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札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

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新札幌市史 第4巻 通史4 (狸小路の舗装)

狸小路の舗装 翌十四年、狸小路の舗装工事が行われた。,(狸小路発展史)。,そしてこれは、狸小路商店街の店々の改装や鈴蘭灯の設置などとともに、商店街整備の一環であった。,結局狸小路の舗装は、アスファルト舗装(北タイ 大14・5・19。,からの寄付金一万三〇〇〇余円を得て十四年施工された(狸小路発展史、北海道舗装史 上)。   / 狸小路の舗装
新札幌市史 第4巻 通史4 (浅草観音と柳之御影観音)

浅草観音と柳之御影観音 昭和八年九月三日に、狸小路九丁目に浅草観音を迎える。,観音は「大サッポロのピカデリー、狸小路繁栄の福の神として迎えられ」(北タイ 昭8・9・4)、十月十五日,一方、狸小路一丁目には柳之御影観音が安置されることとなり、八年十二月十七日に観音堂が竣工し遷座式が行われた,狸小路の東西に二つの観音堂が並び立つことになったわけであるが、これには狸小路商店街の確執もあったようである,これを機に狸小路聯合会では山門を建築し、観音堂を中心に「サッポロの浅草」として「一大歓楽郷」の実現をめざした
新札幌市史 第2巻 通史2 (都市景観に関するもの)

狸小路の私娼は薄野遊廓よりも市街地の中心部に位置したため、より大きな批判が出される。,そのため狸小路の取締りの徹底を警察に対して要求している。,これらの運動の結果、狸小路の曖昧飲食店の一部は薄野遊廓へ移転し、三等貸座敷として開業することになった。,また狸小路の取締りが厳しいため、私娼たちも豊平川の東などに拠点を移すものが出てきた。,狸小路の私娼は、取締りとのイタチごっこを繰り返しつつ順次衰勢となり、豊平川東側などへ追いやられていったと
新札幌市史 第5巻 通史5上 (復興にむけて)

昭和二十一年三月二十七日には二条魚市場が復活し(道新 昭21・3・28)、狸小路でも戦争中に転廃業や休業,していた名取川靴店(狸小路一、二丁目)、明正堂書店(同四丁目)、マキノ時計店(同四丁目)など多くの商店,二十二年十一月十八日には、札幌狸小路商店街商業協同組合も設立されている(札幌狸小路発展史)。,ないし四丁目を「金融経済中心街」、北一条時計台付近と豊平町電車通を「卸売問屋中心街」、東西に南一条通、狸小路
新札幌市史 第2巻 通史2 (娯楽・遊楽の街と旅客)

寄席 開進亭 南三条西四丁目 狸小路 十二年頃市川亭あり。二十五年大火により焼失。,金沢亭 南二西三狸小路 二十六年一月種市某建設、二十七年金沢万蔵の所有。,松美亭 南二西三狸小路 二十五年十一月、大谷亀太郎建設。 丸市亭 南三西二狸小路 三十年一月建設。,勧工場 第一勧工場 南二西三狸小路 十八年四月柿村信蔵の創立。二十五年大火で焼失後再建。,札幌商館 南二西三狸小路 二十五年六月創立。早川文司、北川仲蔵の所有。
新札幌市史 第5巻 通史5上 (闇市対策)

闇市対策 かつては二〇〇軒以上の商店を擁していた狸小路でも、戦争中には転廃業がすすんでいた。,このため敗戦直後から狸小路は闇市と化し、特に空き地となった一丁目には多くの露店商が出現し、いつしか「青空市場,狸小路の闇市では、闇値の高値に公憤し適正価格で販売を行ったり、「愛される市場」をめざして「安い闇」を心,一方市や警察は、随時狸小路や薄野、創成川畔の闇市の取り締まりを行ったが、闇市の露店商のなかには、復員者,そこで市は、GHQ北海道軍政部からの指令もあって、昭和二十一年八月二十一日狸小路の「青空市場」を市設の
新札幌市史 第5巻 通史5下 (地下街開業とその影響)

