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札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

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新札幌市史 第1巻 通史1 (松浦武四郎と蝦夷地)

松浦武四郎と蝦夷地 松前藩復領期に蝦夷地を探検した人物に松浦武四郎がいる。,弘化二年(一八四五)を皮切りに、翌三年と嘉永二年(一八四九)の三回にわたって東西蝦夷地のみならず、カラフト,、千島をも探検し、『初航蝦夷日誌』、『再航蝦夷日誌』、『三航蝦夷日誌』にその探検のようすを書き記している,松浦武四郎が、はじめてイシカリ場所を訪れたのは、弘化三年であったが、それより二年前、蝦夷地へ渡ろうとし,、津軽鰺ケ沢まできたが、旅人の詮議が厳重なため、松前地への渡海を引き受けてもらえず、やむなくこの年は断念 / 松浦武四郎と蝦夷地
新札幌市史 第1巻 通史1 (津軽十三湊)

津軽十三湊 北条氏の直轄領すなわち得宗領の地頭代であり、蝦夷管領の代官であった津軽安藤氏は、鎌倉幕府,のもつ東夷成敗権を介して夷島流刑者の現地管理者となったと同時に、津軽十三湊(とさみなと)に交易のために,頃十三湊へ交易に出ていたことを推定させる話として、寛文九年(一六六九)のシャクシャインの蜂起の時、弘前(津軽,)藩から西蝦夷地に派遣された藩士牧只右衛門らがアイヌに接触して聞いた話の中で、イシカリの大将ハウカセが,松前殿御仕形は、唯今の様子に御座候はゝ、隠忍候ても高岡え参、能米と商仕たく由申候と、物語申候(津軽一統志 / 津軽十三湊
新札幌市史 第1巻 通史1 (旧幕軍の蝦夷島占拠)

旧幕軍の蝦夷島占拠 明治元年(一八六八)正月に鳥羽・伏見の戦に敗れた旧幕府勢力に対し、新政府はなお徹底的,新政府より蝦夷地の警備を命じられていた東北の秋田、津軽、南部、仙台の諸藩も、この本国での緊迫した情勢に,そして蝦夷島全域を支配した旧幕軍は、明治元年十二月十五日に榎本を総裁とする蝦夷島政権を樹立したのである,蝦夷島政権は蝦夷地の支配のため開拓奉行(沢太郎左衛門)を置き、二〇〇人余の移住者を伴って室蘭を本営として,東・西蝦夷地の警備と開拓にあたった。 / 旧幕軍の蝦夷島占拠
新札幌市史 第1巻 通史1 (蝦夷地警備と「在住」の任用)

蝦夷地警備と「在住」の任用 蝦夷地警備体制としては、盛岡(南部)、弘前(津軽)の二藩にあたらせ、大砲,それとともに、武州八王子の千人同心をユウフツ、シラヌカの二カ所に配備し、開墾と蝦夷地警備を兼備した屯田農兵,えられたが、寛政十二年(一八〇〇)、八王子千人頭の原半左衛門が、同心の二・三男、厄介人等を引き連れて蝦夷地,原半左衛門と弟の新助は、同心子弟、厄介人等一〇〇人を引き連れて蝦夷地に入り、半左衛門はシラヌカを、また,いまひとつ幕府が蝦夷地直轄後、あらたに箱館奉行所の組織のなかに任用した身分に「在住」がある。 / 蝦夷地警備と「在住」の任用
新札幌市史 第1巻 通史1 (蝦夷地見回りとイシカリ場所)

蝦夷地見回りとイシカリ場所 ロシア船による襲撃事件の一方、文化四年五月十八日、異国船(のちに米国船と,堀田正敦は、同年八月二日、ロシア船渡来につき蝦夷地見回りを東西に分かれて行うこととした。,この時西蝦夷地リシリ島辺までの見回りには、小普請方近藤重蔵、鷹野方山田忠兵衛、小人目付田草川伝次郎が命,4.田草川伝次郎『西蝦夷地日記』より作成。  ,『津軽藩士石郷岡伝内諸事覚』(函図)によれば、同六年には、惣大将以下足軽まで総勢一八九人がイシカリ詰として / 蝦夷地見回りとイシカリ場所
新札幌市史 第1巻 通史1 (五~七世紀の蝦夷(えみし)の動き)

