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札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

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新札幌市史 第3巻 通史3 (札幌の職工数)

札幌の職工数 札幌区内外の職工数は、明治三十一年末では一六工場において一三七一人(男七二六人、女六四五人,五〇人以上の職工を抱えた工場は、文栄堂活版所(六〇人)、北海タイムス工場(五四人)、名取製糸場(五八人,以上の六工場を除外すると職工数の平均は一六・八人であり、大半が小工場であった。  ,また別に、四十三年五月には職工を一〇〇〇人以上も擁するようになる苗穂鉄道工場も完成し、職工は増加の一途,この時期の労働運動を促進したのは主に社会主義者であったが、政府の厳しい弾圧と取締りにあって、職工たちの / 札幌の職工数
新札幌市史 第3巻 通史3 (職工の取締り)

職工の取締り 工場における過酷な労働、会社の高圧的な労務管理、出来高を争う激しい競争社会、前借金に縛,られた三年の〝年期奉公〟、寄宿舎での監禁的生活、異郷における孤独感などにより、職工たちは体だけではなく,ただし「逃亡」は、募集職工の前借金とからむ問題であったが、明治四十年代頃には志願職工の〝自由な労働者〟,職工の取締りのために、三十年から警察官が寄宿舎を臨検するようになり、三十三年八月二十二日に会社側の要請 / 職工の取締り
新札幌市史 第3巻 通史3 (職工の募集)

職工の募集 紡績業は機械化されていても、主要な作業は人力に依存していた。,で、北越地方では一人の応募もなく、ようやく東京方面で一〇〇人の応募をつのるも、船中で乗客から同社の「職工虐待,職工の毎月給料の一割には強制的に社内貯蓄(会社が六分の利子補給)が課せられ、三年間は下ろすことができなかった / 職工の募集
新札幌市史 第3巻 通史3 (職工組織と職能組合)

職工組織と職能組合 札幌は商都としての発展もみせ、職人の人数も多くなっていた。,また三十九年四月に設立された染友会は、 一、職工積立金の件。,二、職工精勤者に証書・賞品を贈り、独立開業者には保護を与ふる方法。,三、毎月一、一五日の両休業日に職工一同集会して染物の研究を為す事。,四、職工徒弟の為め夜学を開きて教育を授くる事。 / 職工組織と職能組合
新札幌市史 第3巻 通史3 (同業組合の職工・徒弟管理)

同業組合の職工・徒弟管理 職工・徒弟を使用する事業経営者の同業組合も数多く創設されている。,このような組合の性格を反映してか、職工管理についても鉄工業組合、菓子商組合などでは徒弟・職工の褒賞、奨励,それは(一)職工の移動監視、(二)同盟罷工の防止、(三)風紀の矯正にあったといえる。,これは職工の引き抜き・「家出」の防止とともに、自由な移動を認めずに、組合全体で職工を管理しようとするものであったといえる,写真-8 明治41年の山藤活版所工場(南2西6) 当時40人の職工・徒弟がいた / 同業組合の職工・徒弟管理
新札幌市史 第3巻 通史3 (職工の居宅と勤続年数)

職工の居宅と勤続年数 明治四十三年に札幌支店が編纂・刊行した『帝国製麻株式会社一覧』により、札幌工場,の職工の状況をみてみよう。,まず当時の職工数は八五一人であったが、居住別の人数は以下の通りであった。          ,次に職工の勤続年数をうかがってみると、表1の通りである。,このように三年以内という勤続年限の短いのが当時の職工の実情であった。 / 職工の居宅と勤続年数
新札幌市史 第3巻 通史3 (北海道製麻会社の増産と職工)

北海道製麻会社の増産と職工 「陸海軍御用ハ織物生産高ノ大凡九分ヲ占ム」(帝国製麻株式会社一覧)といわれた,三十六年八月の不況時に二三〇人の職工を解雇して、六八〇人の職工数となっていたが、開戦とともに繁忙をきわめ,職工もふだん一二時間の労働時間のところ、三時間増しの一五時間労働を強いられる状況となっていた。,事業拡張のために十二月には一〇〇人ほどの職工を募集し、三十八年二月現在の職工数は八〇九人(男工一八五人,過酷な一五時間労働を強いられながらも、職工たちの〝銃後意識〟は強かったようである。 / 北海道製麻会社の増産と職工
新札幌市史 第3巻 通史3 (職工の待遇問題と労働状況)

