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新札幌市史 第1巻 通史1
(西蝦夷地見回りへ)
西蝦夷地
見回りへ 文化三年九月に、カラフトを襲撃したロシア船は、翌四年四月にはエトロフを襲撃、ついで,八月二日堀田正敦は、
東
西蝦夷地
を二手に分けて見回る命を下し、近藤重蔵らは
西蝦夷地
の見回りを行うこととなった,近藤重蔵ら
西蝦夷地
見回りの一行は、八月七日箱館を出立した。,①
西蝦夷地
は、
東
蝦夷地に比較してよほど良いように見受けられ、和人が松前辺から漁事のために大勢出稼に入って,②
西蝦夷地
は、船路不自由のうえ陸路もないところが少なくなく、急用の際には不便である。 /
西蝦夷地
見回りへ
新札幌市史 第1巻 通史1
(松前蝦夷御用取扱)
以来文化四年(一八〇七)の
西蝦夷地
見回りにいたるまで、蝦夷地と江戸を往復すること一二回、また越年すること,寛政十年、幕府は連年異国船が蝦夷地に来舶するようになり、北辺の不安が高まってきたため、
東
西蝦夷地
の調査,近藤重蔵が、
西蝦夷地
のことに関わるのは、文化元年十月六日付で「
西蝦夷地
上地処分方幷取締法」を建議したのにはじまる,やがて同四年には、
西蝦夷地
も直轄下におかれ、同年八月近藤重蔵をはじめ、鷹野方山田忠兵衛、小人目付田草川伝次郎,らに
西蝦夷地
リシリ島辺まで見回りの命が下る。
新札幌市史 第1巻 通史1
(【主要参考文献・史料】)
【主要参考文献・史料】 『蝦夷地御用見合書面類』(阿部家文書―
東
京都阿部正道氏蔵)、『村山家資料』(,道開)、田草川伝次郎『
西蝦夷地
日記』、「村鑑下組帳」『松前藩と松前』二五号、「北海道伊達家履歴」『新北海道史,付心得候趣申上候書付」『近藤正齋全集』第一、「蝦夷商賈聞書」『松前町史』史料編第三巻、『松前随商録』(函図)、『
西蝦夷地
場所地名産物方程控,』(函図)、『
西蝦夷地
分間』(
東
大史)、松浦武四郎『野帳巳第一番』(国立史料館)、小林真人「石狩場所について,―阿部屋村山家資料を整理して―」『札幌の歴史』第一二号、『土人由来記』(道文)、松浦武四郎『丁巳
東
西蝦夷山川地理取調日誌
新札幌市史 第1巻 通史1
(【主要参考文献・史料】)
主要参考文献・史料】 「松前主水広時日記」『新北海道史』第七巻、『松前藩支配所持幷家中扶持人名前帳』(
東
大史,西川伝右衛門家文書』(滋賀大学経済学部史料館蔵)、「蝦夷商賈聞書」『松前町史』史料編第三巻、『松前西
東
在郷幷蝦夷地所附,)、『松前町史』通説編第一巻上、『熊野屋忠右衛門前々由来書』(函図)、『松前産物大概鑑』(道文)、『
西蝦夷地
場所地名産物方程控,』(函図)、『松前随商録』(函図)、『松前志』(国公文)、『北藩風土記』(函図)、『
西蝦夷地
分間』(
東
大史,)、「
東
西蝦夷地
場所附」『武川家文書』、『村山家資料』(道開)
新札幌市史 第1巻 通史1
(東北からの目)
東
北からの目 徳川幕藩制国家の北方に位置する藩はどうだったのか。,
東
北諸藩にとって、北地の動きは直接自藩にかかわる関心事だったから、弘前藩は十月山田左四郎と早道の者を送,り、
西蝦夷地
からカラフトの実状を探らせ、盛岡藩も内偵活動をすすめた。,から上田吉三郎、そして鶴岡藩(庄内)とかかわりをもつ旗本仁賀保家から三森穀之助、三森多吉等が、箱館や
西蝦夷地