元来札幌最高のショッピングコースは駅前通商店街から狸小路商店街に交差するT字型、もしくはそれに南一条通,を加えるF字型といわれてきたが、西二丁目に大型店が相次いで開店したことで、南一条西二丁目通から狸小路四丁目通,の一周コースが主流となり、狸小路自体も京都の新京極のような観光名物化するのではないかといわれた(タイムス,このため狸小路商店街や南二条西三丁目のサンデパートを中心に、四十三年八月駅前通をはさむ東西の商店街により,また当初は予想だにされていなかったオーロラタウン方向への人の動きが活発化し、地下街建設に積極的だった狸小路商店街
新札幌市史 第4巻 通史4 (無声からトーキーへ)

明 8 遊鶴座 南4西3 池田新七 後,大黒座と改める 明12 寄席市川亭 南3西4狸小路 不明 明,21 立花座 南2西2 伊藤辰造 明25 寄席恵亭 南3西4狸小路 水上由平 後,清明館~開進亭と改,める 明25 寄席松美亭 南2西3狸小路 大谷亀太郎 後,松見亭 明25 寄席札幌亭 南3西1狸小路,明30 共楽館 狸小路1丁目 出資組合 後,本間鉄五郎経営 明30 寄席丸市亭 南2西2狸小路 共同,狸小路南3西4 水上イト 明治43年神田館となる 明43 遊楽館 狸小路南3西3 九島伊太郎 後,九島興業
新札幌市史 第5巻 通史5上 (商工政策の展開)

目抜き通りの四丁目・狸小路・ススキノには色鮮やかな広告塔やアーチが設けられ、店頭装飾競技会・福引き大売出,の取締り強化等の意見を具申したほか(札幌商工会議所所報 第二号)、同二十日には物価引下げ商業者大会を狸小路観音堂前広場,さらに、二十二年九月八日から十日までの三日間、第一回優良百貨卸見本市を狸小路六丁目ニューグランドで開催
新札幌市史 第5巻 通史5上 (デパートへの対抗)

一方、三デパートに対抗すべく、三十三年六月にはステーションデパートが売場面積一二〇〇坪を増設し、狸小路,三十四年十一月二十八日南二条西二丁目に開店したそうご百貨店、三十七年十二月狸小路三丁目に誕生したサンデパート
新札幌市史 第2巻 通史2 (生命・火災・海上等の保険)

実際二十八年五月十七日に起こった狸小路の火災では、東京火災、明治火災等の保険会社から火災保険加入の被害者
新札幌市史 第2巻 通史2 (北海道庁設置後の商況)

狸小路商店街の雰囲気を覗かせるものに南二条西二丁目に〓有渡熊吉の古着・太物・和洋小間物商が『繁栄図録』,狸小路で商品展示販売の店のもう一つは勧工場である。,勧工場は十八年四月狸小路(南二西三)に柿村信蔵が設けたことに始まる。,なお狸小路には勧工場の外、二丁目に芝居小屋立花座(東座)があったことは前述したが、なお四丁目に市川亭と,強化され、ために一方薄野の貸座敷免許地に私娼を置く飲食店を移転させ、薄野で貸座敷を営むものが増して、狸小路
新札幌市史 第3巻 通史3 (活動写真等)

函館、旭川に先を越されたが、明治四十五年三月十四日、札幌狸小路の開進亭を買い取って改装し、第二神田館と,そこで次に狸小路四丁目で本格的映画館づくりに乗り出し、同年(大正元年)十一月二十一日、旧館を閉めて新館,エンゼル館(北二西三)が建てられ、このほか大正初期に大正館(北二東二)、北都館(北九西一)、ルナパーク(狸小路一
新札幌市史 第4巻 通史4 (昭和五~七年頃の札幌の大衆文化)

