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新札幌市史 第1巻 通史1
(◇発寒川扇状地)
◇
発寒
川扇状地 手稲山の南東を流れる
発寒
川は、小規模ながら豊平川と同様の扇状地を作り出している。,
発寒
川の支流である中の川の流域が主体となる。 / ◇
発寒
川扇状地
新札幌市史 第1巻 通史1
(発寒川扇状地)
発寒
川扇状地 西区西野の市街地をのせる
発寒
川扇状地は、福井・平和付近を扇頂として、次第に高度を下げ、,(図11)をみると、地表から深度一五メートルまでは泥炭まじり粘土層および粗粒砂があるが、その下位に、
発寒
川扇状地礫層,図-11 八軒ボーリング柱状図 このように、
発寒
川扇状地の場合も、その基底は五三メートルと札幌扇状地,したがって、
発寒
川扇状地堆積物も最終氷期の前半から末期までに堆積したものである。 /
発寒
川扇状地
新札幌市史 第1巻 通史1
(発寒川扇状地)
発寒
川扇状地 西区の平和の滝付近(標高一八〇メートル)および盤の沢出口付近(同一六〇メートル)を扇頂点,とする
発寒
川扇状地は、北東に向かって広がり西野・手稲東・
発寒
・山の手・琴似などを経てJR函館本線付近( /
発寒
川扇状地
新札幌市史 第2巻 通史2
(札幌・発寒・琴似村)
札幌・
発寒
・琴似村 イシカリ御手作場として慶応二年(一八六六)に形成されたのがサッポロ村である。,
発寒
村の『地価創定請書』によると、二年までに土地割渡をうけた者が一四人いる。,当時
発寒
村の範囲が広く、のちの上手稲村まで含まれる。,四年には
発寒
村領字ホシホキ(評議留 道図)とされており、
発寒
村に編入されたようである。 / 札幌・
発寒
・琴似村
新札幌市史 第1巻 通史1
(発寒川扇状地の遺跡)
発寒
川扇状地の遺跡 総計五カ所の遺跡が知られている。発掘調査で確認した遺跡は一カ所のみである。 /
発寒
川扇状地の遺跡
新札幌市史 第1巻 通史1
(◇N一二遺跡(西区発寒九条一〇丁目))
◇N一二遺跡(西区
発寒
九条一〇丁目) 北海道横断自動車道建設に伴い、昭和六十二年札幌新道(国道五号線,他に
発寒
川扇状地に立地する遺跡は四カ所あるが、発掘調査は実施されておらず分布調査によって確認されたものである,N八遺跡(西区
発寒
七条一三丁目)、N九遺跡(西区
発寒
八条一二丁目)、N一一遺跡(西区
発寒
七条一一丁目),、N一三遺跡(西区
発寒
八条九丁目)の四遺跡があげられ、北海道式石冠が例外なく発見されている。 / ◇N一二遺跡(西区
発寒
九条一〇丁目)
新札幌市史 第1巻 通史1
(◇N一八遺跡(西区発寒一〇条四丁目))
◇N一八遺跡(西区
発寒
一〇条四丁目)
発寒
川扇状地末端部に近く、中の川右岸にあり、標高は一三~一五メートル,通称「
発寒
小学校裏遺跡」である。 / ◇N一八遺跡(西区
発寒
一〇条四丁目)
新札幌市史 第1巻 通史1
(発寒神社遺跡の発掘)
発寒
神社遺跡の発掘 この調査は周辺にさまざまな影響をおよぼした。,その一つは、昭和七年十一月、当時の琴似村の
発寒
神社裏のストーンサークル状配石遺構とアイヌ墳墓の調査である /
発寒
神社遺跡の発掘
新札幌市史 第1巻 通史1
(◇N一九遺跡(西区発寒一一条三丁目))
◇N一九遺跡(西区
発寒
一一条三丁目)
発寒
川扇状地の
発寒
神社の北東標高約一五メートルに存在する。 / ◇N一九遺跡(西区
発寒
