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札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

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新札幌市史 第2巻 通史2 (家屋改良)

家屋改良 草創期札幌の商家や農家の住宅は、道南や本州の様式を導入したり一時しのぎの仮設住宅が多かった,就中家屋ハ防寒ノ最モ緊要ナルモノニシテ到底此ノ慣習ヲ改正セザレバ人民繁殖独立営業ノ基礎固定シ難キヲ以テ,既ニ官庁学校病院等ヲ始メ逐次官設ノ家屋ハ西洋形ニ築造人民ノ模範ニ供シ誘導ノ道ヲ開ケリ然レトモ今日ニ至リ,来夏就業ノ資用ニ充ツ(中略)今般農学校教師クラーク氏モ亦家屋ノ営構ト農事ノ作業ハ従来慣習ヲ排除シ尽ササレバ民産必,黒田長官の家屋改良の熱意は、ロシア式家屋をも試みに札幌などに建築させた。 / 家屋改良
新札幌市史 第4巻 通史4 (道路改良政策)

道路会議では道路改良計画が決議された。,この会議は関東大震災の影響で十三年に廃止されるが、道路改良の民間運動も起こり、その気運は高まり、道路改良会,さらに九年には道路公債法も制定され、道路改良の財政的裏付もなされた。,大正後期からは自動車が増加し始め、それまでの国道の改良に加え地方交通の中枢である府県道の改良が要求されるようになった,十三年、市町村道改良工事の補助となる道路橋梁改良費補助が始められた。 / 道路改良政策
新札幌市史 第3巻 通史3 (地方改良運動と顕彰)

地方改良運動と顕彰 日露戦後には、忠魂碑や開村記念碑あるいは地域の名望家の頌徳碑が地方改良の一環として,史蹟名勝天然紀念物保存協会会長の徳川頼倫は、第一〇回地方改良講習会で「郷土愛護と地方改良」と題し、その,そしてモニュメントづくりは、近代の国民国家形成期に欧米では普遍的な施策であり、地方改良運動においても多分,の大宰相ビスマルクの銅像は国家多事の時、其総てが光を放つて独逸国民に宿り、到る処の国民自らビスマルクと,成るの確信を持つ」と、ドイツのビスマルクの銅像の実態を述べたが、モニュメントのもつ国民統合機能を喧伝するものであった / 地方改良運動と顕彰
新札幌市史 第2巻 通史2 (排水と泥炭地改良)

排水と泥炭地改良 北海道庁が置庁後に力を入れたものの一つに、排水と泥炭地の改良があげられる。,道庁が十九年から開始した殖民地選定事業の結果をまとめた『北海道殖民地撰定報文』でも特に排水の必要性がくり,になり得るとし、また泥炭地は結論として「若シ水脈ヲ開通シ過度ノ水気ヲ排除スルト同時ニ、土質ヲ応用シ改良ヲ,泥炭地改良については、二十六年から泥炭地試験地を札幌と江別の中間に当たる対雁原野と、江別と岩見沢の中間,である幌向(岩見沢村)に設け、泥炭地改良及び利用方法を研究することとし、指導には道庁技師兼任の札幌農学校教授新渡戸稲造 / 排水と泥炭地改良
新札幌市史 第2巻 通史2 (衣服の改良)

衣服の改良 開拓使では、食物や住宅改良とともに寒冷地に適した衣服の改良を奨励した。,札幌市中や村に入植した移民の多くは、奥羽・北越の雪国出身者が多かったので、大体が故郷の慣習を持ち込んで / 衣服の改良
新札幌市史 第2巻 通史2 (家屋改良計画)

家屋改良計画 開拓使は明治六年、後志通(南大通西三)に西洋式の商家四戸、爾志通と檜山通(南二~三条西五丁目,その例が九年九月の家屋改良の布達である。,したがって開拓使は様々な方法を用いて市民に家屋改良を説諭した。,しかしそれに即座に対応する市民は少なかった。  ,がいなかったため、十三年石倉土蔵でも許可することにして、やっと古川寅吉外数人が応募して土蔵を建築した(家屋改良資本取裁録 / 家屋改良計画
新札幌市史 第2巻 通史2 (洋食と「食物改良」論)

