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札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

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新札幌市史 第1巻 通史1 (松前藩の反撃)

松前藩の反撃 このシャクシャインの蜂起は、河川の漁猟圏を巡るアイヌの集団間の対立が、アイヌのもつ領域,を無視してその資源を荒らし、収奪的交易を強めた松前藩に対する闘争に質的に転化し、発展したものであり、松前藩,松前殿(カモイトノ)ヲ始一々ニ討殺シ先祖以来ノ無念ヲ可散 と東西蝦夷地にふれ廻したとあり、奥羽諸藩、松前藩,寛文九年(一六六九)七月十三日、松前藩及び弘前藩から「蝦夷人蜂起」の注進をうけた幕府は、旗本で松前藩主,努めさせると共に、藩主矩広には特に米三〇〇〇俵を貸し与え、弘前、盛岡など奥羽諸藩への軍役発動を行い、松前藩 / 松前藩の反撃
新札幌市史 第1巻 通史1 (山田家の難儀)

23 松前藩は西地船改、役銭取立方を伺い出る。 26 初度歎願書は認められず差しもどされる。,松前藩へ報告、松前藩は奉行所への請書提出を拒否。 山田家の願書を認める決定をし、申し渡す。,同上の決定を松前藩に口達、請書をもとめる。 6 松前藩は仮請書を奉行所に差し出す。,松前町人より松前藩へ正式な歎願書差し出す。 山田家と松前藩の請書を受け付ける。,8 松前藩は書き直しを命じ差しもどす。
新札幌市史 第1巻 通史1 (復領の申渡し)

復領の申渡し 文政四年(一八二一)十二月七日付で、松前藩は旧領に復帰することを許された。,幕府は、松前藩に領地を返還するにあたり、引継手続きのあと、松前藩とアイヌの両方にそれぞれ申渡しを行った,松前藩へは、幕府直轄中の施政方針を堅く守ってアイヌへの「撫育」をはかるとともに、辺防の備えを厳重にし、,一方、アイヌへは、文政五年五月松前奉行から松前藩への領地引継の際、松前奉行はアイヌの三役(乙名(おとな,また、同年五月二日付で松前藩からもアイヌに対し、まったく同様な申渡しがなされた。  
新札幌市史 第1巻 通史1 (沖の口体制)

松前藩の抵抗で全蝦夷地の荷物改めを断念した箱館奉行は、安政三年二月「東地の分、都て箱館にて諸事取扱、西地,イシカリをはじめ西蝦夷地の荷物は松前藩が船改めをして口銭を徴収、松前藩の収入とすると定め、東西二分の形,イシカリの荷物を扱う松前藩の沖の口体制は、場所請負人をはじめ問屋、小宿など福山城下の有力町人によって支,廃止し、イシカリの生産力をいかに増大しようとも、従来の流通手段をそのまま温存するならば、増益の多くは松前藩
新札幌市史 第1巻 通史1 (調査の目的)

調査の目的 東蝦夷地が、享和二年(一八〇二)永久上知となり、松前藩は、西蝦夷地のみの経営および永久上知代価,東蝦夷地の直轄後も松前藩が、蝦夷地対応策として何ら適切な措置をとることができないでいるうちに、文化元年,文化二年四月二日、松前藩主章広は、ロシア船が突然蝦夷地近海に出没したことにより、シャリ・ソウヤ・カラフト
新札幌市史 第1巻 通史1 (蜂起の起因)

さらに松前藩の商場知行制によって、アイヌの取引が知行主の商場内に限定され、しかも米など取引の数量を減らす,積年のアイヌの不満も重なり、また私欲による和人のアイヌへの煽動もあって、アイヌ間の紛争が、反和人、反松前藩
新札幌市史 第1巻 通史1 (第三回訴願と収拾)