五~七世紀の蝦夷(えみし)の動き 紀元前三世紀頃、大陸文化の影響をうけて北九州に発達した金属器と水稲農耕,に、オホーツク文化人の樺太から北海道への南下の影響もあったと思われるが、後北C2~D式土器文化人は、津軽海峡 / 五~七世紀の蝦夷(えみし)の動き
新札幌市史 第1巻 通史1 (阿倍臣の北征)

阿倍臣の北征 斉明四年(六五八)四月、阿倍比羅夫が船師一八〇艘を率いて北征したことは、津軽蝦夷の来貢,で津軽地方の様子がわかり、その案内をもって、南下する蝦夷の背面をつく施策があってのことと考えられる。,『日本書紀』によると、比羅夫は齶田浦(あきたうら)に軍船を進め、秋田、能代の蝦夷を服属させ、能代、津軽二郡,これが渡島蝦夷の記録に見える最初で、渡島蝦夷の渡島が北海道と考えられるならば、渡島蝦夷は津軽ばかりでなく,比羅夫は翌五年三月、再度北征を試み、飽田、渟代二郡の蝦夷二三一人、その虜(とりこ)三一人、津軽郡の蝦夷一一二人
新札幌市史 第1巻 通史1 (安倍・清原氏と渡島蝦狄)

安倍・清原氏と渡島蝦狄 九世紀以後王朝府の記録には陸奥、出羽や、渡島の蝦夷の動きが見えてこない。,奥六郡や山北三郡より奥地が蝦夷村(のちの岩手県東北部の閉伊、久慈、糠部(ぬかのぶ)、青森県の津軽平賀、,津軽山辺、津軽鼻和、津軽田舎の諸郡と外浜、西浜、秋田県北部の鹿角、比内の二郡、これらは一二世紀になって,建郡されたとする)で、そこに住する人が蝦夷身分に固定され、渡島蝦夷も当然この体制の中にあり、出羽国北部,の支配が「山北の俘囚主」清原氏を介して行われたものと思われるので、渡島蝦夷の交易なども清原氏を通してなされ
新札幌市史 第1巻 通史1 (鳥屋場知行)

鳥屋場知行 鷹は幕府への献上物でもあり、諸大名からの需要が多く、松前、蝦夷地はその産地であり、他国藩,鳥屋場知行は寛永期に知行の一つとして定着したと見られているが『津軽一統志』によれば寛文期の鳥屋場数は三,〇〇余、そのうち一二〇~一三〇の鳥屋は藩主の所有で残りが家臣の給分とされ、蝦夷地は、シコツ、イシカリが,とにかく鷹は藩の財源の一つで、『津軽一統志』に、 一  松前蔵分所務の事、御手船八、九艘の徳分一、,松前藩は毎年鷹船を蝦夷地に派したが、鷹匠、鷹待の蝦夷地への進出はアイヌの生活ならびに狩猟の場を侵し、さらに
新札幌市史 第1巻 通史1 (商場知行)

したがって家臣の知行形態も他藩の上士に給与される知行地に代えて、藩主の一族ならびに上級家臣には、蝦夷地,知行主は交易した夷の産物を松前で商人に売却して利潤を得るのであるが、寛文の蜂起の時に津軽藩士が蝦夷地を,調査した記録を載せる『津軽一統志』によれば、知行主の積む交易品は、米、古手綿類を主とし、西蝦夷地からは,商場に毎年派遣される藩主の船数は「上の国之三十六、七、下の国之三十五、六此外に鮭船」(津軽一統志)とあるが,其上俵物にあたり、串貝の一束もたり不申候へは、来年は二十束にてとられ、出兼申狄は子供しちにとられ申候」(津軽一統志
新札幌市史 第1巻 通史1 (東夷成敗権)

