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新札幌市史 第1巻 通史1
(松前藩の反撃)
を無視してその資源を荒らし、収奪的交易を強めた
松前
藩に対する闘争に質的に転化し、発展したものであり、
松前
藩,シャクシャインは盛岡(南部)藩文書の『
松前
蝦夷蜂起』によれば、 近年
松前
殿役人仕置非道ニシテ貧リ多ク,寛文九年(一六六九)七月十三日、
松前
藩及び弘前藩から「蝦夷人蜂起」の注進をうけた幕府は、旗本で
松前
藩主,の大叔父御小姓組廩米千俵取の
松前
八左衛門泰広を
松前
に派し、アイヌの鎮圧に努めさせると共に、藩主矩広には,(秋田)の両藩へも加勢を求められた時は
松前
への派兵を指令した。 /
松前
藩の反撃
新札幌市史 第2巻 通史2
(松前・函館商人の招来)
松前
・函館商人の招来 開拓使は札幌市街の開発を進めると同時に、市街地に工商人の来住を求めて、三年閏十月以降
松前
函館,これに応じた
松前
函館の商人が四年二月から四月にかけて移住してきた。,
松前
地方からの招募によって何人来住したか不明であるが、四年の『辛未歳市中人別申出綴』(道文三一二)によると,、
松前
城下または館藩支配所として住所を記入している工商人は一四戸である。,ほかに
松前
江差、
松前
福山からの移住者を加えると二三戸になる。しかし誰が募移民であるか不明である。 /
松前
・函館商人の招来
新札幌市史 第1巻 通史1
(松前蝦夷御用取扱)
松前
蝦夷御用取扱 近藤重蔵は、寛政九年に幕府に提出した蝦夷地取締についての建言が契機となり、翌年には,
松前
蝦夷御用取扱に任じられ、蝦夷地出張を命じられた。 /
松前
蝦夷御用取扱
新札幌市史 第1巻 通史1
(【主要参考文献・史料】)
【主要参考文献・史料】 「
松前
主水広時日記」『新北海道史』第七巻、『
松前
藩支配所持幷家中扶持人名前帳,』(東大史)、田端宏「石狩場所の歴史ノート(上)、(下)」『札幌の歴史』第一四・一五号、「
松前
蝦夷記」,『
松前
町史』史料編第一巻、「エトロフ島漂着記」『日本庶民生活史料集成』第四巻、「万永代覚帳」『西川伝右衛門家文書,』(滋賀大学経済学部史料館蔵)、「蝦夷商賈聞書」『
松前
町史』史料編第三巻、『
松前
西東在郷幷蝦夷地所附』,』(函図)、『
松前
随商録』(函図)、『
松前
志』(国公文)、『北藩風土記』(函図)、『西蝦夷地分間』(東大史
新札幌市史 第1巻 通史1
(山田家の難儀)
で改めをうけてよい(
松前
藩の沖の口徴税)。,
松前
藩へ報告、
松前
藩は奉行所への請書提出を拒否。 山田家の願書を認める決定をし、申し渡す。,同上の決定を
松前
藩に口達、請書をもとめる。 6
松前
藩は仮請書を奉行所に差し出す。,7
松前
より箱館へ出発する町人多し。
松前
町人より
松前
藩へ正式な歎願書差し出す。,山田家と
松前
藩の請書を受け付ける。 8
松前
藩は書き直しを命じ差しもどす。
新札幌市史 第1巻 通史1
(復領の申渡し)
復領の申渡し 文政四年(一八二一)十二月七日付で、
松前
藩は旧領に復帰することを許された。,幕府は、
松前
藩に領地を返還するにあたり、引継手続きのあと、
松前
藩とアイヌの両方にそれぞれ申渡しを行った,一方、アイヌへは、文政五年五月
松前
奉行から
松前
藩への領地引継の際、
松前
奉行はアイヌの三役(乙名(おとな,また、同年五月二日付で
松前
藩からもアイヌに対し、まったく同様な申渡しがなされた。 ,ところで、幕府は
松前
藩に領地を返還する少し前の文政元年(一八一八)、当時の
松前
奉行が「御主法替」、すなわち
新札幌市史 第1巻 通史1
(【主要参考文献・史料】)
阿部家文書―東京都阿部正道氏蔵)、『村山家資料』(道開)、田草川伝次郎『西蝦夷地日記』、「村鑑下組帳」『
松前
藩,と
松前
』二五号、「北海道伊達家履歴」『新北海道史』第九巻、「蝦夷地御用留」『近藤重蔵蝦夷地関係史料』二,、「総蝦夷地御要害之儀ニ付心得候趣申上候書付」『近藤正齋全集』第一、「蝦夷商賈聞書」『
松前
町史』史料編第三巻,、『
松前
随商録』(函図)、『西蝦夷地場所地名産物方程控』(函図)、『西蝦夷地分間』(東大史)、松浦武四郎,」『
松前