第三回訴願と収拾 そうこうしているうちに、文政四年(一八二一)松前藩に再び蝦夷地全島が返還になった。,そこで、惣乙名シリコノエは、三度目の訴願を今度は松前藩の支配の下ですることとなった。  ,サエラフニとの連名で、イシカリの支配人源右衛門と通詞平八の奥書を添えて、紛争事件の顛末を縷々書き綴った願書を松前藩,結局のところ、松前藩のイシカリ、ユウフツ詰合たちは、長期にわたる紛争事件をアイヌの慣習に任せて両者の協定事項,ユウフツ惣乙名オリコシマ、脇乙名マウケサン、惣小使クツケレノ、並小使トイカクシ、同シヤハシリの連名で、松前藩
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリほか二場所借用運動)

天保十四年(一八四三)の水戸藩から松前藩への西蝦夷地の場所借用運動は、このような気運に乗じておこった。,海産物を商っていたが、今度場所請負人となって魚肥を取り扱い、水戸藩の国益を計りたいので場所借受けのことを松前藩,山田三川は、伊勢国出身の儒者で、たまたま花亭岡本忠次郎の推挙により松前藩士になった人物である。,松前藩側がイシカリ場所等について難色を示すと、原はそれに代わるユウフツ、オショロ、タカシマ三場所の借用,しかし松前藩では、評議の結果一応断りの返事を送って一件落着としたかったようである(山田三川 同書)。
新札幌市史 第1巻 通史1 (起請文の事)

起請文の事 ハウカセはこのように松前藩の交易中止にも屈しない強気な言をはいている一方で、「我々先祖は,へは、我々共迷惑仕候事」(津軽一統志)ゆえ、話し合いで首尾よく行くようにとヨイチまで来たといい、また松前藩,かくて松前藩は寛文十年、松前左衛門広諶らを西蝦夷地に派し、広諶らがヨイチに進むと、西夷五八人が「つくなひ,寛文十一亥年四月 日(蝦夷蜂起)  この誓詞によってアイヌは藩主に忠誠を誓うという完全に松前藩の被支配者,なお快風丸は夏商になる熊皮、干鮭、ラッコの皮、トドの皮を積んで来ているが、これらの品の交易先は松前藩のみであることを
新札幌市史 第1巻 通史1 (現地調査団の構成)

また松前渡海後は松前藩士が両グループにそれぞれ付添うことになる。  ,草履取りから徒目付や小人目付の各従者まで多様で、徒目付は一人に七人、小人目付は三人前後の供を従え、さらに松前藩,松浦武四郎をこれに加えようとしたが松前藩などの反対で実現しなかった。  ,安政元年一月、賄頭から勘定吟味役に昇進するが、それ以前松前藩情を内偵するため渡道したことがある。,その家士として用人、給人、近習、徒士等一〇人が供をし、他の幕吏の従者や松前藩の付添いを加えると一四〇人
新札幌市史 第1巻 通史1 (弘前藩の関心)

同じ東北にあっても、海を隔て松前藩と向かい合う弘前藩の地理的条件にともなう人の日常的往来に目を向けなければならない,出稼漁民をはじめ、多数の弘前領民の往来を受ける側の松前藩は、どう対応したであろうか。,この年松前藩主は参勤交代で江戸から福山へ下向の途中弘前藩領を通過し、宿や船をはじめ一切の世話を領民に頼,こうした松前藩の重要事項は重臣連名で弘前藩家老へ知らせることにしていた。,この対応は、松前藩の一番隊がソウヤに到着するのとさしてかわらぬすばやさであった。  
新札幌市史 第1巻 通史1 (調査の概要)

西蝦夷地巡見に出発したのは、翌三年三月十六日であるから、五カ月余の福山滞在中、巡見に先立って松前藩側から,それは、遠山の松前藩との応答を綴った『北巡録』に詳しい。,たとえば、十一月二十三日には、松前藩士高橋又右衛門に次のような内容の質問をしている。  ,これらの質問項目に、松前藩側はいちいち答えているが、幕府側がもっとも知りたかったのは、西蝦夷地内の場所経営,、アイヌへの対応、異国船の取扱等に関する松前藩側の態度ではなかったろうか。  
新札幌市史 第1巻 通史1 (直轄と経営方針)

