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新札幌市史 第2巻 通史2
(盛岡藩からの開拓使定額米)
盛岡
藩からの開拓使定額米 開拓使の定額米は、明治二年(一八六九)八月の決定当時一万石であった。,その一万石の調達を請け負ったのは、七〇万両の献金で
盛岡
への復帰を許されたばかりの
盛岡
藩であった。,そのような
盛岡
藩内の事情に加え、
盛岡
藩は東北戦争後も新政府への恭順の態度を示さず、反政府的態度をとりつづけた,それでも
盛岡
藩は、凶作状況を理由にして調達総額を八〇〇〇石に減らしてもらった(開拓使公文録 道文五七〇,定額米の供出の不十分なまま
盛岡
藩は、三年三月に廃藩願いを出して許可され、七月に廃藩となった。 /
盛岡
藩からの開拓使定額米
新札幌市史 第2巻 通史2
(松岡の盛岡・涌谷への派遣)
松岡の
盛岡
・涌谷への派遣 一方松岡使掌は十二月二十日に札幌から函館に到着する。,そこからはやはり陸行して
盛岡
へ向かった。,
盛岡
にいつ到着したのかは不明だが、
盛岡
には一月三日まで滞留した。,
盛岡
での滞在では、島判官からの指令で
盛岡
藩へ切起し人足募集を要請した。,四日未明
盛岡
出発、昼夜兼行で六日夜涌谷(現宮城県涌谷町)に到着した。七日から役所で相談をした。 / 松岡の
盛岡
・涌谷への派遣
新札幌市史 第2巻 通史2
(移民の募集)
四年の移民の募集は、三年十一月に平戸・大村・島原・米沢・大泉の各藩、長崎・山形・
盛岡
・江差の各県に通達,広川が
盛岡
でまとめた二月二十八日付の報告(市史 第七巻一八九頁)によると、広川は二月五日に
盛岡
に到着している,その後再び水沢に戻り、伊達将一郎旧臣の出発準備を整え、
盛岡
へと引き返している。 ,広川は
盛岡
・涌谷にて、「農夫凡百戸程は募移出来可申見込」と報告しており、ここでの移民募集は順調であったようである,①
盛岡
県岩手郡 四三戸一八五人 ② 同 三九戸一二九人 ③登米県遠田郡 二四戸
新札幌市史 第1巻 通史1
(カラフト・千島襲撃事件)
また、シャナでは、会所、
盛岡
藩・弘前藩陣屋を焼き、略奪をほしいままにし、負傷していた
盛岡
藩の火薬師大村治五平,シャナ会所詰めの幕吏戸田又太夫ら、それに弘前・
盛岡
の藩兵らは、フヴォストフの襲撃と同時に引き払っていた,早速箱館奉行羽太正養は、
盛岡
・弘前藩に増兵をうながし、久保田(秋田)・酒田(庄内)二藩にも臨時人数催促
新札幌市史 第2巻 通史2
(戊辰戦争と仙台藩)
戊辰戦争と仙台藩 戊辰戦争に際し仙台藩は、会津・鶴岡(庄内)・
盛岡
(南部)の諸藩と共に奥羽列藩同盟を,宇田・刈田(かつた)・伊具(いぐ)・亘理(わたり)・柴田の五郡(現在の宮城県南部)は、削られて
盛岡
藩の,さらに南部の地域は
盛岡
藩の新領地となっており、他藩の百姓となることは耐えがたいことでもあった。
新札幌市史 第1巻 通史1
(松前藩の反撃)
シャクシャインは
盛岡
(南部)藩文書の『松前蝦夷蜂起』によれば、 近年松前殿役人仕置非道ニシテ貧リ多ク,松前八左衛門泰広を松前に派し、アイヌの鎮圧に努めさせると共に、藩主矩広には特に米三〇〇〇俵を貸し与え、弘前、
盛岡
,の出兵を認め、続いて八月二十七日、老中奉書で弘前藩に侍足軽、四〇〇~五〇〇人程の松前出兵を命じ、また
盛岡
新札幌市史 第1巻 通史1
(東北からの目)
たとえば嘉永六年九月一日、カラフトのクシュンコタンにロシア兵が上陸した時の様子を
盛岡