洋食と「食物改良」論 開拓使は、北海道開拓のためにお雇い外国人を多く起用していた。,その一人ケプロンは第一報文のなかに、「食物改良」論を掲げている。,ケプロンは、移住民の食料改良を重要課題とし、北海道が日本人の常食の米穀の所産に不適当なことは、すでにアンチセル,北地ノ人民ハ各種穀類の用方竝ニ製法等ヲ知ル者罕ナレバ、此粉磨ハ之ヲ教ルニ最モ緊要ノモノト云ベシ」と述べ,指導者と農民との意識・見解の相違を如実に示すものであった(新北海道史 第三巻)。 / 洋食と「食物改良」論
新札幌市史 第2巻 通史2 (市民意識の継承)

市民意識の継承 札幌県時代から市民は札幌の都市の形成について、特に自分たちの生活に深く関わる問題に関心,開拓が一段落し市民生活が安定してくると、市民は自分たちの生活の環境に関心を持つようになったのである。,そしてその環境を良い方向へ持っていこうとする意志が表現されるようになる。,それに対し周辺住民は土塁跡の払下げを要求し、市街地化しようとした。,市民が家屋改良などに積極的に応じなかった開拓使時代とは、市民の意識に質的な差が生じていたことを示唆していると / 市民意識の継承
新札幌市史 第2巻 通史2 (民営牧場)

民営牧場 官営牧場が優秀な種畜を導入し、牛馬の品種改良と繁殖を行った一方で、二十年代には民間でも大牧場,このように二十年代には、札幌近郊に多くの秀れた民営牧場が出現した。 / 民営牧場
新札幌市史 第2巻 通史2 (庶民金融)

庶民金融 当時の銀行は、官金を利用して土地、家屋、水産物などを担保に貸付する程度であった。,一般の庶民や商工業者に対する金融は、無尽、質屋、高利貸であった。,しかし無尽講は払込を滞らせ、あるいは脱落者があると全員に迷惑が及ぶので良好なものではなかったとされる。 / 庶民金融
新札幌市史 第3巻 通史3 (大正大礼と国民統合)

大正大礼と国民統合 大正大礼の年、大正四年には日露戦後の国民統合が加速度的に押し進められる。,帝国在郷軍人会各分会連合分会が旗揚げするし、五月十日から二十一日まで、道庁主催の全道の官吏を対象とした地方改良講習会,が行われるが、自治の精神、財政の整理改善、教育行政、土木行政、衛生行政などの「改良講演」が催され、物産陳列場,自治協会は町村の進歩発達に貢献を目的とし、道庁の地方改良講習会と連係し、「地方の開発、民風の改善、産業,こういった郷土誌の編纂にみられる地域の歴史意識の形成と、地方改良運動は深く関わっていたのである(高木博志 / 大正大礼と国民統合
新札幌市史 第4巻 通史4 (細民救済)

細民救済 いわゆる細民救済の具体的施策は、まず民間主導で開始され、行政がそれを後押しする形で行われた,非衛生的な不良住宅地区から発せられた。,ところが住民は、冬季の燃料に古材などを拾ってきて山と積み、住民の衣服は不潔で、ガラスを割ってもムシロを,下げる状態で、保導委員や付近の住民から苦情があがった。,そこで岩井鉄之助は長屋住民の教化の必要性を感じ、十四年に長屋の住民のための公会堂「愛隣館」(二階建て七 / 細民救済
新札幌市史 第3巻 通史3 (「戦後経営」と「民力涵養」)

