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札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

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新札幌市史 第1巻 通史1 (和人地と蝦夷地)

和人地と蝦夷地 松前藩の存立基盤は幕府より認められた蝦夷地の交易独占権であった。,そこで、まず慶広は藩の所在する和人地と交易する場所としての蝦夷地を明確にした。,したがってこの範囲を和人地とし、それ以北を蝦夷地とし、熊石以北の地を西蝦夷地または上蝦夷地、亀田から東,を東蝦夷地または下蝦夷地と称し、知床岬をもって、東西蝦夷地の分岐点とし、東・西地の境、亀田、熊石に番所,を厳しく取締り、アイヌとの交易を独占したわけである(松前福山諸掟)。 / 和人地と蝦夷地
新札幌市史 第1巻 通史1 (蝦夷地での活躍)

蝦夷地での活躍 早速蝦夷地の実検を試みようとしたが、蝦夷地への入地は松前藩の取締りが厳しく、そのため,この東蝦夷地の実検は、『初航蝦夷日誌』としてまとめられている。  ,第二回目の蝦夷地踏査は、翌弘化三年(一八四六)に、今度は松前藩カラフト詰として赴任する医師西川春庵の下僕,となって随行することとし、三月八日に松前を出立、西蝦夷地の海岸に沿ってソウヤに至り、渡海して北蝦夷地の,この西・北蝦夷地の踏査日誌が『再航蝦夷日誌』である。   / 蝦夷地での活躍
新札幌市史 第1巻 通史1 (蝦夷地開発の方策)

蝦夷地開発の方策 安政元年(一八五四)九月に箱館奉行の堀利熙と勘定吟味役兼松前蝦夷地御用掛の村垣範正,とが、連名で蝦夷地を上知すべき旨の上申書(松前並蝦夷地惣体見分仕候見込之趣大意申上候書付)を提出したが,、その中で幕府による蝦夷地経営の方法として次のように述べている。,の経営にあたっては、その経費は蝦夷地の収益で賄えるような自立の方策を定立し、経営が成功するまでに時日を,この在住制と平行して、蝦夷地開発を目的として採用された他の一つの方策があった。 / 蝦夷地開発の方策
新札幌市史 第1巻 通史1 (西蝦夷地見回りへ)

八月二日堀田正敦は、東西蝦夷地を二手に分けて見回る命を下し、近藤重蔵らは西蝦夷地の見回りを行うこととなった,箱館より途中松前、熊石、オタルナイ等を経てイシカリに到着したのは九月一日であった。  ,①西蝦夷地は、東蝦夷地に比較してよほど良いように見受けられ、和人が松前辺から漁事のために大勢出稼に入って,⑤イシカリは、蝦夷地第一の大河で、川上枝川東西惣蝦夷地へ連なって、川上にはアイヌも所々に住んでいて、河口,には運上屋が一三カ所あって、松前藩の勤番所もある。 / 西蝦夷地見回りへ
新札幌市史 第1巻 通史1 (松浦武四郎と蝦夷地)

松浦武四郎と蝦夷地 松前藩復領期に蝦夷地を探検した人物に松浦武四郎がいる。,弘化二年(一八四五)を皮切りに、翌三年と嘉永二年(一八四九)の三回にわたって東西蝦夷地のみならず、カラフト,松浦武四郎が、はじめてイシカリ場所を訪れたのは、弘化三年であったが、それより二年前、蝦夷地へ渡ろうとし,、津軽鰺ケ沢まできたが、旅人の詮議が厳重なため、松前地への渡海を引き受けてもらえず、やむなくこの年は断念,翌年、再度蝦夷地へ行くことに挑戦、鰺ケ沢でひとまず江差の商人斎藤佐八郎の持船に便宜を得ることができ、江差 / 松浦武四郎と蝦夷地
新札幌市史 第1巻 通史1 (蝦夷地用向勉勤)

蝦夷地用向勉勤 老中阿部伊勢守正弘は備後国福山城主(広島県)、一〇万石を領する譜代の名家である。,この間、蝦夷地の第二次直轄を実現し、新政策をすすめる中心的役割を果たし、蝦夷地用向勉勤につき賞賜をうけた,安政三年四月晦日、正弘は自ら護身用の短銃を手渡し、石川和介(主任)、寺地強平、山本橘次郎に蝦夷地調査を,今次の調査は、六月八日松前藩の福山着より始まり、十三日箱館到着、一週間滞在し二十一日箱館出発、太平洋岸,それからエトロフ島まで約一カ月かけて回り、八月十日東蝦夷地シベツに帰る。 / 蝦夷地用向勉勤
新札幌市史 第1巻 通史1 (寛政十年蝦夷地調査)