直轄の範囲は、最初ウラカワよりシレトコおよび東奥島々までとしたが、同年六月松前藩は、幕吏の松前領内往来繁雑,により困難なので、知内以東も直轄するよう内願、八月十二日知内以東の追直轄を認め、松前藩へは五〇〇〇石の,当時松前藩領である西蝦夷地には、まだ直接関係しなかったものの、文化四年の西蝦夷地直轄以後深く関わることになるので,松前藩が場所請負人の自由自在に任せておいたアイヌへの対応を、この時点できっちりとする必要が生じたからである
新札幌市史 第1巻 通史1 (ロシアの南下)

一方、松前藩がロシア人の渡来を知ったのはかなり早く、宝暦九年(一七五九)松前藩がアッケシでオムシャを行,天明三年(一七八三)、仙台藩医の工藤平助は、元松前藩勘定奉行の湊源左衛門等から、ロシア人南下の情報を得
新札幌市史 第1巻 通史1 (御手船の商場)

』には、〝寛永十二年(一六三五)に全道踏査によって作図された北海道絵図の写を、正保元年(一六四四)に松前藩,その後和人地と蝦夷地を区別し、アイヌが和人地に来ることを禁じてからは、松前藩の御手船が「いしかり」へ来
新札幌市史 第1巻 通史1 (寛文期の史料から)

蜂起事件とは、第三章で触れたごとく、松前藩の商場知行制の確立にともない、和人の不正交易に対するアイヌの,不満が高まり、また松前藩のアイヌの分断政策により部族間の対立が激化し、以前から続いていた内戦状態がいよいよ,松前藩との戦いにまで発展した事件である。,チヨマカウタ、そしてイシカリ川水系の惣大将ハウカセの居住地といった具合に、寛文のアイヌ蜂起事件当時の松前藩,とはいえないが、アイヌ蜂起事件に関する「鬼ヒシ住所」や「シヤクシヤ犬住所」、あるいは和人側の商船の数、松前藩士
新札幌市史 第1巻 通史1 (箱館開港と箱館奉行の設置)

箱館開港にしたがい、幕府は松前藩より箱館の五、六里四方を上知し、六月三十日に箱館奉行を設置し、外国人や,文化年間のように幕府による直轄が必要なことを力説し、さらに、安政二年(一八五五)一月十三日に、蝦夷地を松前藩,この結果、幕府は二月二十二日に、松前藩に対し東部は木古内以北、西部は乙部村以北の上知を通告し、箱館奉行
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリの詰役)

イシカリの詰役 安政二年(一八五五)に蝦夷地の第二次直轄が実施されるに及び、箱館奉行では松前藩の在勤制度,立石元三郎は御持頭多賀兵庫助組同心で、広田八十五郎は松前藩士であった。,この時武四郎は、松前藩との引継に廻浦していた箱館奉行組頭の向山源太夫と同道しており、源太夫は八日も「御用引渡有
新札幌市史 第1巻 通史1 (調査の目的と行程)

調査団が松前藩や場所請負人から提出させた調書からすると、検分はアイヌ、漁業、勤番(松前藩の警衛体制)の,取調居候趣……右様に取調、公辺御役人え差出候哉と、家中の内にも密に話合候もの御座候」(松前箱館雑記 一)と、松前藩
新札幌市史 第1巻 通史1 (小野寺篤謙の遊歴)

ペリー来航とロシア兵のカラフト上陸前だったから、秘密主義に徹していた松前藩も、彼らを受け入れたのだろう,五月二十三日シマコマキの運上屋で、松前藩士らがイシカリ勤番をおえて帰郷する途中、船便の風にめぐまれず、,あわせて松前藩士が商人にたかり私腹を肥やす様子を目のあたりにする。  
新札幌市史 第1巻 通史1 (紛争の経緯)

松前商船勝手も悪敷」(蝦夷蜂起)なる上、寛永十年(一六三三)よりシベチャリ川流域で砂金採掘を行っている松前藩,これで紛争は治まったかに見えたが、これは松前藩からの強制的なもので、根本的解決にはならなかった。,ピポク(新冠)のハロウ、サッポロのチクナシがシャクシャイン側と攻防を続けたが勝てず、そこでオニビシが親松前藩,のアイヌ首長であったことから、ハロウが松前へ行き、飯米、武道具の借用を申し出たところ、松前藩は、仲間同志
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリの内国化)