一一条三丁目)
新札幌市史 第1巻 通史1
(◇K四八二遺跡(北区新琴似・発寒川河川敷))
◇K四八二遺跡(北区新琴似・
発寒
川河川敷) 石狩町の紅葉山三三号遺跡の外縁部にあたる地区で、大正時代,に行われた
発寒
川の改修工事で分断されたものと考えられた。 / ◇K四八二遺跡(北区新琴似・
発寒
川河川敷)
新札幌市史 第1巻 通史1
(『琴似町史』の遺跡調査)
②東
発寒
七九三の江戸時代末期のアイヌ墳墓と思われる遺跡。,③東
発寒
・
発寒
神社裏のストーンサークル・竪穴住居跡・アイヌ墳墓。,④東
発寒
九八九の厚手、薄手の縄文土器、擦文土器、石器類。⑤東
発寒
の薄手縄文土器片、擦文土器片。,⑥西
発寒
四六の余市式土器の包含層。⑦西
発寒
六四三の厚手土器の包含層。⑧西
発寒
の厚手土器(三地点)。,⑨西
発寒
三谷氏所有地の厚手土器。⑩西
発寒
線路北の厚手土器。⑪
発寒
の厚手土器。
新札幌市史 第5巻 通史5下
(工業団地の特徴)
分譲開始は
発寒
鉄工団地、
発寒
鉄工関連団地、
発寒
木工団地、丘珠鉄工団地が三十八年、手稲工業団地が四十三年,
発寒
地区には、
発寒
鉄工団地、
発寒
鉄工関連団地、
発寒
地区第2工業団地が隣接して開発され、これら三つで一三一万平方,
発寒
木工団地はその名のとおり家具、建具、製材等に集中している。,
発寒
地区第二工業団地は、
発寒
鉄工団地と類似した構成を示すが、「印刷・同関連業・製版」も多い。,表-10 工業団地企業の業種別内訳(昭和59年) 業種
発寒
鉄工団地
発寒
鉄工関連団地
発寒
木工団地
新札幌市史 第3巻 通史3
(琴似村の概況)
琴似村の概況 琴似村は明治三十九年四月一日に
発寒
村と併合され二級町村制が施行されたが、両村はともにもと,三十三年は琴似村が五四〇戸、三九五五人であり、篠路・白石・月寒村に次ぐ〝大村〟であったのに対し、
発寒
村,大字は琴似村、
発寒
村、篠路村からなり、村内の行政区として二四部が設置された。,〔大字
発寒
村〕南
発寒
、北
発寒
、西
発寒
。,この傾向は大正期に入っても変わらなかったが、
発寒
村や新琴似の低湿地、泥炭地の土地改良により燕麦・牧草栽培
新札幌市史 第1巻 通史1
(耕地)
耕地 これもやはり後年の史料になるが、明治七年(一八七四)十月に開拓使が測量した『
発寒
村地図』(彩色,
発寒
小学校校地辺)である。,したがってここからやや南東側が現
発寒
中央駅の地ということになる。,なお『
発寒
村地図』中の一番、二番付近は、のち
発寒
屯田兵村設置によって、屯田事務局へ変換となっている。,図-2 明治14年の
発寒
村 開拓使地理係『石狩国札幌郡之図』(部分)
新札幌市史 第5巻 通史5下
(清掃工場とクリーンセンター)
その他にリサイクルプラザ
発寒
工房(平10・10開設、
発寒
破砕工場併設)、リサイクルプラザ宮の沢(平12,表-3 清掃工場などのごみの中間処理施設 名称 処理能力 所在地 竣工年月 焼却施設
発寒
清掃工場,600t/24h (300t/24h×2炉) 西区
発寒
15条14丁目1-1 平成4年11月,昭和四十九年(一九七四)八月に
発寒
清掃工場(現在の第二工場)では
発寒
温水プールを開設した(道新 昭47,平成四年新たに出来た
発寒
清掃工場では余熱を利用して融雪槽を設備した。
新札幌市史 第2巻 通史2
(殖民地の設定と貸下)
札幌郡は
発寒
