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札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

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新札幌市史 第3巻 通史3 (新琴似兵村からの出兵)

新琴似兵村からの出兵 新琴似、篠路兵村に入地していた屯田兵は、いまだ後備役中であったために召集を受け,新琴似兵村の場合八二人が召集を受け、そのうち約半数の四二人が歩兵第二五聯隊に属していた。,後備役、補充兵役に召集令状が出され、「挙村軍人たる屯田兵とてなかなか以て混雑を極めた」という(以下『新琴似兵村史 / 新琴似兵村からの出兵
新札幌市史 第2巻 通史2 (【主要参考文献・史料】)

【主要参考文献・史料】 『琴似兵村給与地配当調』『山鼻兵村給与地配当調』『新琴似兵村給与地配当調』『,篠路兵村給与地配当調』(以上北大図)、『琴似兵村誌』、山田勝伴『開拓使最初の屯田兵―琴似兵村』、『山鼻創基八十一周年記念誌,』、『新琴似兵村史』、『新琴似百年史』、『篠路兵村の礎』、『屯田百年史』、上原轍三郎『北海道屯田兵制度
新札幌市史 第2巻 通史2 (【主要参考文献・史料】)

【主要参考文献・史料】 上原轍三郎『北海道屯田兵制度』、『琴似兵村誌』、山田勝伴『開拓使最初の屯田兵,―琴似兵村』、『山鼻創基八十一周年記念誌』、『屯田兵』(さっぽろ文庫三三)、『琴似兵村給与地配当調』『
新札幌市史 第2巻 通史2 (道路・排水溝・風防林)

にふれた通り開村に先だち北海道庁は通称茨戸街道、現琴似停車場・新琴似線をつくったが、これが札幌市街や琴似兵村,と新琴似兵村を結ぶ唯一の道路であった。,写真-4 安春川(平成3年4月撮影)  新琴似兵村の風防林として存置されたのは一カ所で、幅一五間,また、篠路兵村第二横線を新琴似兵村の第三横線に直結させたことは前にもふれた。,新琴似兵村の北西に篠路兵村の追給地が置かれたので、新琴似兵村の四~六番通に接続する道路とこれに直交するものを
新札幌市史 第2巻 通史2 (前期兵村の変貌)

ここに琴似兵村の移住年に関わる疑問がある。,上原轍三郎『北海道屯田兵制度』の屯田兵村名戸数位置を表示した中で、琴似兵村は明治八、九年の移住とともに,この記載によったと思われるものに、二十、二十一年琴似兵村に兵営が補充されたと述べているが、もし事実とすれば,琴似兵村の概況  屯田兵第一大隊第一中隊琴似兵村に於ける昨年中の雑況は、戸数二百四十、人口千四百九十
新札幌市史 第4巻 通史4 (琴似村と町制の施行)

大正十二年四月に一級町村制の施行を迎えたが、翌十三年には琴似兵村の開村五〇年記念に当たっており、盛大な,記念塔と記念館の建設、資料の収集と沿革史(琴似兵村誌)の発刊などであったが、記念塔は十三年九月五日に除幕式,この結果、新琴似兵村では小学校の移転・改築、神社の改築、公会堂・教員住宅・巡査駐在所・村医住宅・道路の,改修、篠路兵村では土功組合工事費への助成、小学校・教員住宅の建築、神社の造営、琴似兵村では小学校敷地の,写真-10 琴似町(村)長の清水凉(左)と安孫子孝次(右)  安孫子孝次は琴似兵村に入植した倫彦
新札幌市史 第2巻 通史2 (殖民的評価)

琴似兵村  五七パーセント (開村後二五年)  山鼻兵村 五二パーセント(同  二四年) 新琴似兵村,琴似兵村は予備役が終わると「従来の束縛を脱したので、職業の都合上、他に転住する者あり。,又失敗して退去する者あった」(琴似兵村誌)という。,新琴似兵村は開村後二四年、予備役終了後一六年の四十四年で在村者八八戸、四〇パーセントが残っていたが、その,全数の六分強にしか当ってない有様であり、さればとて他に転出せしものも余り香しい者は少ないと云う」(新琴似兵村史
新札幌市史 第2巻 通史2 (共同の財産)

