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新札幌市史 第1巻 通史1
(東蝦夷地の仮直轄)
東蝦夷地
の仮直轄 アイヌが居住している場所を越えての漁業権が、アイヌ相互の慣習であれ認められている間,ところが、前述したような
東蝦夷地
の仮直轄となり、シママップ川から千歳川をもって幕府領の境界としたので、 /
東蝦夷地
の仮直轄
新札幌市史 第1巻 通史1
(蝦夷地での活躍)
かくして弘化二年(一八四五)六月に箱館を発し、
東蝦夷地
の沿岸を巡ってネモロに至り、さらにシレトコ岬に達,この
東蝦夷地
の実検は、『初航蝦夷日誌』としてまとめられている。 ,嘉永二年(一八四九)閏四月十八日、クナシリ場所請負人柏屋藤野喜兵衛の持船長者丸に便乗して箱館を出発、
東蝦夷地
沿岸,を廻ってソウヤにもどり、ここで一行の隊長である向山源大夫の病死にあうが、さらにシャリ、ネモロを巡って
東蝦夷地
海岸,んでイシカリへ、さらにユウフツへ抜けて日高の沿岸に注ぐ十数本の河川の川上を調査、十勝の原野を一周して
東蝦夷地
海岸
新札幌市史 第1巻 通史1
(直轄の実態)
一方幕府は、
東蝦夷地
の永久直轄を決定した享和二年(一八〇二)二月二十三日、蝦夷地経営として、蝦夷地取締御用掛,寛政十一年(一七九九)、
東蝦夷地
仮直轄に際して、毎年の経費を五万両と定め、ほかに諸官吏手当など約一万両,しかも、西蝦夷地の直轄は、
東蝦夷地
のそれと異なり、場所の直捌も行わず、場所請負人も廃さずそのまま置くことにした
新札幌市史 第1巻 通史1
(『土人由来記』)
『土人由来記』 寛政十一年(一七九九)、
東蝦夷地
が幕府の仮直轄となったため、それまでイシカリ十三場所内,のアイヌが
東蝦夷地
となった地域に持っていた漁業権が侵害されるといった紛争がたまたまおきてくる。,この事件の顚末については、当時ユウフツ会所(
東蝦夷地
の仮直轄を機に運上屋を会所と改めた)の請負人を務めていた,山田文右衛門(
東蝦夷地
の場合、直轄後場所請負人を廃し、復活したのが文化十年であるので、その後のことを指
新札幌市史 第1巻 通史1
(調査の目的)
調査の目的
東蝦夷地
が、享和二年(一八〇二)永久上知となり、松前藩は、西蝦夷地のみの経営および永久上知代価,
東蝦夷地
の直轄後も松前藩が、蝦夷地対応策として何ら適切な措置をとることができないでいるうちに、文化元年
新札幌市史 第1巻 通史1
(松前蝦夷御用取扱)
前述したように、寛政四年(一七九二)のロシア遣日使節アダム・ラクスマンの
東蝦夷地
への来航以来、ロシア人,
東蝦夷地
が仮直轄された翌年の寛政十二年、近藤重蔵はエトロフ島開発に着手し、アイヌの「撫育」と新規漁場開発
新札幌市史 第1巻 通史1
(御救交易)
石狩枝川イベツ通
東蝦夷地
ユウフツと申処迨ハ四日路程も有之。都て田畑宜敷場所と奉見請候。,イシカリ平野とイシカリ川の発見とともに、田畑に適した肥沃な土地あるいは、イシカリ川の豊富な秋味、そして
東蝦夷地
,・秤を正しくして、交易品も良品を選び、アイヌへの「撫育」にも励んだので良好だったようで、寛政十一年の
東蝦夷地
新札幌市史 第1巻 通史1
(直轄と経営方針)
こうして、
東蝦夷地
