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札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

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新札幌市史 第5巻 通史5上 (五五年体制成立までの札幌の総選挙)

五五年体制成立までの札幌の総選挙 昭和二十二年(一九四七)四月の総選挙で社会党が第一党となったが、社会,北海道でも民主自由党が第一党となり、社会党は議席を失った。,社会党は平和条約・安保条約をめぐって、二十六年に左右両派に分裂する。,三十年(一九五五)、社会党は統一を果たし、自由民主党が発足した。いわゆる五五年体制の成立である。,この時期、市議選では社会党はそれほど大きな勢力ではなかったが、国政選挙では改進党・民主党系と社会党(左派
新札幌市史 第5巻 通史5上 (市議選の結果)

結果は、社会党一四、自民党一二、共産党一、無所属二五で、社会党が六議席を増やし、自民党を上回った。,新人議員は一八人で、そのうちの八人が社会党、二人が創価学会系無所属であり、自民党および保守系無所属は再選組,同時に実施された道議選では、全道で自民党五〇、社会党四二、協同党六、無所属一となり、道議会勢力は保革が,道議選の札幌市選挙区での結果は、自民党七、社会党二で、社会党は五人も落選者を出した。  ,市長を退任した高田富與が自民党から立候補し、横路節雄(社会党)とともに当選した。
新札幌市史 第3巻 通史3 (入党と非加盟)

入党と非加盟 明治三十九年二月、日本社会党が結成された。,アメリカから帰ってきた竹内余所次郎(明37・8渡米、38・11月帰国)は、日本社会党結成大会(明39・,札幌の社会主義者のうち、キリスト教社会主義者は日本社会党に加盟しなかった。,日本社会党は四十年二月十七日、第二回大会を開いたが、竹内は再び座長を務めた。,日本社会党は二月二十二日、結社禁止を命ぜられた。
新札幌市史 第5巻 通史5上 (高田市長の三選)

札幌地区労・社会党札幌支部は候補者を擁立できず、今回も立候補届出締め切り当日に共産党から廣谷俊二(党役員,結果は、左派社会党八、民主党二、自由党一、労農党一、共産党一、無所属三五となった。,左派社会党が増えて第一党となり、共産党が初めて議席を獲得した。,同時に実施された道議選は、全道では左派社会党二六、右派社会党一〇、民主党一九、自由党一五、協同クラブ一,で、札幌市ではやはり民主党が強く、次いで左派社会党が有力であった。
新札幌市史 第5巻 通史5下 (板垣市長の三選)

対抗馬は社会党・革新自由連合推薦、共産党支持の岡田義雄であった。,岡田は三十年に道議に初当選して以来、連続五期二〇年にわたって道議を務めた人物で、四二年から社会党道本部書記長,、五十年道議引退後は社会党道本部委員長に二年間在任した。,横路の後援会はこれに反対し、横路自身も立候補固辞の姿勢を示したが(道新 昭53・1・21)、社会党道本部,しかし横路は応じず、社会党道本部の公明党との市長選共闘の目論みも困難となった(道新 昭53・8・28)
新札幌市史 第5巻 通史5上 (原田市長の再選と市議選)

四月三十日に行われた市長選では、原田與作が社会党から立候補した塚本肇(党札幌支部執行委員長)を破り、再選,社会党と共産党は立候補者について協定に達しなかったが、共産党が擁立を予定していた阿部勘吾(党札幌地区委員長,結果は、改選前議席数と比べて自民党が五議席を失い一七議席となったのに対して、社会党は現職九人全員と新人四人,四月十七日に行われた北海道知事選挙では、町村金五(自民党)が荒哲夫(社会党)を六〇万票以上の大差をつけて,同日の道議選の結果は、全道では自民党五六、社会党三七、公明政治連盟一、民社党一、札幌市では自民党六、社会党五
新札幌市史 第5巻 通史5上 (市政における保革対立)

三十三年十月に岸内閣によって提案された警察官職務執行法改正案に対しては、同月十三日に社会党・総評・全労,三十四年には日米安全保障条約改定問題をめぐって、三月二十八日に社会党、総評、原水協、全日農、護憲連合、,そして安保改定阻止闘争が高揚した三十四年、市議会で改めて公安条例廃止の要求が社会党議員から出された。,に社会党は監査委員一人を得られることでこの時は落着したが、社会党から民社党系議員が離脱したため社会党への,、議会史上初めて社会党の監査委員が生まれた。
新札幌市史 第5巻 通史5上 (原田市長の三選と市議選)

