱館蝦夷地江御出張所御取立一件』(西本願寺)、札幌村歴史研究会ほか編『
東
区今昔, 大友堀』、十文字龍助『蝦夷地開拓意見書草稿』(道文)、『校注簡約松浦
武
四郎自伝』、松浦
武
四郎『燼心餘赤,』(北大図)、松浦
武
四郎『西蝦夷日誌』
新札幌市史 第1巻 通史1
(【主要参考文献・史料】)
【主要参考文献・史料】 松浦
武
四郎『簡約松浦
武
四郎自伝』(松浦
武
四郎研究会編)、同「燼心餘赤」(吉田
武
三編,『松浦
武
四郎』)、同「後方羊蹄日誌」『多気志樓蝦夷日誌集』二、同『丁巳
東
西蝦夷山川地理取調日誌』、同『,戊午
東
西蝦夷山川地理取調日誌』、同『竹四郎廻浦日記』、同『西蝦夷日記』、河野常吉編『さっぽろ昔話』、同
新札幌市史 第4巻 通史4
(鋳物業)
工場名 所在地 創業 製造品 代表者 大町鋳物工場 北1
東
9 昭9・1 炭山機械部品 大町欣一 金森鋳物工場,北1
東
11 大12・6 機械用鋳鉄品 金森寺四郎 田中鋳物工場 大通
東
4 大11・10 鋳物 田中 ,弘
武
村鋳造工場 大通
東
5 昭5・4 採鉱機械器具
武
村 猛 松田鉄工所 北8西4 昭6・8 鋳鉄品,松平忠吉 後藤鋳物工場 白石9-2 昭9・10 銑鉄鋳物 後藤 要 木下鋳物工場 北4
東
2 昭11・4,鉱山用機械 吉田勝治 下野鋳物工場 北3
東
13 大12・3 機械鋳物用 下野政太郎 阿部鋳物工場 上白石
新札幌市史 第3巻 通史3
(自治堂)
自治堂 南一条西三丁目に小塩
武
吉を店主として開店した。,最新札幌市街図 冨貴堂著 42 折たたみ 我等が愛する北海道 石森和男作歌 田村虎蔵作曲 42
東
北帝国大学農科大学,
東
帝大農大文
武
会学芸部編 43 図版 現今の札幌 冨貴堂編 43 図 北海道
東
本願寺由来
東
本願寺由来編纂事務所,4 北海道地質図 大井上義近著 7 マイクロ 北海道地名解 磯部精一著 7 アイヌ物語
武
隅徳三郎著, 42 札幌博物館案内 村田庄次郎編 43 図版
東
北帝国大学農科大学長農学博士佐藤昌介君就職満
新札幌市史 第1巻 通史1
(【主要参考文献・史料】)
主要参考文献・史料】 「松前主水広時日記」『新北海道史』第七巻、『松前藩支配所持幷家中扶持人名前帳』(
東
大史,西川伝右衛門家文書』(滋賀大学経済学部史料館蔵)、「蝦夷商賈聞書」『松前町史』史料編第三巻、『松前西
東
在郷幷蝦夷地所附,』(北大図)、『飛驒屋旧記』(道図)、「惣元立指引目録」『
武
川家文書』(岐阜県下呂町教委蔵)、「石狩場所請負人村山家記録,』(函図)、『松前随商録』(函図)、『松前志』(国公文)、『北藩風土記』(函図)、『西蝦夷地分間』(
東
大史,)、「
東
西蝦夷地場所附」『
武
川家文書』、『村山家資料』(道開)
新札幌市史 第1巻 通史1
(【主要参考文献・史料】)
【主要参考文献・史料】 『蝦夷地御用見合書面類』(阿部家文書―
東
京都阿部正道氏蔵)、『村山家資料』(,松前町史』史料編第三巻、『松前随商録』(函図)、『西蝦夷地場所地名産物方程控』(函図)、『西蝦夷地分間』(
東
大史,)、松浦
武
四郎『野帳巳第一番』(国立史料館)、小林真人「石狩場所について―阿部屋村山家資料を整理して―,」『札幌の歴史』第一二号、『土人由来記』(道文)、松浦
武
四郎『丁巳
東
西蝦夷山川地理取調日誌』、「松前家記
新札幌市史 第1巻 通史1
(【主要参考文献・史料】)
