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札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

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新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリ・サッポロと水戸藩)

イシカリ・サッポロと水戸藩 諸藩が一斉に蝦夷地調査を始める安政三年、斉昭は逆に内願はもとより警衛開拓,その結果、安政期にイシカリ・サッポロと水戸藩はどのように結びついていくのだろうか。  ,両者の交渉によって実現した第一は、水戸藩の考え方に同調する者を蝦夷地へ送り込むことだった。,他国者の喜三郎にさえ水戸藩の名目を許し、流通の拡大を目論んだのである。  ,表-2 安政期 イシカリ・サッポロと水戸藩のかかわり 事項 内容 参照個所 (1)人材を送る 水戸藩の / イシカリ・サッポロと水戸藩
新札幌市史 第1巻 通史1 (徳川斉昭の内願)

前時代にひきつづき御三家の水戸藩は特に強い関心を蝦夷地に注ぎ、こと北地を論ずる者の多くは水戸藩と何らかの,九代水戸藩主徳川斉昭は弘化元年(一八四四)幕府から藩主の退任と謹慎を命じられ、その座を一三歳の子に譲るが,、若年を理由に三大名が水戸藩政を後見することになった。,この異例ともいえる処分を受けた理由の一つは、斉昭が執拗に蝦夷地を水戸藩に与えるよう内願しつづけたためという,斉昭にいわせると水戸藩は奥州羽州の押(おさ)えとして、徳川家康から位置づけられ、蝦夷地が水戸藩の領地になることは
新札幌市史 第1巻 通史1 (勝右衛門のその後)

勝右衛門のその後 文久年間、こうした日本海ルートの積極ムードと対称的なのが、水戸藩の息がかかった勝右衛門,勝右衛門はイシカリの鮭漁経営の失敗から、鯡や昆布を含めた多角経営の必要を感じ、再び水戸藩を通して場所請負人,そこで、今度は千島のうちシコタン島とその属島を再開発するよう水戸藩にもちかける。,水戸藩としては、文久年間以降、農村疲弊回復のため鯡粕移入の必要をきたし、昆布の対外輸出にも関心を寄せたが,慶応元年箱館奉行所への願書には、肩書きに〝水戸大津浜〟の住人とあり、水戸藩への願書に〝石狩新場取開人〟
新札幌市史 第1巻 通史1 (安政の大獄)

阿部老中の死は、斉昭の幕政参与辞任をもたらし、日米通商条約の調印をすすめる堀田老中らと対立、尊王攘夷論者は水戸藩,井伊大老の登場は水戸藩と幕府の対立を決定づけたといえよう。,その後、水戸藩は反幕府運動の中心的存在となっていくから、幕府直轄地であり、しかも箱館奉行所の直捌地である,イシカリにおいて、水戸藩の息のかかった人々は活動しづらくなっていったであろうと思われる。,両者の死はもりあがりかけた水戸藩とイシカリ・サッポロのつながりを阻む結果となったであろう。
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリほか二場所借用運動)

かれらは、水戸藩領の那珂湊・大津・平潟などの港々に本拠を置き、太平洋沿岸から箱館、福山および蝦夷地方面,天保十四年(一八四三)の水戸藩から松前藩への西蝦夷地の場所借用運動は、このような気運に乗じておこった。,同年七月、水戸藩領大津浜(現茨城県北茨城市)の鈴木兵七は、蝦夷地のうちイシカリ場所ほか二場所の借用を水戸藩,以上が、天保十四年の水戸藩によるイシカリほか二場所借用運動である。,この借用運動の陰には、蝦夷地の産物を水戸藩領に回したいといった水戸藩領沿岸を中心とした海運業者、商人たち
新札幌市史 第1巻 通史1 (大津浜グループ)

藩域の最北端であったことは勿論だが、ごく狭い飛地で、藩の附家老(徳川譜代の家臣並に扱われ、水戸藩主に付,ただ、天保年間水戸藩と松前藩の場所貸借掛合の関係者とかかわりがありそうで、「勝右衛門がいかなる経歴の人物,飛脚勝右衛門を以て云々』とあるのによれば、おそらく五十嵐勝右衛門と同一人物と見るべく、鈴木平七および水戸藩,彼らの主張は水戸藩領に蝦夷地産の魚肥を移入し、農村の発展を促し藩の利益を高めることにある。,水戸藩は江戸邸が窓口になり、在府の箱館奉行やその下僚と折衝をつづけた。
新札幌市史 第1巻 通史1 (大内清右衛門の偵察)

