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札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

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新札幌市史 第2巻 通史2 (市(町)会所・区務所の位置と名称)

市(町)会所・区務所の位置と名称 その後町会所は現在の南二条西二丁目にあった町長屋の一棟に移されるが,、『札幌区史』によると移庁は五年十一月であり、同年十二月三日に改暦となった六年一月一日をもって札幌市会所,一方、『札幌滞在事務取扱備忘誌』には六年一月四日の項に、「是迄ノ町会所大破ニ相及候間町長屋一番ノ一番ニ,六年十二月市会所は後志通一〇番地(現大通西三)の商館官舎に移り、八年春その東隣(後志通九番地)の平屋官舎,七年二月大小区制がしかれた後も市会所と呼ばれた名称は、その後第一大区区務所と呼ばれるようになった。 / 市(町)会所・区務所の位置と名称
新札幌市史 第5巻 通史5上 (公民館と地区集会所)

公民館と地区集会所 明治末期から戦前にいたる社会教育は、実業補習学校や青年訓練所など学校教育を補足する,その後、手稲町及び豊平町との町村合併によって後述の月寒公民館と手稲公民館が設置された。,二十年代後半期以降、既設の出張所に加えて併設された地区集会所については、その建設にあたって地区住民の醵金,と同時に、この地区集会所が地域によっては地区公民館と遜色のない活動を行って来たことも確かである。 / 公民館と地区集会所
新札幌市史 第2巻 通史2 (町役人時代の執務場所)

そして後述の旧本陣への町会所開設の時期と合わせ考えると、執務場所は南一条東一丁目とするのが妥当のようである,現南二東一)に本陣が建設されたことにより、執務の場所は現在の南一条西一丁目の旧本陣跡に移され、ここを町会所,町会所の名称は四年十一月十日、町代及び町代見習から開墾掛へ出された深道繁次郎の採用に関する書付の中に見,(市中諸願綴込 北大図)  七月中に市中小走として許可されていた者を改めて町会所小走に「被仰付被下置度,小走を町会所の管掌下に置くことと、高橋宅から移転して公的施設を設定したことを合わせ考えると、ここに町会所 / 町役人時代の執務場所
新札幌市史 第2巻 通史2 (開墾掛と町役人)

開墾掛と町役人 開拓使が札幌を建設しはじめた当時は、町という体制は全くなかった。,現在までのところ町役人の任命で最も古く確認できるのは、札幌市中には明治五年二月町代であった清水三次郎が,この町代見習は初心者としての見習ではなく、副町代という意味である。,四年十月町代見習に大友甚作、十一月市中小走(町会所小走)に深道繁次郎、十一月高橋免職、大友に町代任命、,この当時町役人たちが執務を行うところを町会所とよんだ。   / 開墾掛と町役人
新札幌市史 第4巻 通史4 (大正期の教派神道)

に帰任したことが契機となって教会所を失い、一時退転に向かうが、五年八月に就任した後藤大吉の尽力により、,南二条東四丁目に教会所を再建することになる。,そして十年八月に教会所の増築を図るようになる。,その折の「趣意書」には以下のように述べられている(黒住教札幌教会所七拾年史)。  ,然ルニ我本道十一州ノ首都タル札幌区ニ於テスラ教会所トシテ見ルニ足ルベキモノ無キハ誠ニ遺憾至極ナリ。
新札幌市史 第2巻 通史2 (戸長制と札幌市中の事務)

その後十月十七日町会所の事務量が増加して来たためだろうか町用掛が設置され、常陸重次郎、浜中伴蔵、藤井喜三郎,事務の煩雑化にともない六年二月札幌市会所も事務分掌がはじめて規定される。,会所内を検査方・出納方・受付方に分課し、検査方は市中一般の事務、出納方は貸与受納及び市会所経費、受付方,この区長たちと市会所との関係は、区長たちが市会所の上位にいて、市在の事務を細大となく合評し、区長は一・,六の日、権区長は隔日に市会所へ出頭して市会所の事務を監督するものである。
新札幌市史 第5巻 通史5下 (町内会体制の確立)