四月二十八日に行われた市長選では、市議会の保守派から支持され、自民党・民社党の推薦を得た原田與作が、社会党,結果は、自民党が改選前議席数から一議席を失って二一議席となり、社会党は三議席増の一六議席と躍進した。,、社会党五、公明党二、共産党一という結果であった。  ,他の会派は、社会党一六人、公明党八人、共産党三人であった。,保守派が依然多数を占めるとはいえ、今回は副議長が初めて社会党から選出された。
新札幌市史 第5巻 通史5上 (五五年体制下の札幌の総選挙)

全道では、自民党一一、社会党一一の各議席数となり、改選前の自民党一四、社会党八の保守優勢の議席配分がうち,札幌市が含まれる北海道第一区では、自民党三、社会党二で、札幌市の自社の得票数はそれぞれ七万一四五六票、,その後の北海道一区の議席は、三十五年、三十八年は自民党三、社会党二のままで、四十二年、四十四年には公明党,が割り込んで、自民党二、社会党二、公明党一であった。,しかし、それでも社会党が最も多くの票を獲得しており、次いで自民党が第二位であった。
新札幌市史 第5巻 通史5上 (高田市長の再選と市議選)

社会党札幌支部は一旦渡辺惣蔵を候補に擁立したが、結局取りやめとなり、対抗馬を立てることができなかった(,結果は、国民民主党一六、社会党五、自由党二、労働者農民党一、無所属二四であった。,前回の市議選に比べて、民主党が三議席増、社会党が四議席減、無所属は七議席増えた。,四月三十日に実施された北海道知事選挙では田中敏文(社会党)が九一万票を獲得して七七万票の黒沢酉蔵(無所属,という結果となったが、札幌市では自由党二、社会党二、民主党二、労農党一、得票数では三万四六九〇票を獲得
新札幌市史 第5巻 通史5上 (市議会の会派構成とその変動)

他は社会党一四人、共産党一人、無所属一人となった。  その後、会派構成はいくつかの変動が生じた。,まず、社会党は左右の対立を生じ、それが古手議員と労組出身若手議員との対立という形で表れた。,中央では昭和三十四年十月に社会党から西尾派が離党して民社クラブを結成し、翌年一月に民主社会党を旗揚げしようとしており,、この動きに応じて一月十六日社会党議員会から四人の議員が脱会し、市政クラブを結成した(道新 昭35・1,第一期原田市政末期には保守三会派が並び(公正会一三人、政和会八人、民政会七人)、これに社会党九人、共産党一人
新札幌市史 第5巻 通史5上 (四月選挙)

北海道知事選においては、社会党、共産党、各労働団体の間で民主戦線の統一が成立した。,田中は全国四人の社会党知事の一人となった。,同日全国で一八九の市長選結果が出たが、その党派別内訳は、民主党二三、自由党二一、社会党八、無所属一二八,結果は、自由党二、社会党二、無所属四であった。次いで、四月二十五日に衆議院総選挙が行われた。,全道では、社会党八、自由党七、民主党三、日本農民党三、国民協同党一であった。
新札幌市史 第3巻 通史3 (蛎崎知次郎と西川光二郎)

二十九年八月、第二回夏期講話会(市民講座)で、新渡戸稲造が「社会党の話」と題して社会主義思想の解説を行,新渡戸は「経済上より改革を施し、貧富の差を円滑にするのが社会党の目的で、暴力をもって政府を転覆したり、,人の財産を奪い、これを分配するような行為は、無政府主義者や虚無党の運動であり、社会党の運動とは言えない,私は真正の社会党には隻手をあげて賛成する。,しかし社会党、虚無党、無政府党、共産党の区別は市民には難しかった。学生すら区別ができなかった。  
新札幌市史 第5巻 通史5上 (戦後初の市議会議員選挙)

結果は、民主党一四、社会党七、自由党一、諸派一、無所属二一であった。,社会党が七人を当選させて進出したが、全体としては保守系無所属が多く、市議会での保守系の議席占有率は七五,当選者は、自由党二、民主党二、社会党一であった。,全道では、民主党が一六人で第一党となり、次いで社会党一五、自由党一四、日本農民党九、国民協同党九、無所属一八,新しい市議会の二十三年三月の会派構成は、公正倶楽部一九人、民主党一四人、社会党九人、自由党一人、無所属一人
新札幌市史 第5巻 通史5上 (吉田内閣倒閣運動)

