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札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

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新札幌市史 第1巻 通史1 (新漁場の割渡し)

新漁場の割渡し 役所の機構とともに緊急を要したのは、鮭漁を希望する者への網引場割渡しである。  ,安政5年の鮭引場、網持出稼人、改役所勤番人等の配置が示されている。,表-6 イシカリ改革後の網持出稼人(安政5・6年)   網主 郷里 住居 イシカリにおける出稼引場 備考,その後も網持出稼人の出入りははげしく、引場返上、再割渡しが繰り返されるが、川口からエベツブトまでのイシカリ,すなわち、一カ所の引場を複数の網持出稼人に割渡し、当事者間の協調で経営するようイシカリ役所は命じる。
新札幌市史 第1巻 通史1 (鮭漁の発展と変わる漁法)

表3に示したのは、安政二年(一八五五)段階のイシカリ秋味漁場での糸大網引場・網数である。,一九カ所に分けた網引場は、いわゆる和人網引場と呼ばれている引場で、イシカリ元小家分(運上屋)が二三統、,表-3 安政2年イシカリ秋味漁場糸大網引場・網数 糸網引場 網数 糸網引場 網数 ①海岸     1,この一方で、アイヌ専用の網引場が七カ所(ただしこのほかに和人網引場と共用のが一カ所あるので実際は八カ所,表-4 安政2年イシカリ秋味漁場アイヌ榀網(自分網)引場・網数 網引場 網数  ①ワッカヲイ 11統  
新札幌市史 第1巻 通史1 (雇の実態と代償)

糸網引場というから和人網引場の雇あるいは「テツキ」(手付のことと思われるが、仕事は鮭の員数調べを担当),しかも、この秋味漁に従事した労働人口は、第二次幕府直轄直後の安政二年の場合、和人網引場一九カ所で三五七人,、「蝦夷網」(榀網のことか)引場七カ所で二二三人、出稼網引場(ユウフツアイヌ)一五カ所で三〇五人の計八八五人,このうち、和人網引場は、請負人直営の糸網を使用した網引場で、アイヌのほかに和人出稼者もいた。,これに対し、「蝦夷網」引場の方は、アイヌの手作りの榀網等を用い、しかもアイヌに網の所有権のある「自分網
新札幌市史 第1巻 通史1 (山田家の出稼)

、イシカリ川筋に小網一四の合計一五カ所一五統を持ち、イシカリの和人網では阿部屋六に対し山田は四にあたる,写真-12 山田文右衛門  このうち、川口からバンナグロまでは阿部屋が早くから手がけてきた引場だったから,その上流、サッポロブト(現茨戸付近)の上よりエベツブトまでは山田が新規に開いた引場が多く、「鮭漁場数多,はさらにつづき、安政四年(一八五七)に浜中の川口西方、エベツブト近くのホリカモイ、千歳川筋の三カ所で新たに引場,もう一つの留意点は新規の浜中引場(川口西方)へ実際に出稼したのは梶浦屋五三郎と瀬川屋孫兵衛だったこと。
新札幌市史 第1巻 通史1 (阿部屋のその後)

阿部屋のその後 写真-15 かつての阿部屋西浜引場 現今は行楽地になっている  阿部屋もまた茨,多額の融資を受け、さらに本陣守の返上を願い出たため、文久三年、イシカリ役所は阿部屋に割り渡していた鮭引場,慶応年間に入り、ツイシカリ辺の引場を次々他人に貸し、同四年(明治元年)自ら経営したのは大網二、小網一三,② イシカリにおける阿部屋の出稼引場はすべて新政権のもとに接収し、これを希望者に分割する。,表-9 明治3年 網持出稼人 網主 イシカリにおける出稼引場 統数 備考 山田家 浜中(東)、ホリカモイ
新札幌市史 第1巻 通史1 (役鮭)

の漁獲のある引場は三七役(税率三割)、②同じく五〇束内外は二八役(税率二割)、③二五束内外は一割半役、,④一〇束内外は一割役、⑤雇人の給代にも不足する引場は無引にする基準をたてる。,但し、新規開発の引場は一年のみ五分減(三七役が二割五分)とし、ほかに役務による軽減を特例として認めた。,引場の割渡しを受けた者はイシカリ漁場条目に押印して、この納入を義務づけられた。,また、引場により品質差があり、サッポロ川の鮭一〇〇本とハッサム川の一二〇本が同価にみなされ、サッポロ川
新札幌市史 第1巻 通史1 (勝右衛門の漁業)