蝦夷地経営を積極的に押し進める契機を与えた。  ,一行は、東西蝦夷地二手に分かれて調査を行った。西蝦夷地調査隊は、三橋藤右衛門等上下二七人であった。,当所は西蝦夷地第一繁昌の地にて、諸国の船繫りあり。,しかし、一行はここで松前藩の吏員に奥地に入ることを妨害され、一日足留めされている。  ,結局幕府は、寛政十年の蝦夷地調査により、蝦夷地経営を松前藩に任せておくわけにいかないという結論にいたり / 寛政十年蝦夷地調査
新札幌市史 第1巻 通史1 (東蝦夷地の仮直轄)

東蝦夷地の仮直轄 アイヌが居住している場所を越えての漁業権が、アイヌ相互の慣習であれ認められている間,ところが、前述したような東蝦夷地の仮直轄となり、シママップ川から千歳川をもって幕府領の境界としたので、,イシカリ・ユウフツのアイヌの相互に所有していた入会漁業の場まで、かたや幕府領、かたや松前藩領と二つに線引 / 東蝦夷地の仮直轄
新札幌市史 第1巻 通史1 (武四郎の蝦夷地調査の主目的)

武四郎の蝦夷地調査の主目的 武四郎の蝦夷地全域にかかわる調査は六回におよぶとさきに述べたが、このうち,再航」、「三航」の調査行では、武四郎自身いまだ北辺の危機を憂える一介の志士の身分に過ぎなかったし、また松前藩,入地ができたのも、「初航」ではネモロ場所の請負人和賀屋白鳥宇右衛門の手代として、また「再航」は松前藩カラフト,安政三年の「廻浦」の調査は、本来西・北蝦夷地の請取のための蝦夷地行であったが、その指令を三月八日に受け,以上の文言を見てみると、松浦武四郎の蝦夷地調査行においては、その山川地理の取調べと共に、蝦夷地の新開道路 / 武四郎の蝦夷地調査の主目的
新札幌市史 第1巻 通史1 (蝦夷地見回りとイシカリ場所)

蝦夷地見回りとイシカリ場所 ロシア船による襲撃事件の一方、文化四年五月十八日、異国船(のちに米国船と,堀田正敦は、同年八月二日、ロシア船渡来につき蝦夷地見回りを東西に分かれて行うこととした。,この時西蝦夷地リシリ島辺までの見回りには、小普請方近藤重蔵、鷹野方山田忠兵衛、小人目付田草川伝次郎が命,4.田草川伝次郎『西蝦夷地日記』より作成。  ,一方、松前奉行も、幕吏を西蝦夷地の場合、ウスベツよりイワナイ間に調役以下一一人、フルウよりアツタの間調役並以下九人 / 蝦夷地見回りとイシカリ場所
新札幌市史 第1巻 通史1 (松前蝦夷御用取扱)

松前蝦夷御用取扱 近藤重蔵は、寛政九年に幕府に提出した蝦夷地取締についての建言が契機となり、翌年には,松前蝦夷御用取扱に任じられ、蝦夷地出張を命じられた。,以来文化四年(一八〇七)の西蝦夷地見回りにいたるまで、蝦夷地と江戸を往復すること一二回、また越年すること,寛政十年、幕府は連年異国船が蝦夷地に来舶するようになり、北辺の不安が高まってきたため、東西蝦夷地の調査,近藤重蔵が、西蝦夷地のことに関わるのは、文化元年十月六日付で「西蝦夷地上地処分方幷取締法」を建議したのにはじまる / 松前蝦夷御用取扱
新札幌市史 第1巻 通史1 (松前藩の反撃)

を無視してその資源を荒らし、収奪的交易を強めた松前藩に対する闘争に質的に転化し、発展したものであり、松前藩,シャクシャインは盛岡(南部)藩文書の『松前蝦夷蜂起』によれば、 近年松前殿役人仕置非道ニシテ貧リ多ク,所詮此島ニ人共(シャモ)ヲ置ハムツカシ松前殿(カモイトノ)ヲ始一々ニ討殺シ先祖以来ノ無念ヲ可散 と東西蝦夷地,寛文九年(一六六九)七月十三日、松前藩及び弘前藩から「蝦夷人蜂起」の注進をうけた幕府は、旗本で松前藩主,を率い、九月四日奥蝦夷地をめざし「夷を打殺し申候上は日本より島中え百姓被遣、田畑猟をも被仰付、兵庫家中土民迨御続 / 松前藩の反撃
新札幌市史 第1巻 通史1 (直轄の実態)