大内清右衛門の偵察 水戸藩の蝦夷地への関心は、光圀の時代の快風丸のイシカリ探検にまで遡る。,、天明・寛政年間以降とくに蝦夷地の開拓論、国防論が識者の間で論議され、幕府の重要課題にのぼったのにも水戸藩,寛政五年(一七九三)の水戸藩の医師木村謙次、武石民蔵の蝦夷地調査、同十年の幕吏近藤重蔵等の蝦夷地調査に,大原左金吾が、道広の施策に失望して福山を去った後、帰途水戸に立ち寄って立原翠軒に国事を語ったように、水戸藩,水戸藩では、寛政以来蝦夷地の海産物交易に力を入れ、那珂湊には穀会所などを開設してきた。
新札幌市史 第1巻 通史1 (北島志の完成)

斉昭の期待を担い、それまで水戸藩が入手し得た大量の情報を使い、豊田亮らが中心になって編集したものである,にわかに蝦夷地の開拓と警衛が政治課題となった時、水戸藩の見識を為政者に問うことになったが、その中で、イシカリ,そうした水戸藩のイシカリ観はどのようにして生まれたのであろうか。,存候」(安政二年十月二十八日付豊田亮の書状に対する斉昭の返信)と前向きの姿勢を示しながらも、「此方(水戸藩,武四郎と水戸藩士の交流は嘉永元年ころすでにかなり深かったようであるから、彼の考えが北島志のイシカリ国府論
新札幌市史 第1巻 通史1 (快風丸の報告から)

快風丸の報告から 寛文のアイヌ蜂起事件からややしばらくたった元禄元年(一六八八)、水戸藩は快風丸という,①イシカリ川の広さは、水戸藩領の那珂川(なかがわ)より広く、深く思われる。,快風丸は、水戸藩が七〇〇〇両余をかけて建造した大船で、二度は大風に遭い失敗し、三度目にようやく松前蝦夷地,快風丸の持ち帰った蝦夷地に関する報告は、以後水戸藩の北方への関心の基礎になったと思われる。
新札幌市史 第1巻 通史1 (勝右衛門)

勝右衛門 大津浜グループの代表格としてイシカリに登場した勝右衛門は、姓を五十嵐といい、水戸藩内ではこれを,さかんに〝水戸大津浜〟の住人を自称し、箱館やイシカリで〝水戸〟を、水戸藩内では〝大津浜〟を強調することが,水戸藩士のイシカリ調査報告書には、勝右衛門を「身一つにて罷下り……所体道具迄(山形屋)八十八より出金相成
新札幌市史 第1巻 通史1 (勝右衛門の漁業)

水戸藩は大津浜グループに一〇〇〇両を貸与し経営を軌道にのせようとするが、この程度で新規の基礎は安定しえない,しかし生産量の低迷からぬけ出すことができず、万延元年勝右衛門は引責隠居を決意するが、水戸藩はこれを慰留,五年間の決算が「大金の損分に相成候に付、主君(水戸藩主のこと)えも申訳無之」(市史二九三頁)というのは
新札幌市史 第1巻 通史1 (【主要参考文献・史料】)

伊達家文書』、『観国録』(北大図・道立図)、佐波銀次郎『北遊随草』(佐波家)、『罕有日記』(函図)、『水戸藩史料
新札幌市史 第6巻 史料編1 (解題)

解題 水戸大津浜(現茨城県北茨城市)の五十嵐勝右衛門は蝦夷地の場所請負を画策し、水戸藩を通じ幕府と交渉,すなわち、うち十冊は勝右衛門と水戸藩の交渉経緯を伝える往復書簡や記録で、その多くは後日筆写編綴されたもの,前者は勝右衛門が石狩とかかわる経緯、漁場の経営、失敗のいきさつを、水戸藩関係者とかわした書簡や手控によってまとめている
新札幌市史 第1巻 通史1 (開発方御用取扱)

御用取扱となった彼は水戸藩の名声と威光をかりて蝦夷地産物の集荷をもくろみ、いち早く江戸の水戸藩邸をたずね,水戸藩の出金に味をしめたのだろうが、長岡藩は幕府に気がねして町人との個人的商談しか認めず、蝦夷地へ送ろうとした
新札幌市史 第1巻 通史1 (蝦中の要喉)

弘化元年(一八四四)水戸藩主徳川斉昭が謹慎を命じられると、石川は主君と斉昭や水戸藩改革派の間にたって、
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリ・サッポロの検分)

イシカリ・サッポロの検分 安政期に水戸藩がイシカリ・サッポロを領地としたり、藩の事業として直接開拓にあたることはなかったが,『水戸藩御規式帳』(万延元年)の御用部屋留附の項に「列、下勘」とあるから、列座、勘定方下役だったのだろう
新札幌市史 第1巻 通史1 (北方未来考)

しかし、この計画は当時の水戸藩がたとえ蝦夷地開拓を一任されたとしても、財政的裏付をまったく欠いた実行不可能,工藤平助の領土拡張論や、大原左金吾の屯田農兵論、そして近藤重蔵のイシカリ要害論等を基礎に据えながら、水戸藩
新札幌市史 第1巻 通史1 (佐賀藩の関心と島義勇)