しかし、時間的にも資金の上からもすべての手配は困難で、このうち川筋引場四カ所を他人に貸すことになった。,えたが、翌年からも資金の工面がつかず、割渡しを変更されたから、三年目の万延元年に勝右衛門のもとに残った引場,網と船の準備にも多額の金が必要で、出稼初年は古い網を使用したから「千本余入り候節、袋切れ残念」(生田目氏日記,出稼五年目の文久二年(一八六二)、勝右衛門が直接経営した引場はトウベツブトの二統のみで、その水揚は五二四束,最も意をそそいだ浜中の引場さえ箱館の人秋田屋喜左衛門に貸し、この年の漁が終わると勝右衛門ら大津浜グループ
新札幌市史 第1巻 通史1 (場所請負漁業の終末)

網引場と網の統数は表4のようで、和人の小網一統はアイヌの榀網三統分以上の収獲をあげえた。,安政期のイシカリ鮭漁獲高のうち、七七パーセントほどがいわゆる和人の取りしきった引場からで(アイヌを雇う,)、残りがアイヌの自分網と呼ばれる引場での水揚げである。,1 大網(浪高の時、小網で川に追網) 浜(シュップ) 1 1 大網、出稼役3割 ホリカモイ 2 1,1 ウライ 計 2 0 0 2 年により引場及び統数が変わるので、安政3年をもとに前年分を参考とした
新札幌市史 第6巻 史料編1 (件名目次)

  三八 居小家建築願(同年八月)   三九 小迴役任命の覚(同年八月一三日)   四〇 鮭網引場拝借願,)    九 シノツブト秋味引場返上願(同年七月)   一〇 小商渡世願(同年七月)   一一 ,サツホロフト鮭網の達(同年七月)   一二 トヱビリ他二引場返上請書(同年七月)   一三 シノツブト,引場返上請書(同年七月)   一四 木品伐出願(同年七月三日)   一五 左官渡世永住地所拝借願(, ソウヤ行添鑑下付願(同年六月)   三四 旅籠屋願出次第許可の請書(同年六月)   三五 浜中引場返上届
新札幌市史 第1巻 通史1 (出稼人の交代)

出稼人の交代 イシカリ改革にともなう漁場改会所と網持出稼人を主軸とした漁業展開は、五年にして曲り角にさしかかった,たとえばサッポロ川(現伏籠川)がイシカリ川に合流するあたり、サッポロブト(現茨戸付近)に引場の割渡しを,金主は負債の方(かた)に引場を掌中に収め、また出稼人を自家の雇人のように左右し、イシカリ漁業を牛耳る程
新札幌市史 第1巻 通史1 (熊野屋菊池忠右衛門)

ここでいう切囲とは、『松前産物大概鑑』によれば、秋味漁期に、網引場で直接船で買い上げて塩漬けにする塩引
新札幌市史 第1巻 通史1 (漁法の工夫)

浜の引場で使う大型のものは長さ五〇〇尋(ひろ)とも八七〇間ともいい、漁夫は一統に、五、六〇人がいる。,漁獲高を増すため、網の大型化には限度があり、目の粗い榀網を麻糸網に換えたり、川口部でも大網を使うなどの,此上は御国浜方の漁夫御指下、且網のシトも甚軽く、シト縄も一本にて、其間より砂をせり洩し可申候間、網共に,これは従来の曵網と違う旋網の一種で、三艘の舟を用い、うち二艘に網を分載して漕ぎ出し、両舟の間に網をおろして,西蝦夷地では大網に反対する網切騒動の直後だけに、奉行所は容易に許可を与えず、使用を認めるのは万延元年(
新札幌市史 第1巻 通史1 (共同体意識の成長)

改革初年は網持出稼人だけの集会だったが、のちに広く永住人出稼人の参加が認められた。,「阿部屋伝治郎返上の引場、不残石狩永住の村網に被仰付候はゝ、御通行取扱も市中一同にて相勤可申」(五十嵐勝右衛門文書
新札幌市史 第1巻 通史1 (漁間農業の育成)