および付属諸島を当分の間幕府の用地とし、その担当として老中戸田采女正氏教を命じた。,そのためには、
東蝦夷地
の場所請負人から場所の経営権を取りあげて、直捌(じきさばき)とした。,これにともなって、
東蝦夷地
内の各場所を会所とあらため、幕府が直接経営にあたることをアイヌに伝えるとともに
新札幌市史 第1巻 通史1
(産物の流通)
ともかく千歳アイヌのみならずイシカリ川筋のアイヌも、
東蝦夷地
が寛政十一年(一七九九)に幕府直轄になった,このようなイシカリ場所とユウフツ場所の、人と物の往来・流通関係の上に、
東蝦夷地
の幕府直轄が強行され、イシカリ
新札幌市史 第1巻 通史1
(稲荷丸と山田家出稼荷物)
前述(七六六頁)のように沖の口徴税が東西二分されると、請負場所は
東蝦夷地
にあるが、そこのアイヌを西蝦夷地,本請負場所が
東蝦夷地
であるならば、イシカリやオタルナイに出稼して生産した荷物もすべて箱館にはこび、箱館沖
新札幌市史 第1巻 通史1
(第一回訴願)
その内容は、①ムイザリに以前より所持していたウライ二カ所を、
東蝦夷地
が直轄になった時没収されてしまったこと,、②このウライの所有は、かつて
東蝦夷地
からアイヌがムイザリに攻めてきた時、ムイザリのアイヌの依頼により,寛政11年(1799)
東蝦夷地
の仮直轄。,享和2(1802)
東蝦夷地
の永久直轄。,
東蝦夷地
内場所請負人復活。
新札幌市史 第1巻 通史1
(和人地と蝦夷地)
したがってこの範囲を和人地とし、それ以北を蝦夷地とし、熊石以北の地を西蝦夷地または上蝦夷地、亀田から東を
東蝦夷地
新札幌市史 第1巻 通史1
(皆川周太夫)
皆川周太夫
東蝦夷地
が寛政十一年(一七九九)、幕府の仮直轄となった時、ユウフツに入植した屯田農兵団八王子千人同心頭原半左衛門,寛政十二年、皆川周太夫が計画した
東蝦夷地
を横断する新道開削計画とは以上の内容であった。,直轄領となった
東蝦夷地
を結ぶ海上交通に代わる陸上交通路として、アブタ―サッポロ川上流―シコツ川ルートが
新札幌市史 第1巻 通史1
(蝦夷紀行等)
三 『従松前西蝦夷地北蝦夷地唐太嶋
東蝦夷地
日記覚』 市立函館図書館所蔵、同館目録には『西蝦夷地
東蝦夷地
松前北蝦夷地唐太嶋日記覚,四 『奥州街道松前幷西蝦夷地唐太
東蝦夷地
見聞日誌写』 札幌市海保嶺夫氏所蔵、昭和四十四年北海道立図書館
新札幌市史 第1巻 通史1
(第二回訴願)
そのような折、文化十年(一八一三)
東蝦夷地
内に、廃止されていた場所請負人が復活した。,イザリブト、ムイザリの両場所、すなわち上ツイシカリのシレマウカのウライ所有場所から産出するものであって、
東蝦夷地
新札幌市史 第1巻 通史1
(遠山・村垣一行)
途中の宿泊は、ツイシカリは草小屋であったが、直轄領となった
東蝦夷地
イザリでは、「両岸の篝火千点」が焚かれ,また、この通行で大いに異なったのは、
東蝦夷地
の直轄によって千歳会所のところで触れているように、アイヌから
新札幌市史 第1巻 通史1
(武藤勘蔵)
船路にて
東蝦夷地
ユウブツに着船。一日逗留。
新札幌市史 第1巻 通史1
(松浦武四郎と蝦夷地)
ここでは、江差の人別に加わり、和賀屋孫兵衛の手代ということで
東蝦夷地
に入り、シレトコ岬を回って箱館にもどり
新札幌市史 第1巻 通史1
(イシカリ通過の第一報)
カラフトからの帰途、