直轄の実態 文化四年(一八〇七)、松前および西蝦夷地も直轄となり、これで松前、蝦夷地の全域が直轄となった,一方幕府は、東蝦夷地の永久直轄を決定した享和二年(一八〇二)二月二十三日、蝦夷地経営として、蝦夷地取締御用掛,幕府の蝦夷地経営の財政はどうであったろう。,文化四年、松前、西蝦夷地もその管轄に入ると、その地の収入を加えても、さしあたって多額の経費が必要なので,しかも、西蝦夷地の直轄は、東蝦夷地のそれと異なり、場所の直捌も行わず、場所請負人も廃さずそのまま置くことにした
新札幌市史 第1巻 通史1 (【主要参考文献・史料】)

【主要参考文献・史料】 『蝦夷地御用見合書面類』(阿部家文書―東京都阿部正道氏蔵)、『村山家資料』(,道開)、田草川伝次郎『西蝦夷地日記』、「村鑑下組帳」『松前藩と松前』二五号、「北海道伊達家履歴」『新北海道史,』第九巻、「蝦夷地御用留」『近藤重蔵蝦夷地関係史料』二、「総蝦夷地御要害之儀ニ付心得候趣申上候書付」『,近藤正齋全集』第一、「蝦夷商賈聞書」『松前町史』史料編第三巻、『松前随商録』(函図)、『西蝦夷地場所地名産物方程控,』(函図)、『西蝦夷地分間』(東大史)、松浦武四郎『野帳巳第一番』(国立史料館)、小林真人「石狩場所について
新札幌市史 第1巻 通史1 (『北海随筆』)

『北海随筆』 蝦夷地内の商場が、場所請負人による場所請負制へと変化する頃、蝦夷地の金銀山開発を主唱した,坂倉源次郎は、元文元年(一七三六)幕府に松前蝦夷地の絵図を呈上して、松前家領分でない蝦夷地内から金を産出,やがて、同二年から三年にかけて実際に松前蝦夷地入りし、金銀山の採掘調査に着手するが結果的には見込みははずれ,しかし、同四年に記した『北海随筆』には、松前の風俗・習慣、産物、地理、アイヌの風俗・習慣や蝦夷地開拓論,このうち蝦夷地開拓論は、のちのちまで大きな影響を与えることとなる。
新札幌市史 第1巻 通史1 (ロシアの南下)

享保五年(一七二〇)には、蝦夷地に関する最初の地理書『蝦夷志』が新井白石によってあらわされ、いっそう蝦夷地,それとともに、松前地と陸続きで広大な蝦夷地を開拓して、行きづまった幕藩経済を打開しようとする意見も出されるようになった,蝦夷地の金銀山を調査してまとめた元文四年の『北海随筆』が、蝦夷地の実状・産物を紹介するのみならず、開拓意見,こうした蝦夷地開拓意見の一方で、北方からの外国人、すなわちロシア人の出現は、いっそう蝦夷地の問題を刺激,一方、松前藩がロシア人の渡来を知ったのはかなり早く、宝暦九年(一七五九)松前藩がアッケシでオムシャを行
新札幌市史 第1巻 通史1 (【主要参考文献・史料】)

【主要参考文献・史料】 「松前主水広時日記」『新北海道史』第七巻、『松前藩支配所持幷家中扶持人名前帳,』(滋賀大学経済学部史料館蔵)、「蝦夷商賈聞書」『松前町史』史料編第三巻、『松前西東在郷幷蝦夷地所附』,』通説編第一巻上、『熊野屋忠右衛門前々由来書』(函図)、『松前産物大概鑑』(道文)、『西蝦夷地場所地名産物方程控,』(函図)、『松前随商録』(函図)、『松前志』(国公文)、『北藩風土記』(函図)、『西蝦夷地分間』(東大史,)、「東西蝦夷地場所附」『武川家文書』、『村山家資料』(道開)
新札幌市史 第1巻 通史1 (復領の申渡し)

まで一応行き届いたので、松前家が蝦夷地における草創の家柄であり、かつ数百年来の所領でもあるので、特別の,蝦夷地の経営方針を変更していた。,運上金については、東蝦夷地では、一万八六〇〇両余(文化十年)が九八〇〇両余(文政五年)に、西蝦夷地では,このような幕府の「御主法替」を受けて、松前藩は、アイヌ「撫育」の問題と、いまひとつ蝦夷地からの収納の安定,蝦夷地全域の返還は、このような要因のもとに行われた。
新札幌市史 第1巻 通史1 (調査の目的)

調査の目的 東蝦夷地が、享和二年(一八〇二)永久上知となり、松前藩は、西蝦夷地のみの経営および永久上知代価,東蝦夷地の直轄後も松前藩が、蝦夷地対応策として何ら適切な措置をとることができないでいるうちに、文化元年,この時、レザノフの乗っていたクルーゼンシュテルン艦長の率いるナデジダ号は、測量しながら蝦夷地沿岸を航行,文化二年四月二日、松前藩主章広は、ロシア船が突然蝦夷地近海に出没したことにより、シャリ・ソウヤ・カラフト,この調査の目的は、西蝦夷地を収公するための事前調査であった。
新札幌市史 第1巻 通史1 (大内清右衛門の偵察)