奥六郡の奥の地、糠部、閉伊、久慈、鹿野、比内、そして津軽四郡が蝦夷村と見られていたが、平泉藤原氏のもとでは,、この奥の蝦夷村は蝦夷地でなくなりつつあった。,この期、実際の蝦夷地は津軽の北部と北海道、千島に限られ、鎌倉幕府期には渡島は夷島(エゾカシマ)として認識,鎌倉幕府が成立すると東夷の固めとして北条義時が蝦夷管領となり、その代官として安藤五郎が津軽に配され、夷島,夷島流刑の記事が二、三見えているが、夷島への流刑の手続きは罪人を鎌倉へ送り、鎌倉から奥州の夷すなわち津軽
新札幌市史 第1巻 通史1 (【主要参考文献・史料】)

日本北方史の論理』、海保嶺夫『列島北方史研究ノート』、河野広道「墓標の型式より見たるアイヌの諸系統」『蝦夷往来,』第四号、『津軽一統志』巻十(青森県叢書)、「松前蝦夷記」『松前町史』史料編第一巻、「蝦夷蜂起」『日本庶民生活史料集成,』巻四、「寛文拾年狄蜂起集書」『日本庶民生活史料集成』巻四、『松前蝦夷蜂起』(菊地日出海蔵版)、「松前主水広時日記
新札幌市史 第1巻 通史1 (【主要参考文献・史料】)

【主要参考文献・史料】 『新北海道史』第二巻、『松前町史』通説一、『石狩町誌』、海保嶺夫『中世の蝦夷地,『札幌の歴史』第四号、「福山秘府」『新撰北海道史』第五巻、「地北寓談」『北門叢書』、『新羅之記録』『津軽一統志巻十,』『蝦夷地一件』(以上、『新北海道史』第七巻)、「松前蝦夷記」『松前町史』史料編一
新札幌市史 第1巻 通史1 (北越に柵戸を配す)

北越に柵戸を配す したがってこの時期、奥羽の蝦夷にも激しい動きがあり、七世紀に入ると陸奥では舒明九年,(六三七)、上毛野形名(かみつけののかたな)が蝦夷と干戈(かんか)を交え、北陸道では大化三年(六四七),において饗応し、さらに斉明元年(六五五)七月、難波朝において北(北越)の蝦夷九九人、東(東陸奥)の蝦夷九五人,を饗応し、柵養(きこう)の蝦夷九人、津刈(青森県の津軽)蝦夷六人に冠各二階を授けている。,柵養の蝦夷とは柵戸に養われている帰順の蝦夷で、通訳、道案内として各柵にいたであろうとされている。
新札幌市史 第1巻 通史1 (民族的蜂起)

にいた商船を襲い、つぎつぎに和人の水主、鷹待、金掘を殺戮し、東西蝦夷地で相果てた人数は『津軽一統志』(,』によれば、殺された人々は、西蝦夷地では一二〇人のうち、他国者八二人、松前者三八人、東蝦夷地では一五三人,(岩内)の大将カンニシコルが弘前(津軽)藩士に語ったところによると、 去年拙者共人殺し申子細は、前々志摩様御代,余り迷惑に存近年は度々御訴訟申上候得共、年寄たる蝦夷共我儘申候間、どくの酒にて年寄蝦夷之分御たやし、若蝦夷斗,(津軽一統志 青森県叢書)  西のアイヌがシャクシャインの檄に呼応した理由は右の語で明らかである。
新札幌市史 第1巻 通史1 (【主要参考文献・史料】)

【主要参考文献・史料】 工藤平助「赤蝦夷風説考」『北門叢書』第一冊、只野真葛『むかしばなし』(東洋文庫本,)、本多利明「蝦夷私考」『本田利明集』、同「蝦夷土地開発愚存の大概」『同書』、同「蝦夷開発に関する上書,』(国公文)、武藤勘蔵「蝦夷日記」『日本庶民生活史料集成』第四巻、羽太正養「休明光記」『新撰北海道史』,』第一三号、東寗元稹「東海参譚」『日本庶民生活史料集成』第四巻、松浦武四郎『西蝦夷日誌』(時事通信社本,』(函図)、田草川伝次郎『西蝦夷地日記』、『津軽藩士石郷岡伝内諸事覚』(函図)、『西蝦夷地高島日記』(
新札幌市史 第1巻 通史1 (【主要参考文献・史料】)