,なお、
西蝦夷地
への渡航基地として重要な役割をはたした弘前藩と仙台藩では事情が大きく異なるので、本項のうしろに /
東
北からの目
新札幌市史 第1巻 通史1
(【主要参考文献・史料】)
【主要参考文献・史料】 工藤平助「赤蝦夷風説考」『北門叢書』第一冊、只野真葛『むかしばなし』(
東
洋文庫本,』(道文)、『北巡録』(早稲田大学図書館蔵)、「遠山村垣
西蝦夷地
日記」『犀川会資料』第一三号、
東
寗元稹,「
東
海参譚」『日本庶民生活史料集成』第四巻、松浦武四郎『西蝦夷日誌』(時事通信社本)、同「丁巳夕張日誌,多気志楼蝦夷日誌集』第二、『札幌区史』、『新撰北海道史』第二巻、『宗谷詰合山崎半蔵日誌』(函図)、田草川伝次郎『
西蝦夷地
日記,』、『津軽藩士石郷岡伝内諸事覚』(函図)、『
西蝦夷地
高島日記』(道文)
新札幌市史 第1巻 通史1
(イシカリ建府との関係)
東
本願寺でも安政三年五月に、
西蝦夷地
へ寺院取建が申請され、イワナイ・オタルナイに安政六年に寺院がおかれた,に、改会所の通詞役であった玉川啓吉宅に、箱館御坊付イシカリ道場が設置され、のちの能量寺の前身となる(
東
本願寺開教百年史,なお、この他仏光寺でも
西蝦夷地
の進出を計画していたが、このように多くの教団・教派が
西蝦夷地
へ進出してきたのは
新札幌市史 第1巻 通史1
(直轄の実態)
直轄の実態 文化四年(一八〇七)、松前および
西蝦夷地
も直轄となり、これで松前、蝦夷地の全域が直轄となった,一方幕府は、
東
蝦夷地の永久直轄を決定した享和二年(一八〇二)二月二十三日、蝦夷地経営として、蝦夷地取締御用掛,文化四年、松前、
西蝦夷地
もその管轄に入ると、その地の収入を加えても、さしあたって多額の経費が必要なので,しかも、
西蝦夷地
の直轄は、
東
蝦夷地のそれと異なり、場所の直捌も行わず、場所請負人も廃さずそのまま置くことにした,のロシア人のカラフト来襲の第一報が福山に、五月にはエトロフ島来襲の第一報が箱館に届くといった具合に、
西蝦夷地
直轄
新札幌市史 第1巻 通史1
(サッポロ調査)
最初のサッポロ行は弘化三年(再航)で、この時は松前より
西蝦夷地
の沿岸を船で北上して北蝦夷地に入り、帰途八月,は安政三年(廻浦)であるが、この時は前年の暮に箱館奉行所雇に任用されており、蝦夷地の幕府直轄に基づき
西蝦夷地
,三回目は安政四年(丁巳)で、この踏査は
西蝦夷地
の内陸部を主体としたものであったが、石狩川上流の諸河川調査,四回目は安政五年(戊午)の
東
西蝦夷地
を縦横に巡った大踏査行で、今回は厳冬の中をウスより中山峠付近を越え,マコマナイを経て二月にサッポロの地に入り、トイヒラ、コトニ、ハッサム、フシコを通過してゼニバコに抜け、さらに
東
西蝦夷地
巡回後
新札幌市史 第1巻 通史1
(ウライの没収と出漁禁止)
ウライの没収と出漁禁止 このような
東
蝦夷地の仮直轄は、そこの直接生産者であるアイヌの意志とは無関係に,没収に際し、ユウフツ詰高橋、河西の両人は、千歳川支配人重次郎を通して、「尤以後
東
西一統御用地ニも被仰出候,ハヽ其節は、元成ニ可申付候儀ニ御座候」(由来記)と通達し、
西蝦夷地
もやがて公領になるであろうから、その,さらに、文化三年(一八〇六)、
西蝦夷地
直轄を決定する幕府目付遠山金四郎と勘定吟味役村垣左太夫の
西蝦夷地
調査,の際、ユウフツから
西蝦夷地