同会では①農事改良実行組織の件、②優良品種普及の件、③種子圃田畑改良の件、④貯金組合改善の件、⑤道路保全組合改善,を図り住民の福利を増進するを目的」とした民力涵養普及会も創設されていた(白石村誌)。  ,琴似村では八年十一月二十三日に、「各種の団体及組合を通じ民力涵養の趣旨に基き必行要目を協定し村民協力実行,このほか、支庁主催の地方改良・民力涵養講演会も各町村で開催されていた。,しかしながら「民力涵養」運動は、国家目的にそった官製的な上からの指導であり、民間からの自発的な運動でなかったために / 「戦後経営」と「民力涵養」
新札幌市史 第2巻 通史2 (社会改良・慈善・衛生)

社会改良・慈善・衛生 二十年代の札幌の目立った活動に禁酒・矯風、一夫一婦の運動、廃娼といった社会改良的活動,、貧窮民・災害者へのカンパ、救援といった救助活動(慈善)、また伝染病対策や衛生思想の普及といった公衆衛生活動,社会改良・慈善、衛生活動のおもなものを掲げると表12のとおりである。,表-12 社会改良・慈善・衛生団体 団体名 目的・活動内容 北海禁酒会 禁酒。,二十六年官民有志賛成者二〇〇人にて設立。 霹歴会 社会改善。 / 社会改良・慈善・衛生
新札幌市史 第2巻 通史2 (殖民政策の転換)

殖民政策の転換 岩村長官は二十年五月に新官制によって任命された全道郡区長を召集して、彼の施政方針を演説,と灯台建設、(5)道路の開通、(6)手引草の編集、(7)農工業の奨励、(8)水産物製造の改良と販路の拡張,、(9)共有山林の設置、(10)墓地の取締、(11)馬匹の改良、(12)駅伝旅店の注意を列挙している。,と、二つには、鉱山測量・手引草・農耕奨励・水産物製造改良等、直接ないし間接的にも実業の振興にかかわる事業,・土地・民法)、そして彼の施政方針演説で「自今移住ハ、貧民ヲ植エズシテ富民ヲ植ヱン。 / 殖民政策の転換
新札幌市史 第3巻 通史3 (日露戦後と国民統合)

日露戦後と国民統合 日露戦後においては、明治中期までに整っていった憲法・軍隊・教育・官僚機構・地方自治制,明治四十一年の戊申詔書発布を契機として地方改良運動が本格化するが、その中で官製の青年団・在郷軍人会・報徳会,そして、地方改良運動を主導した内務官僚井上友一は、四十四年五月の『北海青年』の中で「良村を作れ」と題し,町村という地域の改良が、内務官僚の焦眉の課題となるのである。   / 日露戦後と国民統合
新札幌市史 第1巻 通史1 (農民の招募)

このため、農民招募についても若干の事例を挙げるに止めざるを得ない。,また個々の農民等については、第九章で記述する。  ,農民招募で最もよく知られているのは、永田久蔵に関するものであるが、これは永田の引き連れた農民についてなんらかの,以上は農民招募に関する事例であるが、少ない例ながら、相当数の農民が在住によって招募されたことが推察できよう,ただし明治以降の開拓の歴史が示すように、招募した農民の定着は必ずしも良好ではなく、移動はかなり多かったと / 農民の招募
新札幌市史 第4巻 通史4 (鉄北の住民組織)

鉄北の住民組織 ところで、鉄北地区は急速に都市化された地域であったために都市基盤整備が遅れていたと同時,同会では第一中学校跡地の売却、電車の延長、札幌駅改良と北口開設、西二・五丁目に跨線橋の設置などを求めて,同会では昭和三年十月、五年七月と住民大会を主催し、三年には伏籠川改修、高等小学校の設置、電車延長、下水道,四年九月二十三日には北一四条以北の住民による昭和会(会長・柳田竹二郎)も創設されている。 / 鉄北の住民組織
新札幌市史 第3巻 通史3 (貧民救済施設)