【主要参考文献・史料】 「津軽一統志」巻第十『新北海道史』第七巻、「寛文拾年狄蜂起集書」『日本庶民生活史料集成,坂倉源次郎「北海随筆」『北門叢書』第二冊、『飛驒屋伐木図』(武川家文書 岐阜県下呂町教委)、「遠山村垣西蝦夷日記,」『犀川会資料』第一三号、串原正峯「夷諺俗話」『日本庶民生活史料集成』第四巻、武藤勘蔵『蝦夷日記』(前同,)、『宗谷詰合山崎半蔵日誌』(函図)、『西蝦夷地高島日記』(道文)、近藤重蔵『蝦夷地絵図』(東大史)、,『大日本近世史料 近藤重蔵蝦夷地関係史料二』
新札幌市史 第1巻 通史1 (弘前藩の関心)

たとえば、イシカリ辺にたびたび来て、その事情に詳しくアイヌ語のわかる領民が津軽にはいた。,安政元年堀・村垣一行が蝦夷地調査を行う際(第二章一節)、先発で弘前藩に着いた幕吏鈴木尚太郎は、蝦夷地の,領内の住人が減り、異国船が出没する津軽半島の警備がおろそかになるのを心配したからである。,したがってイシカリに詳しいアイヌ語を話す津軽人は、けっして特異な存在ではなかった。,漁業出稼や米のほか多くの生活物資を津軽に求めなければならなかった松前藩の立場を合わせ考えると、両藩の円滑
新札幌市史 第1巻 通史1 (エミシと粛愼)

阿倍臣の粛愼国征討があって以来、渡島蝦夷は越の国守の管掌下に属し、その後長年にわたって来貢しているが、,持統十年(六九六)三月十二日に「越の度島(わたりしま)蝦夷伊奈理武志(イナリムシ)と、粛愼志良守叡草(,養老四年(七二〇)一月「渡島津軽津司従七位上諸君鞍男等六人を靺鞨国に遣して、其の風俗を観せしむ」(続日本紀,この渡島津軽津司(わたりしまつがるつのつかさ)については、渡島の津軽津司とするか、渡島・津軽津司とするかでも,との間に交易関係があるところから、渡島津軽津司をして靺鞨の事情を調べさせたものと思われる。  
新札幌市史 第1巻 通史1 (商場ちよまかうた)

商場ちよまかうた イシカリ商場の記載が見られるのは寛文期の『津軽一統志』で、当時のイシカリ川の流域の,この商場「ちよまかうた」は藩主「御手船」の商場であったことは『享保十二歳未八月 松前西東在郷幷蝦夷地所附,なおさつほろの名称は、寛文の蜂起時に西蝦夷地に入ったこれら津軽藩の物聞(ものきき)(密偵)のこの報告の,イシカリの商物については明らかでないが、干鮭、獣皮など取引の夏船のほか、秋味塩引の鮭船が出ていたことは『津軽一統志
新札幌市史 第1巻 通史1 (御手船の商場)

御手船の商場 異国へつながりのあるアイヌが居住する、生産力豊かな奥地の商場は、藩主の御手船の商場で、西蝦夷地,はイシカリ、テシオ、ソウヤ、東蝦夷地はクスリ、アッケシ、キリタップ、ノッシャムなど、場所の開設年次については,テシオ場所は慶長年中、ソウヤ場所は貞享年中、アッケシ場所は寛永年中、キリタップ場所は元禄年中とある(蝦夷地一件,ただ、イシカリアイヌは早くから津軽まで出向いており、したがって松前へも出入のあったことは考えられる。,その後和人地と蝦夷地を区別し、アイヌが和人地に来ることを禁じてからは、松前藩の御手船が「いしかり」へ来
新札幌市史 第1巻 通史1 (海防論とイシカリ)