イシカリへ抜けるいわゆるシコツ越え道を整備することになり、イザリブトに通行屋
新札幌市史 第1巻 通史1
(調査の目的)
調査の目的
東
蝦夷地が、享和二年(一八〇二)永久上知となり、松前藩は、
西蝦夷地
のみの経営および永久上知代価,
東
蝦夷地の直轄後も松前藩が、蝦夷地対応策として何ら適切な措置をとることができないでいるうちに、文化元年,これを受けて幕府は、同年七月十六日、目付遠山金四郎景晋、勘定吟味役村垣左太夫定行に、
西蝦夷地
派遣につき,この調査の目的は、
西蝦夷地
を収公するための事前調査であった。
新札幌市史 第1巻 通史1
(和人地と蝦夷地)
東
は知内、西は瀬棚の和人地の範囲が、この時までに
東
は亀田、西は熊石にひろがっていた。,したがってこの範囲を和人地とし、それ以北を蝦夷地とし、熊石以北の地を
西蝦夷地
または上蝦夷地、亀田から
東
,を
東
蝦夷地または下蝦夷地と称し、知床岬をもって、
東
西蝦夷地
の分岐点とし、
東
・西地の境、亀田、熊石に番所
新札幌市史 第1巻 通史1
(【主要参考文献・史料】)
今井村上氷鉋村中氷鉋村塩崎村五千石領主松平信濃守忠明ニ関スル文書』(函図)、磯谷則吉『蝦夷道中記』(函図)、
東
寗元稹,「
東
海参譚」『日本庶民生活史料集成』第四巻、田草川伝次郎『
西蝦夷地
日記』(石原求龍堂刊)、『宗谷詰合山崎半蔵日誌,』(函図)、『
西蝦夷地
高島日記』(道文)、近藤重蔵『蝦夷地絵図』(
東
大史)、『大日本近世史料 近藤重蔵蝦夷地関係史料二
新札幌市史 第1巻 通史1
(寛政十年蝦夷地調査)
一行は、
東
西蝦夷地
二手に分かれて調査を行った。
西蝦夷地
調査隊は、三橋藤右衛門等上下二七人であった。,当所は
西蝦夷地
第一繁昌の地にて、諸国の船繫りあり。,蝦夷地調査により、蝦夷地経営を松前藩に任せておくわけにいかないという結論にいたり、まず当面一番大切な
東
蝦夷地
新札幌市史 第1巻 通史1
(蝦夷地見回りとイシカリ場所)
この時
西蝦夷地
リシリ島辺までの見回りには、小普請方近藤重蔵、鷹野方山田忠兵衛、小人目付田草川伝次郎が命,一行の一人田草川伝次郎の『
西蝦夷地
日記』には、イシカリ十三場所の知行主、請負人、支配人、アイヌ人口、アイヌ,4.田草川伝次郎『
西蝦夷地
日記』より作成。 ,
西蝦夷地
直轄後の警備は、前述のようにロシア人の襲撃事件もあり、弘前・盛岡・久保田・酒田藩から三〇〇〇人余,同六年以降は、毎年盛岡藩より六五〇人、弘前藩より四五〇人を出兵させ、
西蝦夷地
は弘前藩に守備させた。
新札幌市史 第1巻 通史1
(十三場所の変遷と請負人)
表6は、天明六年『
西蝦夷地
場所地名産物方程控』(以下『産物方程控』と略記)に記録されて以来、寛政四年『,
東
西蝦夷地
場所附』(武川家文書)にいたる七種類の史料から、知行主名を軸とし、場所名、請負人名、運上金等,阿部屋専八 阿部屋専八 八森屋文六 斎藤屋武右衛門 二〇両 三〇両 三七両 四〇両 三五両 三五両 7 『
東
西蝦夷地
場所附,北藩風土記』では「イシカリ十三ケ所」、『産物方程控』では、「石狩拾弐ケ所」、また『松前随商録』および『
東
西蝦夷地
場所附,「チイカルシ」、あるいは「ツフカルイシ」は、イシカリ川上流域の地名を指すようで、『
西蝦夷地
分間』(
東
大史
新札幌市史 第1巻 通史1
(『北海随筆』)
シコツよりユウバリの通路を追て亦
西蝦夷地