八月三十日に開催された読売新聞社主催の全国食糧増配大会札幌大会では、有馬英二(保守系無所属)と新妻イト(社会党,これに対し、民間労働者と公務員労働者の闘争が合流し、十一月二十九日に社会党の提唱によって産別会議、総同盟,十九日には社会党左派と共産党、その他の統一組織である倒閣実行委員会が結成された。,社会党・共産党に総同盟・産別会議その他全道の労働戦線が動員されて、西創成小学校には二〇〇〇人が集まり、,吉田内閣打倒、社会党中心の民主政府樹立の宣言文が採択された(道新 昭21・12・18)。
新札幌市史 第5巻 通史5上 (市議会会派の離合集散)

この過程で、会派構成は、第一議員倶楽部一九人(福島派)、公友会一八人(斎藤派)、社会党八人、労農党一人,九月に公友会・社会党によって市長提案の振興会社設立案が本会議で否決されており、保守派の対立によって革新系,この時は、第一議員倶楽部・中正会と公友会・社会党・諸派の対立となり、前者から脱落者が出て、後者の推す斎藤義太郎,六月には市長提出の藻岩山観光有料道路建設案が、議案審査特別委員会で公友会・社会党・共産党によって否決された
新札幌市史 第5巻 通史5下 (四十六年道知事選と道議選)

された道知事選では、自民公認の堂垣内尚弘(北海道総合開発研究所長)と社会公認・共産推薦の塚田庄平(日本社会党北海道総合開発特別委員長,札幌市に限って見れば、自民六、社会六、公明二、共産二となり、はじめて社会党が自民党に議席数で並んだ(表,表-2 札幌市における道議選政党別議席数 自民党 民社党 公明党 社会党 民主党 共産党 新進党 無所属
新札幌市史 第5巻 通史5下 (五十四年市議選)

自民党の一名が選挙直後に死亡したため、社会党の一名が繰り上げ当選して、社会党は一六名となった。
新札幌市史 第5巻 通史5上 (市議会の会派構成)

民主党議員一六人に自由党と一部の無所属議員が加わった第一議員倶楽部二六人、無所属議員の鐘風会一五人、社会党五人,昭和二十六年十一月の市選挙管理委員会委員の選任問題と市職員の待遇改善決議について、第一議員倶楽部案に鐘風会と社会党,のための境界変更調査特別委員会設置案をめぐっては、これを第一議員倶楽部の総選挙目当ての売名行為と非難する社会党
新札幌市史 第5巻 通史5下 (平和都市宣言の制定)

平和都市宣言の制定 桂信雄と社会党の政策協定締結(平成三年二月二日)にあたって焦点となったのは、原発問題,三年、社会党と共産党は市議会で桂市長に平和都市宣言を繰り返し求め、十月二十五日に両党から幹事長会議に決議案
新札幌市史 第5巻 通史5下 (六十二年道知事選・道議選)

横路は社会党票の他に、「自主投票」を決めた公明、民社支持層や保守地盤の郡部でも圧倒的な支持を受けた(道新,自民党は議席を大きく減らし、社会党は無所属を含めて四四議席と自民と並ぶ議会勢力を得た。
新札幌市史 第5巻 通史5下 (動力車札幌地本分裂と全動労の結成)

全国区候補として同労組前委員長(社会党)擁立を決定していた動労は組合員一人二〇〇〇円の選挙カンパを決議,社会党は当選二八人中二〇人(新議席数六二)、民社党が五人中四人(同一〇)が労組出身で、定数四の北海道地方区,でも社会党が二議席を確保したが、いずれも労組出身者(炭労と国労)であった。,共産党系組合で結成した統一促進懇が、四十九年十二月、統一労組懇(統一戦線促進労働組合懇談会)に改組され、社会党系
新札幌市史 第5巻 通史5上 (公共料金値上げ問題)

十四日からの大綱質問で革新派議員は公共料金値上げに集中して五日間にわたって質疑を行い、さらに社会党は特別委員会設置,の動議を提出したが、議論を尽くしたとする保守派議員によって賛成少数で否決されたため、社会党議員が議場から,予算特別委員会で社会党は公聴会開催の動議を提出したがこれも否決された。,からは「値上げ反対」のシュプレヒコールが沸き起こる騒然とした状況の中、社会、公明、共産三党の議員と、社会党議員,この後、社会党、共産党の議員から市議会解散の決議案が八月五日の市議会で提出され、十二月十三日の市議会では
新札幌市史 第5巻 通史5下 (原水禁、護憲・反戦平和運動)