が異国接境の地であることから東蝦夷地が直轄となったことは前述した。,、ちょうど松浦武四郎がカラフトを探検して、帰途イシカリを通ってユウフツへ抜けた同じ年にも松前近海から津軽海岸,嘉永元年(一八四八)、武四郎は二度目の蝦夷地探検の二年後、「乍恐松前地幷津軽地え異国船渡来の義に付申上候,蝦夷地一円が開拓ということになれば、雑穀豊饒の地となるので、蝦夷地開拓を決心すれば国家にとってなによりであろう,を加藤木賞三を介して献上するとともに、蝦夷地の海防を含めた海防論を建白するにいたっている(水戸烈公へ初航蝦夷日誌他建白書
新札幌市史 第1巻 通史1 (ハウカセの行動)

寛文十年(一六七〇)六月、上方へ登る途次、風悪しくホロモイ(積丹町)に流れ着いた高岡のものだがとして、西蝦夷地,一  ……石狩の蝦夷頭ハフカセと申候は、我々事は去年商船一艘も殺し不申候。何の悪事も不仕候。,又去年シャクシャインがことくにたまし寄殺(され)候ては如何のよし申、与市の蝦夷と同心不仕候。,惣て昔より蝦夷は米、酒不被下候。魚、鹿計被下、鹿の皮を身に着、たすかり申者に御座候。,(津軽一統志 新北海道史 第七巻)
新札幌市史 第1巻 通史1 (【主要参考文献・史料】)

史料】 埴原和郎他『シンポジウム アイヌと古代日本』、山田秀三『アイヌ語地名の研究』、工藤雅樹「古代蝦夷,・先史学史』、熊谷公男「阿倍比羅夫北征記事に関する基礎的考察」『東北古代史の研究』、海保嶺夫『中世の蝦夷地,の世界』、金田一京助『アイヌの研究』、遠藤巌「中世国家の東夷成敗権について」『松前藩と松前』九号、「津軽一統志
新札幌市史 第1巻 通史1 (秋味の請負)

殿様へ金子を上げ、津軽其外の商人共御請負申候。是斗にても夥敷御金の上り申事に御座候。,しかも、藩主へ運上金を納入し、津軽やそのほかの商人たちが請負っている様子さえみられる。  ,ちなみに、元文年代(一七三六~四〇)における蝦夷地の鮭の産出量を『蝦夷商賈聞書』からみると、表2のごとくである,に集中し、しかも、イシカリ川が蝦夷地随一の鮭の産地であったことが知られる。,『蝦夷商賈聞書』(松前町史 史料編第三巻)より作成。
新札幌市史 第1巻 通史1 (第二次調査)

第二次調査 佐倉藩の第二次蝦夷地調査は翌安政四年二つの班によって行われた。,すなわち、エトロフ班とカラフト班各四人ずつ、あわせて八人が蝦夷地におもむき、全員イシカリ・サッポロに足,前回時季に遅れたので、今次は年明け早々命を下し、二月十九日佐倉出発、江戸居住者と合流し、津軽海峡を渡るのに,今村は調査記録『蝦夷日記』を残したが、北海道大学附属図書館にある『東蝦夷図巻』が、もし一行にかかわるものならば,帰路は東蝦夷地をユウフツまでもどり、ここからイシカリへ向け内陸に入り、八月二日到着する。
新札幌市史 第1巻 通史1 (復領の申渡し)

まで一応行き届いたので、松前家が蝦夷地における草創の家柄であり、かつ数百年来の所領でもあるので、特別の,施政方針を堅く守ってアイヌへの「撫育」をはかるとともに、辺防の備えを厳重にし、万一非常の際には、弘前(津軽,運上金については、東蝦夷地では、一万八六〇〇両余(文化十年)が九八〇〇両余(文政五年)に、西蝦夷地では,蝦夷地全域の返還は、このような要因のもとに行われた。,幕府が蝦夷地を直轄して管理することの重要性が、変化したのである。
新札幌市史 第8巻2 年表・索引編 (出典一覧(明治以前))

