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新札幌市史 第1巻 通史1
(網漁法の導入と塩引鮭)
網漁法の導入と塩引鮭 この時期において、もっとも目立った変化は、
秋味漁
における網の導入である。,文化四年(一八〇七)、ちょうど
秋味漁
の季節にイシカリを通った幕府吏員田草川伝次郎の『西蝦夷地日記』にも,このような、
秋味漁
の網の使用については、同行した近藤重蔵も、見逃してはいない。,)とあることから、いかに
秋味漁
での網の使用が多かったかが知られよう。,網の導入により、
秋味漁
にたずさわるアイヌの労働形態もおのずと変化したことはいうまでもない。
新札幌市史 第1巻 通史1
(西蝦夷地見回りへ)
イシカリは、ちょうど
秋味漁
の最盛期で、一〇〇里余の間のアイヌが大勢集まり、川口や川中に網を立てて漁をし,当時、
秋味漁
の最盛期で、川中川口とも網数統を立て、アイヌがおよそ一〇〇〇人も集まって、川中へは廻船が一四,現在のところ、
秋味漁
の時に川上からもアイヌが集まったり、鯡漁(にしんりょう)の時にタカシマ、オタルナイ,さしあたり、タカシマの屯所より
秋味漁
の季節のみイシカリに警備に出張するがよいであろう。 ,このように、東西をつなぐ間道開設、異国船の注進、タカシマ、オタルナイ屯所、イシカリ場所の立地(
秋味漁
・
新札幌市史 第1巻 通史1
(請負方式の変化)
というのは、同十一年秋、
秋味漁
を前にしてイシカリ
秋味漁
の請負人が、突如請負を放棄するといった事態が生じてしまった,ここで亥年とは、文化十二年を指すから、文化十二年より五カ年間夏商五場所と、
秋味漁
の請負を任せようとしたらしい,村山伝兵衛イシカリ場所之内トクヒラ、ハッシャフ、上ツイシカリ、下ユウハリ、シマヽフ右五ケ所夏漁場幷
秋味漁
新札幌市史 第1巻 通史1
(鮭漁の発展と変わる漁法)
表3に示したのは、安政二年(一八五五)段階のイシカリ
秋味漁
場での糸大網引場・網数である。,表-3 安政2年イシカリ
秋味漁
場糸大網引場・網数 糸網引場 網数 糸網引場 網数 ①海岸 1,表-4 安政2年イシカリ
秋味漁
場アイヌ榀網(自分網)引場・網数 網引場 網数 ①ワッカヲイ 11統
新札幌市史 第1巻 通史1
(雇の実態と代償)
現在の札幌市域に包括されるアシリベツ、コトニ、オソウシ辺には、
秋味漁
が終了した時点で番人がそれぞれの番屋,
秋味漁
の場合はどうであろうか。,しかも、この
秋味漁
に従事した労働人口は、第二次幕府直轄直後の安政二年の場合、和人網引場一九カ所で三五七人
新札幌市史 第1巻 通史1
(熊野屋菊池忠右衛門)
ここでいう切囲とは、『松前産物大概鑑』によれば、
秋味漁
期に、網引場で直接船で買い上げて塩漬けにする塩引
新札幌市史 第1巻 通史1
(集約化されるアイヌ労働)
③鯡漁・
秋味漁
への労働力の集約 アイヌを、さらに場所外の労働へと押し出す原動力となったと思われるものに,
秋味漁
においてはどうであったろうか。,又
秋味漁
事ヨリ引続永住ノ者モ有之。
新札幌市史 第1巻 通史1
(商品流通にのった鮭)
すなわち、藩主直場所であるイシカリ
秋味漁
の経営を、借金の引当に請負わされたことになる。 ,ちょうど、イシカリ夏商場所の運上金が増大したように、
秋味漁
においてもこの時期に大きな変化がみられた。
新札幌市史 第1巻 通史1
(東寗元稹のみたイシカリ)
このように、イシカリにはアイヌの家が一〇〇軒ほど、運上屋が一一軒あって、
秋味漁
もかつては一〇〇〇石積一二艘分
新札幌市史 第1巻 通史1
(松浦武四郎のイシカリ川筋探検)
イシカリ川筋は、ちょうど
秋味漁