町史』史料編第一巻、田端宏「石狩場所の歴史ノート」(上)・(下)『札幌の歴史』第一四・一五号。
新札幌市史 第1巻 通史1
(【主要参考文献・史料】)
河野広道「墓標の型式より見たるアイヌの諸系統」『蝦夷往来』第四号、『津軽一統志』巻十(青森県叢書)、「
松前
蝦夷記,」『
松前
町史』史料編第一巻、「蝦夷蜂起」『日本庶民生活史料集成』巻四、「寛文拾年狄蜂起集書」『日本庶民生活史料集成,』巻四、『
松前
蝦夷蜂起』(菊地日出海蔵版)、「
松前
主水広時日記」『新北海道史』第七巻、『新撰北海道史』
新札幌市史 第1巻 通史1
(ハウカセの行動)
乍去近辺の夷仲間よりつくなひ出申候事に候はは、惣なみの事に候間、つくなひ出し申候共、与市、古平辺え罷出
松前
家来,我等共はつくなひ出可申候と、
松前
え返事仕候…… 一 おしょろの澗にて与市の大将共申候は、去年二月、
松前
殿,以来は商船舟差越申間敷由被仰越候へは、ハフカセ申分は、
松前
殿は
松前
の殿、我等は石狩の大将に候得は、
松前
殿,又は
松前
殿も此方え構申義も成間敷候。商船此方え御越可被成も被成間敷にも別て構無御座候。
新札幌市史 第1巻 通史1
(十三場所の変遷と請負人)
ツポロ ハツサフ シツカリ 小林安右衛門 目谷才右衛門 高橋嘉右衛門 南条安右衛門 酒井作之右衛門
松前
,下サツホロ ハツシヤフ 下ツイシカリ 小林丈三郎 目谷才右衛門 高橋平蔵 南条安右衛門 酒井周蔵
松前
,下国岡左衛門
松前
銕五郎 土谷兵太 佐藤彦太夫
松前
納戸 天満屋三四郎 大和屋弥兵衛 熊野屋新左衛門,5 ツイシカリ シママフ 下ユウハリ 上ユウハリ 上カワタ トエヒラ トクヒラ カムイコウタン
松前
貢,それに、カムイコウタンをあげている史料は、『
松前
随商録』、『
松前
志』、『北藩風土記』の三種で、その前後
新札幌市史 第8巻2 年表・索引編
(出典一覧(明治以前))
福山秘府(『新撰北海道史』史料1所収) 2 新羅之記録(『新北海道史』史料1所収) 3
松前
年々記,(『
松前
町史』史料編1所収) 4 耶蘇会士日本通信(村上直次郎訳・渡辺世祐註『異国叢書』所収),(
松前
広長 道文蔵) 47
松前
家記(『
松前
町史』史料編1所収) 48
松前
旧事記(北大蔵,(『
松前
町史』史料編2所収) 111 水戸藩史料(北大蔵) 112 伊達家文書「日記」(『
松前
町史,」(岐阜県下呂町教育委員会蔵) 249
松前
志(
松前
広長著・大友喜作編『北門叢書』2所収) 250
新札幌市史 第1巻 通史1
(【主要参考文献・史料】)
【主要参考文献・史料】 『新北海道史』第二巻、『
松前
町史』通説一、『石狩町誌』、海保嶺夫『中世の蝦夷地,地北寓談」『北門叢書』、『新羅之記録』『津軽一統志巻十』『蝦夷地一件』(以上、『新北海道史』第七巻)、「
松前
蝦夷記,」『
松前
町史』史料編一
新札幌市史 第1巻 通史1
(直轄の実態)
直轄の実態 文化四年(一八〇七)、
松前
および西蝦夷地も直轄となり、これで
松前
、蝦夷地の全域が直轄となった,
松前
藩は、新規九〇〇〇石の土地へ移封となり、同年七月二十七日、移封地を陸奥国伊達郡ほかと定めた。 ,戸川、羽太らは箱館より福山へ移り、奉行所も同年福山に移され、幕府はあらたに河尻春之、村垣定行の二人を
松前
奉行,に任じ、戸川、羽太の二人の役名も
松前
奉行と唱えるよう達した。 ,文化四年、
松前
、西蝦夷地もその管轄に入ると、その地の収入を加えても、さしあたって多額の経費が必要なので
新札幌市史 第1巻 通史1
(弘前藩の関心)
彼らは「マシケ、石カリと申場処まで度々罷越、是辺の所は大略案内」(堀織部殿村垣与三郎殿
松前
蝦夷地え下向一件,出稼漁民をはじめ、多数の弘前領民の往来を受ける側の
松前
藩は、どう対応したであろうか。,こうした
松前
藩の重要事項は重臣連名で弘前藩家老へ知らせることにしていた。,それでは同じ年、弘前藩は
松前
蝦夷地とどのようなかかわりを持ったであろうか。,この対応は、
松前
藩の一番隊がソウヤに到着するのとさしてかわらぬすばやさであった。
新札幌市史 第1巻 通史1
(イシカリ「場所」と鮭)
このように鮭は、早くから蝦夷地の産物として昆布・鰊とならんで重要品目に入れられ、しかもその多くが