(高倉新一郎編『日本庶民生活史料集成』4所収)  13  津軽一統志(『新北海道史』史料1所収), 14  津軽一統志(青森県叢書刊行会・青森県図書館編『青森県叢書』第6編所収)  15  渋舎利蝦夷蜂起,蝦夷拾遺(佐藤玄六郎著・大友喜作編『北門叢書』1所収)  56  西蝦夷地場所地名産物方程控(函館市中央図書館蔵,『日本庶民生活史料集成』4所収)  66  蝦夷草木譜(国立公文書館蔵)  67  蝦夷地見取絵図,100  蝦夷地勤番之者心得向(道文蔵)   101  蝦夷日誌(上)(松浦武四郎著・吉田常吉編 
新札幌市史 第1巻 通史1 (山崎半蔵)

山崎半蔵 文化四年は、前年以来のロシア船の来襲により、蝦夷地の各所へ警備に赴く幕吏や藩吏の往来が盛んだった,弘前藩士山崎半蔵もその一人で、田草川伝次郎ら一行が西蝦夷地を見回った同じ年、ソウヤ警備を命じられ、ユウフツ,ここでは、津軽海峡にあらわれた異国船(のちに英国船と判明)を逃れてユウフツの開墾場より避難してきた八王子千人同心
新札幌市史 第1巻 通史1 (豊臣秀吉の朱印状)

)七月、豊臣秀吉が小田原に北条氏を滅ぼし、ついで前田利家らを派して奥羽の地を検せしめた際、蠣崎慶広は津軽,文禄二年(一五九三)正月、朝鮮攻略を開始し肥前名護屋の本営にある秀吉の下に参じて、志摩守に任じられ、蝦夷地支配権安堵,大名の石高、本領安堵状とは異なるが、本質的には変わるものでなく、これにより慶広は安東氏の配下を脱して蝦夷島
新札幌市史 第1巻 通史1 (渡党)

渡党 長野県の諏訪神社に残る延文元年(一三五六)に成ったとされる『諏訪大明神絵詞』に、蝦夷カ千島に日,であるが大半は通じ、宇曽利鶴子(ウソリケシ)や万堂宇満伊犬(マトウマイン)という小島にある渡党は多く、津軽,の事蹟を記す『新羅之記録』によれば、「右大将頼朝卿進発して奥羽の泰衡を追討し御(たま)ひし節、糠部、津軽
新札幌市史 第1巻 通史1 (商品流通にのった鮭)

すなわち、蝦夷地と日本海沿岸地方を結ぶ北前船の発展、それと相まって蝦夷地産の塩引鮭の需要とが、イシカリ,元文四年(一七三九)段階のイシカリは、「秋生鮭沢山、千石以上の船二艘、三カ年運上金一四〇〇両」(蝦夷商賈聞書,しかも、これら新興商人の廻船は、他の廻船に比べ積荷量も多いことから、大量の蝦夷地の産物の輸送部門を引き,近江屋三郎次 般頭善吉 南部    1 近江屋三郎次 船頭喜左衛門 南部    1 近江屋三郎次 船頭清兵衛 津軽,ちなみに、天明六年頃の松前蝦夷地全体の塩引鮭の見積高は、表8のとおりであった。
新札幌市史 第1巻 通史1 (知行所の宛行)

知行所の宛行 寛文のアイヌ蜂起に際して、蝦夷地に入った金掘と鷹待が多く殺されていることから、蜂起後の,べたとおりだが、この蜂起後藩主一族一門のほか、藩の事績に功のあった侍中ならびに侍中に取り立てた者に逐次蝦夷地,寛文のアイヌ蜂起の功による藩士への蝦夷地知行の宛行は不明だが、『松前主水広時日記』(以下『広時日記』と,ノ志古津」は「石猟ノしのろ」の誤りか、志古津は石狩と区域を別にしており、享保十二年の『松前西東在郷幷蝦夷地所附,『津軽一統志』は侍中を三四人あげているが、元禄年代は支配所持が七六人にもなっていることでも理解できる。
新札幌市史 第1巻 通史1 (安東氏の渡島)