)に「いかなる国の核実験にも反対」問題などをめぐって分裂した国内の原水爆禁止運動は、その後、原水禁(社会党,四十一年に社会党・総評ブロックの提唱で始まった一〇・二一国際反戦デー東京集会も、一日共闘を除き事実上分裂,しかし五十五年、社会党・公明党間などの連合政権構想で共産党除外の方向性が示されたことから、共産党が社会党,しかし、五十八年には再び分裂し、さらに翌五十九年、同運動の提唱団体だった社会党・総評ブロックが「国際反戦,おりから、労働戦線統一問題をめぐる社会党系と共産党系労働組合間の亀裂の深まりで、反戦・平和運動における
新札幌市史 第5巻 通史5下 (札幌市の国政選挙)

 札幌市における衆院選主要政党別議席数・得票率(昭和33年以降) 選挙年月 自民党 民社党 公明党 社会党,一九五五年体制下、全国的には社会党が弱体化する中でも、札幌市では社会党が一貫して第一党であった点が特徴,であったが、昭和六十年前後から社会党は低落傾向に入り、一九五五年体制は終焉を迎えたといっていい。,しかし、札幌市における民主の伸張は、旧社会党支持層を基礎に据えつつ無党派票を獲得したことによるものであり
新札幌市史 第5巻 通史5下 (五十四年道知事選と道議選)

札幌市の定数は三名増の二一で、結果は自民一〇、社会七、公明二、無所属二で、社会党の一増となった。  ,また社会党も変化し始め、翌五十五年一月、中央でいわゆる社公合意が結ばれる。
新札幌市史 第5巻 通史5上 (戦後初の総選挙)

北海道政治同盟は進歩党系であり、社会党と共産党の左翼は未だ勢力が小さく、全体として保守勢力が圧倒していたといえる,第一区からは社会党、共産党それぞれから女性議員が一人ずつ誕生した(以下、本章の選挙についての記述は、札幌市選挙管理委員会
新札幌市史 第5巻 通史5上 (学園紛争と七〇年安保改定阻止運動)

翌八月四日、全道労協・社会党道本・共産党道委による抗議集会が道庁前広場で開催され、同日、強行採決に抗議,一方、四十三年二月、全道労協・道主婦協・社会党道本などにより、安保条約改定阻止をめざす「安保条約反対、,四十四年の「一〇・二一国際反戦統一行動」の道央集会も社・共統一はならなかったが、全道労協・札幌地区労・社会党共催,全道労協・社会党・道反安保三者共催の全道集会は、約四五〇〇人を集めて道庁前広場で行われ、大通西六丁目広場
新札幌市史 第5巻 通史5下 (板垣市長の四選)

過去三回の市長選で革新統一候補を立ててきた社会党は今回、候補擁立を断念した。,社会党・札幌地区労は知事選優先の観点から板垣支持者の横路投票を得るために、市長選は「不戦」戦術を採用した
新札幌市史 第5巻 通史5下 (五十八年道知事選・道議選)

五十八年道知事選・道議選 同時に実施された道知事選では、社会党・革新自由連合推薦の前衆院議員横路孝弘,(北海道一区、社会党)、自民・公明・民社・新自由クラブ・社会民主連合推薦の前道副知事三上顕一郎、共産党推薦
新札幌市史 第5巻 通史5下 (市議会の対立構図)

市議会の対立構図 平成三年市長選で桂信雄と政策協定を結び、与党となった社会党は公共料金改定問題等で姿勢,桂市政時代の市議会は、社会党が与党に転じ、野党として新たに市民ネットが現れ、自民、社会(のち民主党)、
新札幌市史 第5巻 通史5上 (政党の結成)

十一月に日本社会党、日本自由党、日本進歩党が相次いで結成され、日本共産党も直ちに再建に着手し、公然とした,中央での社会党結成後、札幌支部が十二月一日に結成され(支部長渡辺惣蔵、書記長寺島親蔵)、同月五日には札幌市,に北海道支部連合会が発足した(執行委員長木下源吾、書記長渡辺惣蔵)(日本社会党北海道本部 北の大地とともに
新札幌市史 第5巻 通史5上 (新たな反戦・平和運動の展開)

第九回原水爆禁止世界大会北海道代表団結団式が行われたが、八月五日に広島で開催された世界大会は、「いかなる国の核実験にも反対」(社会党,帝国主義国の核政策と社会主義国のそれを同列視すべきではない」(共産党系)とする基調をめぐって紛糾し、社会党,また四十年八月、社会党系の青年労働者組織として個人参加の「反戦青年委員会」が結成された。,全道労協・社会党道本・共産党道委によって「全道連絡会」が結成され、地元の「基地設置反対同盟」とともに反対運動
新札幌市史 第5巻 通史5下 (五十八年市議選)