また同年四月、同連合町内会傘下の単位町内会も、本通共栄町内会を五分割、南郷自治会を四分割、中央東親交会,第一七分区町内会までの町内会が整備されている(札幌市中央区曙連合町内会創立二十周年記念)。  ,単位町内会、連合町内会ともに、次第にその数を増し、平成十五年には単位町内会数は二一〇〇を超え、連合町内会数,地域集会施設には、区出張所に併設された市管理の「地区集会所」、連絡所併設で住民管理(貸付)の「地区会館,市設置施設は地区集会所、地区会館、その他の合計。市民集会施設は住民が建設した住民財産を指す。   / 町内会体制の確立
新札幌市史 第4巻 通史4 (町村部の商業)

町村部の商業 豊平町では、大正十年前後の月寒聯隊正門前の月寒本通に食料品をはじめとする商店が連続・密集,また定山渓は、豊羽鉱山の需要と行楽・観光客需要により土産店、菓子店、飲食店が多かったという(豊平町史),しかし戸口の増加につれて商店も増え続け、「昭和七年頃の円山小売商連合会所属の小売商店は約百店」だという,していて、五円以上の買物をすると、琴似まで品物を送り届けてくれる」というサービスを始めたという(琴似町史,軽川に国領商店など一一軒、手稲東に久守商店など二軒、西野二股、星置に各一軒商店があったようである(手稲町史 / 町村部の商業
新札幌市史 第2巻 通史2 (札幌区役所の成立)

なお市会所・区務所・区役所の役員・吏員等の名前と分掌について、諸史料を検討してほぼ判明した分は、制度の,表-5 市会所・区務所・郡区役所の役員及び分掌一覧 ●明治6年2月の市会所役員及び事務分掌,浜中庄兵衛 事務分掌 検査方 市中一般事務 島倉仁之助 出納方 貸与受納と市会所経費,願伺届布告 山口吉太郎, 山口重次郎, 野島広吉, 小野新太郎, 前田市太郎 ●明治7年9月頃の市会所役員,綱島右源太 札幌区市街西創成町以西各町戸長 中川和吉 ●明治17年9月区
新札幌市史 第1巻 通史1 (慶応元年の人別帳)

表紙に「慶応元年石狩土人惣人別取調書上帳 改会所帳場」(写真3)とあり、当時のイシカリ役所管轄内のアイヌ,の全総数を記したもので、しかも改会所で作成されたものであった。,改会所がアイヌ漁場の収納、軽物交易などを含めてアイヌ関係の全般を担当していたことがわかる。,写真-3 「石狩土人惣人別取調書上帳」の表紙(石狩町 田中実氏蔵)  この人別帳の最末尾とみられる断簡,この時、上川チクツヘツ(現秩父別町付近)、中川トツク(現新十津川町付近)、ユウバリ、サッポロの四番所がおかれた
新札幌市史 第4巻 通史4 (寺院・説教所の増加)

次に表4は昭和十四年二月に札幌市が調査した仏道説教所・教会所の一覧である。, 同  豊平説教所 豊平1-4 大10. 4 .21 大10. 1 .31 海野覚照 三門徒派教会所,南2西9 大 4 . 1 . 8 大 8 .12. 4 八力真海 80人 日蓮宗経王寺所属妙法喜徳教会所,南1西8 大 6 . 9 .10 大 8 .11.28 沼上光学 日蓮宗経王寺所属本門喜徳教会所,曹洞宗説教所 南11西13 大14. 8 .20 佐藤宥道 1,000人 新義真言宗智山派湯殿山教会所
新札幌市史 第1巻 通史1 (本陣経営の転変)

阿部屋伝次郎願之通本陣御免申渡候間、以来御用状幷先触等ハ石狩町会所ヘ差出候様、其場所支配人ヘ其旨御達置可有之候,このため、イシカリ市中の住民組織である町会所が、「御通行取扱も市中一同にて相勤可申」(函館日記留)と、,町会所が代行した。,先に例証した荒井金助の鈴木歳郎への書簡が、町会所に連絡先を指定したのはこのことによる。  
新札幌市史 第4巻 通史4 (神道系宗教結社)