寛政五年(一七九三)の水戸藩の医師木村謙次、武石民蔵の蝦夷地調査、同十年の幕吏近藤重蔵等の蝦夷地調査に,それに寛政八年、前年より福山に招かれて滞在し、前藩主松前道広の種々諮問に答えていた大原左金吾が、道広の,その意見の内容は、日本の北門を外冦から守るため、松前氏のような小藩に任せておかず、全地を幕府に収公して,そのおもな内容は、①松前家の一カ年の収納金高、②松前産物売捌方の幕府との相違、③諸国より福山、箱館、江差,調査が蝦夷地の産物や松前藩の財政事情に深く立ち入っていることが注目される。
新札幌市史 第1巻 通史1 (直轄と経営方針)

直轄の範囲は、最初ウラカワよりシレトコおよび東奥島々までとしたが、同年六月松前藩は、幕吏の松前領内往来繁雑,幕府は、同年二月十日、蝦夷地経営方針のうちアイヌへの対応策を打ち出した。,当時松前藩領である西蝦夷地には、まだ直接関係しなかったものの、文化四年の西蝦夷地直轄以後深く関わることになるので,このような蝦夷地経営の施策細目が、寛政十一年二月二十一日、松平、石川、羽太、大河内、三橋の蝦夷地取締御用,また、あらたな流通部門として江戸にも会所を設けて、幕府が経営にあたり、蝦夷地の産物の売払から蝦夷地の仕入物
新札幌市史 第1巻 通史1 (東北からの目)

西南諸藩とは異なる視点から、当然蝦夷地に目を向けなければならなかった。  ,にとって、北地の動きは直接自藩にかかわる関心事だったから、弘前藩は十月山田左四郎と早道の者を送り、西蝦夷地,から上田吉三郎、そして鶴岡藩(庄内)とかかわりをもつ旗本仁賀保家から三森穀之助、三森多吉等が、箱館や西蝦夷地,このあと東北諸藩は蝦夷地警衛を幕府から命じられ、内偵は公儀の指示にもとづく本格的調査活動に変わった。,なお、西蝦夷地への渡航基地として重要な役割をはたした弘前藩と仙台藩では事情が大きく異なるので、本項のうしろに
新札幌市史 第1巻 通史1 (弘前藩の関心)

安政元年堀・村垣一行が蝦夷地調査を行う際(第二章一節)、先発で弘前藩に着いた幕吏鈴木尚太郎は、蝦夷地の,彼らは「マシケ、石カリと申場処まで度々罷越、是辺の所は大略案内」(堀織部殿村垣与三郎殿松前蝦夷地え下向一件,それでは同じ年、弘前藩は松前蝦夷地とどのようなかかわりを持ったであろうか。,弘前藩による松前蝦夷地警衛(領内での備置も含め)は、幕府からの役務であったとはいえ、歴史的経緯から藩内,とはいえ、弘前藩は松前蝦夷地の警衛に備えることが自藩を固めることになるという認識のもと、多くの難関にいどまざるをえなかったのである
新札幌市史 第1巻 通史1 (北地調査の必要)

可有御座哉」(幕末外国関係文書 三)を老中に伺い出、大目付格西丸留守居筒井政憲、勘定奉行川路聖謨と荒尾が松前蝦夷地調査方針,がどのように蝦夷地や千島カラフトに対処してきたかの取りまとめにあたり、松前藩に照会した。,維新史料綱要 一)が稟奏され、安政元年(一八五四)一月十四日賄頭村垣範正は勘定吟味役に昇格、海防掛を兼ねて「松前蝦夷地,村垣は早速勘定吟味方改役青山金左衛門、吟味方下役長谷川就作を推して松前蝦夷地御用取扱に任じ、上司である,阿部老中は速やかな発足を指示し、二月八日両者に「松前幷蝦夷地え為御用被差遣候条、用意可致旨」(公務日記
新札幌市史 第1巻 通史1 (箱館開港と箱館奉行の設置)

幕府はこれに対処するために、翌七年一月には村垣範正・堀利熙を松前蝦夷地の御用掛となし交渉に当たらせ、つづいて,二月八日に蝦夷地調査のための出張を命じた。,両人は調査の結果を九月に復命したが、その中で、蝦夷地の警備・開発及びアイヌの「撫育」のためには、蝦夷地,を松前藩より上知し、幕府による第二次直轄を建議した。,し、外交折衝や蝦夷地経営に当たった。
新札幌市史 第1巻 通史1 (鳥屋場知行)