職工の待遇問題と労働状況 北海道製麻会社は、少ない時で八〇〇人、多い時には一二〇〇人の職工を擁しており,新聞には製麻会社における職工(男工・女工)の待遇問題と労働状況についてしばしば報道されている。,問題となっているのは募集条件との相違、労働賃金、過酷な労働状況、寄宿舎の食事、工場・寄宿舎の衛生と職工 / 職工の待遇問題と労働状況
新札幌市史 第3巻 通史3 (支部の活動)

札幌鉄工支部は岩元、本間諸氏非常の尽力にて漸次盛大に趣きたるか、今年早々は同市深野鉄工場の職工五、六十名入会,これによると製麻会社だけではなく、深野鉄工場の職工も参加し、支部の運動に広がりをもっていったようである,規則制定の背景には職工たちの待遇につき、会社への不満があったことは確かである。,「製麻会社の職工激昂」と題した報道(道毎日 明33・7・27)では、 札幌製麻会社の職工虐待は此頃に,到り殆と極度に達せるものゝ如く寄宿職工は勿論、区内居住者にして常雇となり居るものさへ不平を起し、今にも
新札幌市史 第2巻 通史2 (製麻会社)

の明治二十年代のおもな工場に札幌製糸場、北海道製麻会社、札幌製網所、札幌麦酒会社等があり、多くの男女職工,こうして、製麻会社は二十二年府県からの男女職工をもって操業開始し、二十三年二月の時点では職工数一五〇人,表18は三十二年までの男女職工数を新聞から拾いあげたものである。,しかも職工の内訳をみるに関西、北陸、九州方面出身者が多く、このため寄宿職工がほとんどで通勤職工はわずか,このような職工の待遇をさらに劣悪にしたのに衛生状態の悪さがあった。
新札幌市史 第4巻 通史4 (労働者の状態)

)の工場があり、四二九七人の職工が働いていた。,場合、昭和十二年で工場数は二四七、職工数は一七七に相当する。,しかも職工数に占める男女比率は六対四で、女工の占める割合も高い。,と、男性職工の二分の一くらいの低賃金であった。,表-5 札幌市内の工場及び男女別職工数 年 工場数 職工数 男 女 計 大11 169 2,900
新札幌市史 第4巻 通史4 (製綿・メリヤス)

表49によると、職工五人未満工場を含めた工場数は二六~三〇、職工五人以上工場は三であった。,昭和恐慌以降職工数は減る傾向にあり、生産額も低下しつつあった。,表-49 メリヤス・製綿工場 メリヤス製品 製綿 工場数 職工数 生産額 工場数 職工数 生産額 大,大正13年8月,14年は工場法・北海道庁令取締規則による工場で職工数5人以下も含む。,昭和3年から職工数5人以上工場。 2. 職工,生産額は調査対象工場の合計。 3.
新札幌市史 第3巻 通史3 (製麻会社の共済会と「掖済事業」)

製麻会社の共済会と「掖済事業」 製麻会社ではすでに明治二十九年頃に、「社内職工及事務員一般の疾病其他不時,会社では職工共済会をつくり、三十三年一月一日をもって規則を実施したが、これは「疾病其他困厄ニ罹リタルモノヲ,職工共済会は会社が主導して創設したとはいえ、職工たちの捐出による自主的な運営組織であったといえる。,工場法の問題が検討されるにつれ、会社側でも職工の福利厚生などの「掖済事業」に力をいれるようになる。,これらは労働者の保護のみならず、強まる世論の批判に答えると共に、激しい職工獲得競争の中で、職工の安定的
新札幌市史 第8巻1 統計編 (【経済】)

資本金規模別会社数(札幌区・市) 第144表 会社6 業種別会社数(札幌区・市) 第145表 工場1 職工,・原動機(札幌市部,町村部) 第146表 工場2 職工・原動機(札幌市部,町村部) 第147表 工場,3 職工5人以上使用工場原動機(札幌区・市) 第148表 工場4 職工5人以上使用工場職工数(札幌区,・市) 第149表 工場5 職工5人以上使用工場燃料動力使用額,製造額,在庫額(札幌区・市) 第150
新札幌市史 第2巻 通史2 (馬具製造所)

職工を東京から募って、農馬具の製作を行わせた。,十一年二月職工黒柳喜三郎の求めに応じ、札幌で営業する契約で器械・属具あわせて一三〇八円九八銭、四〇カ月賦
新札幌市史 第3巻 通史3 (製麻女工)