、琴似、豊平、野津幌の四原野からなり、面積等については表2のようになっている(北海道殖民地撰定報文,表-2 札幌郡の植民地 (単位・坪) 原野名 樹林地 湿地 泥炭地 計
発寒
15,710,998坪,以上の四原野をみると、樹林地の「直ニ開墾シ得可キ地」は、
発寒
が約一五七一万坪、豊平が約二六三四万坪、野津幌,二十九年六月十八日に、月寒村月寒官林が二六六万三〇〇〇坪、上手稲村
発寒
官林が一二万九二〇八坪、琴似村
発寒
官林,が四万一二五〇坪解除となり、月寒官林は西岡・澄川、
発寒
官林は平和方面の開拓のもとになっていく。
新札幌市史 第2巻 通史2
(副戸長の兼務)
発寒
村でも七年十一月に総代笹布源吾が辞職し、副総代石塚市太郎のみとなった。,市太郎は十二月に総代の任命を求めたが、おそらく人材が乏しかったのであろう、下手稲村副戸長管野格に
発寒
村事務取扱,
発寒
村の副戸長代行である。
新札幌市史 第4巻 通史4
(字名の設置)
琴似町では十八年五月一日に琴似村、
発寒
村、篠路村の三大字が廃止され、屯田、新琴似、新川、八軒、
発寒
、琴似,琴似町字名対照表 改称字名 旧字名 屯田 兵村 新琴似 新琴似,琴似 新川 琴似川沿,新琴似 八軒
発寒
川下,,新琴似
発寒
追分 琴似 二十四軒,
発寒
川下 二十四軒 二十四軒 山ノ手 琴似,
発寒
,
発寒
川下,十二軒,宮ノ森 十二軒,十二軒ノ沢,十二軒沢 盤渓 コビチャ沢,
発寒
表-15③ 豊平町字名対照表 改称字名
新札幌市史 第2巻 通史2
(移民の編成)
明治四年二、三月)→庚午三ノ村(円山村)→平八郎組(明治四年四、五月)→円山村人員(明治四年六、七月)→
発寒
村人員,(明治四年七~十月) これによると平八郎組は
発寒
に入植したが、行政村の管轄では庚午三ノ村(円山村)とされた,しかし地理的に遠いので一旦組を再置したり併合を繰返した末、四年七月に
発寒
村に編入したということになる。,平八郎組のことは『細大日記』に、「
発寒
村平八郎組塩噌料、金四両三分相渡候事」(市史 第六巻九九四頁)とみえ,このことで、平八郎は
発寒
村といっても西野付近であることがわかる。
新札幌市史 第7巻 史料編2
(三 移住民情況調査報告)
移住民情況調査報告 五六 移民履歴調(明治一〇年調) 札幌市街 山鼻村 円山村 琴似村
発寒
村, 琴似
発寒
屯田兵村 上手稲村 下手稲村 豊平村 平岸村 白石上白石両村 月寒村
新札幌市史 第1巻 通史1
(ハッサム村の成立)
ハッサム村の位置については主として次項でのべるが、おおよそでいえば、現在のJR函館本線
発寒
中央駅付近から,
発寒
川岸対岸の多少上流までを上とし、川の下流おおよそ一キロメートル程度となろう。,この地帯は、ほぼ
発寒
川扇状地の末端にあたり、泥炭地層との境界付近と思われる。
新札幌市史 第1巻 通史1
(札幌の後期遺跡)
札幌の後期遺跡 札幌市域における縄文時代後期の遺跡は、約三五カ所で、西区前田の紅葉山砂丘地区と
発寒
川,環状列石、環状土籬も、その可能性のあるものは、かつて
発寒
神社北東の丘にあるN一九遺跡や旧白石村役場付近遺跡
新札幌市史 第2巻 通史2
(アイヌの聚落と戸口)
それによれば現在の札幌市域では、「札縨上下 但石明より川筋登凡拾里程 土人小家凡拾八九軒」、「
発寒
但同断凡九里程,のアイヌの聚落は、偕楽園(現在清華亭のある付近から琴似村境まで存在した開拓使の試験場)内に四、五戸、
発寒
川流域,〈
発寒
村〉ここは
発寒