貧民救済施設 毎年暮れ近くになると新聞記者が探訪して実況する「貧民窟」探訪は、読者が次第に反応を示しはじめた,この民間の救済施設では、十数人の細民に慈善餅、藁餅を製造させて販売させ、売上高の二割を恵与し、その他米,全国的にこれら細民を救助する組織が活動しはじめていた。  ,病気の際の無料施療、葬式の際の僧侶の読経、失業者に対する職業紹介、不就学児童への簡易教育を施すこと、不良児童,こうして細民たちが自助努力の方向を模索しはじめた。 / 貧民救済施設
新札幌市史 第2巻 通史2 (民有家畜数の変化)

民有家畜数の変化 表18は、札幌区・札幌郡の十九年より三十二年までの牛・馬・豚数をあげたものである。,官営牧場で飼養された家畜が、官の奨励によって次第に民間に普及されていったものである。,表-18 札幌区・札幌郡民有牛・馬・豚数(明治19~32年) 牛 馬 豚 区 郡 区 郡 区 郡 明治,などをはじめとして、次第に牛の飼養に着手し、官からの貸与品より繁殖をはかるようになり、特に牡牛を拝借して改良を,また馬は、民間では土産馬である和種が一般であったが、官営牧場が洋種を入れて品種改良を行ったように種畜場等 / 民有家畜数の変化
新札幌市史 第3巻 通史3 (区民の行政認識の発展)

区民の行政認識の発展 北海道区制が施行され、住民の意思が区政へ反映される形式はできあがった。,住民の意志として特に都市景観問題を規定したものに、火防問題から提出された屋上制限問題や道路・下水の整備問題,札幌市民は六月末頃から札幌商業俱楽部を中心に、屋上制限の延期を請願する(北タイ 明37・6・21、7・,札幌では高家賃が続いていたため、それは一般区民の家屋問題でもあった。,この家屋改良は、柾葺の屋根からトタンや瓦などになることで、直接的に札幌の街並の景観を規定するものであった / 区民の行政認識の発展
新札幌市史 第2巻 通史2 (辛未移民の小屋と御用火事)

辛未移民の小屋と御用火事 『細大日誌』に「辛未移住民明小屋」を焼いたとある。,この辛未移民とは三年末頃札幌で集められた移民たちで、四年になると辛未一ノ村移民と称された移民のことである,彼らは東本願寺付近から豊平川端辺(南六条西一~六丁目辺か)に建てられた茅造りの移民小屋に一時収容され、,史料的に確認はできないが、『札幌区史』にあるように、市中への移住民が家作をせずにこの小屋に居座ったという,後に開拓使は家屋改良政策を進めていく。 / 辛未移民の小屋と御用火事
新札幌市史 第3巻 通史3 (都市細民の実体)

「細民調査」を実施した。,これらをすべて紹介することは不可能であるが、以下『札幌区細民調査統計表』より細民の①区内分布と人員、②,また、原因のうち「怠惰」「放蕩」といった類は、当局者の多くが細民に抱く先入観ゆえに入ったもので、細民の,しかし、おおむね栄養不良の者が多く、九二戸のうち疾病者皆無の者は三〇戸のみで、ほかに一二人の罹患者もいた,しかも、彼らの多くは入浴を月五回する方は良いほうで、月一回が一三戸、一年間一回も入浴しない者が一六戸もあった / 都市細民の実体
新札幌市史 第3巻 通史3 (臨時村民大会の開催)

臨時村民大会の開催 このような決議書や契約書を確認した後で、九年六月十四日に臨時村民大会が開催され、,臨時村民大会決議録 大正九年六月村会議員ニ関シ村内ノ紛擾ヲ来シ従来一致美風ヲナセル本部落ノ良俗ヲ維持スルノ,にみられるように、大正九年六月一日の村会議員選挙に際して干渉を行ったとされる善太郎は、六月十四日の村民大会 / 臨時村民大会の開催
新札幌市史 第2巻 通史2 (殖民的評価)