三十三年には、本州から前払金で雇い入れた職工一〇〇人ほどのうち半分以上が引率途中に逃走したり、残りも待遇,それでも三十三年末の職工数は三二二人、うち男工四七人、女工二七五人といった具合に女工が八五パーセントを,会社側は、職工の労働意欲を高めようと三十四年十一月からは、従来の日曜休業を廃止して五・十五・二十五日のみを,すでに職工数は、男工三〇〇人、女工九〇〇人の合計一二〇〇人になっており、一日の生産高も製麻六〇〇〇斤、,表20は、明治四十二年から大正九年までの製麻会社札幌工場の男女別職工数を示したものである。
新札幌市史 第4巻 通史4 (職人から労働者へ)

工場幹部でさえ「職工は全く私用はできません」と公言していた)ことで知られていた帝国製麻では、女工の病気,、死亡が相次ぎ、新善光寺境内に職工弔魂碑を建設し、大正六年(一九一七)十月十五日に最初の追善供養を行った,この工場は札幌最大の工場で、六年六月の職工数は、女工七八〇人(うち寄宿舎二八三人)、男工二七〇人であった,大正中期に増加した職工には幼年工をはじめとして、熟練度の低い臨時工が多かった。  
新札幌市史 第2巻 通史2 (職業斡旋業の出現)

特に製麻会社の場合、募集のために専任社員が府県へ出向いて男女職工を集めてくる場合が多かった。,北海道毎日新聞 明治22年7月27日付)  日清戦争後の事業拡張にともなって札幌では、これら工場等に職工
新札幌市史 第2巻 通史2 (谷骸炭製造所)

谷骸炭製造所 この骸炭製造所は谷七太郎による二十五年九月の創業、資本金は五〇〇〇円、場所は北七条西三丁目、職工二
新札幌市史 第4巻 通史4 (製菓)

この年の製菓・製飴工場は、古谷第二工場(北5東11)が最大規模で職工数一〇五人、次いで山本製菓工場(大通東,このほか、十五年にはアスパラガス缶詰工場として日本食品製造合資会社(琴似村、職工八〇人)、明治製菓株式会社豊平工場
新札幌市史 第4巻 通史4 (社会運動の中へ)

たとえば、大正十五年九月、市内豊平町の北海道製綱会社の男女職工二四〇人は、日給三割増額、労働時間の短縮,また、昭和二年三月十五日、駒野製綿の男女職工一〇〇人余も待遇改善の四カ条(賃上げ、公休日、有給休暇等),職工たちの要求は一〇時間労働であった。  ,それを受けて、同年三月帝国製麻の男女職工は、八時間労働の即時実施を要求した(北海道社会運動史)。  
新札幌市史 第4巻 通史4 (機械器具工業)

札幌商工会議所統計年報』によると、大正十四年には機械・金属関係の八三工場のうち六六工場を占めており、職工数,一工場当たり二〇人の職工数となるが、実際に二〇人以上の民間工場は後述の六カ所にとどまり、札幌鉄道局苗穂工場,大正十五年における職工数が二〇人以上の大規模工場は、①五十嵐鉄工場(北7西11 五十嵐猶四郎 明34・
新札幌市史 第2巻 通史2 (硝子工場)

資本金は五〇〇〇円(のち三〇〇〇円)、職工一〇~一四人を使用。
新札幌市史 第4巻 通史4 (製粉)

大正十四年末の札幌市内の製粉業者は一〇軒、職工総数は七四人であった。,日本製粉札幌工場(北5西7、三二人)、鈴木製粉所(北2東3、二五人)が職工五人以上で、他はすべて四人以下
新札幌市史 第2巻 通史2 (製革所)

製革所 八年八月同じ北一条東一丁目に製革所を設け、職工十余人を雇って製革の事業を始めた。
新札幌市史 第2巻 通史2 (市況不振)

新規建設工事が着手されなかったため、工事に関係した一〇〇〇人を越す職分の人びとの外に四〇〇〇人を越す諸職工人夫,外ニ中川源左衛門職工土方繰入長屋二八戸ノ内明屋一五戸アリ」(河野常吉 札幌史料 道図)とある。
新札幌市史 第3巻 通史3 (創建社の集い)

タリ  a右田所ハ創建社及同志宅ニ於テ屢々同志ノ会合ヲ催シ共産主義ノ論議討究ヲ為シタリシカ同志ヲ工場職工,創建社集会参加者は警察の特別要視察人となった  放談会のメンバーの多くは転向したが、鉄道局苗穂工場の職工
新札幌市史 第3巻 通史3 (賃金問題と労働時間)