松前
地,なかでもイシカリの鮭はよく知られていたらしく、享保二年(一七一七)の『
松前
蝦夷記』にも、「鮭 蝦夷地之内,これに対し、海辺で捕獲した鮭は、「従
松前
塩を遣し置、塩引ニいたし又其時節
松前
より塩舟積ニて罷越」(以上,、
松前
蝦夷記)し、塩引加工された。 ,家臣へ給与されていたし、一方の「生鮭」は、藩主の利権として位置づけられていたが、塩引加工などにされて、
松前
新札幌市史 第1巻 通史1
(沖の口体制)
松前
藩の抵抗で全蝦夷地の荷物改めを断念した箱館奉行は、安政三年二月「東地の分、都て箱館にて諸事取扱、西地,の分は、伊豆守領分のもの不残請負仕居候間、其儘居置、
松前
表にて取捌為仕」(幕末外国関係文書 一三)ることにした,イシカリをはじめ西蝦夷地の荷物は
松前
藩が船改めをして口銭を徴収、
松前
藩の収入とすると定め、東西二分の形,イシカリの荷物を扱う
松前
藩の沖の口体制は、場所請負人をはじめ問屋、小宿など福山城下の有力町人によって支,廃止し、イシカリの生産力をいかに増大しようとも、従来の流通手段をそのまま温存するならば、増益の多くは
松前
藩
新札幌市史 第1巻 通史1
(徳川家康の黒印状)
徳川家康の黒印状 慶広は秀吉の死亡した翌年の慶長四年(一五九九)十一月七日、時に氏を
松前
と改め、大坂,写真-1 徳川家康の黒印状(北海道史 第一) 定 一 自諸国
松前
へ出入之者共、志摩守不相断而,慶長九年正月廿七日 黒印
松前
志摩守とのへ(北海道史 第一) これは秀吉の朱印状,における船役徴収権を前提としながら、さらに和人のアイヌとの直売買を禁じている点、
松前
藩の商場知行制の進
新札幌市史 第1巻 通史1
(知行所の宛行)
寛文のアイヌ蜂起の功による藩士への蝦夷地知行の宛行は不明だが、『
松前
主水広時日記』(以下『広時日記』と,写真-1
松前
主水広時日記(横浜市
松前
之広氏蔵) イシカリ川の河口は藩主の主要なアイヌとの交易場であり,元禄十三年(一七〇〇)の『
松前
藩支配所持幷家中扶持人名前帳』(以下『支配所持名前帳』と略記)によるイシカリ,手汐石猟(イシカリ)ノ伊別満多北村目名川白府村喜古内村同川鳥屋五拾九ケ所
松前
藤兵衛 辰四十三歳,写真-2
松前
藩支配所持幷家中扶持人名前帳(東京大学史料編纂所蔵) この支配所持八人のうちにも高橋
新札幌市史 第1巻 通史1
(民族的蜂起)
市左衛門、最上の助之丞らの鷹待がおり、彼等の画策もあって、シャクシャインはオニビシ派の動揺を利用し、
松前
,)にいる金掘をも殺し、彼らの持っている米、塩、味噌などを取って兵粮とし、東西のアイヌが幾万と限りなく
松前
,一 当度、
松前
より下口へ参り候。,舟々
松前
の鷹船一艘シコツト申所にて打殺申候由、当六月廿二日
松前
へ申来候。,、東蝦夷地では一五三人のうち、他国者一一六人、
松前
者三七人とある。
新札幌市史 第1巻 通史1
(商品流通にのった鮭)
商品流通にのった鮭
松前
藩は、明和・安永年間にかけて、藩財政が逼迫し、場所請負人等商人層から莫大な融資,江戸の商人小林屋宗九郎の場合のように、
松前
藩を相手取りしばしば公訴に持ち込むことも多かった。 ,これが、天明五年段階になると、イシカリから
松前
・本州方面へ移出された鮭は、船二〇艘分であった。,表に示したとおり、二〇艘のうち九艘は江戸の商人小林屋宗九郎が、残り一一艘は、
松前
・両浜商人の船であった,ちなみに、天明六年頃の
松前
蝦夷地全体の塩引鮭の見積高は、表8のとおりであった。
新札幌市史 第1巻 通史1
(調査の概要)
それは、遠山の
松前
藩との応答を綴った『北巡録』に詳しい。,たとえば、十一月二十三日には、
松前
藩士高橋又右衛門に次のような内容の質問をしている。 ,①
松前
、江差番所箇所のこと。 ②西地のうち勤番所の箇所、勤番人数、武器人員。,、アイヌへの対応、異国船の取扱等に関する
松前
藩側の態度ではなかったろうか。 ,石狩 [海路六七町引込候間、勤番所有之、
松前
若狭守家来上役壱人下役両人相詰候。
新札幌市史 第1巻 通史1
(『北海随筆』)
坂倉源次郎は、元文元年(一七三六)幕府に
松前
蝦夷地の絵図を呈上して、
松前
家領分でない蝦夷地内から金を産出,やがて、同二年から三年にかけて実際に
松前