もはや場所という、松前藩知行制に根ざす蝦夷地の経済単位は存在の意義を失い、かえって発展を阻害する遺制になった,イシカリ改革は、幕藩体制の綻びを繕い、さらに強化しようと目論見られたのであるが、一方では松前藩の経済的基盤
新札幌市史 第1巻 通史1 (東蝦夷地の仮直轄)

境界としたので、イシカリ・ユウフツのアイヌの相互に所有していた入会漁業の場まで、かたや幕府領、かたや松前藩領
新札幌市史 第1巻 通史1 (寛政十年蝦夷地調査)

しかし、一行はここで松前藩の吏員に奥地に入ることを妨害され、一日足留めされている。  ,結局幕府は、寛政十年の蝦夷地調査により、蝦夷地経営を松前藩に任せておくわけにいかないという結論にいたり
新札幌市史 第1巻 通史1 (直轄の実態)

松前藩は、新規九〇〇〇石の土地へ移封となり、同年七月二十七日、移封地を陸奥国伊達郡ほかと定めた。  ,寛政十一年(一七九九)、東蝦夷地仮直轄に際して、毎年の経費を五万両と定め、ほかに諸官吏手当など約一万両、松前藩代地五
新札幌市史 第1巻 通史1 (南部屋浅間嘉右衛門)

ったという)は、安永八年、藩主松前道広に取り入り、飛驒屋のソウヤ場所を奪うための工作をし、ついに同年松前藩
新札幌市史 第1巻 通史1 (北地調査の必要)

がその責任者の人選をすすめ、勘定方水野正太夫、徒目付河津三郎太郎、平山謙二郎、小人目付吉岡元平等は、松前藩,がどのように蝦夷地や千島カラフトに対処してきたかの取りまとめにあたり、松前藩に照会した。
新札幌市史 第1巻 通史1 (東北からの目)

上陸の報が松前藩庁に届いたのが九月十六日、それから一カ月もたたぬ十月十一日に「此節松前カラフトへ上陸、,青森の迴船問屋滝屋の日記嘉永六年十月二十九日の条に、松前藩主はカラフトへ向かう藩士に直々「出陣致候ても
新札幌市史 第1巻 通史1 (紛争後のイシカリの首長)

ちべかと申者頭人申付置候よし とあり、一〇年以前に亡くなっているが、東蝦夷地のしこつの頭人、「飛たけ」は松前藩,イシカリの「またべ」もこの時期、これに比される頭人と見られていたわけであるが、松前藩士の商場知行地が蝦夷地,寛文の紛争を契機にアイヌに対する松前藩の政治支配が強化され、各首長は藩主にそれぞれ御目見得に出ているが
新札幌市史 第1巻 通史1 (商品流通にのった鮭)

商品流通にのった鮭 松前藩は、明和・安永年間にかけて、藩財政が逼迫し、場所請負人等商人層から莫大な融資,江戸の商人小林屋宗九郎の場合のように、松前藩を相手取りしばしば公訴に持ち込むことも多かった。  ,天明元年(一七八一)、松前藩では、小林屋宗九郎の公訴をなんとか内済に持ち込むために、「石狩秋味惣船十五艘天明元丑年
新札幌市史 第1巻 通史1 (アイヌへの種痘)

イシカリには、また松前藩の勤番所と同様に医師がおかれていた。
新札幌市史 第1巻 通史1 (【主要参考文献・史料】)

、大石直正他『中世奥羽の世界』、金田一京助『アイヌの研究』、遠藤巌「中世国家の東夷成敗権について」『松前藩
新札幌市史 第1巻 通史1 (安政五年当時の方針)

しかし、これまで松前藩によって布教の道を閉ざされていた西本願寺が、直轄によって蝦夷地進出を願い出、その
新札幌市史 第1巻 通史1 (和人地と蝦夷地)

和人地と蝦夷地 松前藩の存立基盤は幕府より認められた蝦夷地の交易独占権であった。
新札幌市史 第1巻 通史1 (【主要参考文献・史料】)

阿部家文書―東京都阿部正道氏蔵)、『村山家資料』(道開)、田草川伝次郎『西蝦夷地日記』、「村鑑下組帳」『松前藩
新札幌市史 第1巻 通史1 (武四郎の蝦夷地調査の主目的)