清久豊見 11人 官幣大社宗教結社惟神会札幌支部 北8西15 成田藤太郎 40人 石鎚神社崇敬組合集会所,南1西14 木野キヨ 11戸  同  同 伊藤集会所 南5西11 伊藤勝太郎 30人 神習教敬神講社,円山南5西3 佐々木アキ 30人 御嶽教所属八二稲荷結社 豊平3-2 高田長太郎 50人 神道三山敬愛教会所属三山崇敬札幌講社,南1東7 岩国ハツ 50人  同 八穂講社結収所 南4西8 山形ハル 50人 石鎚教会崇敬組合石田集会所,北10西1 島田安次郎 15人  同 藻岩敬神教会所信徒結集所 円山南1-3 阿部ステ 35人  同
新札幌市史 第2巻 通史2 (区役所の庁舎)

新庁舎は洋風二階屋であり、区役所の傍らには総代人の会議等集会に用いる町会所が置かれた。
新札幌市史 第1巻 通史1 (開発方御用取扱)

この開発方とは漁場新開や農地開墾だけでなく、出産物を江戸に開設したばかりの産物会所に運送することを第一,喜三郎が江戸の産物会所に運送する荷物も、ここで川船に積み換えて送る方が安全有利だったのである。,藩の勘定所が仲介して町年寄や豪商にあわせ、那珂湊の穀会所関係者を呼び出したのも、この件でなかったか(穀御会所御用留,水戸藩の出金に味をしめたのだろうが、長岡藩は幕府に気がねして町人との個人的商談しか認めず、蝦夷地へ送ろうとした
新札幌市史 第7巻 史料編2 (一 区・戸長役場)

一 区・戸長役場 一 町代見習の任免(明治五年一月二五日)   二 副戸長の任命(明治五年四月七日,の任命(明治六年二月一二日)  一五 区長権区長についての心得(明治六年二月二一日)  一六 市会所,の事務分掌(明治六年二月)  一七 市会所副戸長交番で開墾局詰(明治六年二月)  一八 月寒村副戸長伍長,設置(明治一八年五月一四日)  五九 琴似外一か村戸長役場の移転(明治一八年五月一五日)  六〇 町会所,明治二〇年四月一日)  六六 豊平外四か村戸長他の任命(明治二〇年四月一八日)  六七 区役所と町会所
新札幌市史 第2巻 通史2 (口絵)

また民地の中の市会所、仮官邸、女学校など官設の建物についても明確に描かれている。,しかし札幌の町屋が創成川から渡島通(南1条通)を中心に発達した様がよくわかるなど、全体としては当時を知
新札幌市史 第2巻 通史2 (社会改良・慈善・衛生)

二十年六月札幌医学講談会の第一回を町会所に開催。講義、演説。機関誌として二十二年月報発兌。,町会所にてコレラ予防法が一般衛生上必要なことを講話。幻灯会。無料。 札幌医会 南三西二。,二十二年八月に町会所で開催された親睦会には三五〇余人が立錐の余地なく集まり、風琴合奏、日本語唱歌、英詩和訳
新札幌市史 第5巻 通史5下 (諸教団の教会)

諸教団の教会 金光教(本部岡山県金光町)は札幌にて明治三十一年以来の開教史をもち、表8にあるように六教会,しかし、六十年代に入り天尊、八条教会が解散となり、現在は①札幌教会(東区北七東一四)、②国光(豊平区旭町三,)、③喜徳(南区定山渓温泉西町一)、④南郷(白石区南郷通)の四教会となっているも、②③は休会中である。,黒住教(岡山市)の札幌教会所(南二東四、昭28・4・1)は四十九年十一月に新築し、五十五年に開教七〇年,を記念して『黒住教札幌教会所七拾年史』を発行している。
新札幌市史 第2巻 通史2 (新聞縦覧所の設置)

僻遠ノ地内地日進ノ景況ヲ知ルモ自ラ遅滞セバ大ニ政事ノ利害ニモ関係候儀ニ付、当掛官員自費ヲ以」縦覧所を町会所中
新札幌市史 第4巻 通史4 (金光教)

まず大正十二年十月十三日に白石小教会(白石町6番地)が設置となっていたが、白石方面は十一年三月から清水三太郎,金光教札幌教会所では、教会長が西村道雄(大15・7・18)、西村茂(昭13・7)と交代しているが、昭和七年五月十四日
新札幌市史 第2巻 通史2 (区役所)