蝦夷地入りし、金銀山の採掘調査に着手するが結果的には見込みははずれ,しかし、同四年に記した『北海随筆』には、
松前
の風俗・習慣、産物、地理、アイヌの風俗・習慣や蝦夷地開拓論
新札幌市史 第1巻 通史1
(北地調査の必要)
可有御座哉」(幕末外国関係文書 三)を老中に伺い出、大目付格西丸留守居筒井政憲、勘定奉行川路聖謨と荒尾が
松前
蝦夷地調査方針,がその責任者の人選をすすめ、勘定方水野正太夫、徒目付河津三郎太郎、平山謙二郎、小人目付吉岡元平等は、
松前
藩,がどのように蝦夷地や千島カラフトに対処してきたかの取りまとめにあたり、
松前
藩に照会した。,村垣は早速勘定吟味方改役青山金左衛門、吟味方下役長谷川就作を推して
松前
蝦夷地御用取扱に任じ、上司である,阿部老中は速やかな発足を指示し、二月八日両者に「
松前
幷蝦夷地え為御用被差遣候条、用意可致旨」(公務日記
新札幌市史 第1巻 通史1
(起請文の事)
起請文の事 ハウカセはこのように
松前
藩の交易中止にも屈しない強気な言をはいている一方で、「我々先祖は,
松前
殿御仕形は、唯今の様子に御座候はゞ、隠忍候ても高岡え参、能米と商仕たく」(津軽一統志)といい、リシリ,へは、我々共迷惑仕候事」(津軽一統志)ゆえ、話し合いで首尾よく行くようにとヨイチまで来たといい、また
松前
藩,としても、「
松前
当年舟数渡河不仕候事は去年(寛文九年)当年両年の内上下狄地より商物一切不参候に付て、舟乗下,かくて
松前
藩は寛文十年、
松前
左衛門広諶らを西蝦夷地に派し、広諶らがヨイチに進むと、西夷五八人が「つくなひ
新札幌市史 第1巻 通史1
(イシカリほか二場所借用運動)
天保十四年(一八四三)の水戸藩から
松前
藩への西蝦夷地の場所借用運動は、このような気運に乗じておこった。,鈴木兵七は、文政三年(一八二〇)から天保六年まで
松前
で海産物を商っていたが、今度場所請負人となって魚肥,した原十左衛門は、まず
松前
藩士山田三川(三郎)に会っている。,山田三川は、伊勢国出身の儒者で、たまたま花亭岡本忠次郎の推挙により
松前
藩士になった人物である。,その経過については、『天保十四年
松前
御用留』に詳しい。
新札幌市史 第1巻 通史1
(紛争の経緯)
「軍仕候得ば島中の夷騒動、其上商買物も調兼、
松前
商船勝手も悪敷」(蝦夷蜂起)なる上、寛永十年(一六三三,)よりシベチャリ川流域で砂金採掘を行っている
松前
藩はその打撃も大きいことから、佐藤権左衛門、下国内記を,これで紛争は治まったかに見えたが、これは
松前
藩からの強制的なもので、根本的解決にはならなかった。,(らち)があかず、オニビシ側はシャクシャインの所へ押し寄せるに至ったことで、金掘の文四郎が仲に入り、
松前
,のアイヌ首長であったことから、ハロウが
松前
へ行き、飯米、武道具の借用を申し出たところ、
松前
藩は、仲間同志
新札幌市史 第1巻 通史1
(東北からの目)
上陸の報が
松前
藩庁に届いたのが九月十六日、それから一カ月もたたぬ十月十一日に「此節
松前
カラフトへ上陸、,陣を張候処、
松前
より相詰候役人逃去候由に付、
松前
より二番立迄討手罷越候由」(万日記)と第一報を書き、すぐにも,青森の迴船問屋滝屋の日記嘉永六年十月二十九日の条に、
松前
藩主はカラフトへ向かう藩士に直々「出陣致候ても,によると、安政元年三月十五日から四月十一日までの収集情報として、「諸家より探索のもの数十人入込居候」(
松前
箱館雑記
新札幌市史 第1巻 通史1
(鳥屋場知行)
鳥屋場知行 鷹は幕府への献上物でもあり、諸大名からの需要が多く、
松前
、蝦夷地はその産地であり、他国藩,『
松前
蝦夷記』には鳥屋数は三九〇カ所とあるが、すべての鷹場所で毎年鷹狩をするわけでないとされ、なお家中,とにかく鷹は藩の財源の一つで、『津軽一統志』に、 一
松前
蔵分所務の事、御手船八、九艘の徳分一、,
松前
藩は毎年鷹船を蝦夷地に派したが、鷹匠、鷹待の蝦夷地への進出はアイヌの生活ならびに狩猟の場を侵し、さらに
新札幌市史 第1巻 通史1
(寛文期の史料から)
蜂起事件とは、第三章で触れたごとく、
松前
藩の商場知行制の確立にともない、和人の不正交易に対するアイヌの,
松前
藩との戦いにまで発展した事件である。,ここまでは
松前