鳥屋場知行 鷹は幕府への献上物でもあり、諸大名からの需要が多く、松前、蝦夷地はその産地であり、他国藩,によれば寛文期の鳥屋場数は三〇〇余、そのうち一二〇~一三〇の鳥屋は藩主の所有で残りが家臣の給分とされ、蝦夷地,『松前蝦夷記』には鳥屋数は三九〇カ所とあるが、すべての鷹場所で毎年鷹狩をするわけでないとされ、なお家中,とにかく鷹は藩の財源の一つで、『津軽一統志』に、 一  松前蔵分所務の事、御手船八、九艘の徳分一、,松前藩は毎年鷹船を蝦夷地に派したが、鷹匠、鷹待の蝦夷地への進出はアイヌの生活ならびに狩猟の場を侵し、さらに
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリほか二場所借用運動)

イシカリほか二場所借用運動 『北方未来考』立稿後も斉昭は、蝦夷地領有嘆願運動をくりかえした。,かれらは、水戸藩領の那珂湊・大津・平潟などの港々に本拠を置き、太平洋沿岸から箱館、福山および蝦夷地方面,天保十四年(一八四三)の水戸藩から松前藩への西蝦夷地の場所借用運動は、このような気運に乗じておこった。,を申入れるなど、水戸藩の集めた蝦夷地に関する豊富な知識をもとに交渉を展開させていった。  ,たまたま天保年間の蝦夷地の運上金を記した『松前西東御運上金控』(茨城県那珂湊市郷土資料集 第壱集所収)
新札幌市史 第1巻 通史1 (藩財政の窮乏)

藩財政の窮乏 『松前年々記』享保五年(一七二〇)の記事に、「此以前ハ一ケ年ニ鷹払代金三千両前後程宛御座候処,藩主の蝦夷地への手船交易も思うにまかせなくなり、藩の財政も窮迫していった。  ,享保二年(一七一七)の幕府巡見使の編になる『松前蝦夷記』には、 一  蝦夷地エ志摩守手船年々商ニ差遣候場所幷船数,のつしやむ 右六ケ所 船数六艘 [三百五拾石積以前ハ八艘ツヽ差遣し候得共近年減之由] 近年減申候ハ蝦夷地,右之外之蝦夷地エハ家中商売舟又は諸国之商売極りたる船段段差遣し申候よし、積参候物末にしるし置、金銀銭之売買
新札幌市史 第1巻 通史1 (蝦夷紀行等)

一 『蝦夷紀行 全』と表紙にあり、本文書きはじめに「従東都奥州通三馬屋迄、従松前蝦夷地唐太嶋中韃靼境迄,三 『従松前西蝦夷地北蝦夷地唐太嶋東蝦夷地日記覚』 市立函館図書館所蔵、同館目録には『西蝦夷地東蝦夷地松前北蝦夷地唐太嶋日記覚,四 『奥州街道松前幷西蝦夷地唐太東蝦夷地見聞日誌写』 札幌市海保嶺夫氏所蔵、昭和四十四年北海道立図書館,の古文書解読講座テキストとして蝦夷地分が複製配布されたことがある。,五 『蝦夷目撃 完』と表紙にあり、本文書きはじめに「松前より蝦夷地え巡見役人幷地名里数宿々休泊附」という
新札幌市史 第1巻 通史1 (【主要参考文献・史料】)

【主要参考文献・史料】 『新北海道史』第二巻、『松前町史』通説一、『石狩町誌』、海保嶺夫『中世の蝦夷地,第四号、「福山秘府」『新撰北海道史』第五巻、「地北寓談」『北門叢書』、『新羅之記録』『津軽一統志巻十』『蝦夷地一件,』(以上、『新北海道史』第七巻)、「松前蝦夷記」『松前町史』史料編一
新札幌市史 第1巻 通史1 (構成と内容)

構成と内容 『蝦夷志料』は、これまでの蝦夷地関係文献をひろく収集し、地域・事項の部門別に分類したもので,地域部門は(一)松前、(二)箱館、(三)本蝦夷、(四)北蝦夷、(五)東蝦夷からなる。,(三)は東西蝦夷地、(四)はカラフト、(五)は千島列島及びカムチャツカ半島のことである。,前田夏蔭は、『蝦夷東西考証』(二巻)、『蝦夷地名考』(一巻)などの著書もあり、後者は蝦夷地の地名を漢字,夏蔭は蝦夷地に足をふみ入れることはなかったが、蝦夷地に関する知識は相当に深かった。
新札幌市史 第1巻 通史1 (民族的蜂起)