再航」、「三航」の調査行では、武四郎自身いまだ北辺の危機を憂える一介の志士の身分に過ぎなかったし、また松前藩,入地ができたのも、「初航」ではネモロ場所の請負人和賀屋白鳥宇右衛門の手代として、また「再航」は松前藩カラフト
新札幌市史 第1巻 通史1 (十二場所論)

情報内容は対外関係が中心で、加えて一円上地にともなう松前藩の動き、警衛着手のための下調べが当面のテーマ,しかし、イシカリについての情報は松前藩士や町人を通して入手でき、藩へ漸次もたらされつつあったが、それが
新札幌市史 第1巻 通史1 (徳川家康の黒印状)

 これは秀吉の朱印状における船役徴収権を前提としながら、さらに和人のアイヌとの直売買を禁じている点、松前藩
新札幌市史 第1巻 通史1 (【主要参考文献・史料】)

【主要参考文献・史料】 「松前主水広時日記」『新北海道史』第七巻、『松前藩支配所持幷家中扶持人名前帳
新札幌市史 第1巻 通史1 (口絵)

阿部屋は、寛政11年(1799)松前藩直支配の手付けとしてイシカリ場所の秋味請負を任されたのを手始めに
新札幌市史 第1巻 通史1 (知行所の宛行)

元禄十三年(一七〇〇)の『松前藩支配所持幷家中扶持人名前帳』(以下『支配所持名前帳』と略記)によるイシカリ,写真-2 松前藩支配所持幷家中扶持人名前帳(東京大学史料編纂所蔵)  この支配所持八人のうちにも高橋
新札幌市史 第1巻 通史1 (藩財政の窮乏)

鷹払代金三千両前後程宛御座候処、近年御存之通鷹一円時花(ハヤリ)不申、金山透ト絶」とあるように、鷹も金山も松前藩
新札幌市史 第1巻 通史1 (知行と勤番)

知行と勤番 松前藩は再び蝦夷地全島を領有したが、藩政において職制や法制においては最初の領有時と変化はみられなかった,このような松前藩士による勤番は、安政二年(一八五五)に幕府直轄となるまで継続され、安政二年のイシカリ勤番
新札幌市史 第1巻 通史1 (蝦夷地での活躍)

蝦夷地での活躍 早速蝦夷地の実検を試みようとしたが、蝦夷地への入地は松前藩の取締りが厳しく、そのため,第二回目の蝦夷地踏査は、翌弘化三年(一八四六)に、今度は松前藩カラフト詰として赴任する医師西川春庵の下僕
新札幌市史 第1巻 通史1 (鳥屋場知行)

松前藩は毎年鷹船を蝦夷地に派したが、鷹匠、鷹待の蝦夷地への進出はアイヌの生活ならびに狩猟の場を侵し、さらに
新札幌市史 第1巻 通史1 (鳥屋場から商場知行へ)

なお『広時日記』の五月十日の項に「松平大蔵大輔様、鷹師当秋罷下候義申来る」とあり、松前藩では翌六月、鷹
新札幌市史 第1巻 通史1 (松浦武四郎と蝦夷地)

松浦武四郎と蝦夷地 松前藩復領期に蝦夷地を探検した人物に松浦武四郎がいる。
新札幌市史 第1巻 通史1 (北方領土問題とアイヌ)

契機として安政二年(一八五五)二月に、和人地とされた東部木古内村、西部乙部村の以南を除き、蝦夷地全域が松前藩
新札幌市史 第1巻 通史1 (阿部屋の台頭と没落)

一七八九)にクナシリ、メナシ地方でおこったアイヌの蜂起事件は、飛驒屋の請負っていた場所支配を取りあげ、松前藩,それに加えて、同二年、松前藩のカラフト調査が行われ、翌年には場所も開設され、阿部屋が「場所稼人」として
新札幌市史 第1巻 通史1 (調査の結論)

諸報文によるならば、①アイヌ文化に深い理解を示したこと、②松前藩の施策と商人の奸計を強く非難したこと、
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