の大道を開き、イシカリ川に船通路なす時は、
東
西の通路猶々自由なり,金銀山調査の過程で、当然シコツ(古くはユウフツのこともシコツと呼んでシコツが広域地名であった)から川伝いに
西蝦夷地
新札幌市史 第1巻 通史1
(旧幕軍の蝦夷島占拠)
新政府より蝦夷地の警備を命じられていた
東
北の秋田、津軽、南部、仙台の諸藩も、この本国での緊迫した情勢に,蝦夷島政権は蝦夷地の支配のため開拓奉行(沢太郎左衛門)を置き、二〇〇人余の移住者を伴って室蘭を本営として
東
・,
西蝦夷地
の警備と開拓にあたった。,そして
西蝦夷地
に関しては、一小隊もしくは二〇~三〇人あてを石狩、小樽内、歌棄に在番させることとした。
新札幌市史 第1巻 通史1
(『野作東部日誌』)
『野作
東
部日誌』 安政三年の蝦夷地調査の道程は、榊原銈蔵、市川十郎により記された『野作
東
部日誌(えぞとうぶにっし,
東
地文化度御領ノ時改メ会所ト唱ラレシヨリ今ニ然リ。,運上家ハ海岸ヨリ二丁半
東
ニテ、是ヨリ
東
南ハ渺々タル曠野ノミ。海岸北ノ方ニ麻志介山(マシケヤマ)見ユ。,安政四年の調査は、今度は
西蝦夷地
をまわり、カラフトの北部にまで至っている。,四、五年の調査の道程は、断片的にしかわかっていないのであるが、カラフト、
西蝦夷地
、道南六カ場所を巡回していたようである / 『野作
東
部日誌』
新札幌市史 第1巻 通史1
(武四郎の新道構想)
武四郎の新道構想 かつて幕府が文化四年(一八〇七)に
西蝦夷地
をも上地して、全蝦夷島を直領とした直接の,ところで
東
蝦夷地は、その海岸線に沿ってネモロに至る陸路はそれほど困難はなかったが、
西蝦夷地
の箱館よりソウヤ,文化期に近藤重蔵らが
西蝦夷地
の内陸踏査をなしたのも、まさにこの課題に対する最初の試行であった。
新札幌市史 第1巻 通史1
(弘前藩の関心)
弘前領民の
西蝦夷地
往来はこれを例外としない。,嘉永六年春は、今別、三厩、増川の三町村だけで一一二人の領民が、一人五升の米を背負って
西蝦夷地
に鯡漁夫として,しかし郡奉行は、これら領民の生活が
西蝦夷地
への出稼をぬきにして成り立たぬと指摘、労賃は前金で受け取っているし,このように、第二次幕府直轄期をむかえた
西蝦夷地
は、弘前領民の出稼なくして鯡漁が成り立たず、両地は経済的,直ちに早道の者を、イシカリを含めて
西蝦夷地
とカラフトへ内偵に送り、さらに家臣山田左四郎を派遣し実態の把握
新札幌市史 第1巻 通史1
(十三場所の人口把握)
管見した範囲では、天明六年(一七八六)の『
西蝦夷地
場所地名産物方程控』(以下『産物方程控』と略記)の「,表3は、前述の『産物方程控』の段階より、文化四年の
西蝦夷地
の直轄を経て、文化七年(一八一〇)にいたる間,2.天明末~寛政初年は、『
西蝦夷地
分間』(
東
大史)によった。,3.文化4年は、田草川伝次郎『
西蝦夷地
日記』によった。,まず、『
西蝦夷地
分間』によれば、十三場所各場所の戸数は、多くて四〇戸、もっとも少ないので六戸である。
新札幌市史 第1巻 通史1
(イシカリの機能)
東
は三日より四日位山なし。西南十里外ならで山岳なし。,イシカリは
西蝦夷地
の海上航路において、箱館とソウヤの間のほぼ中間に位置し、またすでにユウフツとをもって,
東
・
西蝦夷地
を結ぶ重要な陸路の起点でもあった。
新札幌市史 第1巻 通史1
(イシカリの開発)