琴似兵村へは三十四年登記時に三三三万坪余の公有地が給与されていた。,新琴似兵村へは琴似兵村公有地に隣接する発寒川上流の山林地が広く給与された。,ほかに月寒村厚別、上下手稲村に分散するが、官用地とともに新琴似兵村に近接する土地の編入替が注目される。,前述の基準面積にくらべれば三二万坪ほど少ないが、そのほとんどは琴似兵村分の減である。,なお表4の公有地面積のうち琴似兵村については、その一部(約一一三万坪)がすでに処分済のため含まれていないので
新札幌市史 第2巻 通史2 (住区画)

住区画 新琴似兵村は琴似村の北部、現在の新川と道道琴似停車場・新琴似線(通称茨戸街道)に挟まれた土地,この道路は明治十九年兵村設置のため琴似兵村の本通を北東に延長したもので、これと交わるように西方に向けて,兵村の統括管理面よりも営農重視のあらわれとみられ、琴似兵村で体験した不便を改良した型といえる。,篠路兵村は新琴似兵村との間に風防林を設定し、それを境に隣接しているが区画の基軸方向は二五度ほどずれている,管理共用施設は三番通と第二横線の交じわる一角にあり、住区画からはみ出ているわけではないが、どちらかというと琴似兵村型
新札幌市史 第2巻 通史2 (道路・用水路・風防林)

琴似兵村では札幌市街や小樽港と結ぶ幹線道の役割を道道宮の沢北一条線北五条手稲通(旧国道五号線、通称札樽国道,特に七年の暴風雨で橋などの破損がひどく、琴似兵村開設を機に、九年八月から大改修を施し、土盛り、砂利敷きなどを,すなわち現在の道道琴似停車場線琴似栄町通(通称琴似本通)のもととなり、後にこれを北へ延長し新琴似兵村と,琴似兵村の用水路は発寒川より導水して、十四年に開削した。
新札幌市史 第2巻 通史2 (後期二兵村)

をもって始まる新第一大隊第三中隊は、現北区新琴似(条丁目)、新琴似町、麻生町、新川一帯を用地とし、新琴似兵村,この時点で第一大隊が再編され、琴似兵村(旧一、二中隊)を第一中隊、山鼻兵村(旧三、四中隊)を第二中隊とし,また、日清戦争復員の日をもって大中隊の編成替があり、新琴似兵村を第一大隊六中隊、篠路兵村を同七中隊としたが,人馬の往来はいずれも琴似兵村を経て現在の道道宮の沢北一条線北五条手稲通(旧国道五号、通称札樽国道)に出
新札幌市史 第2巻 通史2 (兵村の副戸長設置)

琴似兵村には九年六月六日に高島量三が副戸長となり、七月二十日に小松勇が総代となった。,ただし山鼻村の場合、琴似兵村と違い兵村のみでなく、山鼻村全体を管掌する副戸長であり、総代などの併置はなかった
新札幌市史 第2巻 通史2 (後期兵村の給与地)

後期兵村の給与地 新琴似兵村では入地当初(二十年入地者は五月二十日付、二十一年入地は五月二十六日付),二十六年からさらに新琴似兵村の北西に隣接する二六画を給与地に充てたが、一万五〇〇〇坪にはほど遠く、用地確保難
新札幌市史 第7巻 史料編2 (六 屯田兵村の開設)

六 屯田兵村の開設 (一)琴似兵村建設の経緯と兵屋の密居制に関する件 七七 邨橋大主典兵村地取極に, 一兵村に要する桑苗の本数(明治七年八月一九日) 九一 桑苗購入の件(明治七年九月五日) 九二 琴似兵村
新札幌市史 第2巻 通史2 (公有地の処分)

公有地の処分 琴似兵村の公有地がこのように早期に処分され始めたのは、先発兵村の苦しい試行とみられる。,旧屯田兵と子孫の手に残らないのではないか、等々の不安が強く、不動産を換金して運用すべしとの意見になり、琴似兵村,新琴似兵村で住区画周辺の公有地処分は早かったが、遠方の土地は長く部有財産として維持され、それがかえって
新札幌市史 第2巻 通史2 (家族教令)

新琴似兵村が「他兵村に比してあらゆる点に於て、出色の栄誉を荷ふに至れるは、該教令をよく遵守せる結果」(,新琴似兵村史)と、入地五〇年後に述懐しているように、兵村特有の気風が生成されていったのである。,写真-5 琴似兵村の現況(平成3年4月撮影)
新札幌市史 第2巻 通史2 (募兵)