の船がのぼってきて、方々からアイヌも交易のために集まってくる。,、寛文のアイヌ蜂起事件当時の
松前
藩とアイヌ社会との関係をつぶさに伝えてくれる。 ,写真-1
松前
之図-部分-(津軽一統志 巻第十 東京国立博物館蔵)
新札幌市史 第1巻 通史1
(現地調査団の構成)
また
松前
渡海後は
松前
藩士が両グループにそれぞれ付添うことになる。 ,松浦武四郎をこれに加えようとしたが
松前
藩などの反対で実現しなかった。 ,安政元年一月、賄頭から勘定吟味役に昇進するが、それ以前
松前
藩情を内偵するため渡道したことがある。,その家士として用人、給人、近習、徒士等一〇人が供をし、他の幕吏の従者や
松前
藩の付添いを加えると一四〇人,青森で一行の宿を分担した滝屋の『家内年表』には「同勢三百人計」とあるから、
松前
からの付添いをのぞいても
新札幌市史 第1巻 通史1
(十三場所と夏商)
左藤加茂左衛門 土屋 重右衛門 一 いへちまた
松前
, 内記 一 ゆふばり
松前
主水 蠣崎 時右衛門,一 嶋まつふ 下国 金左衛門 (
松前
西東在郷幷蝦夷地所附 享保十二年),のつづきには、イシカリ川の「下川」より「はうかせ在所迄二日程」の距離があり、「御船商仕候節先年はてう間哥」まで
松前
,一 、石狩大川也、秋生鮭沢山(中略)同所夏干物積船参ル、夏場所志摩守様○(御家老)
松前
内記殿○(同)
松前
平次右衛門殿
新札幌市史 第1巻 通史1
(準備された手引書)
幕府は
松前
藩に嘉永六年十二月、地図とともに「蝦夷地惣体当時の模様、且旧記をも取調、委細可被申聞」(秘書,しかし、当時の最新データは、一行が
松前
に到着してから藩との交渉の中で得たと思われる。,「公辺御役人御廻島ニ付、
松前
蝦夷地共、大絵図幷小名里数委細取調」(
松前
箱館雑記 一)べ、運上金、出産物,一 『江戸御役人
松前
蝦夷地海岸御巡見控写』 役人名前一覧にはじまり、福山城下からソウヤを経て箱館までの
新札幌市史 第1巻 通史1
(【主要参考文献・史料】)
【主要参考文献・史料】 『
松前
御所置御主法替一件書物』(阿部家文書 東京都阿部正道氏蔵)、田端宏「幕府,、『蝦夷地勤番之者心得向』(道文)、松浦武四郎「再航蝦夷日誌」『三航蝦夷日誌』下巻(吉田武三編)、『
松前
箱館雑記三,」『日本庶民生活史料集成』第四巻、白石重隆『蝦夷情実』(函図)、徳川斉昭『北方未来考』、『天保十四年
松前
御用留
新札幌市史 第1巻 通史1
(調査の目的と行程)
次に
松前
蝦夷地の現況を惣体検分すること。,調査団が
松前
藩や場所請負人から提出させた調書からすると、検分はアイヌ、漁業、勤番(
松前
藩の警衛体制)の,これらを「微細に取調居候趣……右様に取調、公辺御役人え差出候哉と、家中の内にも密に話合候もの御座候」(
松前
箱館雑記, 一)と、
松前
藩にとってただならぬ雲行きを感じさせていた。,また郡司宰助、山本悌三郎は四月十六日
松前
に着くとすぐエトロフ島調査に向かいカラフトには行かなかったし、
新札幌市史 第1巻 通史1
(藩財政の窮乏)
藩財政の窮乏 『
松前
年々記』享保五年(一七二〇)の記事に、「此以前ハ一ケ年ニ鷹払代金三千両前後程宛御座候処,、近年御存之通鷹一円時花(ハヤリ)不申、金山透ト絶」とあるように、鷹も金山も
松前
藩の財源でなくなり、しかも,享保二年(一七一七)の幕府巡見使の編になる『
松前
蝦夷記』には、 一 蝦夷地エ志摩守手船年々商ニ差遣候場所幷船数
新札幌市史 第2巻 通史2
(札幌貯蓄銀行)
こり、そのため北海道庁では業務の振わない小銀行の合併・整理の必要を認め、札幌貯蓄銀行と江差貯蓄銀行及び
松前
銀行,を合して資本金一九万円(内払込額一〇万二五〇〇円)の北海道貯蓄銀行を設立し、本店を札幌に置き、旭川、
松前
新札幌市史 第1巻 通史1
(紛争後のイシカリの首長)
一三人とあるが、それはイシカリ場所の各首長なのだろうか、享保二年(一七一七)の幕府巡見使編さんにかかる『
松前
蝦夷記,一 蝦夷地之内重立たる者 一 西蝦夷地ノ方 石狩ト云所ニまたべと申者頭人之よし、石狩え従
松前
百八十里,イシカリの「またべ」もこの時期、これに比される頭人と見られていたわけであるが、
松前
藩士の商場知行地が蝦夷地,寛文の紛争を契機にアイヌに対する
松前
