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札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

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新札幌市史 第5巻 通史5上 (出版社の疎開)

出版社の疎開 GHQの検閲が行われた時期は、そのまま札幌の出版ブームの時期と重なる。,戦災と統制物資であった紙の不足もあり、在京の出版社は疎開を開始する。,疎開対象地として長野、仙台、新潟、九州、北海道が選ばれたが、北海道は戦災による被害が最小であったことと,、出村によると以下のような条件を備えていたため、多くの出版社が疎開してきた(出村前掲論文)。,疎開出版社と〝札幌版〟譚4号)。 / 出版社の疎開
新札幌市史 第5巻 通史5上 (疎開跡地の整理)

により建物疎開を実施した。,一次疎開と二次疎開は、防火避難を目的とする路線的疎開と重要施設の防護を目的とする周辺地区の疎開を実施した,また三次疎開は、防火を目的として密集家屋の分散疎開を計画したが、八月敗戦となり実施されなかった(都市計画概要,保留した疎開跡地は、表3の地域である。,それに対し、強制疎開者たちで組織した疎開地返還促進期成会は、幅員を三〇メートルとし、商店街を形成して疎開者 / 疎開跡地の整理
新札幌市史 第5巻 通史5上 (「決戦教育」下の学校)

また国民学校の生徒も、少なからず疎開を強いられていた。  ,二十年一月に比べて七月には、札幌市内の児童は約二〇〇〇人減少したが、その多くは縁故疎開によるものであった,札幌市はこの趣旨に従って縁故疎開を奨励したが、この時点での疎開状況は、夏季の間だけの一時的な移動も含めて,この疎開について『道新』は「むしろ錬成のいい機会」(同前)であると見出しをつけている。  ,札幌市および周辺町村には、本州などからの緊急疎開がなされた。拓北農兵隊がその端的な例である。
新札幌市史 第5巻 通史5上 (北海道への集団帰農政策)

政府は、その対策として都市住民の地方への疎開と食糧増産を目的として、同三月に「都市疎開者ノ就農ニ関スル,この政策の一環として、同五月の次官会議で「北海道疎開者戦力化実施要綱」が決定された。,この要綱によれば、都市等の戦災者・疎開者・離島引揚者の中で「北海道ノ拓殖農業ニ積極的ニ挺身シ、戦力増強,具体的には、疎開者に取りあえず主要食糧の配給と一戸当たり一町歩の開墾地を貸与し、北海道農業に習熟した段階
新札幌市史 第5巻 通史5上 (戦後の文学状況)

特に北海道には疎開者、引揚者の中に優れた人材もおり、全道的に活況を呈していた。,印刷所が機能し、印刷用紙にも恵まれていたので、東京の出版社が数多く移ってきており、それにともない文学者の疎開,百田宗治、伊藤整、武田泰淳などの「疎開作家」も活躍し、彼らの影響によって市民の文学活動がリードされる面,疎開作家や出版社が引き揚げた二十四年以降は、主に経済的理由から同人誌の休刊や遅刊が続出し、文学界は一時低迷
新札幌市史 第5巻 通史5下 (盲・聾学校の義務化)

には、十八年七月に設置された庁立盲学校と、近藤兼市を校長とした私立札幌盲学校と私立札幌聾話学校(ただし疎開中,私立札幌聾話学校も疎開先で道立御影聾学校となったが、その後廃校となった。
新札幌市史 第5巻 通史5上 (敗戦の日(八月十五日)を境に)

敗戦の日(八月十五日)を境に 昭和二十年(一九四五)の八月十五日を、札幌市民は疎開先で、あるいは動員先,札幌市の東方に隣接する白石村(現札幌市域)に母と一緒に疎開していた萩原美代(大10生まれ)は、「八月十五日,入学したものの勉強そっちのけで江部乙村(現滝川市)に行かされ、八月十一日札幌に帰ったところ、実家は疎開準備,疎開中止。阿南陸相自刃(十四日)。
新札幌市史 第5巻 通史5上 (露店問題と市の対応)

一方、国会でも道路幅をめぐり問題となったのが南四条疎開跡地の問題である。,この地域は昭和二十年建物疎開の対象となり、戦後ここに幅四五メートルの道路をつくる計画が立てられた。,しかしその後疎開跡地の所有権をめぐる問題、道路幅を三六メートルにする案などが浮上し、計画はなかなか進まなかった,しかしその後も疎開跡地には屋台が出没し、退去した五八軒の露店商の正式な移転先の決定にも手間取り、臨時で
新札幌市史 第5巻 通史5上 (地元出版社の活動)