近代日本の地方制度は十一年の三新法(郡区町村編成法、府県会規則、地方税規則)と十三年の区町村会法により,基礎が据えられたが、北海道は郡区町村編成法を除きこれら法規の適用除外地とされ、函館で区町村会法による区会,二十一年の市制・町村制も北海道に施行されず、三十二年の北海道区制までは札幌県治の行政機構が手なおしを経,(中略)傍に町会所あり。十八年の建築にして建坪八十坪五分あり。,写真-2 札幌区役所と町会所(札幌繁栄図録) 写真-3 大通西3丁目に新築した区役所 (北海道毎日新聞
新札幌市史 第2巻 通史2 (大小区制の導入)

大小区制の導入 札幌での町体制が整備されていく一方で、政府の町村統制も進んでくる。,その一つが戸籍吏であった戸長を地方の町村の管理者として掌握することであった。,五年四月太政官布告一一七号で、従来の町村役人を廃止し戸長・副戸長と改称することとして、従来の町村役人の,まず「樽代肴料ナトヽ相唱旧節句或ハ此ノ地へ移住之節等戸長副以下へ贈リモノいたし候よし」であり、次いで「町会所,これにより、町役人等が旧来の慣行で町村を支配する方式を廃止し、町村の官吏としての立場が強調されることになる
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリ通過の第一報)

フルヒラより弐拾壱里半余 イシカリ川 五六町川路を下り、海岸草生の場所出離、海岸随ひ、一里余にて,右会所前川よりヒヽと申所迄、船陸とも通路有之。
新札幌市史 第2巻 通史2 (区入費から協議費へ)

区入費から協議費へ 札幌での町(市)会所の経費を賄うための、後の地方税に当たるものの徴収は、四年四月
新札幌市史 第3巻 通史3 (相次ぐ新寺の創立)

大10現在) 寺名 宗派 創立 所在地 檀家数 檀徒数 大谷派本願寺別院 大谷派 明 3年7月 山鼻町,南4西5 1,103 5,515 経王寺 日蓮宗  13.4.1 豊平町 550 3,300 新善光寺,180 - 上宮教会 真言宗  43.1 北8東2 100 290 喜徳教会所 日蓮宗  44.11,4.1 南2西9 200 280 妙法喜徳説教所 日蓮宗   5 北7西2 100 413 正中教会所,町村別にみると人口、面積が最も大きかった豊平町に七カ寺あり、ついで琴似・白石村に各五カ寺があった。
新札幌市史 第2巻 通史2 (開拓使の性格)

そして三年閏十月九日に至り、その太政官内の開拓使庁を廃して開拓使東京出張所とし、東京小網町稲荷堀の北海道産物会所
新札幌市史 第1巻 通史1 (共同体意識の成長)

内容は鮭漁のルールをはじめ役鮭のきまり等漁業のすすめ方が中心で、それに町内の生活規則などがつけ加えられ,その結果が〝石狩漁場条目〟として住人に達せられ、町づくりの規範となった。,こうした住人の生産と生活の用務を直接担当したのは改役所(のちに漁場改会所という)であるが、イシカリ役所,たとえば文久三年阿部屋が本陣を返上し、イシカリの町は混乱、衰微に向かいそうになると、困難をのりきり景気回復
新札幌市史 第2巻 通史2 (北海道開進会社)

明治十二年八月二十一日に創設許可となり、この年の九月から十四年六月まで全道に三八カ所、面積にして一四万四〇〇〇町歩,十四年六月の出願では下手稲村に約六〇〇万坪の仮割渡しが許可となり、八月ここに同社の第五会所(下手稲村四五番地
新札幌市史 第2巻 通史2 (用達の店々始末)

島田八郎左衛門と札幌との関係については、六年二月札幌本陣(東創成町、南二東一)を七〇〇〇円一〇カ年賦で,翌七年十二月黒田長官は自ら大阪へ出向き、貸付会所について状況を視察して島田組手代の奸計を発見し、札幌本陣並
新札幌市史 第2巻 通史2 (帝国憲法発布式)

、憲法発布を記念して八〇歳以上の老人には金員が下付されることとなり、三月二十二日札幌区内では二七人が町会所
新札幌市史 第1巻 通史1 (勝右衛門)