賃金問題と労働時間 製麻会社の労働賃金問題についてみると、例えば「製麻会社の職工虐待」(道毎日 明30,・4・9)では、 種々甘言を以て内地府県及此地にて募集せる職工に対し、約束の給金も種々の名儀にて其半,「同会社は男女職工等の使役過酷なるより約定期間、其業務に服する能はずして失踪するものあり」といわれているように
新札幌市史 第2巻 通史2 (諸器械場の営業状況)

開拓使は、諸作業所建設の一応目処のついた十一年二月に、まず職工例則並びに取扱規則を設け、機関取扱、鍛工,十月職工例則中服務時間を更生し、事業繁劇により一年のうち平均九時間の労働時間の規定を越える時は、その等級,なお各作業場の十四年十二月現在の係員、職工の配置は、表5のとおりである。,表-3 職工日給表 等給 日給 1等 上 65銭 中 60 下 50 2等 45 3等,表-4 職工日給増賃金表 等給 日給 1等 上 81銭 中 75 下 63 2等 55 3等
新札幌市史 第3巻 通史3 (鉄工組合第三十五支部の結成)

札幌には、三十二年五月に北海道製麻会社の職工たちにより、第三十五支部が設置された。,その後支部は、三十二年五月三十日に職工二一人で創立され(北七条西一丁目一番地)、九月には四五人が本部費
新札幌市史 第2巻 通史2 (同業組合の勃興)

酒造家組合、質屋組合、土工組合、開業医親睦会、石工職組合、大工職組合、小使親睦会、職工組合、代言人組合,、洋服裁縫組合、蹄鉄工組合、古物商組合、畳職工組合、家根屋職組合、人力車営業人組合、菓子商組合、青物乾物商組合
新札幌市史 第4巻 通史4 (日本共産党札幌地区委員会)

日 石原吉久 学生 3月30日 4月14日 四ノ宮好雄 車掌 3月30日 4月14日 太田四郎 職工,3月23日 4月14日 金子正一 職工 4月 7 日 4月14日 上村 勝 職工 共産青年同盟
新札幌市史 第3巻 通史3 (衛生問題と工場医療)

三十三年の場合は職工の外出禁止、工場・寄宿舎での水使用の禁止、消毒・掃除の執行などの対策をとっていたが,他にも北陸地方で募集した職工の中にも、「病気の為め労役に堪へさる者数十名あり。,会社では寄宿舎住まいの職工の疾病には、「薬餌料、入院料一切本社に於て貸与し療養上遺憾ならしむ」ことをうたっていたが
新札幌市史 第5巻 通史5上 (金属工業)

表7に職工数二〇人以上の金属・機械工場を掲げた。,表-7 工場一覧・金属・機械工業(職工数20人以上,昭和24年9月) 工場名 住所 建築面積   (,坪) 職工数  (人) 馬力数 (馬力) 田井自動車工業(株) 南8西11 710 105 57
新札幌市史 第4巻 通史4 (女性労働者の増加)

過労/札幌署で改善工作 ゴム製品の需要期に伴ひ札幌署では、生産に全力を挙げてゐる管内八工場約一千人の職工,調査した所、一日の労働時間は朝六時から夜九時まで、休憩時間を除き約十五時間に上ってゐる有様で、しかも全職工
新札幌市史 第2巻 通史2 (蒸気木挽器械所)

洋式鋸数基を据え付け、職工八人に機械の運転を伝習させ、その竣工と共に木材の挽割、家材、屋根柾等の製材を
新札幌市史 第2巻 通史2 (煉瓦の生産数)

明治二十年は職工・雇人が六八人、営業収入金は九六〇〇円、支出金六〇〇〇円となっており(北海道庁第二回統計書,職工数の推移からみると、二十三年には鈴木、平、遠藤の諸工場とも一〇〇人をこえており、このころが最盛期であったようである
新札幌市史 第3巻 通史3 (新聞記者と社会主義)

三十五年三月十六日には北海タイムスに「哲学職工」という小説を発表している。
新札幌市史 第3巻 通史3 (鉄道院札幌工場の成立)

また三年末に手宮工場を廃止してその職工二六〇人を移すことになり、従業員数は官吏も含めて七一三人となった,どの工場に入っても職工は側目も振らずに職務に就いて居る、工場長が入場しても敬礼をする所か、顔も向けない,何と云ふ規律の厳重さ加減よ、私は職工達の心掛けを偲んで嬉しさに堪へられない。,此工場には六百五十人の職工が居るが外来者が工場に入る毎に顔を向けたり敬礼したりすれば仕事のエツフヰシエンシー
新札幌市史 第3巻 通史3 (製糸・織物業の挫折)