安東氏の渡島 安藤と安東は訓が同じだから混じったのか、鎌倉末期から南北朝争乱期、同族相争う中で蝦夷管領代官職,北条得宗領の地頭代であり、蝦夷管領であった安藤氏の勢力は、鎌倉末期に十三湊(とさみなと)を拠点に南は秋田,、北は津軽、下北半島、夷カ島に及んでいたのであるが、糠部(ぬかのぶ)南部を拠点に勢力を伸ばして来た南部氏
新札幌市史 第1巻 通史1 (ハウカセの領域)

ハウカセの領域 上の国の惣大将ハウカセには「下人狄千人程」おり、鉄砲四、五十挺を持ち(津軽一統志)、,『松前蝦夷蜂起』ではシャクシャインと共に死んだとあるが、他の記録には見えていない。
新札幌市史 第1巻 通史1 (紛争の経緯)

「軍仕候得ば島中の夷騒動、其上商買物も調兼、松前商船勝手も悪敷」(蝦夷蜂起)なる上、寛永十年(一六三三,し、カモクタインに代わって首長になったシャクシャインとオニビシに俵物、酒などを遣わして、和解をさせ(津軽一統志,)、明暦元年(一六五五)には両首長を福山館に召して対面させ「向後出入仕間敷」(蝦夷蜂起)ことを誓わせた,是より奥え山の義はとらせ申間敷由、きびしく申付」(津軽一統志)という押し問答があり、漁猟圏を巡って再び,ウトサマ)が再度松前へ出かけ、兵具、俵物の借用を申し出たところ、「追付侍共遣様子聞届首尾好可申付」(津軽一統志
新札幌市史 第1巻 通史1 (起請文の事)

松前殿御仕形は、唯今の様子に御座候はゞ、隠忍候ても高岡え参、能米と商仕たく」(津軽一統志)といい、リシリ,アイヌにしても「此度つくなひにて和談究候所に、若其段やぶれ候て、商船も不参候へは、我々共迷惑仕候事」(津軽一統志,かくて松前藩は寛文十年、松前左衛門広諶らを西蝦夷地に派し、広諶らがヨイチに進むと、西夷五八人が「つくなひ,寛文十一亥年四月 日(蝦夷蜂起)  この誓詞によってアイヌは藩主に忠誠を誓うという完全に松前藩の被支配者
新札幌市史 第1巻 通史1 (依田次郎助)

依田次郎助 蝦夷地旅行記録  (安政元年五月二十日、フルビラ発。,此処より東蝦夷地ユウブツト申処迄、野道有。凡四十リ余有之。但し、番屋も有之。,則、此度箱立異国船着岸の一条ニ附、津軽三馬屋より御支配の内、御徒士目附平山鎌(謙)次郎様、御小人目附安間善之丞,実ニ西蝦夷地の大河御座候事  右石狩場所は河上ニ夷人の住家多し。,「ヲタルナイヨリ石狩迄の間、右手の方壱方平野にして、東蝦夷サツボロ山遥に見ヘル。
新札幌市史 第1巻 通史1 (新札幌市史 第一巻 通史一/総目次)

…343   第一節 渡島蝦夷…343     一 蝦夷の南下        五~七世紀の蝦夷の,の呼称起こる   第三節 夷島…353     一 鎌倉幕府と夷島        東蝦成敗権 津軽十三湊,の直轄        寛政十年蝦夷地調査 直轄と経営方針 蝦夷地警備と「在住」の任用   第二節 ,西蝦夷地の直轄とイシカリ…427     一 文化三年の西蝦夷地調査        調査の目的 調査, 擁護の地     二 蝦夷地調査から要害論へ        松前蝦夷御用取扱 西蝦夷地見回りへ 
新札幌市史 第1巻 通史1 (図版・写真・表組一覧)