一つは箱館の万延元年九月調の『内澗町、会所町、大工町人家幷家業方書上』で表紙には人別調書とある。,その大工町一丁目に「一 イシカリ出稼 市蔵店 水戸旅人五十嵐勝右衛門」の一行があり、イシカリ出稼は家業,一  加茂(現山形県鶴岡市)よりの誂ひ書状、内澗町万上屋喜八、大工町五十嵐勝右衛門殿へ罷越相届申候。,久々の対面にて過越候事、又蝦夷地等の事、色々咄合仕候内、先年御町奉行の節、高橋様の御威光に罷成候間、幸
新札幌市史 第2巻 通史2 (紀元節・天長節)

それに比べ民主導の北海道学友会では、町会所を会場に祝賀大演説会を行った。
新札幌市史 第2巻 通史2 (用達の店々)

木村万平、伊坂市郎右衛門、宮辺長七らは共に東京で開拓使貸付会所から金を借り、雑貨を求め、五年八月手代を,その後九月東創成町五番地の木村の運漕店の東側(南一東一)にそれぞれ店舗を新築した。,来住した伝六は、西創成町(南大通西一)で太物雑貨の店を開いた。
新札幌市史 第4巻 通史4 (地区の仏教青年会)

諸町村でも仏教青年会が生まれている。白石村に明治四十二年に白石聯合仏教青年会が創設されている。,豊平町には大正十一年に親鸞主義をとる月寒阿修羅会が本願寺派の福住寺に創設されており(北タイ 大12・11,それ故に青年会でも集会所である倶楽部にて法恩講を催し、その後に追悼会や総会を開いており(北タイ 大8・
新札幌市史 第1巻 通史1 (林木の保護)

必要な資材をサッポロ山(現藻岩山一帯か)、ハッサム山(現手稲山か)、ヌフル山(野幌、現市東部から広島町),万延元年の大火を機にイシカリの町内では建物の草葺を認めず、柾屋根、板、土壁を奨励し、そのための伐木が多,ただ、採集物は箱館の産物会所が全て買い上げたので、確実な現金収入源ではあったが、自由な売買は許されなかった
新札幌市史 第1巻 通史1 (直䑺)

船改めは文久三年テミヤに会所を開設するまでは、イシカリ改役所で切手を渡し、ホリカムイ番所で船の出入を見張,なお沖の口税免除の一方で、イシカリ入津の船から、帆形一反につき一升ずつの米を徴収し町づくりの費用にあてる,〝帆形役〟があったという(石狩場所 札幌市街 石狩町資料)。
新札幌市史 第1巻 通史1 (住人の組織化)

文久元年(一八六一)二月、左官職人の長蔵(永住人)が「町並御人足繁敷相当り、老年の私無人にて(家族や使用人,これら住人をまとめていく町役人的な業務は、まず阿部屋に与えられた。,これは明らかな町役人だから、本陣と用務が重複し混乱を生じやすく、万延元年五月「市中願筋は勿論、何事に不寄,なお文久三年から永住人四人が組頭となり、月行司を定め輪番で町会所に詰め、町役人業務を行うことになったが,、イシカリに名主、年寄、百姓代の町三役が制度化されるのは慶応年間らしい。
新札幌市史 第3巻 通史3 (西四丁目通(停車場通)の景観)

同年北三条西四丁目に鉄道集会所が、また北五条西三丁目に北海道炭礦汽船本社社屋が落成する。,大通以南の元町屋地については、『札幌狸小路発展史』(昭35・9)が商家の景況の変遷を詳述しているので省略
新札幌市史 第2巻 通史2 (札幌建築開始)

4年の建築 起工月 地 名 建 物 数 竣工月 2月 札幌 六番官邸 2 4月 3 胆振通 町長屋,7 5 東創成通 本陣 1 7 東創成通 用度係詰所 1 6 東創成通 札幌病院病室 6 札幌 町長屋,写真-4 仮庁平面図(札幌往復 道文335)  また胆振通町長屋二棟とは『札幌区劃図』の現南二条西二丁目,に並ぶ長屋二棟のことで、後に市会所の敷地になるところに建設されたものである。,この北側には後にさらに長屋が二棟建設され、爾志裏通一番二番旧町長家(八年の官宅改称で渡島通裏仮官邸)と
新札幌市史 第5巻 通史5上 (教会数の増加)