の季節で、川筋のあちこちでアイヌが漁事を行っていた。,根幹多い。春より夏にかけてアイヌに朽木等取らす。 テン子ン 蘆芦多し。蘆に洲をなし20軒余の仮屋をして
秋味漁
,イシカリ川筋では、各所で
秋味漁
が行われ、それは引網を盛んに用いていたようである。
新札幌市史 第1巻 通史1
(イシカリ要害論)
その理由として、方々からアイヌが移り住んでいるのは、秋味が豊富であるゆえに
秋味漁
に来てそのまま永住したものが,多くいたり、
秋味漁
も他場所と異なり、「自分網器」(手作りの自己所有の網)を所持し、組合を作って漁事を行
新札幌市史 第1巻 通史1
(疱瘡の犠牲)
ところが、文化十四年の場合、多くの働き手を失ったことから、
秋味漁
にすぐさま影響をおよぼした。,猶又行衛為相尋番人共差遣飯料其外手当等為致候得共、右逃去候者とも迚も於山奥押なへて死亡仕候儀ニて、去丑年
秋味漁
之儀
新札幌市史 第1巻 通史1
(『野作東部日誌』)
此所夷家百軒余人口六百人有テ、
秋味漁
盛ナル場所ナリ。]石狩川海ニ落入、川口ニ至リテハ幅五丁余モ有。
新札幌市史 第1巻 通史1
(蝦夷地見回りとイシカリ場所)
田草川ら一行が通ったイシカリは、ちょうど
秋味漁
の最中で、弁財船一五、六艘が川の中に繫いであり、川端には,アイヌが、船に秋味を荷物として積み込んでしまったあとは、どこでも自分稼の
秋味漁
が自由で、助け合って食糧
新札幌市史 第2巻 通史2
(本府建設とアイヌ労働)
約束では一日金二朱と米一升となっていたにもかかわらず、実行されないため、「活計難渋」にいたったので「
秋味漁
事
新札幌市史 第1巻 通史1
(知行と勤番)
しかも弘化三年当時の勤番手当は、重役が一二〇両、徒士が八五~八六両、医師が一〇〇両で、足軽のうち四人は
秋味漁
新札幌市史 第1巻 通史1
(諸施設)
⑤塩切長屋 川岸に建ち、
秋味漁
の時この蔵で切囲をしたり、荷物にする。
新札幌市史 第1巻 通史1
(弘化三年の調査)
)、徒士、医師が各一人、足軽六人が配属され、足軽六人のうち二人はイシカリとオタスツに詰めて越年、他は
秋味漁
終了後
新札幌市史 第1巻 通史1
(安政五年の調査)
〈トイヒラ〉
秋味漁
小屋一軒あり。
新札幌市史 第1巻 通史1
(場所請負漁業の終末)
『
秋味漁
業手続アラ増』(石狩場所請負人村山家記録の内)『漁業手配方仕来書 上』(新札幌市史第6巻31頁
新札幌市史 第1巻 通史1
(人口の減少)
秋味漁
時は、まず和人網引場に雇われ、その後自分持網場で漁をし、秋末になってやっと各自の故郷に帰りつき、
新札幌市史 第6巻 史料編1
(件名目次)
八坂網調査の書状(年不明五月一〇日) 六 漁場経営策につき書状(万延元年五月九日) 七
秋味漁
入用金,簡 二二 道普請の廻文(同年七月) 二三 馬草刈取の廻文(同年七月二八日) 二四
秋味漁
業取調参集,同年五月) 二一 大工渡世永住願(同年五月) 二二 大工渡世永住願(同年五月) 二三
秋味漁
場拝借願
新札幌市史 第1巻 通史1
(場所請負へ)
ただし、
秋味漁
にはあまり関わっていなかったと思われる。
新札幌市史 第1巻 通史1
(図版・写真・表組一覧)
・石狩町資料』(河野常吉資料 北海道立図書館蔵)より作成 (527頁) 表-3 安政2年イシカリ
秋味漁
場糸大網引場,・網数 『村山家資料』(新札幌市史 第六巻)より作成 (528頁) 表-4 安政2年イシカリ
秋味漁
場,表-3 安政3年 山田家出稼荷物一件日次表 (774頁) 表-4 イシカリ場所の鮭漁場と引網数 『
秋味漁
業手続
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