』より作成 (411頁) 表-8  天明6年頃松前蝦夷地塩引鮭見積高 『蝦夷草紙別録』(松前町史史料編第三巻,)より作成 (411頁)    第5章 写真-1 蝦夷地見取絵図 国立公文書館蔵 (カラー、418頁),』、『西蝦夷地分間』、『西蝦夷地日記』、『野帳巳第一番』、『土人由来記』より作成 (450頁)  表-,アブタ・サッポロ・シコツ・サル・トカチ開削道路計画推定図 札幌市教育委員会作成 (492頁)    写真-1 松前之図『津軽一統志, 津軽家史料 国立史料館蔵 (485頁) 写真-5 イシカリ川之図 札幌市立藻岩北小学校蔵 (486,
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリ川の地図)

一枚は文化七年『蝦夷地図』(国立史料館蔵)で、当時イシカリ場所の請負人であった阿部屋村山直之が、文化十三年,(一八一六)に模写したという『松前蝦夷地嶋図』(北大図)と同系統図であり、あとの二枚はおそらく同じ阿部屋,(1)『蝦夷地図』  本図は、写真4のごとくイシカリ川水系の流路の具合や地名を詳細に入れている。,写真-4 蝦夷地図-部分-(津軽家史料 国立史料館蔵)  またこの地図でみるに、サッポロ川が切れてツイシカリ
新札幌市史 第1巻 通史1 (寛文期の史料から)

この時東北四藩のひとつ弘前(津軽)藩も援軍を派遣したり、また物聞(ものきき=密偵)を派遣して松前蝦夷地,すなわち、『津軽一統志』巻第十がそれであり、いまひとつは『寛文拾年狄蜂起集書』である。,ところで、ここに紹介した『津軽一統志』巻第十には、「松前之図」(写真1)が付されていて、地図自体は必ずしも,これは、『津軽一統志』の中にも、「石狩川口よりいへちまたと申所迄三日路余御座候。,写真-1 松前之図-部分-(津軽一統志 巻第十 東京国立博物館蔵)
新札幌市史 第1巻 通史1 (幕府の倒壊と大友亀太郎の去就)

その後元年十月より翌二年五月に至る間、松前・蝦夷地は榎本武揚の率いる旧幕府軍によって占拠されたが、二年五月十八日,越後国蒲原郡枚村出身)、与兵衛(家族二人、庄内田沢村出身)、佐吉(家族三人、八戸井保内村出身)、平吉(家族三人、津軽出身,妻の実家のある有川村に滞在後、八月二十五日に一三年間におよぶ蝦夷島での厳しい職務と生活に終止符をうって
新札幌市史 第1巻 通史1 (道南館主の動向)

道南館主の動向 夷カ島へ渡った盛季の子康季、孫義季らは津軽領の回復を計ったが、事ならずに、下国安東氏,政季は河北千町に知行し、以後檜山安東氏を称し、のち湊安東家を併合して代々蝦夷島を領した。  
新札幌市史 第1巻 通史1 (請負体質の弛緩)

幕府の第二次直轄以来、西蝦夷地海岸への出稼人は急増し、箱館奉行所の積極的な出稼奨励策は、円吉一派の独立志向,支配人、通詞、帳役等の幹部のもとに、番人、稼方が五〇人ほどおり、彼らは「大抵南部津軽秋田辺の者にて、別,に産業も無之、海浜游惰の輩而已」(石川和介 蝦夷地の儀に付奉申上候書付草稿)と見られがちだったが、番人
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリ・サッポロの検分)

安政五年(一八五八)八月十五日水戸を出発、津軽海峡を渡るため大澗で一〇日間も風待ちし、九月二十日箱館に,安政三年以来急増する諸藩の蝦夷地調査の大半は春から夏にかけてで、生田目のように八月から十一月という人はまれだった
新札幌市史 第2巻 通史2 (新聞小説)

4.8~9.末欠号 36 蝦夷錦 如是庵主人著 25.3.16~(4.7) ?,太平楼主人 32.7.18~9.29 42 88 すす拂 くずのうら葉述 32.12.21 1 89 津軽再興記
新札幌市史 第7巻 史料編2 (件名目次)

札幌本府の建設  一 明治二年     一 十文字龍助宛函館出張指令(八月三日)…3     二 蝦夷地,一五年)…439      (1)宅地の部        (南後志通 渡島通  爾志通  檜山通  津軽通
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