川流域に沿った聚落で、『明治七年
発寒
村地図』(北大図、市史 第一巻四編九章参照)によると,、アイヌの人びとの耕地六戸ほどが
発寒
川の右岸、
発寒
村の南端に位置しているのが確認される。,第二三番地 木杣卯七 二五一〇坪 第二六番地 伴 六 三〇〇〇坪 第二四番地
発寒
小紋太
新札幌市史 第2巻 通史2
(札幌近傍の林相)
発寒
ハ札幌ヲ距ル三里、地勢嶮ニシテ東ニ面シ、
発寒
川東流、土質可ナラス。月桂、刺楸、楢、其他雑木多シ。,両側定山渓迄山林、定山渓ヨリ豊平川上筋山林 同所ヨリ白井川筋山林 上手稲村ヨリ西方二股迄平林 同村ヨリ北方、
発寒
三樽別落合迄平林,上手稲村字「テイ子イニタ」川筋、落合迄平林 上下手稲村山 下手稲村、三樽別、軽川、星置、山林
発寒
川字,「モリ」辺ヨリ西北平林 琴似川ヨリ西北
発寒
川迄平林 丘珠村ヨリ東南豊平川方面平林 札幌村ヨリ北琴似川筋
新札幌市史 第5巻 通史5下
(東豊線、東西線延長工事)
福住駅及び引込線 戸田・松村・岩倉*・若築JV <東西線延長> 琴似3条 フジタ・佐藤・田中*JV
発寒
川横断,鹿島・西松・三井・伊藤*・勇*JV
発寒
1条 前田・間・松村・日産・新太平洋*JV
発寒
駅 大林・鉄建,・大日本・青木・岩倉*JV
発寒
3条 飛島・清水・戸田・大木・山田*JV
発寒
5条 地崎・錢高・住友・
新札幌市史 第2巻 通史2
(手稲村への入植)
願書の末尾には、「願之通、白石村ハ百戸ニ充、残悉皆
発寒
村エ繰入ヘキ事」と開拓使の指令が記されている。,
発寒
の入植地は、二月十二日に「
発寒
川北字ベツカウス東ニ手稲村ト相称ヒ候」(市史 第七巻二一三頁)と手稲村
新札幌市史 第7巻 史料編2
(三 地租創定事業)
円山村 上手稲村 札幌村 平岸村 丘珠村 月寒村 篠路村
発寒
村,円山村 上手稲村 札幌村 平岸村 丘珠村 月寒村 篠路村
発寒
村
新札幌市史 第2巻 通史2
(仮学校とアイヌ教育)
札幌から選ばれて上京したアイヌは、札幌村の伊吾、六三郎、六三郎妻とら、琴似村の又一郎(又一に同じ)、
発寒
村,琴似村 帰郷 古川伊吾 イコレキナ 34 札幌村 死亡 能登岩次郎 イワヲクテ 24 仮学校
発寒
村,38 夕張郡 死亡 夕張鉄五郎 ウタレハタ 34 夕張郡 帰郷 木杣宇七 クソマウシ 35
発寒
村,23 仮学校 札幌村 帰省 田山次郎 タエアマ 32 石狩郡 帰省 矢間徳三郎 ヤマトコ 23
発寒
村,13 仮学校 石狩郡 帰省 (岩次郎妻)もん ウテモンカ 17
発寒
村 帰郷 『開拓使公文録』(道文
新札幌市史 第1巻 通史1
(ハッサム番所)
① 材木は
発寒
・小樽内より伐り出したり。亀谷は四年間、
発寒
山中に勤番せり。,③
発寒
川より(ママ)茨戸より石狩川を下る。,当時は
発寒
川の舟行便利にして、今日の如く埋りて不便にあらず。,④ オベツカウシ(
発寒
)にも勤番所あり。
新札幌市史 第5巻 通史5下
(工業団地造成の曲がり角)
工業団地造成の曲がり角 市は昭和五十六年から
発寒
地区第三工業団地の分譲を開始したが、翌年五月時点で応募,市内の工業団地は一般産業向けで一一に達した(先述の八工業団地に
発寒
地区第三、
発寒
地区第四、米里北地区が,ところが新川工業団地への移転を計画していた
発寒
木工団地の木工関係二九社は、資金源となる旧敷地売却が進まず
新札幌市史 第2巻 通史2
(諸村の人口と移住の動向)
62 62 63 182 198 218 225 228 236 241 255 256 259