「元禄御国絵図」『新撰北海道史』第二巻、坂倉源次郎「北海随筆」『北門叢書』第二冊、『飛驒屋伐木図』(
武
川家文書,、「遠山村垣西蝦夷日記」『犀川会資料』第一三号、串原正峯「夷諺俗話」『日本庶民生活史料集成』第四巻、
武
藤勘蔵,今井村上氷鉋村中氷鉋村塩崎村五千石領主松平信濃守忠明ニ関スル文書』(函図)、磯谷則吉『蝦夷道中記』(函図)、
東
寗元稹,「
東
海参譚」『日本庶民生活史料集成』第四巻、田草川伝次郎『西蝦夷地日記』(石原求龍堂刊)、『宗谷詰合山崎半蔵日誌,』(函図)、『西蝦夷地高島日記』(道文)、近藤重蔵『蝦夷地絵図』(
東
大史)、『大日本近世史料 近藤重蔵蝦夷地関係史料二
新札幌市史 第1巻 通史1
(【主要参考文献・史料】)
【主要参考文献・史料】 工藤平助「赤蝦夷風説考」『北門叢書』第一冊、只野真葛『むかしばなし』(
東
洋文庫本,北地危言」『同書』、串原正峯「夷諺俗話」『日本庶民生活史料集成』第四巻、『蝦夷地見取絵図』(国公文)、
武
藤勘蔵,蝦夷日記」『日本庶民生活史料集成』第四巻、羽太正養「休明光記」『新撰北海道史』第七巻、柿園主人『毛夷
東
環記,』(道文)、『北巡録』(早稲田大学図書館蔵)、「遠山村垣西蝦夷地日記」『犀川会資料』第一三号、
東
寗元稹,「
東
海参譚」『日本庶民生活史料集成』第四巻、松浦
武
四郎『西蝦夷日誌』(時事通信社本)、同「丁巳夕張日誌
新札幌市史 第2巻 通史2
(写真)
東
久世開拓長官自身も三年九月に札幌で撮影をおこなった可能性があるが、今のところ確認はされていない。,これらの写真は翌五年に函館から
東
京に送られたが、このうち札幌本府関係としては開拓使仮本庁舎、本陣、札幌神社,スチルフリートが来道した際、
東
京、函館、札幌から官員各一人ずつが「写真伝習」の名目で彼に同行したが、札幌,からは
武
林盛一がこれに従った。,
武
林はこの後も札幌にあって写真業を続け、八年開拓使仮学校、女学校開校、ビール製造所開業など多くの後に残
新札幌市史 第3巻 通史3
(町村会)
川中長三郎 畠山松太郎 *改選1級 明43.6.1 山内嘉太郎 水森太次郎 後町源一
東
政太郎 池田七蔵,大橋吉松 湯浅宅次郎 黒田和平 大久保喜一郎 川中長三郎 増山福太郎(補選不詳) 藤田喜三郎
東
政太郎,田畑辰之助 渡辺政盛 中野亮 井田吉平 理寛寺五一 小野高治 樋口重蔵 村上六松 木野為次郎
東
政太郎,種村留吉 南里虎一郎 吉田善太郎 高橋磯吉
東
政太郎 向島粂之助 吉田善太郎 淵野半平 松川鶴松,*大8.5.31 三坂観浄 羽吹源次郎 山田常彦 改選を含む2級 竹内文吉 福本寅吉
東
山源蔵
新札幌市史 第1巻 通史1
(トシキランの死)
松浦
武
四郎の『戊午
東
西蝦夷山川地理取調日誌』(以下『戊午日誌』と略記)によると、
武
四郎は中山峠をこえて,
武
四郎は薬と食糧を与えて去る。家には看病のためか、妹チシルイがいた。,その夜、
武
四郎はアイクシテのもとに泊まる。 ,
武
四郎はイシカリに赴き、早速トシキランのことをモニヲマに伝えた。 ,家族思いがつよいモニヲマだけに、「愁訴」は
武
四郎の胸にうつものがあっただろう。
新札幌市史 第1巻 通史1
(【主要参考文献・史料】)
村垣淡路守範正公務日記」『幕末外国関係文書附録』、「蝦夷地御開拓諸御書付諸伺書類」『新撰北海道史』五、『野作
東
部日記,』(道文)、『北海道歴検図』(北大図)、松浦