よりの酒や食物に毒を入れ、アイヌ共を皆殺しにする話をかねて聞いたとして、〝我々は何の罪もないのに、この頃蝦夷地,まず蝦夷地にいる鷹待、当地へ来る船の船頭、水夫らを殺し、その上国縫(くんぬい)(当時関所でもあり、利別川,へ攻め上るから、皆々我々に味方せよ〟と、西蝦夷地には「ちめんは」、東蝦夷地へは「うえんするし」を派して,にいた商船を襲い、つぎつぎに和人の水主、鷹待、金掘を殺戮し、東西蝦夷地で相果てた人数は『津軽一統志』(,では一二〇人のうち、他国者八二人、松前者三八人、東蝦夷地では一五三人のうち、他国者一一六人、松前者三七人
新札幌市史 第1巻 通史1 (海防論とイシカリ)

が異国接境の地であることから東蝦夷地が直轄となったことは前述した。,ところが、異国接境の地松前蝦夷地近海には、弘化元年(一八四四)以降毎年のように外国船が渡来した。,嘉永元年(一八四八)、武四郎は二度目の蝦夷地探検の二年後、「乍恐松前地幷津軽地え異国船渡来の義に付申上候,①外国船ともし戦争になった場合、蝦夷地警備の人員の食糧確保が必要である。,蝦夷地一円が開拓ということになれば、雑穀豊饒の地となるので、蝦夷地開拓を決心すれば国家にとってなによりであろう
新札幌市史 第1巻 通史1 (近藤重蔵)

近藤重蔵 文化四年(一八〇七)、前年来のロシア船によるカラフト・千島襲撃が直轄になったばかりの西蝦夷地,重蔵がはじめて蝦夷地のことに関わりを持ったのは、寛政九年(一七九七)二七歳の時、蝦夷地取締りについての,それが契機で翌十年、松前蝦夷御用取扱となり、以後十年にわたって蝦夷地のことと深い関わりを持つこととなる,関連するらしく、蝦夷地の情報にかなり通じていたようである。,寛政九年、建言と一緒にいまだ足を踏み入れたことのない蝦夷地の絵図、すなわち重蔵の言い方を借りれば、「蝦夷地仕法目論見絵図面
新札幌市史 第1巻 通史1 (御手船の商場)

御手船の商場 異国へつながりのあるアイヌが居住する、生産力豊かな奥地の商場は、藩主の御手船の商場で、西蝦夷地,はイシカリ、テシオ、ソウヤ、東蝦夷地はクスリ、アッケシ、キリタップ、ノッシャムなど、場所の開設年次については,テシオ場所は慶長年中、ソウヤ場所は貞享年中、アッケシ場所は寛永年中、キリタップ場所は元禄年中とある(蝦夷地一件,ただ、イシカリアイヌは早くから津軽まで出向いており、したがって松前へも出入のあったことは考えられる。,その後和人地と蝦夷地を区別し、アイヌが和人地に来ることを禁じてからは、松前藩の御手船が「いしかり」へ来
新札幌市史 第1巻 通史1 (準備された手引書)

幕府は松前藩に嘉永六年十二月、地図とともに「蝦夷地惣体当時の模様、且旧記をも取調、委細可被申聞」(秘書,「公辺御役人御廻島ニ付、松前蝦夷地共、大絵図幷小名里数委細取調」(松前箱館雑記 一)べ、運上金、出産物,一 『江戸御役人松前蝦夷地海岸御巡見控写』  役人名前一覧にはじまり、福山城下からソウヤを経て箱館までの,オタルナイ分はなく、西蝦夷地はアツタ、イシカリ、ハママシケ……の順に載っている。,按西掌記 安政寅卯』などを合冊した資料  これなども調査におもむく人たちに準備された道中手引、もしくは蝦夷地
新札幌市史 第8巻2 年表・索引編 (出典一覧(明治以前))

道文蔵)  28  蝦夷志(新井白石著・寺沢一ほか編『北方未公開古文書集成』1所収)  29  松前西東在郷并蝦夷地所附,)  49  蝦夷地一件(『新北海道史』史料1所収)  50  飛騨屋武川家文書「天明四年御収納取立目録,(道文蔵)  89  西蝦夷地日記(田草川伝次郎)  90  北夷談(松田伝十郎著・高倉新一郎編『,函館市中央図書館蔵) 122  蝦夷地御開拓諸書付諸伺書類(『新撰北海道史』史料1所収) 123  ,西蝦夷地網切騒動并建網冥加之覚(『松前町史』史料編2所収) 124  初航蝦夷日誌(松浦武四郎)
新札幌市史 第1巻 通史1 (知行と勤番)