発寒
,101 152 181 196 205 205 214 214 199 228 257 兵村 琴似・
発寒
,表1では第一中隊の琴似・
発寒
、第二中隊の山鼻兵村の戸数、戸口数が別に算出されている。,そのため琴似、
発寒
村のみの戸数、戸口数は抽出できない。,ただし
発寒
の屯田兵の戸数は三二戸であるから、戸数の抽出はできる。
新札幌市史 第1巻 通史1
(コモンタ)
コモンタの家はホンハッサムと呼ばれた、
発寒
川(現在の
発寒
・琴似川)中流域の左岸にあった。,コモンタも安政四年閏五月二十四日に、箱館奉行堀利熙の一行がハッサムを視察にきた時に、長谷川儀三郎をのせ
発寒
川
新札幌市史 第3巻 通史3
(奉公義会)
琴似、
発寒
村では三十八年五月に、「在住軍人出征犒軍及応召家族を救護」する目的で琴似・
発寒
救護団を組織し,その後間もなく、新琴似の戦時報効組合と合併し琴似・
発寒
奉公義会と改称している(北タイ 明38・6・4)
新札幌市史 第6巻 史料編1
(〔明治六年市在状況調〕)
総計〕 〔「開拓使管轄石狩国札幌郡各村戸籍表」〕 〔円山村〕 〔琴似村〕 〔
発寒
村, 琴似村(明治6年5月29日検地開始) 7 篠路村(明治6年7月2日検地開始) 8
発寒
村, 明治六年収穫調 〔丘珠村〕 〔上手稲村〕 〔苗穂村〕 〔平岸村〕 〔
発寒
村
新札幌市史 第1巻 通史1
(西部地域の泥炭地)
結ぶ幅〇・六キロメートルの範囲のものや北区新琴似一〇丁目から屯田地区にまたがるやや広い範囲のものは古
発寒
川,西区
発寒
―手稲前田―山口―石狩町樽川地域をおおう泥炭地は、地表の微地形により低湿地化した環境に生成されたものである
新札幌市史 第3巻 通史3
(諸村の宗派割合)
『藻岩村勢一班』(大12)より作成。 琴似・
発寒
村は『札幌郡琴似
発寒
村是調査』(明37)によると、,また新琴似はほとんどが仏教であり、仏教の中でも琴似旧民や
発寒
では日蓮宗が多かったという。
新札幌市史 第1巻 通史1
(紅葉山砂礫州の形成期(七〇〇〇年~五〇〇〇年前))
さらに、前の時期には、生活基盤として不安定だった
発寒
川扇状地の末端(
発寒
地区)などに人類遺跡が残されている,この事実は
発寒
川扇状地の形成が六〇〇〇年前ころまでには終わりをつげ、以後は植生の侵入などによる固定化への
新札幌市史 第2巻 通史2
(授産事業)
実際札幌では、十一年作成の『地価創定請書』(道文二五〇三)によると、
発寒
村居住の木杣卯七、
発寒
小紋太、,七年八月には、
発寒
・琴似・篠路の三河川の鮭漁引網・ウライ網が禁止となり、豊平川といえども夜中引網一切禁止
新札幌市史 第1巻 通史1
(遺跡の立地と地形)
発寒
川扇状地では、中の川流域の
発寒
(標高約一〇~二〇メートル)、追分川流域の手稲宮の沢(標高約一五~四,〇メートル)付近にあり、
発寒
川沿いでも標高七〇~八〇メートル付近に若干の遺跡がみつかっている。,両扇状地の出土遺物の時期でみると、
発寒
川扇状地の方はすでに縄文前期頃には安定していたと考えられるが、札幌扇状地
新札幌市史 第1巻 通史1
(後背低地の堆積物)
この浅い湖は、石狩川・豊平川・
発寒
川などから運ばれた土砂で次第に埋積されていった。,沖積低地となった東区、北区の大部分および西区の一部などの地域は、その後も、豊平川、琴似川、
発寒
川などが,古豊平川や古
発寒