殖民的評価 屯田兵の開墾実績をどのように評価すべきなのか。,殖民的分野での成果を大きく認め、その存在を積極的に認めようとする人たちが早くからいた。,ができてすぐ視察にきた井上外務、山県内務両大臣は「其開墾ノ成績ハ燦然トシテ観ルベク(中略)一般移住農民ノ,「耕牧自適、恒産に安する良豊家たる者は屯田兵なり」(北門新報明治二十九年四月一日付)という見方になると,ここは東屯田と西屯田で大差があり、守谷民治の大正元年回顧談では「西屯田は……今日残り居るに蓋し十分の一 / 殖民的評価
新札幌市史 第2巻 通史2 (殖民地の設定と貸下)

殖民地の設定と貸下 道庁では十九年から殖民地の選定を開始したが、二十年に札幌郡の諸原野の選定が終わった,札幌郡は発寒、琴似、豊平、野津幌の四原野からなり、面積等については表2のようになっている(北海道殖民地撰定報文,表-2 札幌郡の植民地 (単位・坪) 原野名 樹林地 湿地 泥炭地 計 発寒 15,710,998坪,13,771,400 25,060,000 83,882,398 直ニ開墾シ得可キ地 排水後耕耘ニ適スル地 大改良ヲ,要スル地 『北海道殖民地撰定報文』(明治24年)より作成。   / 殖民地の設定と貸下
新札幌市史 第2巻 通史2 (「開かれた」街と住民)

「開かれた」街と住民 札幌の住民構成は、前述したごとくさまざまな出身地から寄り集まっており、したがって,九年九月、黒田長官が家屋改良の諭告を出し、欧米をモデルに家屋構造を防寒に適した建築構造に改良するよう指導,一般庶民に縦覧を許し、その洋式建築の壮大さで圧倒させた。,その一方、庶民がたびをび火災をおこすことから、市中に対して火の元用心を達している。,開拓使が清潔な街づくりをめざそうとしたのには、六年頃から天然痘や麻疹の流行があり、一般庶民の健康を害するような / 「開かれた」街と住民
新札幌市史 第5巻 通史5下 (市民と文学との出会い)

市民と文学との出会い 一方、市民の日常生活においても、文芸作品との出会いの場はさまざまに作られていた,市民の文芸作品の優秀作を収載する総合文芸誌『さっぽろ市民文芸』は五十九年の創刊であり、以降、年一冊の刊行,表-1 札幌の文学賞 賞の名称 札幌市民芸術祭大賞 北海道新聞文学賞 北海道新聞短歌賞 北海道新聞俳句賞,小説集「岬から飛べ」 鳥居省三 評論集「異端の系譜」 *岡井満子「仮りの家」  60 なし 土居良一,酔芙蓉」 松橋英三「松橋英三全句集」 *井上茅那「三コーナーから大まくり」   5 (奨励賞5点) 佐野良二 / 市民と文学との出会い
新札幌市史 第4巻 通史4 (女子公民権案と市会)

女子公民権案と市会 大正十三年十二月十三日、婦人矯風会理事久布白落実や婦選運動家市川房枝等を中心として,これは女子公民権案が一地方議会で建議されたこと自体評価に値するのではなかろうか。  ,五年四月二十七日、第一回全日本婦選大会を開催、参政権・公民権・結社権要求を決議。,五月十日、婦人公民権案が衆議院本会議で初めて可決、十三日参議院審議未了。,女性は家庭にあって良妻賢母たるべしの論に押し切られた。 / 女子公民権案と市会
新札幌市史 第3巻 通史3 (十一州同志記者大会と道民大会)

十一州同志記者大会と道民大会 その動向は、九月八日に十一州同志記者大会、十日に道民大会となって開催された,この大会は、「日露媾和の条件は上聖旨に戻り、下国民の希望に背き将士百戦の効果を空ふし国家千秋の屈辱たり,続いての道民大会は、「今回の講和条約が宣戦の大旨に戻り闔国(こうこく)の世論に反し戦勝の効果を空くし、,古谷周久(小樽新報)、東武(道会議員、北海タイムス)、安東俊明、坂牛祐直(小樽新聞)、吉植庄一郎、桜井良三,写真-4 札幌座で開かれた道民大会風景(北タイ 明38.9.12)  報道などにより〝皇軍〟の圧倒的勝利 / 十一州同志記者大会と道民大会
新札幌市史 第5巻 通史5上 (国民健康保険事業の開始)