武
四郎『再航蝦夷日誌』、同『竹四郎廻浦日記』、同『丁巳
東
西蝦夷山川地理取調日誌,』、同『戊午
東
西蝦夷山川地理取調日誌』
新札幌市史 第1巻 通史1
(エンカルシベの山霊)
エンカルシベの山霊 サッポロ山麓の指定に関し、松浦
武
四郎の提言もこれ以前にあったであろうが、
武
四郎はこの,菊池大蔵の願書をうけ、「今般石狩領分字サッポロ山麓の辺え、
東
西蝦夷総鎮守御造営に相成候由承り候に付、右地所,
武
四郎の言によると、エンカルシベは山霊がすみ、神威がいちじるしい聖山で、アイヌの尊崇のあつい山であった,イシカリに「
東
西蝦夷地総鎮守」の設立が企図されたのは、荒井金助がイシカリに本府をおき、将来は日本の〝北京
新札幌市史 第4巻 通史4
(演奏家の来札)
北大文
武
会音楽部長の香曽我部寿、美術部長小熊捍、熊澤良雄らは、純粋音楽社の後援会をつくり、また世界的舞踊家,
東
京のものも含まれるが、築地小劇場、テノールの藤原義江、ピアノのケンプなど昭和戦前期札幌のモダニズムをよく, 第20回公開演奏会 管弦楽,マンドリン,コーラス 昭9.11.17 北海道帝国大学文
武
会音楽部 ,北大予科から
東
北帝国大学に進んだ音楽評論家の三浦淳史は、仙台よりも札幌の方が良い音楽にふれる機会が多かったと,回想するが(北海道音楽史)、まさにこの時期の札幌は
東
京以北でもっとも質の高い洋楽にふれる環境にあったといえよう
新札幌市史 第1巻 通史1
(【主要参考文献・史料】)
【主要参考文献・史料】 『懐旧紀事』、『
東
徼私筆』、『協和私役』、『伊達家文書』、『観国録』(北大図,罕有日記』(函図)、『水戸藩史料』、『北島志』、『生田目氏日記』(函図)、島義勇『入北記』、『函嶴日記幷
東
洋記,』(
東
大史)、『簡約松浦
武
四郎自伝』、島義勇『旅日記』(佐賀県立図書館)、『奥羽幷箱館松前日記』(佐賀歴史研究会準備会報
新札幌市史 第2巻 通史2
(政治・社会問題等演説会)
創刊間もない『北海新聞』に演説会に関する記事が載ったのは、二十年八月二十八日
東
座での阿部午之助の演説会,小塩
武
吉発起による八月十日大黒座で開催された大演説会は、二〇〇〇人の聴衆を集め、地方議会開設や自由民権,二十五年の演説会からは討論テーマに道会開設や「廃娼」ものぼったが、日清戦争後の演題をみると
東
洋、ロシア,-13 札幌における各種演説会 演説会名 月日 会場 弁士 演題 備考 【二十年】 政談 8・28
東
座,義之進 起よ北海道民、札幌市民の責任を論ず 岩谷 定蔵 進取論、吾人の急務 女子 10・27 北三
東
三
新札幌市史 第4巻 通史4
(コーラス)
一方、北大文
武
会音楽部が大正十三年にでき、その声楽部が今日の北大合唱団につながる。 ,在野の市民の合唱団として札幌混声合唱団が、大正十二年に
東
末吉、笹三津彦、鈴木清太郎、相沢俊郎、中村
武
士,一時中断していたものの、昭和二年に、
東
京音楽学校を出た鈴木清太郎を迎えて、合唱団は活動を再開する。,さらに団員に
東
京音楽学校を出た横尾雪子(市立高等女学校教諭)を四年に、朝山綾子(庁立高女教諭)を五年に
新札幌市史 第4巻 通史4
(町村議員)
武
藤源四郎 乙黒定七 内馬場仲造 蓑輪早三郎 原田真砂男 藤川豊勝 野村村栄 松井
武
市,畠山平吉 三浦長蔵 梶川新次郎
東
清之助 小野高治 青地作太郎 小林広吉 上田万平,上田善七 藤森
武