明治四十年に札幌区にあった製糸工場は、札幌製糸場(札幌製糸工場)が職工七一人、産額四万九五〇〇円、名取製糸場,が職工五九人、産額四万九七五〇円、小林製糸場(所)が職工二八人、産額一万五〇〇円であった(札幌商業会議所年報,この工場は、松崎龍平が明治三十年に職工二五人で白老郡敷生村に設立したもので、三十二年に札幌区中島公園付近,職工数は明治四十年~四十三年は二〇人前後であったが、四十四年に三人に激減し、以後大正五年まで八人ほどで
新札幌市史 第2巻 通史2 ((7)札幌鉄工場)

作業員は技術長二、技手補一、図工一、職工七〇、定夫七、ほかに帳場七人であった。
新札幌市史 第2巻 通史2 (処分後の諸工場の動向)

 札幌区・村所在工業会社及び製造所(明治21年) 名称 営業種別 所在地 創立 資本金 株主 役員 職工,表-10 明治32年末現在工場一覧(職工10人以上使用) 区別 製造品種 所在地 持主名 創立年月 現在資本金,年製造額 年就業日 就業時間 従業員 職工賃銭(1日) 名称 職工 徒弟 14歳以上 14歳以下 北海道製麻
新札幌市史 第4巻 通史4 (細民調査)

五七世帯中もっとも多いのが日雇、次に屑拾い、職工、警火番、袋貼で、あとは人力車夫、附添婦等となっている,表-28 甲種職業別 職種 人数 日雇 13人 屑拾い 5 人力車夫 1 警火番 2 職工 3
新札幌市史 第2巻 通史2 ((1)札幌麦酒醸造場)

なお十九年中麦酒醸造場の職員職工及経費製造額等は表1のようであった。,表-1 明治19年札幌麦酒醸造場経費及び製造高 【職員4人/職工(男)18人】 科目 金員 製造品名(
新札幌市史 第2巻 通史2 (細民の創出)

また、日清戦争後の札幌では、各種工場の事業拡張にともなって、職工等労働者を斡旋する「口入屋」が増加したことは,前述したが、これら斡旋業者によって募集された職工、人夫等々は、業者の「甘言」によって遠国から連れられてきた
新札幌市史 第4巻 通史4 (緩慢な重化学工業化)

また、原資料から昭和九年の一工場当たり職工数を算出すると、総平均一八・八人となる。,職工数の多い分野は亜麻製品(二工場、三二七人)、ビール清酒味噌醤油(一一工場、二四四人)、ロープ(二工場,職工五人以上使用の工場数は大正一一年に一六九を数え、昭和六年には三二三まで増えたが、七年には二六一に減少,職工数は、大正十一年の四二九七人が昭和四年に五一七六人となるが、六年に三八九八人まで減った後、十年には,一工場当たり職工数は、大正十一年の二五・四人から昭和十年の一九・七人に減っている。
新札幌市史 第4巻 通史4 (鋳物業)

ただ職工一〇人以下の零細な工場が多く占めていた。  
新札幌市史 第2巻 通史2 (札幌製糸場等)

この表によっても製麻会社が最大の職工数を抱えているのがわかる。,表-19 札幌区・村所在工場職工数一覧(明治31年末現在) 工場名 所在地 持主 創立 職工数 製造品
新札幌市史 第3巻 通史3 (救護組織と救護の実態)

の奉公義会の救護軍人家族は四九戸に増加し、一戸平均月額は二円五三銭で、おもな生業は、日雇、行商、会社職工,、木賃宿、筆耕、下宿、髪結、馬具職工、農業、製綱所職工、馬車追い、製糸場職工であった(北タイ 明38・
新札幌市史 第3巻 通史3 (新札幌市史 第三巻 通史三/総目次)

       北海道尚武会 奉公義会        神社・寺院の支援活動 北海道製麻会社の増産と職工,       凱旋軍隊歓迎会   第二節 近代過程化の労働問題…423     一 製麻会社の職工,       職工の待遇問題と労働状況 職工の募集        賃金問題と労働時間 衛生問題と,工場医療        寄宿舎の食事 職工の取締り        職工の居宅と勤続年数 製麻会社の,    三 職人と使用人の奨励        職工組織と職能組合 同業組合の職工・徒弟管理        
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