東京のモダニズムを札幌に重ねるアナロジーは、南一条十字街=銀座、狸小路=浅草の図式にきわまる。,そして札幌の浅草=狸小路の記載。「坂妻□を懸けた活動がある。カフェがありバーがある。,遊楽館・三友館(外国映画専門で札幌で最初にトーキー発声装置を導入した)・盛賑館といった活動写真の常設館が狸小路,松竹座(南4西3)の邦画「マダムと女房」および三友館(狸小路5)のアナ・ベラ主演、ルネ・クレール監督の,美満寿館(南5西3)の菊池寛原作(『キング』に連載された)入江たか子主演「心の月日」、遊楽館(狸小路九
新札幌市史 第5巻 通史5上 (不用品交換会と露店街)

狸小路東部は二十二年以降、一般商店街に復帰したが、進駐軍の横流し物資を販売する者が後をたたなかった。,二十四年六月二十二日には警察官二五〇人が狸小路一・二丁目を包囲し、通行人、商店を取り調べ、進駐軍物資不法所持
新札幌市史 第5巻 通史5上 (料飲店の営業再開)

狸小路では同年五月十五日、直営ビアホールが二年九カ月ぶりで再開し、開店早々かつての常連客等で賑わった(,また、翌三月には電力制限が解除され、狸小路のスズラン灯をはじめとして、市街地には街路灯やネオンサインの
新札幌市史 第5巻 通史5下 (場外馬券売り場問題)

候補地の南三条西四丁目と狸小路五丁目の二カ所の地元住民は、商店街の活性化につなげたいとする賛成派と、健全,二派に分かれたが、日本中央競馬会は五十四年三月二十四日場外馬券売り場の本館を南三条西四丁目に、分館を狸小路五丁目
新札幌市史 第3巻 通史3 (西四丁目通(停車場通)の景観)

西四丁目通(停車場通)の景観 二十五年五月四日、狸小路から出火し、南三条北側から大通以南の西二丁目から,大通以南の元町屋地については、『札幌狸小路発展史』(昭35・9)が商家の景況の変遷を詳述しているので省略
新札幌市史 第5巻 通史5上 (疎開跡地の整理)

拓殖銀行(元道銀)周辺 25 三共ゴム北洋パルプ会社周辺 25 古谷倉庫周辺 61 北海製綱周辺 2 狸小路,二十三年度は中島通(豊平2~3間)、狸小路(西1、西9~10間)、二十四年度札幌駅前通(南2~3狸小路間
新札幌市史 第4巻 通史4 (余暇・娯楽)

当時の繁華街は、映画館の集まる薄野遊廓跡地のほかに、やはり何といっても狸小路商店街であった。,大正十三年十一月に、札幌市で市内各重要路線の交通調査を行ったところ、最も人通りの多かったのは狸小路二~,表-11札幌市交通調査(大正13年11月) 地点 最多時間帯の通行人 諸車一日の交通量 狸小路,狸小路のような「平面の百貨店」に対し、札幌停車場通に面した赤レンガの建物の五番舘(北四西三、電話五番),百貨店間の客の奪い合いや、付近の狸小路商店街との対抗など、しのぎを削ったが、逆に大型店の進出は狸小路商店街
新札幌市史 第4巻 通史4 (小売商問題)

市内最大の商店街狸小路でも、道路舗装、鈴蘭灯設置、露店廃止など環境整備を実行し、昭和七年九月には狸小路青年会,当初、三越支店や丸井今井に対抗しようとする意識が強かった狸小路も、百貨店との共存を模索する方向に変わってきた,昭和十年暮れの狸小路各丁会長の座談会記事では、投げ売りをする「腰掛式な店」がなくなり、街が落ちついたこと,、デパートの買い物帰りに狸小路で買い物する客がいることなどが紹介され、商店街の更生を喜び合っているのである
新札幌市史 第2巻 通史2 (薄野・密売淫問題)

たとえば、二十二年六月二十九日の新聞には、「侃々生」なる人物の狸小路の飲食店と薄野の貸座敷の他への移転,結局同年、従来の「薄野規則」を改正して狸小路の飲食店二〇余軒を薄野廓内へ移転させ、三等貸座敷として公娼化
新札幌市史 第2巻 通史2 (まつりと遊興の世界)