左衛門 三浦長蔵 畠山平吉 小林広吉 梶川新次郎
東
清之助 小野高治,畠山平吉 小林広吉 有原市太郎 阿部仁吉 松崎龍平 吉田栄松 横山安太郎
東
清之助,小笠原辰三郎 吉田宇之蔵 村端仁太郎 三関
武
治 阿部仁吉 上田勝三郎 藤森
武
左衛門 佐々木長次郎
新札幌市史 第6巻 史料編1
(解題)
ここに収録した人別帳は、幕末の蝦夷地探検家松浦
武
四郎文書の中の「野帳」三十八冊中の「巳第三番」(国立史料館蔵,この「野帳」は、
武
四郎が安政三年から五年にかけて、幕府の蝦夷地雇として蝦夷地山川地理取調などを行った際,の三つの著作物、すなわち安政三年の『竹四郎廻浦日記』三十一巻、安政四年の『丁巳
東
西蝦夷山川地理取調日誌,』二十四巻、安政五年の『戊午
東
西蝦夷山川地理取調日誌』六十一巻の計百十六巻(北海道出版企画センター刊行,このうち、人別帳の写しの存在する地域は、北蝦夷地をはじめ、
東
蝦夷地はネモロから山越内、西蝦夷地はシヤコタン
新札幌市史 第1巻 通史1
(新札幌市史 第一巻 通史一/総目次)
北西―南西部の山地…3 札幌市の地質学的位置 遠景の山々 近景の山々 第二節
東
部,の探検とイシカリ場所 松浦
武
四郎と蝦夷地 松浦
武
四郎のイシカリ川筋探検 海防論とイシカリ,と蝦夷地踏査 松浦
武
四郎 蝦夷地での活躍
武
四郎その後の去就 三 松浦
武
四郎,とアイヌ問題 松浦
武
四郎の批判
武
四郎とイシカリ改革 〝アイヌの父〟
武
四郎 第七章,の建府論…1016 一 松浦
武
四郎の山川地理実検 サッポロ調査
武
四郎の蝦夷地調査
新札幌市史 第1巻 通史1
(古豊平川にまつわる泥炭地)
それらは、①
東
区北二三条
東
七丁目から北四〇条
東
一六丁目までの幅〇・六~一キロメートルの範囲、②北区北二三条西五丁目,から
東
区北四九条
東
一〇丁目を結ぶ線を中心とした幅〇・八~一キロメートルの範囲、③中央区桑園駅西側付近から,
武
蔵女子短大付近までの幅〇・五キロメートルの範囲、などである。
新札幌市史 第5巻 通史5下
(板垣市長の誕生)
板垣市長の誕生 新しく市長に就任した板垣
武
四は、大正五年(一九一六)北海道和寒村に生まれた。,小学校五年生の時に札幌に移り、山鼻小学校、札幌第一中学校、北海道大学予科(中退)を経て、第一高等学校から
東
京帝国大学法学部,写真-1 板垣
武
四市長 ちなみに、小塩は大正四年北海道月形町に生まれた。,板垣は、市長を五期連続で二〇年間務め、平成三年(一九九一)五月に市長を退任する(札幌市長板垣
武
四市政四五年,財団法人札幌芸術の森理事長や財団法人札幌国際プラザ理事長などを務め、平成五年八月十二日に逝去した(故板垣
武
四
新札幌市史 第4巻 通史4
(『北大文芸』の面々)
評論では一四号の「有島
武
郎追悼記念号」に森本厚吉「有島
武
郎を憶ふ」、宇野親美「芸術家としての有島さん」,西村美宣「中世に於ける源氏物語理解の変遷」、伊藤俊夫「フアウストに於けるへーレナの問題」(二九号)、
東
孝
新札幌市史 第2巻 通史2
((3)札幌葡萄酒醸造場)
しかし、二十年八月までの一カ年間の葡萄酒、
武
蘭地(ブランデー)の醸造高が八九石、価格三〇九〇円、諸経費四一九六円余,同年は葡萄一万八〇〇〇貫目をもって葡萄酒一八〇石、
武
蘭地六石五斗を醸造し、代価五三六五円、経費四二六六円五五銭九厘,二十四年十一月谷七太郎がこの経営を引きうけ、谷は市内の大手雑貨の店や