藩の政治支配が強化され、各首長は藩主にそれぞれ御目見得に出ているが,、『
松前
主水広時日記』の元禄五年(一六九二)五月九日の条に すつゝ おたすつ 石狩の夷御目見に罷登。
新札幌市史 第1巻 通史1
(熊野屋菊池忠右衛門)
翌三年、家老
松前
広長は、イシカリの鮭切囲一〇カ年拝領願に対し、とりあえず三カ年の許可を与えた(旧記抄録
松前
町史,ここでいう切囲とは、『
松前
産物大概鑑』によれば、秋味漁期に、網引場で直接船で買い上げて塩漬けにする塩引
新札幌市史 第1巻 通史1
(御手船の商場)
』には、〝寛永十二年(一六三五)に全道踏査によって作図された北海道絵図の写を、正保元年(一六四四)に
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藩,ただ、イシカリアイヌは早くから津軽まで出向いており、したがって
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へも出入のあったことは考えられる。,その後和人地と蝦夷地を区別し、アイヌが和人地に来ることを禁じてからは、
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藩の御手船が「いしかり」へ来
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(南部屋浅間嘉右衛門)
元使用人南部屋浅間嘉右衛門(安永八年、徒士格勘定下役に任じられてから浅間嘉右衛門と名乗ったという)は、安永八年、藩主
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道広,に取り入り、飛驒屋のソウヤ場所を奪うための工作をし、ついに同年
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藩よりイシカリ秋味支配を自分の手中に
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(小野寺篤謙の遊歴)
ペリー来航とロシア兵のカラフト上陸前だったから、秘密主義に徹していた
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藩も、彼らを受け入れたのだろう,二人の調査は
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領だけでなく、蝦夷地の一端に及んだ。,五月二十三日シマコマキの運上屋で、
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藩士らがイシカリ勤番をおえて帰郷する途中、船便の風にめぐまれず、,あわせて
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藩士が商人にたかり私腹を肥やす様子を目のあたりにする。 ,さらに、江差では岡羊(半か)右衛門からイシカリ川の話を聞き、藩医西川杏平からイシカリ川と千歳川が
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宗谷
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(調査の目的)
調査の目的 東蝦夷地が、享和二年(一八〇二)永久上知となり、
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藩は、西蝦夷地のみの経営および永久上知代価,東蝦夷地の直轄後も
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藩が、蝦夷地対応策として何ら適切な措置をとることができないでいるうちに、文化元年,文化二年四月二日、
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藩主章広は、ロシア船が突然蝦夷地近海に出没したことにより、シャリ・ソウヤ・カラフト
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(蜂起の起因)
さらに