十八年は江別、篠津、野幌へ入地、十九年から根室市の東西和田兵村開設に取りかかり、翌二十年、いよいよ新琴似兵村,   明治十九年九月十七日(竹内運平ノート 屯田兵関係史料)  この案による招募計画は札幌(すなわち新琴似兵村,輸西兵村入地者を下ろし、小樽港に二十年五月十九日着、一泊して翌二十日汽車で琴似駅に向かい、琴似駅からは徒歩で新琴似兵村,#160; 256  0  計画数は『竹内運平ノート』、実績の内新琴似分は『新琴似兵村史
新札幌市史 第2巻 通史2 (兵役)

〈新琴似兵村二十年入地者〉 兵村内では「古兵」とか「二十年組」と呼ばれる。,〈新琴似兵村二十一年入地者〉 兵村内では「新兵」とか「二十一年組」と呼ばれる。,なお『新琴似兵村史』に後備役編入、兵器返納式の模様を次のように伝えている。  
新札幌市史 第2巻 通史2 (募兵)

と決した者は個別家族ごとに五月三十日までに入地し、三県出身者の中で到着後分家独立した屯田兵員を加え、琴似兵村,琴似兵村の不充足兵四〇人と新設予定の山鼻兵村へ移す二四〇人、計二八〇人を募ることになる。,第二次募兵は九年五月二十九日までに家族とともに到着し、琴似兵村琴似村へ三人、発寒村へ三二人が配置され、,これにより琴似兵村(第一中隊)は二四〇人の編成を完了したが、山鼻兵村(第二中隊)では不充足だったため、
新札幌市史 第2巻 通史2 (食用作物)

だれもがあこがれた稲作も実験され、琴似兵村では発寒から上手稲にかけて水田を分隊の共同作業でつくり収穫を,授産事業は順調に発展定着したものもあるが、総体的には「遺憾ながら十分の成績を挙げることが出来なかった」(琴似兵村誌
新札幌市史 第2巻 通史2 (自治の芽ばえ)

新琴似兵村では積穀資金の個人返還を希望する者が多く、中隊本部に預金高を知りたいと願い出る者がいたが、聞,このため新琴似兵村のみに積穀金の一部が払い戻され、あとは屯田銀行の株券に変わったが、それが兵員兵村にどのような
新札幌市史 第3巻 通史3 (新琴似)

新琴似兵村の公有地であった新川は、二十六、七年頃から小作として入植が行われるようになり、三十四年頃には
新札幌市史 第2巻 通史2 (開墾)

琴似兵村では入地初年共同開墾作業を行い、各戸に未開地を給与しなかったため、勤惰の差を生じ不満が多く、翌九年,写真-11 共同開墾を始めるために集合した琴似兵村の人びと(北大図)  両兵村における開拓使廃止までの
新札幌市史 第2巻 通史2 (兵員)

集計に使った資料は、新琴似兵村が『新琴似兵村史』(昭和十一年刊)『新琴似百年史』(昭和六十一年刊)、篠路兵村
新札幌市史 第2巻 通史2 (前期兵村の給与地)

前期兵村の給与地 琴似兵村で八年入地当初給与された土地は宅地一五〇坪にすぎず、農耕目的地は皆無だったので,琴似兵村のこうしたコマ切れ給与の不便を是正するため二十五年から地区改正に取り組んだので、それ以前の土地配当実態
新札幌市史 第2巻 通史2 (北の農村建設)

ここに大分県出身屯田兵の実況視察に来道した県庁職員末富五郎の新琴似兵村調査報告を引用し、明治二十五年夏,午後、琴似村字新琴似兵村ヲ見ル。
新札幌市史 第2巻 通史2 (説教所の設立)

平岸村―のち順正寺)、二十四年(真宗本願寺派、丘珠村―のち高恩寺)、二十五年(日蓮宗、経王寺教会所、新琴似兵村
新札幌市史 第2巻 通史2 (管理共用施設)

写真-3 新琴似兵村中隊本部跡(平成3年4月撮影)  四番通をはさんで中隊本部の向かい側が練兵場,四番通の北詰、道路予定地に樹木を縦と横とに積み重ねて、之を射朶として中隊に於ける射撃自習場とした」(新琴似兵村史
新札幌市史 第4巻 通史4 (忠魂祭と公葬)

が各町村に建碑されるようになるが、最初に建碑したのは屯田兵の後備役として出征し七人の戦死者を出した新琴似兵村
新札幌市史 第2巻 通史2 (住区画)