藩の三戸代官所に勤,にかかわる関心事だったから、弘前藩は十月山田左四郎と早道の者を送り、西蝦夷地からカラフトの実状を探らせ、
盛岡
藩,から三森穀之助、三森多吉等が、箱館や西蝦夷地へ商人や船乗りと称して入り込み、内偵活動をつづけていると
盛岡
新札幌市史 第7巻 史料編2
(一 明治二年)
八月三日) 二 蝦夷地へ人民送り方の詳細北島従五位より問合せ(八月一八日) 三 北海道開拓御用に付
盛岡
藩支配地
新札幌市史 第1巻 通史1
(蝦夷地見回りとイシカリ場所)
西蝦夷地直轄後の警備は、前述のようにロシア人の襲撃事件もあり、弘前・
盛岡
・久保田・酒田藩から三〇〇〇人余,翌五年、これら幕吏のほか、蝦夷地警備として、仙台藩兵二〇〇〇人、会津藩兵一五〇〇人、弘前藩兵二五〇人、
盛岡
藩兵二五,同六年以降は、毎年
盛岡
藩より六五〇人、弘前藩より四五〇人を出兵させ、西蝦夷地は弘前藩に守備させた。
新札幌市史 第2巻 通史2
(札幌の人員削減)
そのため、四月はじめ
盛岡
藩から募集した大工一五人と同じく木挽二五人を小樽から樺太へゆく船に乗せた。
新札幌市史 第5巻 通史5下
(ファミリーレストランの台頭)
五十六年には
盛岡
市からハンバーグ専門レストラン「びっくりドンキー」が第一号店を東区に開店している。
新札幌市史 第2巻 通史2
(本府の建設の開始)
本来樺太へ派遣されることになっていた
盛岡
藩募集の職人たち(管内外往復留 道文二三〇)は、開拓使の計画変更
新札幌市史 第1巻 通史1
(復領の申渡し)
ってアイヌへの「撫育」をはかるとともに、辺防の備えを厳重にし、万一非常の際には、弘前(津軽)藩および
盛岡
新札幌市史 第1巻 通史1
(山田家の出稼形態)
箱館近在を足場に
盛岡
藩領からの人が多く、ウス、アブタのアイヌ一三五人が含まれている。
新札幌市史 第2巻 通史2
(小貫と平田の酒田・新潟への派遣)
十一月に小貫雄五郎(直和)権大主典・平田弥十郎少主典を酒田・新潟へ、十二月に松岡宗九郎(修)使掌を
盛岡
新札幌市史 第2巻 通史2
(西村権監事七カ条伺の札幌本府)
、移民取扱、官舎造営、社地、新川掘削等ニ付伺書」市史 第七巻―以下「西村七カ条伺」と略記)と図面を、
盛岡
新札幌市史 第1巻 通史1
(場所運営の手抜き)
それでもマシケ場所では
盛岡
藩から五〇人ほどの人夫を雇い、また漁業の暇な時は漁夫を動員し「壱人極上十二両
新札幌市史 第2巻 通史2
(代表的な総代人たち)
写真-6 永田長蔵 円山村の上田万平は天保十二年(一八四一)にいまの岩手県
盛岡
市に生まれ、明治四年
新札幌市史 第1巻 通史1
(蝦夷地警備と「在住」の任用)
蝦夷地警備と「在住」の任用 蝦夷地警備体制としては、
盛岡
(南部)、弘前(津軽)の二藩にあたらせ、大砲
新札幌市史 第2巻 通史2
(兵員と家族)
人 221人 46.9% 旧会津 55 53 108 22.5 旧弘前 4 52 56 11.7 旧
盛岡
新札幌市史 第2巻 通史2
(新札幌市史 第二巻 通史二/総目次)
本府の建設の開始 島判官時代の建設 四 昇平丸の沈没と米不足
盛岡
藩, 人足などの札幌への送り込み 東地からの調達 小貫と平田の酒田・新潟への派遣 松岡の
盛岡
新札幌市史 第7巻 史料編2
(件名目次)
二 蝦夷地へ人民送り方の詳細北島従五位より問合せ(八月一八日)…3 三 北海道開拓御用に付
盛岡
藩支配地
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