このような中にあって、
西蝦夷地
のイシカリは、つとに箱館奉行所においても注目するところの地であった。,それは「殊ニ同所之儀ハ
東
西通路も有之、蝦夷地第一之地勢ニテ、抑厚き見込も有之」(諸伺書類)と記されているように,、イシカリは古くから
西蝦夷地
と
東
蝦夷地とを結ぶ重要な交通の起点であり、また石狩川河口域は鮭漁の有数な漁場
新札幌市史 第1巻 通史1
(稲荷丸と山田家出稼荷物)
前述(七六六頁)のように沖の口徴税が
東
西二分されると、請負場所は
東
蝦夷地にあるが、そこのアイヌを
西蝦夷地
,本請負場所が
東
蝦夷地であるならば、イシカリやオタルナイに出稼して生産した荷物もすべて箱館にはこび、箱館沖,ユウフツ御場所川下け名代免判」を山田家に与え、しかも、イシカリへの立船に役銭減免の優遇措置をとってきた(
東
西蝦夷地
場所請負人問屋共,ところが奉行所では前回の願書をもとに評議し、とても認めうる内容ではないとして却下、願書を差しもどして、
東
西二分方針
新札幌市史 第1巻 通史1
(井上貫流一行)
井上貫流一行 文化四年の
西蝦夷地
の直轄にともない、見回りや警備のために蝦夷地に赴く人びとの往来がますます,近藤重蔵が
西蝦夷地
を巡見し、『総蝦夷地御要害之儀ニ付心得候趣申上候書付』で、
西蝦夷地
のタカシマを要害候補地,その道中日記が『
西蝦夷地
高島日記』として残されているが、幕吏やアイヌの人びとを見る目が非常に詳細で、他,
東
西蝦夷地
を結ぶ両関門は、直轄とともにさらに交通の要路として人や物の往来が盛んとなり、交通手段をはじめ
新札幌市史 第1巻 通史1
(民族的蜂起)
利別川の砂金掘の根拠地でもあった)にいる金掘をも殺し、彼らの持っている米、塩、味噌などを取って兵粮とし、
東
西,のアイヌが幾万と限りなく松前へ攻め上るから、皆々我々に味方せよ〟と、
西蝦夷地
には「ちめんは」、
東
蝦夷地,このシャクシャインの和人襲撃の檄(げき)に答えて、寛文九年(一六六五)六月、
東
はシラヌカ、西はマシケに,至るアイヌの多くは、一斉に蜂起し、蝦夷地にいた商船を襲い、つぎつぎに和人の水主、鷹待、金掘を殺戮し、
東
西蝦夷地
,七人 一 マシケにて弐拾三人 都合百四十三人相果る なお『蝦夷蜂起』によれば、殺された人々は、
西蝦夷地
新札幌市史 第1巻 通史1
(八幡宮の勧請)
それによると、八幡宮を「
東
西蝦夷地
惣鎮守といたし立祠造営」するもので、「天下泰平、国家安穏、五穀豊穰、
新札幌市史 第1巻 通史1
(カラフト・千島襲撃事件)
文化三年九月、露米商会員フヴォストフは、カラフト
東
海岸オフイトマリに到来、アイヌの子供一人を連行した。,藩兵は、まもなくソウヤへ引き返し、
西蝦夷地
シャウ、モヘツ(シャリ、モンベツか)を守衛した。 ,その一方、フヴォストフは、再びカラフトにあらわれ、さらに五月には
西蝦夷地
リシリ付近にあらわれた。
新札幌市史 第1巻 通史1
(四望開豁)
一行はオシャマンベでエトロフ班に別れ、クロマツナイ越して
西蝦夷地
オタスツに出、日本海岸を北上し五月二日,一次調査が
東
西蝦夷地
に主眼をおいたので、須藤の報文はカラフトのみを取り上げ、イシカリの記事はない。
新札幌市史 第1巻 通史1
(イシカリの詰役)
日本海沿岸の
西蝦夷地
は、はじめスッツ・イシカリ・ルルモッヘ(留萌)の三カ所の持場(詰)割とされた(後に,シヤコタン領よりマシケ領迄]水野一郎右衛門右之場所大船繫泊宜、殊ニ追々在住之もの同所御警衛被仰付候積、其上