社会党は立候補者全員当選を果たし、戦後札幌市議選での最高議席数を獲得した。
新札幌市史 第5巻 通史5下 (労働戦線統一問題と連合北海道及び道労連の成立)

社会党の低迷や野党の多党化傾向により労組と政党との支持・協力関係も複雑化し、五十四年の総選挙で「議席倍増,五十五年一月、社会党、公明党間の政権構想協定調印により、社会党・総評と共産党の関係はさらに悪化し、その
新札幌市史 第5巻 通史5上 (昭和三十四年の市長選)

、その後高田富與市長の下で三期一二年間助役を務めた原田與作(無所属・自民党推薦)が稲垣是成(無所属・社会党推薦,「市政研究会」も社会党市議と抱き合わせで稲垣候補の演説会を開き、『札幌市政』という機関誌を発行した(道新
新札幌市史 第5巻 通史5下 (保守中道連合市政)

社会党の勢力は停滞しており、革新共闘もきしみを見せ始めていた。
新札幌市史 第5巻 通史5下 (青年・学生運動の混迷と北海道庁爆破事件)

一方、四十年八月に社会党や総評、社青同の提唱で発足後、運動が激化した反戦青年委員会は四十五年四月に社会党
新札幌市史 第5巻 通史5上 (六〇年安保阻止運動)

三十四年三月二十六日には、全国にさきがけて安保体制打破道民会議が全道労協や社会党道本部を中心に三五団体,岸亜流政権反対・安保不承認・弾圧粉砕・国会解散要求道民大会七〇〇〇人 10・12 道庁前広場で浅沼社会党委員長暗殺,デモ三〇〇〇人 (北海道新聞、全道労協運動史)  その後、運動は下火となったが、十月十二日の浅沼社会党委員長暗殺
新札幌市史 第5巻 通史5上 (市議会会派の変化)

しかし、副議長選出問題で公友会が分裂し、六月二十日には結局、公友会一五人、新政クラブ一四人、同志会六人、社会党一三人
新札幌市史 第5巻 通史5下 (議員定数の改定)

自民、公明、自民党市民の会、民社クラブは二減案を主張し、抵抗感の強かった社会党も与党会派として四会派に
新札幌市史 第5巻 通史5下 (無党派・市民派の時代)

社会党も議席比率を減らし、公明党と共産党が伸張してきた。,板垣市政は保守中道連合を形成し、桂市政はさらに社会党を組み入れた保革相乗り連合を基盤としたが、投票率は
新札幌市史 第5巻 通史5下 (七年道知事選・道議選)

一六三万票を獲得し、自民・自由連合・護憲リベラル推薦、さきがけ支持を得た前衆院議員(北海道一区、平成七年一月社会党離党
新札幌市史 第5巻 通史5下 (転換期の桂市政)

桂市政は社会党も加わった保革相乗り連合を政治基盤とし、安定的な市議会運営を行いえたが、「顔が見えない」
新札幌市史 第5巻 通史5下 (板垣市長の五選)

社会党道本部は前回同様、知事選での横路再選を最大の目標とし、市長選では自主投票戦術を取ったが、田村は地区労
新札幌市史 第5巻 通史5下 (桂市長の誕生)

社会党は昭和四十六年から三回にわたって社共統一候補を擁立したが、その後二回の市長選では候補擁立を見送り
新札幌市史 第5巻 通史5下 (三年市議選)

自由民主党議員会は一六議席となり、一七議席の社会党に第一党の座を譲ることを防ぐため、自民クラブを統合した
新札幌市史 第5巻 通史5下 (沖縄返還と反安保体制の終焉)

「核も基地もない完全返還」を要求してきた社会党や共産党、総評、中立労連などは、批准反対に向けて全国規模,札幌地区労など共催団体の構成をめぐって同年末の総選挙を意識する社・共間の合意がならず、全道労協・札幌地区労・社会党主催
新札幌市史 第5巻 通史5上 (落選後の動き)

十日に質問と社会党提出の誘致失敗を含めた四項の件で市長不信任案が出され、採決の結果否決されたが、市議会
新札幌市史 第5巻 通史5下 (アイヌ新法制定へ始動)

昭和四十九年一月十九日社会党アイヌ民族特別委員会(川村清一委員長)では、アイヌ民族政策を発表し、「旧土人保護法
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