川の形成した氾らん原の地域にもいくつかの小規模な泥炭地が分布している。
新札幌市史 第2巻 通史2
(住区画)
住区画 最初の開設地になった
発寒
川沿岸では、明治七~九年に建設工事が進められた。,翌八年、
発寒
川左岸(現西区
発寒
四~五条、三~四丁目辺)に三二戸分の住区が画されるが、ここは南北に通る道路,
発寒
川沿岸の場合は、琴似村と
発寒
村にまたがる両岸を合わせて琴似兵村と通称している。 ,そこで十二年
発寒
川右岸二〇八戸の半数を移転させようとするが実現せず、二十五、六年の地区改正・兵屋移転の
新札幌市史 第5巻 通史5下
(冬の交通の維持)
また四年から厚別融雪槽の供用開始、六年度には
発寒
流雪溝と
発寒
融雪槽の供用開始(概要 平6)、その後十年度,では、藻岩下、安春川、新琴似、
発寒
、創成東の流雪溝、厚別、
発寒
、都心北の融雪槽と創成川融雪管、大通下水道管投雪施設
新札幌市史 第1巻 通史1
(一 遺跡の分布)
また、昭和四十年代になると西区
発寒
の
発寒
小学校裏(N一八遺跡)で同種の土器が発見されていることが報じられている
新札幌市史 第5巻 通史5下
(郵便局の増設)
琴似
発寒
西(西区
発寒
、平8手稲新
発寒
に改称)。手稲前田(西区前田6-16)。,札幌
発寒
駅前(西区
発寒
9-13)。札幌宮の森(中央区宮の森2-10)。,札幌
発寒
五条(琴似
発寒
を改称)、札幌
発寒
十一条(琴似
発寒
北を改称)。
新札幌市史 第2巻 通史2
(兵村の副戸長設置)
兵村の副戸長設置 琴似村と
発寒
村は八年、山鼻村は九年に屯田兵が入植すると、兵村の屯田兵のみを管掌する,同時に
発寒
兵村には戸石定仁が任ぜられ、副戸長も高島量三が十年九月一日に兼務を命ぜられた。
新札幌市史 第5巻 通史5上
(農村電気施設導入事業)
石山開拓,簾舞四区,藤野二区 37 5 29 2,539 710 上野幌,藤野四区,石山開拓,常磐開拓,
発寒
開拓,42 8 19 4,904 1,608 真駒内,南有明,宮ノ森・拓北・南ノ沢,石山・豊滝,月寒・澄川,
発寒
,なお,昭37には表示したもののほかに,小滝沢,野津幌,厚別,真駒内,小野幌,
発寒
,南ノ沢の7地区の農家
新札幌市史 第2巻 通史2
(聚落と戸口の変遷)
発寒
村の場合も、木杣卯七は十二年石狩へ、
発寒
小紋太はじめ能登岩次郎、伴六、多気安爾、規也里は家族あげて,一時茨戸には、札幌村から転居した小藤友輔、藤戸善蔵、
発寒
村から転居した能登岩次郎、伴六等が住んでいたこともあったようである
新札幌市史 第2巻 通史2
(戸数と人口の増加)
65 530 琴似 59 202 297 310 1425 413 2111
発寒
,20年『北海道戸口表』 まず七年と十五、六年を比較すると、琴似・
発寒
村などのように屯田兵が入植した,は多すぎ、数値に誤りがあるようだ)をみると、山鼻・円山・下手稲・丘珠・雁来・篠路村は微増にとどまり、
発寒
村
新札幌市史 第1巻 通史1
(札幌の続縄文時代遺跡)
の分布は、縄文時代にくらべると一段とひろがり、野幌丘陵や月寒台地、平岸台地、紅葉山砂丘、豊平川および
発寒
川
新札幌市史 第1巻 通史1
(◇N一九九遺跡(西区西野二条八丁目))
遺跡一帯は、
発寒
川により押し出された岩石が多く、あたかも岩の間に泥がつまり、その中に遺物が混在する状態
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