知行と勤番 松前藩は再び蝦夷地全島を領有したが、藩政において職制や法制においては最初の領有時と変化はみられなかった,そして、蝦夷地各場所は場所請負人の入札によって、請負金額を定めてその収入を藩庫に納め、そのなかから知行,写真-1 蝦夷地勤番之者心得向(道立文書館蔵)  勤番人数は、文政四年当時蝦夷地全体で一六〇人がおり,このような松前藩士による勤番は、安政二年(一八五五)に幕府直轄となるまで継続され、安政二年のイシカリ勤番,として頭役酒井尉右衛門、徒士八百田綱右衛門、医師田中元栄、それに足軽七人が詰めていたことがわかっている(松前箱館雑記三
新札幌市史 第1巻 通史1 (開拓論・国防論)

、父平助は、「さあらば国を広くする工夫よろしかるべし」といい、どんなことかとの質問に、「それ蝦夷国は松前,を蝦夷地に派遣した。  ,天明五年三月、福山に到着した山口鉄五郎以下三二人の蝦夷地調査隊は、東西蝦夷地の二手に分かれ、松前藩からも,調査記録が、ロシアの蝦夷地の北辺への南下の事実を明らかにしたので、今度は国防的な見地に立った蝦夷地経営,大原左金吾は、寛政七年(一七九五)松前藩の招きに応じて福山に渡り、前藩主道広の諮問に応じた。
新札幌市史 第1巻 通史1 (徳川斉昭の内願)

徳川斉昭の内願 老中家臣にとどまらず、多くの藩が蝦夷地に関心をそそぎ始めた。,幕府は蝦夷地の警衛と開墾のため有力藩を参入させるかもしれないという噂が広まると、蝦夷地調査熱はとみに高,安政元年八月、斉昭は再び幕政に加わり、「松前蝦夷一円、何とぞ公辺へ御引上げ、……此方より開拓鎮撫いたし,また重ねて松前藩の移封と全島上地や北地開拓の即時実施を論じ、箱館奉行が考えた蝦夷地南方からの開拓に反対,このころをもって斉昭の蝦夷地警衛開拓建議はみられなくなり、もっぱら蝦夷地殖産に心を用いるようになっていった
新札幌市史 第1巻 通史1 (産物会所とのつながり)

まず江戸に会所をつくり、江戸に入る蝦夷地産物はすべてここで特定の商人により独占的に売買させ、上納金を幕府財源,安政四年八月には問屋小宿に「北蝦夷地の内御直捌御荷物は勿論、東西蝦夷地御請負人積送幷手船買請荷物共、不残御会所,において御取締に相成」(松前箱館雑記 一〇)ことを認めさせた。,その後、大坂、兵庫、堺、敦賀、京都に会所、出張会所、売捌所等が置かれ、蝦夷地産物の幕府による統制流通は,に深くかかわり、松前藩の経済基盤を崩しつつ、場所請負人、問屋小宿など在来の勢力と複雑な矛盾をからませて
新札幌市史 第1巻 通史1 (商場知行)

商場知行 松前藩の支配形態は他藩のような土地の支配権ではなく、原則として蝦夷地交易の独占権を持つことであった,したがって家臣の知行形態も他藩の上士に給与される知行地に代えて、藩主の一族ならびに上級家臣には、蝦夷地,での一定の地域でアイヌと交易する権利、その交易の場を商場(あきないば)と称したが、それと松前ならびに蝦夷地,蝦夷地での商場は、アイヌの集落のある共同体の生活の場である河川の漁猟場に設置され、慶長年次頃から漸次宛行,知行主は交易した夷の産物を松前で商人に売却して利潤を得るのであるが、寛文の蜂起の時に津軽藩士が蝦夷地を
新札幌市史 第1巻 通史1 (商品流通にのった鮭)

すなわち、蝦夷地と日本海沿岸地方を結ぶ北前船の発展、それと相まって蝦夷地産の塩引鮭の需要とが、イシカリ,しかも、これら新興商人の廻船は、他の廻船に比べ積荷量も多いことから、大量の蝦夷地の産物の輸送部門を引き,船頭長太郎 手船    1 大黒屋茂右衛門 天満屋三四郎 手船    1 大黒屋茂右衛門 浜屋久七 『西蝦夷地場所地名産物方程控,ちなみに、天明六年頃の松前蝦夷地全体の塩引鮭の見積高は、表8のとおりであった。,表-8 天明6年頃松前蝦夷地塩引鮭見積高 鮭漁場 石数 疋数 イシカリ川 30,000石 150万疋
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリの開発)

イシカリの開発 北蝦夷地(カラフト)におけるロシア南進の急迫化にともなって、幕府は現地北蝦夷地での直接的,な対応策と共に、蝦夷地の体制にも重大な関心を払わざるを得なかった。,箱館奉行も「蝦夷地ハ御国内之藩屛、殊ニ外国え接壤致し居候ニ付、万一之義有之候節、御国惣体之憂ニ相成候」,、イシカリは古くから西蝦夷地と東蝦夷地とを結ぶ重要な交通の起点であり、また石狩川河口域は鮭漁の有数な漁場,このような重要な位置を占めるイシカリは、松前藩の時代より引き続き、阿部屋村山伝二郎が場所請負人として差配
新札幌市史 第1巻 通史1 (調査の概要)