発寒川沿岸の場合は、琴似村と発寒村にまたがる両岸を合わせて琴似兵村と通称している。  ,これが琴似兵村の地割りと大きく異なる点で、さらに住居地の周囲をとりまくように多くの農耕地を区画し追給に
新札幌市史 第2巻 通史2 (病院と学校)

そこで琴似兵村に八年十一月札幌病院の出張所を開設し医師を派遣(琴似病院とか医院と呼ぶこともある)、山鼻兵村,の生活を回想し「現役中は兵屋の附近は勿論道路に至るまで一本の草を生せしめず一片の芥をも散せしめず」(琴似兵村誌
新札幌市史 第2巻 通史2 (士族授産)

十年ロシアにおもむいていた榎本武揚全権公使にコサック屯田の授産資料の収集を頼んだり、十二年永山武四郎に琴似兵村
新札幌市史 第2巻 通史2 (家族)

表-3 後期兵村の戸口数(明治20年~28年) 戸口 新琴似兵村 篠路兵村 合 計 戸 人 口 戸
新札幌市史 第2巻 通史2 (新しい農業の導入)

日常使用する農具は、扶助規則による給与品をみてもほとんどが在来型の農具であり、高度の集団移住村である琴似兵村
新札幌市史 第2巻 通史2 (平時の練兵)

琴似兵村の場合は入地時に銃器がそろわず、当初は伍長だけを対象になされるが漸次全兵員に及び、子弟や養子が
新札幌市史 第2巻 通史2 (後期の兵村)

すなわち新琴似兵村と篠路兵村の新規設置をもたらし、札幌市街を東西南北でとり囲む兵村配置の完了をみる時期
新札幌市史 第5巻 通史5下 (国指定文化財)

国指定文化財 琴似屯田兵屋が道文化財へ指定された後、琴似兵村の文化財保護と史跡指定のために、昭和四十二年九月
新札幌市史 第2巻 通史2 (養蚕農家)

村では開拓使が札幌製糸場を設立した時、琴似兵村と同様村民を派遣し、養蚕・製糸・機織について技術伝習させていた
新札幌市史 第2巻 通史2 (製麻製網)

琴似兵村では兵屋の東部に共同栽培地を設定し、九年から播種をはじめ、順調な生育をみた。
新札幌市史 第4巻 通史4 (土功組合と用水組合)

土功組合一覧表 組合名 所在地 設立年月日 目的 工事竣工 工事費 反当工事費 許可反別 既成水田反別 新琴似兵村
新札幌市史 第2巻 通史2 (装備・施設)

琴似兵村でははじめ週番所の東側(現琴似神社辺)をこれにあてたが、授産所の建設などで手狭になり、南側(現北五条手稲通
新札幌市史 第3巻 通史3 (町村役場)

大正六年村長になった清水凉は大乗的立場から旧琴似兵村側と旧新琴似篠路兵村側の調停をはかり、大正九年ついに
新札幌市史 第3巻 通史3 (地域の諸相)

山田貞介は、明治七年に最初の屯田兵として会津から琴似兵村に移住し、西南戦争、日清日露戦争に従軍した。
新札幌市史 第2巻 通史2 (非常時の出兵)

九州からの帰途船中で琴似兵村の東条敬次郎が死亡し、札幌帰着後も発病する者が続き、西郷病と呼ばれて伝染が
新札幌市史 第2巻 通史2 (火災)

焼失家屋札幌村三七戸、新琴似兵村七戸、篠路村一一戸、焼失原野二里四方。
新札幌市史 第2巻 通史2 (兵屋)

表-1 兵屋建築戸数と費用 兵 村 戸 数 完成年月 費 用 1戸当費用 1坪当費用 井戸付設費 琴似兵村
新札幌市史 第3巻 通史3 (【主要参考文献・史料】)

」(山田文庫 道図)、「町村誌資料」『札幌の歴史』第四号、「北海道護国神社明細帳」(国立史料館)、『琴似兵村史
新札幌市史 第4巻 通史4 (「村社」をめぐる競合)

そして基本財産として琴似兵村会より八三町三反歩の寄付を受け、十九年九月六日に郷社の昇格をはたすこととなる
新札幌市史 第7巻 史料編2 (解題)

また山鼻兵村の招募兵は琴似兵村へ招募の宮城、酒田、青森の三県に置賜、岩手、秋田の各県を加えているが、共
新札幌市史 第2巻 通史2 (諸村の人口の増加)

白石村は大谷地、厚別地域の開拓が進み、篠路・琴似村には二十~二十二年にかけ篠路兵村、新琴似兵村ができたことが
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