また狸小路の芝居小屋や寄席では様々な興行が催されていた。これらは連日大盛況であった。,狸小路の芝居小屋、寄席、それに中島遊園地で催される競馬会、物産共進会等、札幌は遊興の街としての魅力も合
新札幌市史 第5巻 通史5上 (地元建設会社と主な工事)

藻岩下、昭26)、札幌駅改築(昭26・9~33・3)、第二札幌電話局(昭32・7竣工)、サッポロビール狸小路,現在の札幌市教育委員会、昭33・6完成)、札幌市街地住宅(通称薄野ゼロ番地ビル、昭33・11完成)、狸小路
新札幌市史 第4巻 通史4 (商業組合による組織化)

札幌米穀小売(119/176),札幌米穀卸(11/12),札幌クリーニング(73/73)  13 札幌狸小路商店街,狸小路商店街は、商店街商業組合として十三年三月に設立された。,十五年六月には狸小路商店街商業組合が商品券を発行したが、これは狸小路内であれば一般商店はもちろん映画館
新札幌市史 第5巻 通史5下 (【主要参考文献・史料】)

札幌商工会議所『流通近代化のために(生鮮食料品を中心として)』(昭47)、札幌市商店街近代化推進委員会『狸小路商店街診断報告書,―新生狸小路が目指すもの―』(昭48)、札幌市経済局『札幌市の小売市場史』(昭53)、札幌市経済局『札幌市公設小売市場
新札幌市史 第2巻 通史2 (市中商業地の景況)

狸小路という名の起こりは、これらの人びとを相手にか、薄野へ向かう人びとを足止めして相手にしてか、「南二条,狸小路西二丁目は、はじめ安津満小路といわれた。,狸小路初期の風物である(さっぽろ昔話)。  
新札幌市史 第3巻 通史3 (札幌遊覧案内)

南二条通は之に亜ぎ、狸小路の俗称ある南二条と南三条間の中通りは飲食店、雑貨店、各種の商店、寄席等あり。,▲札幌亭 狸小路西一丁目にあり、建築新にして設備完し。,▲南亭 三十年の建築にして、狸小路二丁目。  
新札幌市史 第5巻 通史5上 (観光事業の復活と振興)

三十年からは狸小路商店街の狸まつり(昭29開始)が参加し、四十年には、この年誕生したすすきのまつりと定山渓温泉,のかっぱまつりが加わり、大通・狸小路・すすきの・定山渓の四会場で開催されるようになった(さっぽろ夏まつり,開設当時は、大通を基点に時計台・北海道大学・同附属植物園・円山公園・札幌神社・大倉シャンツェ・狸小路・すすきの
新札幌市史 第5巻 通史5上 (〔勤医協病院〕)

二十一年九月、全日本進駐軍要員労働組合(のち全駐労)北海道支部が、市内狸小路八丁目(南3西8)の事務所二階
新札幌市史 第4巻 通史4 (「紀元二千六百年」行事と新体制)

行列に参加した人びとは「奉祝紀元二千六百年」の幟の立ち並ぶ沿道を日の丸の小旗を手にして行進し、狸小路の
新札幌市史 第5巻 通史5下 (ライラックまつり・夏まつり)

夏まつりには三十年より狸小路商店街の狸まつり、四十年よりすすきの地区のすすきの祭り、定山渓温泉のかっぱ
新札幌市史 第2巻 通史2 (年中行事)

また狸小路の大黒座や寄席等が賑わうのも正月風景の一つであった。  ,十六日は商店の丁稚、小使、番頭、下女等の年二回の藪入りで、この日を楽しみに働いてきた人びとで狸小路の勧工場,神楽や踊、花火も催され、狸小路など盛場が賑わった。  
新札幌市史 第5巻 通史5下 (都心部における攻防)

このため地下街を含めた三越、狸小路、丸井を回る「黄金回廊」から「南一条通」に比重が高まりつつあったショッピングコース,に、新たに「大通側」が加わるとともに、五十一年以降オーロラタウンの通行量が減り、狸小路や西二丁目の二番街商店街
新札幌市史 第5巻 通史5下 (札幌まつり)