西蝦夷地巡見に出発したのは、翌三年三月十六日であるから、五カ月余の福山滞在中、巡見に先立って松前藩側から,これらの質問項目に、松前藩側はいちいち答えているが、幕府側がもっとも知りたかったのは、西蝦夷地内の場所経営,遠山景晋は、福山で西蝦夷地巡見の下準備をしながら、村垣定行の到着を待って、文化三年三月十六日松前を出発,し、西蝦夷地へ向かった(村垣は、三月二十三日に出発)。  ,『遠山村垣西蝦夷地日記』には、イシカリの状況を次のように記している。
新札幌市史 第1巻 通史1 (義勇の日記)

義勇は弘化四年に帰藩し、弘道館目付、藩主の外小姓、江戸屋敷大広間詰めを経て、安政三年(一八五六)九月に蝦夷地,義勇は九月四日に佐賀を出立し、さらに十二月七日に江戸から蝦夷地へと向かい、翌四年十二月八日に江戸に戻った,八月二十九日ヒロヲ~九月二十七日箱館  (四)「函嶴日記幷東洋記」 十月箱館~十二月八日江戸  (一)は蝦夷地調査,の命をうけ、九月四日に佐賀を立ち、十一月十九日に江戸に着き、十二月七日に蝦夷地へ向けて出発するまでの日記,(二)は江戸出発後の三戸(青森県)よりはじまり、箱館に三月六日に着いた後、福山(松前)・江差を巡覧し、
新札幌市史 第1巻 通史1 (擁護の地)

どうやら、この地図は、単なる空想ではなしに、蝦夷地警備を意識して作成されたことが知られる。,(前略)蝦夷地ニ至テハ海辺山野トモニ未タ不開。異邦ニ境スト雖トモ其備ナシ。,松前ヨリ武官ヲ差向、其備ヲナサント欲スニ国ノ米穀ナケレハ糧米ニ事ヲカキ、道路ナケレハ路次ニ支テ更ニ急速,石狩川鮭漁凡一万二千石目、此仕入代金凡六千両、蝦夷榀凡六千石目、此仕入代金凡四千両、何レモ運賃共積立合金五万両程是松前蝦夷地今之分量,以上が、近藤重蔵が寛政九年に幕府に提出した『蝦夷地絵図』に盛り込まれた概要である。
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリ「場所」と鮭)

このように鮭は、早くから蝦夷地の産物として昆布・鰊とならんで重要品目に入れられ、しかもその多くが松前地,よりも蝦夷地内で産した。,なかでもイシカリの鮭はよく知られていたらしく、享保二年(一七一七)の『松前蝦夷記』にも、「鮭 蝦夷地之内,これに対し、海辺で捕獲した鮭は、「従松前塩を遣し置、塩引ニいたし又其時節松前より塩舟積ニて罷越」(以上,、松前蝦夷記)し、塩引加工された。  
新札幌市史 第1巻 通史1 (沖の口体制)

松前藩の抵抗で全蝦夷地の荷物改めを断念した箱館奉行は、安政三年二月「東地の分、都て箱館にて諸事取扱、西地,の分は、伊豆守領分のもの不残請負仕居候間、其儘居置、松前表にて取捌為仕」(幕末外国関係文書 一三)ることにした,すなわち、東蝦夷地の荷物は箱館で船改めをして役銭を徴収し、箱館奉行所の歳入とする。,イシカリをはじめ西蝦夷地の荷物は松前藩が船改めをして口銭を徴収、松前藩の収入とすると定め、東西二分の形,イシカリの荷物を扱う松前藩の沖の口体制は、場所請負人をはじめ問屋、小宿など福山城下の有力町人によって支
新札幌市史 第2巻 通史2 (函泊事件)

それは箱館裁判所(府)権判事(開拓使となり権判官)として慶応四年六月北蝦夷地(樺太)に赴任していた岡本文平,(監輔)がこの日帰京し、去る明治二年六月二十四日ロシア軍艦が多くの人員を輸送して来て北蝦夷地函泊(ハコトマリ,この函泊は、松前藩が北蝦夷地に進出(十八世紀半ば)して以来の一根拠地であり、かつ箱館裁判所北蝦夷地詰の,したがってこのロシアの行為は、わが国の北蝦夷地経営の存立を脅かす重大事件であった。,ここに開拓使発足時の石狩を本拠とする蝦夷地開拓の「大綱」は、最早棚上げの状態となったのである。
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