東蝦夷地
ユウフツを通過した速報(『西地宗谷よりシヤリ越松前迄里程申上書』、また『堀村垣回浦上申記
新札幌市史 第1巻 通史1
(御手船の商場)
アイヌが居住する、生産力豊かな奥地の商場は、藩主の御手船の商場で、西蝦夷地はイシカリ、テシオ、ソウヤ、
東蝦夷地
新札幌市史 第1巻 通史1
(山田家の難儀)
山田家のイシカリ出稼による鮭荷物は箱館廻送ときまったが、これが
東蝦夷地
ユウフツ場所の荷物高の一部と解釈,箱館奉行所は
東蝦夷地
出産の鮭について直䑺を認めていたからである。
新札幌市史 第1巻 通史1
(勝右衛門のその後)
文久三年西蝦夷地フルビラ、ヨイチ、オショロ、
東蝦夷地
ニイカップ、ミツイシ、シツナイ、ウラカワ、サマニの
新札幌市史 第1巻 通史1
(深き見込みの場所)
第一次直轄期は千島とのかかわりから
東蝦夷地
対策に重点が置かれ、それとの比較でみるならば第二次直轄期は西蝦夷地
新札幌市史 第1巻 通史1
(御手作場)
磐城中村藩相馬大膳亮の家来新妻助惣・佐々木長左衛門・大友新六に対し、それぞれ箱館奉行所雇(在住)を申し付けて、新井には
東蝦夷地
新札幌市史 第1巻 通史1
(民族的蜂起)
、東西のアイヌが幾万と限りなく松前へ攻め上るから、皆々我々に味方せよ〟と、西蝦夷地には「ちめんは」、
東蝦夷地
, なお『蝦夷蜂起』によれば、殺された人々は、西蝦夷地では一二〇人のうち、他国者八二人、松前者三八人、
東蝦夷地
新札幌市史 第1巻 通史1
(紛争後のイシカリの首長)
一 西蝦夷地ノ方 石狩ト云所ニまたべと申者頭人之よし、石狩え従松前百八十里ほと有之よし 一
東蝦夷地
,申者若年ニ有之候ゆへ同所ニ罷在ちべかと申者頭人申付置候よし とあり、一〇年以前に亡くなっているが、
東蝦夷地
新札幌市史 第1巻 通史1
(阿部屋の台頭と没落)
このほか、西蝦夷地では、マシケ、アツタ、オタルナイが、
東蝦夷地
では、サル、ニイカップをはじめ一一場所、,しかし、
東蝦夷地
直轄化の動きが、阿部屋を再興させた。
新札幌市史 第1巻 通史1
(串原正峯)
ソウヤより松前へ帰郷の節、イシカリ川より夷船にて
東蝦夷地
シコツといふ所へ出たり。
新札幌市史 第1巻 通史1
(蝦夷地用向勉勤)
それからエトロフ島まで約一カ月かけて回り、八月十日
東蝦夷地
シベツに帰る。
新札幌市史 第1巻 通史1
(イシカリ入津の廻船)
江戸新潟尤利有」(燼心餘赤)とみなされるようになると、太平洋を流通ルートとする東廻り船の重要度が増し、
東蝦夷地
新札幌市史 第1巻 通史1
(沖の口体制)
すなわち、
東蝦夷地
の荷物は箱館で船改めをして役銭を徴収し、箱館奉行所の歳入とする。
新札幌市史 第1巻 通史1
(村垣範正の廻浦)
この時は直接にイシカリへはおもむかなかったが、
東蝦夷地
・カラフトの廻浦をおえ、八月五日に改めてイシカリ
新札幌市史 第1巻 通史1
(寛政十年蝦夷地調査)
蝦夷地調査により、蝦夷地経営を松前藩に任せておくわけにいかないという結論にいたり、まず当面一番大切な
東蝦夷地
新札幌市史 第1巻 通史1
(イシカリの開発)
蝦夷地第一之地勢ニテ、抑厚き見込も有之」(諸伺書類)と記されているように、イシカリは古くから西蝦夷地と
東蝦夷地
新札幌市史 第1巻 通史1
(依田次郎助)