東
地,「
東
西蝦夷地
場所詰正月廿八日被仰付候公辺御役方面附写」(松前箱館雑記 巻五)によると、イシカリ・アツタ
新札幌市史 第1巻 通史1
(網漁法の導入と塩引鮭)
文化四年(一八〇七)、ちょうど秋味漁の季節にイシカリを通った幕府吏員田草川伝次郎の『
西蝦夷地
日記』にも,あるいは、この伝承のごとく「ヒホク」(現新冠)をはじめとして
東
蝦夷地太平洋岸で使用されていた網が、すでに,第四章においても触れたように、天明五年(一七八五)段階では、一万二〇〇〇石の産出があった(
西蝦夷地
場所地名産物方程控,文化二年では、「三、四十年以前には十二はひ(一万二〇〇〇石)程有しが、近年不猟となり、五、六はひ許」(
東
海参譚,)りとなり、同四年では、六五〇〇石(
西蝦夷地
日記)の産額というありさまであった。
新札幌市史 第1巻 通史1
(東寗元稹のみたイシカリ)
東
寗元稹のみたイシカリ 遠山、村垣一行は、同年八月江戸に帰って復命し、これにより
西蝦夷地
の直轄は確定,この遠山、村垣等に同行した者に、
東
寗元稹という人物がおり、『
東
海参譚』を残している。 /
東
寗元稹のみたイシカリ
新札幌市史 第1巻 通史1
(蝦夷紀行等)
一 『蝦夷紀行 全』と表紙にあり、本文書きはじめに「従
東
都奥州通三馬屋迄、従松前蝦夷地唐太嶋中韃靼境迄,三 『従松前
西蝦夷地
北蝦夷地唐太嶋
東
蝦夷地日記覚』 市立函館図書館所蔵、同館目録には『
西蝦夷地
東
蝦夷地松前北蝦夷地唐太嶋日記覚,四 『奥州街道松前幷
西蝦夷地
唐太
東
蝦夷地見聞日誌写』 札幌市海保嶺夫氏所蔵、昭和四十四年北海道立図書館
新札幌市史 第1巻 通史1
(請負方式の変化)
請負方式の変化 文化四年(一八〇七)の
西蝦夷地
の直轄以降、イシカリ場所の経営は、
東
蝦夷地のように請負制,其後五ケ年季ニテ弐千五百両之請負迄ニは相成候得共、案外不猟打続候故、半途ニテ御免ニ相成、(阿部家文書
東
京都阿部正道氏蔵,により半減 1,500両 2,500両 2,200両 2,250両 1.文化4年は、田草川伝次郎『
西蝦夷地
日記,文化四年の
西蝦夷地
直轄時には、「六千五百石宛年々栖原屋引請」(
西蝦夷地
日記)といったように、栖原屋が請負
新札幌市史 第1巻 通史1
(イシカリ要害論)
この書付は、近藤重蔵が
西蝦夷地
見回り中にイシカリから、あるいはソウヤから遠山景晋宛に書き送った用状のなかでも,①イシカリ川について イシカリ川は総蝦夷地(この場合
東
西蝦夷地
の意か)の中央にあり、かつ第一の大河,ここは、「西北ヲ大山ニテ包ミ、又
東
南ヘ大川ヲ受ケ、是迄越年小屋モ有之、奥地ヘモ不遠候テユウハリヨリユウブツ,ここは、「其間僅一里許リニテ、テミヤト申
西蝦夷地
第一の上湊有之。,築城するがよかろうといった意見、蝦夷地内に陣屋取建ての適地として、西北はタカシマ、ソウヤ、カラフト、
東
北
新札幌市史 第1巻 通史1
(蝦夷地での活躍)
この
東
蝦夷地の実検は、『初航蝦夷日誌』としてまとめられている。 ,今度は松前藩カラフト詰として赴任する医師西川春庵の下僕となって随行することとし、三月八日に松前を出立、
西蝦夷地
,の海岸に沿ってソウヤに至り、渡海して北蝦夷地のマアヌイ、クシュンナイを巡ってソウヤに帰り、さらに
西蝦夷地