地元出版社の活動 講談社や青磁社のような疎開出版社の活動は、地元の出版業者に強い影響を与えた。,疎開出版社がどちらかといえば文芸誌が多いのに対し、地元出版社の出版物は、当時の食糧不足を反映してか農水産書類,疎開してきた本州の出版業者の指導と、多くの書籍を手がけた経験から、印刷会社の技術も飛躍的に向上した。
新札幌市史 第5巻 通史5上 (講談社と青磁社)

この出版点数は、疎開系出版社で最多であった(以上は譚2号、3号を参照した)。  ,二十二年になると東京の復興もあり、疎開していた出版社は引き揚げを開始した。
新札幌市史 第4巻 通史4 (戦争末期の隣組業務と生活の諸相)

続く七日の班常会では、公区長を入れて一〇人が出席、三月十日の東京都被災状況が話題となり、公区長より疎開,五月の役員会では、ラジオ体操、疎開衣料品、防空資材等について協議され、それらが班常会におろされる。,この月の回覧は、食糧、衣類等物資の配給のほか、腸チフス、種痘の日割り、疎開荷物、緊急軍事土木工事、国民義勇隊等,七月から八月にかけての役員会や班常会では、通常の配給、援農等とともに、疎開、避難場所の決定、空襲時の連絡方法,特に、八月四日の役員会では、人員疎開として国民学校生徒、老人等の縁故疎開や、アカザ、カタクリ、茶殻にいたるまでの
新札幌市史 第5巻 通史5上 (敗戦直前の転廃業)

敗戦直前の転廃業 敗戦間近の昭和二十年(一九四五)六月以降、空襲の激化にともない、札幌市内では「建物疎開,これにより防空疎開区域内の商工業者は転廃業を余儀なくされ、四五〇人のうち三一〇人は市内あるいは市外に移転
新札幌市史 第5巻 通史5上 (『日本未来派』『至上律』)

七月創刊の『至上律』は札幌に疎開中の青磁社から刊行され更科源蔵と青磁社の米岡来福が編集して二十四年二月
新札幌市史 第4巻 通史4 (札幌空襲と敗戦)

札幌市では、空襲に備えて家庭防空壕や待避壕の建設をいそいだり、学童に縁故疎開をすすめていたが、八月十日,には老幼者、妊産婦などの強制疎開に踏み切った(道新 昭20・8・10)。,また、空襲に際して市中心部では建物疎開も二十年四月と七月の二回にわたって強制的に行われ、市内白石町(南一条橋付近
新札幌市史 第5巻 通史5上 (敗戦と「玉音放送」)

札幌市でも道庁警察部からの示達により、人口疎開や建物の分散疎開などの戦時措置を一切中止することにした(
新札幌市史 第5巻 通史5上 (篠路村の場合)

他町村と異なって大地主所有地はなく、村内地主が子弟の分家用として他人に貸付けたり、戦争のため一時貸付地へ疎開
新札幌市史 第5巻 通史5上 (戦後開拓の意味)

だが、戦後の緊急開拓事業には、拓北農兵隊に代表される敗戦末期の都市戦災者疎開政策としての前史があり、拓北農兵隊
新札幌市史 第4巻 通史4 (戦時体制と幼稚園)

しかし、同幼稚園では一時閉園の措置を講じるとともに、ピアノの「疎開」を行ったことが記録に残っている(60
新札幌市史 第5巻 通史5上 (『北の子供』とプランゲ文庫)

主な執筆者は疎開中の百田宗治はじめ和田徹三、吉田十四雄、加藤愛夫、更科源蔵、支部沈黙、木村不二男、石森延男
新札幌市史 第5巻 通史5上 (『野性』『木星』)

初期には札幌に疎開中の百田宗治や伊藤整も寄稿した。三十四年二月まで二六冊を刊行。
新札幌市史 第5巻 通史5上 (『新規事業五年計画』と街づくり)

大学石山通拡築工事は疎開跡地整備事業としてコンクリート側溝を施工し、水締マガダム舗装を行う。,白石円山通拡築工事も疎開跡地整備事業としてコンクリート側溝を施工し、砂利を敷く。
新札幌市史 第5巻 通史5上 (観光行政の開始)

札幌山岳倶楽部」に改組)の幹事として野草採りを兼ねたハイキングを開催し、二十年四月二十三日には観光案内所に戦災疎開相談所
新札幌市史 第5巻 通史5上 (終戦直後のガス事業)

この応急復旧工事による整理と、戦時中に行われた強制疎開のために、二十年上期に対して二十一年上期は、需要家
新札幌市史 第5巻 通史5上 (復興と主要事業費)

できないとし、さしあたっては、主要道路の舗装と修繕、橋梁の架替え、側溝の改修など道路橋梁の特別整備、疎開跡地,市役所出張所三カ所新設費、警察吏員宿舎の建設費、消防車購入費、道路・橋梁・河川の新設・改良・修繕費、月寒街道疎開跡地整備費
新札幌市史 第5巻 通史5上 (グラビア)