その中で、水戸藩の勤王論者藤田東湖にあい、蝦夷地問題についてつよい関心をもつようになった。
新札幌市史 第1巻 通史1 (商人の秋味船)

ただ水戸藩の快風丸が元禄元年(一六八八)に準商船と認められることで、イシカリ川口に来た時のアイヌとの交換比
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリ「場所」と鮭)

の札幌市域を包括した地域が、きわめて鮭の豊富なところとして和人史料に登場してくるのは、前述したように水戸藩
新札幌市史 第1巻 通史1 (在住の任命)

このほか水戸藩では、安政二年十月に在住送り込みの意見があったが、実現はしなかった(第三章第二節)。
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリ御用達と問屋の出店)

水戸藩の威光と那珂湊豪商の支援を受けた勝右衛門にしても、仕込みの大半は福山城下の山形屋(西谷)八十八に
新札幌市史 第2巻 通史2 (開拓使の管轄地域)

二年八月十七日政府は水戸藩知事の徳川昭武に天塩国四郡・北見国一郡の管轄を許したのを始めとして、以降順次出願
新札幌市史 第1巻 通史1 (その用務)

勝右衛門は掌中におさめることになり、その面積は一万六四〇〇平方キロメートルにおよび、北海道の約二割、水戸藩
新札幌市史 第1巻 通史1 (老中尋書)

しかも在住制が実質的に実施される以前になぜ老中から提示されたのかは明らかではないが、古くは天保十四年に水戸藩
新札幌市史 第1巻 通史1 (直䑺)

この特例は改革前から東蝦夷地出産の鮭を江戸や水戸藩那珂湊等へ送る場合に認められ、安政二年奥州諸藩が蝦夷地警衛
新札幌市史 第1巻 通史1 (足軽肝付七之丞)

また、安政元年(一八五四)九月に、水戸藩主徳川斉昭に蝦夷地の開発につき種々の献言をしている(松前蝦夷地開拓意見
新札幌市史 第1巻 通史1 (那珂湊と廻船)

那珂湊と廻船 水戸藩の息のかかった浜名主や開発方御用取扱のイシカリ進出は、当然イシカリと水戸の結びつきを
新札幌市史 第1巻 通史1 (戸石永之丞の調査)

もっとも内偵活動も継続し、江戸を舞台に昌平校ゆかりの人、水戸藩関係者、藩黌養賢堂を訪ねる人などを通して
新札幌市史 第1巻 通史1 (漁法の工夫)

安政五年、イシカリに来て漁事を視察した水戸藩士生田目弥之介は、その改善の必要を感じ次のように藩へ報告している
新札幌市史 第1巻 通史1 (改革まで)

また、後述のように水戸藩大津浜の勝右衛門にイシカリ川上流漁場見立等を、越後国水原村の喜三郎に開発方御用取扱
新札幌市史 第1巻 通史1 (起請文の事)

紛争二〇年後になるが、元禄元年(一六八八)、商船扱いで、イシカリ川に来てアイヌの事情を探査した水戸藩の
新札幌市史 第6巻 史料編1 (件名目次)

件名目次 安政三辰年東行御用留〔抄〕   一四 勝右衛門より水戸藩勘定所青木中村宛、御用の見込につき,安政五年二月二八日)   一五 石狩川場所見立新道切開方請書(同年四月一三日)   一六 石狩川場所見立他、水戸藩,への書状(同年四月一九日)   午未申酉戌亥 水府御用状之写    一 鈴木帰国、内話につき水戸藩青木,(同年三月二五日)    三 仕込金差支隠居願の書状(同年三月二五日)    四 昆布鯡場につき水戸藩
新札幌市史 第1巻 通史1 (海防論とイシカリ)

このような武四郎と水戸藩との密接な関わりは、やがて第二次幕府直轄後武四郎が幕府御雇に抜擢される契機をつくったのではなかろうか
新札幌市史 第8巻2 年表・索引編 (出典一覧(明治以前))

松浦武四郎紀行集』下所収) 110  松前町年寄詰所日記并番日記(『松前町史』史料編2所収) 111  水戸藩史料,112  伊達家文書「日記」(『松前町史』史料編3所収) 113  大内清(右)衛門聴取書(『水戸藩
新札幌市史 第1巻 通史1 (新札幌市史 第一巻 通史一/総目次)

雇の実態と代償 人口の減少   第二節 蝦夷地開拓論・海防論とイシカリ場所…540     一 水戸藩,老中内藤信親家臣の調査        北溟の旅 蝦夷闔嶋の大川   第二節 諸藩の関心…685     一 水戸藩,       徳川斉昭の内願 北島志の完成 イシカリ・サッポロと水戸藩 イシカリ・サッポロの検分
新札幌市史 第1巻 通史1 (図版・写真・表組一覧)

) (704頁)   表-1 老中家臣の調査状況 (670頁) 表-2 安政期 イシカリ・サッポロと水戸藩
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