,この踏査内容は『丁巳
東
西蝦夷山川地理取調日誌』にまとめている。 ,この大踏査行は『戊午
東
西蝦夷山川地理取調日誌』にまとめられた。
新札幌市史 第1巻 通史1
(直轄と経営方針)
こうして、
東
蝦夷地および付属諸島を当分の間幕府の用地とし、その担当として老中戸田采女正氏教を命じた。,直轄の範囲は、最初ウラカワよりシレトコおよび
東
奥島々までとしたが、同年六月松前藩は、幕吏の松前領内往来繁雑,により困難なので、知内以
東
も直轄するよう内願、八月十二日知内以
東
の追直轄を認め、松前藩へは五〇〇〇石の,当時松前藩領である
西蝦夷地
には、まだ直接関係しなかったものの、文化四年の
西蝦夷地
直轄以後深く関わることになるので,そのためには、
東
蝦夷地の場所請負人から場所の経営権を取りあげて、直捌(じきさばき)とした。
新札幌市史 第1巻 通史1
(遠山・村垣一行)
遠山・村垣一行 文化四年(一八〇七)の
西蝦夷地
直轄の前年、幕府目付遠山金四郎景晋、勘定吟味役村垣左太夫定行,ら一行が、
西蝦夷地
を見分したことは前述したとおりである。,そこでここでは、遠山、村垣一行に随行した一人である
東
寗元稹の『
東
海参譚』より、シコツ越えについてみてみよう,[
東
方は会所といふ。,則西地の運上屋船なりしかども、
東
方には会所といふもの二軒を置て、一所にては夷人の品を買上て、其あたひを
新札幌市史 第1巻 通史1
(山崎半蔵)
弘前藩士山崎半蔵もその一人で、田草川伝次郎ら一行が
西蝦夷地
を見回った同じ年、ソウヤ警備を命じられ、ユウフツ,此
東
西ヲ山中ユウフツヨリ西へ越ルモ川ヲ □(本ノママ) リ又石雁(イシカリ)ヨリ
東
へ越ルモ逆上(さかのぼ,此地勢南北ノ括レ所ニテ低ク
東
西ノ間狭シ。沼川計多其地モ埿菹ノミ。別ニ高キ所モナシ。,
東
西舟行自在ノ如シ。土夷曰。太古ハ此間海ナリシヲ追々地生育チ海浅瀬テ斯ク成レリト話モ宣フナリ。 ,このように、
東
西の間が狭く沼や川ばかりなので、舟路に適しているとみたのだろう。
新札幌市史 第1巻 通史1
(知行と勤番)
ただし、
西蝦夷地
は幕府直轄時には、勤番所が五カ所あったが、今回はイシカリ・ソウヤ・カラフトの三カ所に減,り、
東
蝦夷地のそれは、五カ所あったのに対し八カ所、海防を主とするエトモの詰合を加えると九カ所におよぶという,天保九年(一八三八)の『蝦夷情実』(函図)によれば、イシカリ、ソウヤ、カラフトの
西蝦夷地
の勤番人数は四二人,頭役酒井尉右衛門、徒士八百田綱右衛門、医師田中元栄、それに足軽七人が詰めていたことがわかっている(松前箱館雑記三
東
大史
新札幌市史 第1巻 通史1
(武藤勘蔵)
この一行中に、三橋藤右衛門に従って
西蝦夷地
を宗谷まで巡回して往返した用人武藤勘蔵は、その著『蝦夷日記』,船路にて
東
蝦夷地ユウブツに着船。一日逗留。
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(松浦武四郎と蝦夷地)
弘化二年(一八四五)を皮切りに、翌三年と嘉永二年(一八四九)の三回にわたって
東
西蝦夷地
のみならず、カラフト,ここでは、江差の人別に加わり、和賀屋孫兵衛の手代ということで
東
蝦夷地に入り、シレトコ岬を回って箱館にもどり
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(【主要参考文献・史料】)