東
京、名古屋、大阪へも販路を拡げたがその,101打1瓶 242円600 葡萄酒 101打1瓶 242円600 諸 給 1586. 188 上等
武
蘭地,50打 270. 000 上等
武
蘭地 50打 270. 000 庁 費 281. 935 下等 同
新札幌市史 第1巻 通史1
(最上徳内のイシカリ探検)
最上徳内のイシカリ探検
東
寗元稹の記述から、たまたま最上徳内の行動の一端が知られるわけであるが、公式記録,この時の最上徳内のイシカリ探検について詳細を知ることはできないが、のちに松浦
武
四郎が記しているところによれば,それは、松浦
武
四郎が安政五年(一八五八)六月十八日、ハッサム川を遡り、その枝川をたどって「シイシヤモウシベ,さらに松浦
武
四郎によれば、徳内の探検はユウバリにまでおよんでいたらしい。,最上徳内と松浦
武
四郎の探検は、その間約五〇年の隔たりがあるにもかかわらず、なお土地の人びとに記憶されていたというのも
新札幌市史 第1巻 通史1
(銭箱よりハッサムへ)
銭箱よりハッサムへ
武
四郎は六月十七日に銭箱通行屋を出発する。,また、同じく
武
四郎の『西蝦夷日誌』には、この通行屋のことを旅籠(はたご)と呼び、屋内には屛風(びょうぶ,
武
四郎はここで左行し、大屋文右衛門・大竹慎十郎・永田休蔵・弓気多内匠の在住地にいたる。,
武
四郎は、ここの乙名(おとな)コモンタの家で昼食をとる。,写真-3
東
西蝦夷山川地理取調図(部分)
新札幌市史 第5巻 通史5下
(山車行列と露店)
五十四年に第三山鼻祭典区の島義勇が登場して七台、平成八年(一九九六)に第一本府祭典区の日本
武
尊(やまとたけるのみこと,本府祭典区にはかつて①牛若丸と弁慶、②加藤清正、③日本
武
尊の三台をもつも、①は焼失、②は第八豊平祭典区,表-3 現在の山車 祭典区名 建造年 山車人形 1 第1本府 明治末期、平成8年改修復銘 日本
武
尊,年、平成7年改修復銘 須佐之男命 4 第6西創成 明治末期、人形は明治35年銘 須佐之男命 5 第7
東
,大正2年 神
武
天皇 6 第8豊平 大正1年 加藤清正 7 第9
東
北 明治43年改修銘 猿田彦命 8 第
新札幌市史 第1巻 通史1
(イシカリの詰役)
シヤコタン領よりマシケ領迄]水野一郎右衛門右之場所大船繫泊宜、殊ニ追々在住之もの同所御警衛被仰付候積、其上
東
地,「
東
西蝦夷地場所詰正月廿八日被仰付候公辺御役方面附写」(松前箱館雑記 巻五)によると、イシカリ・アツタ,松浦
武
四郎は、五月七日にイシカリで彼らに会っている(『簡約松浦
武
四郎自伝』、以下『
武
四郎自伝』と略記),この時
武
四郎は、松前藩との引継に廻浦していた箱館奉行組頭の向山源太夫と同道しており、源太夫は八日も「御用引渡有
新札幌市史 第4巻 通史4
(北海道帝国大学の設立・拡充と学生運動)
北海道帝国大学の設立・拡充と学生運動 大正七年、
東
京、京都、
東
北、九州に続く、全国で五番目の「帝国大学,その母体となったのは、明治四十年に設立された
東
北帝国大学の一分科大学としての農科大学(旧札幌農学校)であった,注 三・一五事件)を契機として解散を勧告されたが(同前 第二五号)、そのメンバーはこれから述べる「文
武
会事件,同大学の「文
武
会」は札幌農学校以来、生徒を会員とし、校長を会頭、教職員を特別会員とする全学的団体で、学生,「文
武