戦後に札幌へ進出したのは神道天行居(しんどうてんこうきょ)(本部、山口県田布施町)であり、日新教会の創設,大成教禊教横尾社北海道第一分社として設立されたもので、市内商家の向井家の後援を受けながら、三十八年に神道禊教北海道教会所
新札幌市史 第2巻 通史2 (移住の新展開)

農民移住のうち(1)会社・大農場は、第四十四銀行頭取の岩橋徹輔がおこした北海道開進会社があり、下手稲村にも会所,)団体・集団組織は(2)と違い規則をもたない自由な集合体によるもので、和田郁次郎が首唱者となった広島町の
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリ改役所の設置)

これは万延元年(一八六〇)六月、漁場改会所と名を変えたように、場所内の漁業の監督、指導、経営の中枢機関,がうかがえるし(ヨイチ竹屋 御場所見廻り日記、安政六年六月晦日条)、御用達に借財を負う結果になった(石狩町史
新札幌市史 第4巻 通史4 (衛生組合)

大正十四年八月七、八日、札幌で第二回北海道市町聯合衛生組合大会が開催され(大7第一回)、両日を「衛生デー,市衛生組合聯合会所有の衛生会館(陸軍特別大演習本道行幸記念事業の一つとして北2西2に昭和十三年落成)は
新札幌市史 第5巻 通史5下 (郷土資料館)

手稲記念館(西区西町南二一)は、「手稲町は四十一年度予算で郷土館を建設、郷土資料を整備、展示して町民の,開発精神を高める計画」とあるように(道新 昭40・12・24)、手稲町にて郷土館建設の予定をたてていた,そのために札幌市によって昭和四十四年に、地区集会所を兼ねた施設として建設され、農機具、文書資料など七一五点,この月寒寮は五十八年三月に廃止となったが、廃止前より地元の町内会連合会では、建物の保存と資料館への利用
新札幌市史 第1巻 通史1 (蝦夷地警備と「在住」の任用)

半左衛門はシラヌカを、また新助はユウフツを持場とし、それぞれ五〇人ずつに分け、警備を主として耕作も兼ね、会所交易,彼らの身分は、原半左衛門手付同心の者ということで、扶持は蝦夷地御用掛のユウフツ会所入用金で賄われた。,その結果入地二年目で、数十町歩が耕され、大麦、小麦、粟、大豆、小豆、蕎麦、黒豆、菜豆、野菜類が収穫されたが
新札幌市史 第2巻 通史2 (村費)

村費 六年二月に開拓使は、町会所・村方取扱所の費用につき、四月と十月に二度にわけて開拓使から拝借した
新札幌市史 第6巻 史料編1 (解題)

播種物は五年、六年共に殆んど同様であるが、札幌村外十一ヵ村の総計作付反別は五年が三〇二町六反八畝十二歩,とあるに対し、六年は五二五町八反二〇歩となっている。    ,「市民商業惣高取調」(鶴岡市郷土資料館)は札幌町会所の用紙に記載されており、戸長らの調査によるもの。,これに「家作貸渡幷割貸同居他出取調」が付され、創成町外十ヵ通別に貸家、同居、他出者も調べられている。,工事関係者、前記の戸口統計によれば「職分」の数は千人を越しているが、それらの人々が札幌から退去しはじめ、為に町の
新札幌市史 第2巻 通史2 (官宅の払下げ)

創成町1~5号仮官邸 創成町1番長家 創成通史生長屋 2番使掌長屋 大通西1 91.666 20.75,58.0 8.0 宮田善七 9 5.7 5.10 渡島通裏仮官邸     1~5号 爾志通裏1番旧町長家町長屋,〃   6~10号 爾志通裏2番旧町長家五住居町長屋?,4.3 4.4 6年1月 町会所 町長屋 南2西2 37.5?,4.3 4.4 後市会所 (1番邸) 第1号洋造官舎,メジヨロ邸 北1西3 38.458 18.00
新札幌市史 第5巻 通史5下 (地域婦人会開設の学童保育所)

三十三年には琴似小学校(琴似町琴似)の教室で地区民生委員が学童保育所を開設したが(道新 昭34・3・6,翌三十四年に琴似中央小学校の校区である八軒中央婦人会がそれを引き継ぎ、会場を同婦人会所有の八軒福祉センター,四十年度末現在で一年生から六年生を対象に、北光子供園、美香保子供園、上町会館、発寒福祉会館、やよい児童会館
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