年代中頃) 11 配給品に行列する市民 南1条西3丁目(昭和22年7月) 12 市内南4条通の建物疎開跡地
新札幌市史 第5巻 通史5上 (復興にむけて)

また水野眼鏡店(南2西4)など強制疎開にあった業者も、二十一年の跡地返還にともない元の場所で営業を再開
新札幌市史 第5巻 通史5上 (手稲隊の入植)

建具屋さん、古董商、指灸師、雑役、刺繡屋さん其の他さまざまな職業を過去に持った人々が戦災に会い、強制疎開
新札幌市史 第5巻 通史5上 (上原市長の就任)

の議事から札幌市に緊急に求められていた課題を順不同であげれば、物資・エネルギー確保、急性伝染病対策、疎開跡地整理
新札幌市史 第4巻 通史4 (関東大震災後の札幌の文化)

大正十二年にバイオリン一丁で札幌にやってきたことに象徴されるように、東京から札幌への文化人の震災による疎開
新札幌市史 第5巻 通史5上 (食糧難と学校)

さらに道庁では二十一年六月に食糧危機突破対策の一環として国民学校および中等学校生徒に対して食糧疎開を通達
新札幌市史 第5巻 通史5上 (戦後開拓の開始)

べてきたように、敗戦末期から北海道の緊急開拓事業は連続して行われていたが、拓北農兵隊のような都市戦災者・疎開者
新札幌市史 第5巻 通史5上 (敗戦直後札幌の諸教会)

札幌の教会は他都市で蒙ったような空襲による罹災、あるいは強制疎開によって会堂を破却されたところは無かった
新札幌市史 第5巻 通史5上 (荒谷正雄と札幌音楽院)

田中光子と組んでべートーベンのソナタを連続演奏したり、日本交響楽団(現NHK交響楽団)の団員で札幌に疎開
新札幌市史 第4巻 通史4 (人口の増加)

総人口は減少しているものの、十九年から戦災疎開者が札幌に転住してきた。
新札幌市史 第5巻 通史5上 (工業の概況)

印刷・出版は、東京で行われていたものが、戦後札幌に疎開してきたという事情があり、東京の復興とともに札幌
新札幌市史 第5巻 通史5上 (札幌市臨時振興専門委員会の都市計画案)

道路網では、札幌都市計画区域内の街路網計画として既存計画の早期の実施と建物疎開の跡地を利用して街路計画
新札幌市史 第5巻 通史5上 (初の女性代議士に札幌から二人)

新妻(左)・柄沢代議士の対談(道新 昭21.4.18)  新妻は二十年三月東京で被災後、札幌に疎開
新札幌市史 第5巻 通史5上 (畜産の振興)

また、三十年代中頃には、畜産公害の問題(後述)が浮上するに至り、豚舎を都心部から周辺地区に集団疎開させる
新札幌市史 第5巻 通史5上 (闇市対策)

営業している店はなかったといわれ、しかも昭和二十年七月には一丁目、四丁目、九丁目、一〇丁目などが強制疎開
新札幌市史 第5巻 通史5上 (新札幌市史 第五巻 通史五(上)/総目次)

  第二節 街づくり事業の展開…209      一 継続されていた都市計画事業      二 疎開跡地,の整理と市内道路の整備         疎開跡地の整理 都市計画街路の整備 道路・橋梁の整備 市中道路,出版・マスコミ…906      一 出版社の興隆と衰退         GHQの検閲 出版社の疎開
新札幌市史 第5巻 通史5上 (札幌の人口動態(二二万都市から一〇〇万都市へ))

太平洋戦争突入時の十六年には世帯数四万五二二七戸、人口二二万四七二九人であったから、戦禍を避けるため疎開等
新札幌市史 第5巻 通史5上 (戦災者・引揚者・復員者)

戦災者・引揚者・復員者 二十年、本州諸都市の空襲激化にともない道内に避難疎開する戦災者が、著しく増加
新札幌市史 第5巻 通史5上 (医療界の統制解除と札幌集中化)

戦後は北海道製薬(札幌)がジフテリア血清を製造して多くの幼児を救い、琴似町に工場疎開していた大手の鳥居製薬
新札幌市史 第5巻 通史5上 (生活物資の窮乏と進むインフレ)

(3)住宅 札幌市では、敗戦間際に南四条西三丁目から豊平橋にかけての道路拡幅による強制建物疎開などで住宅
新札幌市史 第5巻 通史5上 (図版・写真・表組一覧)

・ロバート・フォックス空挺隊員撮影) (アメリカ合衆国国立公文書館蔵 渋谷四郎氏提供) 写真-12 市内南4条通の建物疎開跡地,194頁) 表-2 10年計画,6年計画,5年計画の国道と道道の整備計画 (208~209頁) 表-3 疎開跡地
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