会」事件は昭和三年十月に同会の運営方法をめぐる学生側と大学側の対立に端を発し、大学側が工学部学生
新札幌市史 第4巻 通史4
(昭和前期の教派神道)
後藤真澄 320戸 明44. 4 .20 扶桑教直轄一等日本魂教日乃本一等分教会 南1
東
6 佐藤勇吉,南3西14 桐谷泰三 365 大15. 1 .18 敷島大教会北海分教会 北3西13 山本長
武
250,明26.12.10 同 北海分教会北栄宣教所 白石1-1
武
田梅太郎 230 大12. 2 .,山名大教会城
東
分教会城明宣教所 北13
東
8 後藤長三郎 405 大13.11.23 高安大教会洲本分教会統北支教会,たとえば、金光教の札幌教会所では八年二月十一日に、紀元節祭並びに在満皇軍
武
運長久祈願祭、出征家族慰安・
新札幌市史 第1巻 通史1
(足軽肝付七之丞)
青年期に諸国・江戸に遊学し、嘉永三年(一八五〇)には
東
北地方や松前を遊歴して『
東
北風談』をあらわしている,安政四年五月十一日にイシカリからアツタに入った、関宿藩士成石修輔の『
東
徼私筆』によると、七之丞はアツタ,『
東
徼私筆』では、七之丞のことを「英豪の人也」と評している。,七之丞は兼
武
、七之進ともいい、その後大伴遊叟と姓名を改める。,広瀬豊「肝付兼
武
伝」)。
新札幌市史 第4巻 通史4
(神道系宗教結社)
近藤イワ 50人 同 札幌教会 北7
東
14 筒井行信 160人 同 福神講 北3
東
7 寺西みつね,本間よしの 50人 同 豊栄会 南13西9 後藤藤太郎 15人 同 修験道豊平御嶽堂 豊平2-3
武
田,南2
東
6 高井荒吉 7人 同 八幡布教所 南3
東
4 末永豊治 16人 同 日本魂布教所 豊平5-,藤沢市太郎 20人 円満教本部 北5西15 遠藤
武
雄 200人 『宗教結社届綴』〔札幌市・円山町,円満教本部は昭和十七年九月十日に組織されているが、円満教は遠藤龍泉(
武
雄)が大正十年に帝国神秘会北海道支局長
新札幌市史 第1巻 通史1
(温泉の「発見」)
温泉の「発見」
武
四郎のこの定山渓ルート探索の成果に、温泉の発見があった。,温泉に関し、
武
四郎は『戊午日誌』で次のように記述している。,氷の上を越見るに西岸は赤色黄色或は金碧の画山水かとも怪まる大岩壁(ホロヒラ)にて、其下通り難き故、
東
岸,くなり堅まりしかば取敢えず 埋火をはなれぬ人よ思ひしれ 雪の上にも旅寝する身を ここで
武
四郎,
武
四郎は年来、疾瘡(皮膚病)に悩まされており、温泉の効能は自身の疾瘡に即した判断であったろう。
新札幌市史 第3巻 通史3
(【主要参考文献・史料】)
歩兵第二十五聯隊史』(昭6)、『札幌歩兵第二十五聯隊史』(平5)、㓛刀真一『北海道・樺太の新聞雑誌』、「北海道尚
武
会規約,『札幌郡篠路村勢一班』(大14・10調)、札幌郡札幌村『村勢一班』(昭4・12調)、『岩崎久弥伝』(
東
京大学出版会,組合員出資貯金持分表 昭和十八年度末現在』(以上烈々布会館史料)、『札幌人名事典』(さっぽろ文庫66)、『
東
区拓殖史,』『文
武
会々報』、札幌中学校『北斗』、『護国之楯』、柳田泉『明治初期翻訳文学の研究』、伊藤清蔵『南米に,青年集団史研究序説』、『阿部家文書』『山田文庫』(以上道図)、『良民』、『日本弘道会札幌支会会報』(
東
京大学明治新聞雑誌文庫
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