此処迄二リ余 海陸同シ、二リ半余 ○ ハルウス 右御昼可相成候処、御立寄無之 サツボロ山 右は
東蝦夷地
,此処より
東蝦夷地
ユウブツト申処迄、野道有。凡四十リ余有之。但し、番屋も有之。,但し、ユウツ(ママ)運上屋有 ヤワスケ嶽 是も
東蝦夷地
の山ニして、遥ニ向幽に見ゆル。
新札幌市史 第1巻 通史1
(山田家の出稼)
天保後期からのイシカリ鮭漁高の上昇は、
東蝦夷地
の先進漁法を身につけた山田の出稼に負うところが大きいといえよう
新札幌市史 第1巻 通史1
(ウライの没収と出漁禁止)
ウライの没収と出漁禁止 このような
東蝦夷地
の仮直轄は、そこの直接生産者であるアイヌの意志とは無関係に
新札幌市史 第1巻 通史1
(第二次調査)
帰路は
東蝦夷地
をユウフツまでもどり、ここからイシカリへ向け内陸に入り、八月二日到着する。
新札幌市史 第1巻 通史1
(直䑺)
この特例は改革前から
東蝦夷地
出産の鮭を江戸や水戸藩那珂湊等へ送る場合に認められ、安政二年奥州諸藩が蝦夷地警衛
新札幌市史 第1巻 通史1
(道路・橋梁その他の築工)
越へ道境より御手作場新道中普請」と注記があり、すでに完成をみていた内陸幹線路の一つであるゼニバコより
東蝦夷地
新札幌市史 第2巻 通史2
(黒田清隆の建議)
この制度に類似するものは、イギリス、中国、ロシア等に古くから知られ、北海道においても寛政年間
東蝦夷地
新札幌市史 第1巻 通史1
(武四郎の新道構想)
ところで
東蝦夷地
は、その海岸線に沿ってネモロに至る陸路はそれほど困難はなかったが、西蝦夷地の箱館よりソウヤ
新札幌市史 第1巻 通史1
(上ツイシカリアイヌの離散)
東蝦夷地
内のウライ没収以降文化十年(一八一三)までの間に、シレマウカとその一族が上ツイシカリを去ったため
新札幌市史 第1巻 通史1
(復領の申渡し)
運上金については、
東蝦夷地
では、一万八六〇〇両余(文化十年)が九八〇〇両余(文政五年)に、西蝦夷地では
新札幌市史 第1巻 通史1
(『野作東部日誌』)
これによると、一行は箱館を出立後、
東蝦夷地
を巡廻し襟裳岬(えりもみさき)に至っている。
新札幌市史 第1巻 通史1
(調査の目的と行程)
島調査に向かいカラフトには行かなかったし、後に紹介するように本隊を離れ千歳越によりイシカリに至る人、帰路
東蝦夷地
新札幌市史 第1巻 通史1
(商場知行)
東蝦夷地
からは干鮭、干鱈、熊、鹿の皮、真羽、らっこ皮、鶴、鯨、塩引、鮭、赤昆布、魚油などがもたらされたとある
新札幌市史 第1巻 通史1
(イシカリアイヌの入会権)
伝承によれば、三代前の祖父の代に、下地すなわち
東蝦夷地
から大勢のアイヌがムイザリ川地域に攻めてきたことがあった
新札幌市史 第1巻 通史1
(戸石永之丞の調査)
戸石永之丞の調査 幕府から安政二年三月蝦夷地警衛を命じられた仙台藩は、三好武三郎を中心に
東蝦夷地
の大
新札幌市史 第1巻 通史1
(イシカリ山請負)
元禄十五年(一七〇二)には、蝦夷地の豊富な蝦夷檜に着目して松前に渡り、まず
東蝦夷地
シリベツの蝦夷檜(エゾマツ,のち
東蝦夷地
サル・クスリ・アッケシおよび西蝦夷地イシカリ・ユウバリ・テシオ等の蝦夷檜山を開き、次第に利益
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