めたのは、華やかな神輿渡御(みこしとぎょ)と山車(だし)行列、創成川沿いの見せ物小屋や露店、デパート・狸小路
新札幌市史 第3巻 通史3 (大日本麦酒札幌工場)

大正三年には狸小路に札幌ビヤホールが開業したらしく、翌年の一周年記念大売出にはコップ一杯三銭との広告をだしている,そして狸小路四丁目に桜ビール直営のビヤホールもつくられ、朱塗の五重の塔が異彩を放ったという(札幌狸小路発展史
新札幌市史 第4巻 通史4 (【主要参考文献・史料】)

公文雑纂』(昭2~18都市計画関係 国公文)、『内務省史』、土木技術会舗装研究委員会『北海道舗装史』、『狸小路発展史
新札幌市史 第2巻 通史2 (開拓地から都市へ)

また前述したように、二十年代には下水や屎尿処理など劣悪な生活環境への批判や、薄野遊廓、狸小路など都市景観
新札幌市史 第5巻 通史5下 (シアターキノと若手映像作家たち)

十年四月には南三条西六丁目の南三条グランドビル二階(狸小路六丁目)に移転し、二館計一六三席の映画館として
新札幌市史 第5巻 通史5上 (料飲店の営業停止)

ニューグランド(南3西6)、北大病院内共済会食堂、北大内学生食堂、加藤(琴似駅前)、吉田(狸小路6)、
新札幌市史 第5巻 通史5下 (市街地再開発)

市街地再開発事業は、市街地改造法に基づく札幌駅前通の拡幅(昭38~45)、防災建築街区造成法に基づくすすきの・狸小路
新札幌市史 第5巻 通史5下 (外食産業の多様化)

観光客の減少やビルのテナントに入居したことで経営に行きづまっていたが、バブル崩壊後空き店舗のめだっていた狸小路六丁目
新札幌市史 第5巻 通史5下 (ススキノと郊外の歓楽街)

またバブル崩壊後テナント料が下がった狸小路以北、特に札幌駅前周辺でも勤務先の近いサラリーマンや家族連れを
新札幌市史 第3巻 通史3 (【主要参考文献・史料】)

札幌歴史地図』(明治編、大正編)、大霞会編『内務省史』第三巻、『札幌区実地明細絵図』、『札幌繁栄図録』、『札幌狸小路発展史
新札幌市史 第3巻 通史3 (【主要参考文献・史料】)

統計報告』綴(札幌市行政文書)、北海道製綱株式会社『第七回営業報告書』(大正十年自七月至十二月)、『札幌狸小路発展史
新札幌市史 第5巻 通史5上 (買い出しとヤミ市)

青空市場は二十年秋、狸小路の一丁目と創成川東岸に出来て、ヤミ市とよばれる盛り場となった。,ヤミ市の役割は次第に低下し、狸小路一丁目のヤミ市については、二十三年四月五日をもって姿を消した(道新 
新札幌市史 第4巻 通史4 (戦勝と祝賀行事)

そして、狸小路商店街では一斉に「南京陥落」のボンボリと提灯を掲げ、各商店では戸毎に軍歌のレコードをかけて
新札幌市史 第2巻 通史2 (高騰する地価と家賃)

たとえば二十九年の狸小路付近の九尺二間(三坪)の家賃が月三円以上もした。
新札幌市史 第5巻 通史5上 (民間市場の郊外進出)

一方二十五、六年ごろからは、かつては狸小路、すすきの、四丁目、駅前に限られていた商店街が商品の出回りや
新札幌市史 第8巻1 統計編 (総説)

1910年の地図には狸小路に東から札幌亭・南亭・遊楽館・開進亭と小屋が立ち並ぶさまを記す(札幌と映画 ,1912年(明45)3月に札幌ではじめての活動常設館である第二神田館が狸小路に開館する。
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