)、同「燼心餘赤」(吉田武三編『松浦武四郎』)、同「後方羊蹄日誌」『多気志樓蝦夷日誌集』二、同『丁巳
東
西蝦夷山川地理取調日誌,』、同『戊午
東
西蝦夷山川地理取調日誌』、同『竹四郎廻浦日記』、同『西蝦夷日記』、河野常吉編『さっぽろ昔話,モンベツ御用所 御用留」「荒井金助事蹟材料」、「兵部省分引継書類」(以上道文)、「御用留策」第二巻、「従
西蝦夷地
石狩宗谷渡海
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(御手船の商場)
御手船の商場 異国へつながりのあるアイヌが居住する、生産力豊かな奥地の商場は、藩主の御手船の商場で、
西蝦夷地
,はイシカリ、テシオ、ソウヤ、
東
蝦夷地はクスリ、アッケシ、キリタップ、ノッシャムなど、場所の開設年次については
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(イシカリ通過の第一報)
『蝦夷地為御用、松前より
西蝦夷地
宗谷迄迴浦仕候行程荒増申上候書付』がそれで、経過した地名に一、二行の簡単,カラフトからの帰途、
東
蝦夷地ユウフツを通過した速報(『西地宗谷よりシヤリ越松前迄里程申上書』、また『堀村垣回浦上申記
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(エンカルシベの山霊)
もこれ以前にあったであろうが、武四郎はこの菊池大蔵の願書をうけ、「今般石狩領分字サッポロ山麓の辺え、
東
西蝦夷総鎮守御造営,イシカリに「
東
西蝦夷地
総鎮守」の設立が企図されたのは、荒井金助がイシカリに本府をおき、将来は日本の〝北京
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(深き見込みの場所)
第一次直轄期は千島とのかかわりから
東
蝦夷地対策に重点が置かれ、それとの比較でみるならば第二次直轄期は
西蝦夷地
,改革を総括した『書付』の一節に、イシカリは「
東
西通路も有之、蝦夷地第一の地勢にて、抑厚き見込も有之」とあり
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(出稼の諸相)
り候由」(安政四年五月晦日付書状)と報告し、成石修輔は木古内で「里人は皆出稼して、常に夷地に有り」(
東
徼私筆,
東
隣りのアツタ場所も同じ様子で、ウエンシリからオショロコツ、アツタにかけて出稼小屋がつづき、安政四年には,
西蝦夷地
神威岬の婦女通過禁制を否定し、箱館及び近村から蝦夷地へ出向く者の沖の口改めを不要とし、入役銭を,然に近年
西蝦夷地
不漁の場所も多(く)有之候に付、親妻子為介抱の秋味出稼に罷越候所、此節七百人余も相集り,写真-5 安政6年のイシカリ(
西蝦夷地
樺太道中記の内)
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(商場ちよまかうた)
この商場「ちよまかうた」は藩主「御手船」の商場であったことは『享保十二歳未八月 松前西
東
在郷幷蝦夷地所附,なおさつほろの名称は、寛文の蜂起時に
西蝦夷地
に入ったこれら津軽藩の物聞(ものきき)(密偵)のこの報告の
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