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藩の商場知行制によって、アイヌの取引が知行主の商場内に限定され、しかも米など取引の数量を減らす,積年のアイヌの不満も重なり、また私欲による和人のアイヌへの煽動もあって、アイヌ間の紛争が、反和人、反
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藩
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(新漁場の割渡し)
浜中(8町)、ホリカモイ、ワッカオイ、上トウヤウシ、ハナンクル、ヒトヱ、ツイシカリ、他 孫兵衛
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,・荒谷 カムイコタン 浜中(24町)、ハナンクル 安政4年から(3年冬網) 五三郎
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アリホロ 浜中,浜中(15町)、トウベツフト、トヱビリ、タンネヤウシ、他 一部代人(平治、久五郎、伝吉他) 林治郎
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,浜中(12町)、ウツナイ 浜中を安政6年返上 吉五郎
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・吉岡 マクンベツ 安政6年返上 半兵衛,
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オタルナイ シビシビウシ、ハナンクル 代人(久五郎、源治、惣兵衛) 利右衛門
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マクンベツ
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(ロシアの南下)
それとともに、
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地と陸続きで広大な蝦夷地を開拓して、行きづまった幕藩経済を打開しようとする意見も出されるようになった,一方、
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藩がロシア人の渡来を知ったのはかなり早く、宝暦九年(一七五九)
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藩がアッケシでオムシャを行,天明三年(一七八三)、仙台藩医の工藤平助は、元
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藩勘定奉行の湊源左衛門等から、ロシア人南下の情報を得
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(【主要参考文献・史料】)
、大石直正他『中世奥羽の世界』、金田一京助『アイヌの研究』、遠藤巌「中世国家の東夷成敗権について」『
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藩,と
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』九号、「津軽一統志」巻第十『新北海道史』第七巻、『知里真志保著作集』、榎森進「ユーカラの歴史的背景
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(直轄と経営方針)
直轄の範囲は、最初ウラカワよりシレトコおよび東奥島々までとしたが、同年六月
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藩は、幕吏の
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領内往来繁雑,により困難なので、知内以東も直轄するよう内願、八月十二日知内以東の追直轄を認め、