網持出稼人は使用人の食糧を補うため畑作の必要にせまられ、浜名主勝右衛門は農民を雇ってポンライネに畑を開,き、マクンベツに引場を持ち渡し舟を業とした利右衛門も本陣裏手に耕地の割渡しを受けた。
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリ・サッポロの検分)

調査は網引場の位置、船、網などの設備、漁小屋、切り蔵などの施設、さらに雇人、仕込み(金主)、漁獲高、役鮭,網の入れ方、引き方はこのままでいいか、網の改良をどうするか、沖合で鯡漁(にしんりょう)はできないか、金主
新札幌市史 第1巻 通史1 (林木の保護)

される用途は、住居や蔵の建築と造船や船道具の製作が主で、燃料用の炭や薪としての需要も多く、船囲い資材、網引場
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリ改役所の設置)

もう一つ改役所の重要な仕事は、改革前に自分網と呼ばれたアイヌの引場を受け継ぎ、〝御手料場〟として経営すること
新札幌市史 第1巻 通史1 (動員されるアイヌ)

そして、アイヌの榀網に代わって糸網が使用され、アイヌのそれとは比較にならない漁獲高をあげていた。  ,ちょうど、イシカリ川下流域での糸網による大規模漁業の導入と大いに関係がありそうである。  ,安政二年段階では、前出の表3・表6でもみたように、「ユウフツ出稼」分の諸施設が多くあることや、網引場が
新札幌市史 第1巻 通史1 (人口の減少)

秋味漁時は、まず和人網引場に雇われ、その後自分持網場で漁をし、秋末になってやっと各自の故郷に帰りつき、
新札幌市史 第1巻 通史1 (松浦武四郎のイシカリ川筋探検)

イシカリ川は、流木がかなり多い川であったようで、網を引くのに邪魔になるので、毎年春先アイヌに流木の撤去,川底枯木埋木多く引網に迷惑。網漁場では枯木を引上る。 トクヒラ イシカリより2丁程。,よき網引場。 トマヽツタイ アイヌ小屋あり。 ツイシカリ イシカリより9里半。,イシカリ川筋では、各所で秋味漁が行われ、それは引網を盛んに用いていたようである。
新札幌市史 第1巻 通史1 (集約化されるアイヌ労働)

この時期の秋味請負のかたちは、前述したように、夏商、秋味請負ともに同一請負人が請負い、おまけに網の導入,意図的に労働力として集められた場合と、自発的に集まってきた場合と二通りあると思われるが、いずれにせよ網引場
新札幌市史 第1巻 通史1 (図版・写真・表組一覧)

モヨロ貝塚) 網走市立郷土博物館蔵 (156頁) 写真-23 オホーツク文化の住居跡(網走市二ツ岩遺跡,』(河野常吉資料 北海道立図書館蔵)より作成 (527頁)  表-3  安政2年イシカリ秋味漁場糸大網引場,・網数 『村山家資料』(新札幌市史 第六巻)より作成 (528頁)  表-4 安政2年イシカリ秋味漁場,アイヌ榀網(自分網)引場・網数 同上 (528頁) 表-5  文政5年改軽物定式値段 村山家資料『文政五午年御軽物類直段定帳,発掘調査 (788頁) 写真-14 ホリカムイにおける鮭漁 (796頁) 写真-15 かつての阿部屋西浜引場
新札幌市史 第1巻 通史1 (玉虫左太夫『入北記』(カラフトへ向かう))

又、鱒ヲ漁スルヲ見シカ、俗ニ地引ト云フ網ヲ以テ人数十人ヲ以テ引揚ケシカ、今日ハ波荒ノ由ニテ(一尾モ取リ,一把向   右同断 一  厚子 一枚ニ付 夷俵 一俵向 一  裂織 一枚ニ付 同 一俵向 一  網糸,上男一人ニ付 夷俵 七俵向 中男一人ニ付 同 六俵弐把 下男一人ニ付 同 六俵向  〆 一  秋味引場普請手宛給料左,番家守一ケ年手当給料 夷俵 十俵向 一  シマヽツフト番所守一ケ年手当給料 夷俵 十俵向 一  秋味糸引網雇蝦夷人手当給料幷,下男一人ニ付 同 十俵   但日々介抱ノ義ハ、一人ニ付玄米一升ツヽ、濁酒相添遣シ候事 一  元小家網繕
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