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藩へは五〇〇〇石の,当時
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藩領である西蝦夷地には、まだ直接関係しなかったものの、文化四年の西蝦夷地直轄以後深く関わることになるので,
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藩が場所請負人の自由自在に任せておいたアイヌへの対応を、この時点できっちりとする必要が生じたからである
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(第三回訴願と収拾)
第三回訴願と収拾 そうこうしているうちに、文政四年(一八二一)
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藩に再び蝦夷地全島が返還になった。,そこで、惣乙名シリコノエは、三度目の訴願を今度は
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藩の支配の下ですることとなった。 ,サエラフニとの連名で、イシカリの支配人源右衛門と通詞平八の奥書を添えて、紛争事件の顛末を縷々書き綴った願書を
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藩,結局のところ、
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藩のイシカリ、ユウフツ詰合たちは、長期にわたる紛争事件をアイヌの慣習に任せて両者の協定事項,ユウフツ惣乙名オリコシマ、脇乙名マウケサン、惣小使クツケレノ、並小使トイカクシ、同シヤハシリの連名で、
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藩
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(請負方式の変化)
連年不猟勝ニテ、既去ル辰年之義は、御用聞共へ千五百両ニテ預ケ地ニ相成、猶巳、午、未と三ケ年は弐千五百両ニテ
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町人共請負,さらに、翌六年から三カ年は、
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町人たちに二五〇〇両で請負わせ、その後五カ年というから、同九年から同十三年,このため、
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奉行所の役人をイシカリに派遣して取り扱わせたところ、「夏場所之内五ケ所請負人取斗方不取締之義有之,このため、
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奉行では、その措置として入札・吟味を行わないままに、これを
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町人の有力者である阿部屋伝兵衛,2.文化6年は、『村鑑下組長』(
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藩と
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25号)によった。
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(和人地と蝦夷地)
和人地と蝦夷地
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藩の存立基盤は幕府より認められた蝦夷地の交易独占権であった。,アイヌの飯米買取船、追鯡船(にしんぶね)、鮑取船を厳しく取締り、アイヌとの交易を独占したわけである(
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福山諸掟
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