国民健康保険事業の開始 札幌市国民健康保険(以下、国保)事業が開始されたのは、昭和三十四年四月一日の,国民皆保険制度の実施(6月給付開始)による。  ,翌三十年十一月に、「国民健康保険実施準備委員会」(市議会公益・療養担当者・被保険者・市職員)が設置され,〇〇〇人(市民の三〇・四パーセント)の予想に反し実際は一三万四六〇〇人(同二七・二パーセント)の届け出,しかし保険税(昭43以降、料制)の納入率が良く、被保険者が利用に不慣れのため給付率が低い結果となり初年度 / 国民健康保険事業の開始
新札幌市史 第2巻 通史2 (戸長の任免と村民との対立)

戸長の任免と村民との対立 周辺各村の戸長役場の戸長は、道庁初期には札幌県と同様地元の出身者が任命され,三浦林三郎 20. 4.18 26. 2. 2 加藤一魯 26. 2. 2 28.10.11 野々村良孝,これらはやはり、村民との対立が原因とみられる。  ,また白石村では三十年十月に、戸長が「赴任以来日尚ほ浅きにも拘(かかわ)らず村治上至て冷淡にして、村民の,なかには豊平ほか四カ村戸長の舟橋八五郎のように一三年間にわたり戸長をつとめる〝良吏〟もいた。 / 戸長の任免と村民との対立
新札幌市史 第5巻 通史5上 (民族としての復権をめざして)

民族としての復権をめざして 敗戦まもない昭和二十一年二月二十四日、日本の民主化を背景に、アイヌ民族有志,、静内町で社団法人北海道アイヌ協会の創立総会が開かれ、道内各地の代表をはじめとする約七〇〇人のアイヌ民族,本会ハアイヌ民族ノ向上発展、福利厚生ヲ図ルヲ以テ其ノ目的トス。,するための事業として「教育ノ高度化」「福利厚生施設ノ協同化」「共有財産ノ醸成及其ノ効果的運用」「農事ノ改良」,民族の復権過程で、民族文化の学術的再評価が行われ、アイヌ民族出身のアイヌ語研究者知里真志保(当時北大講師 / 民族としての復権をめざして
新札幌市史 第3巻 通史3 (北海道庁立札幌高等女学校の設立と良妻賢母主義教育)

当時の文部大臣樺山資紀は、その目的を「賢母良妻タラシムルノ素養ヲ為スニ在リ故ニ優美高尚ノ気風、温良貞淑,このことは女性が家事や育児を通して国家へと動員されていく、女性に対する国民統合のありようを示すものであった,(小山 良妻賢母という規範)。,小林の教育方針は「高等女学校の目的は将来の家庭を造るの良婦人を養成するにあり家庭の良主人これ高等女学校,この「優良の婦女」とは、先に菊池が述べた「良妻賢母」と同じ意味に他ならなかった(同前)。   / 北海道庁立札幌高等女学校の設立と良妻賢母主義教育
新札幌市史 第4巻 通史4 (農民的酪農の形成と大規模農場)

農民的酪農の形成と大規模農場 『北海道農業発達史』(下巻)は、北海道の酪農にとって、この時期がもっとも,としての酪農、いわばごくあたり前の農家経営としての酪農経営、中農層における酪農経営、とりもなおさず農民的酪農経営,札幌村史、篠路村史、手稲町誌、さっぽろ藻岩郷土史 八垂別、豊平町史)、これらをもって、札幌地域においても農民的酪農,その為に一時は飼育に困迷した本村の農家は、農業経営の反面最も良い副業となったのであった。 / 農民的酪農の形成と大規模農場
新札幌市史 第2巻 通史2 (御用火事)

御用火事 明治五年三月二十六日、移民たちの家作や移住地・入植地に関係する仕事をする開墾掛の『細大日誌,市史 第六巻)に、「山火為予防、官員一同出張、ガラス邸前辺より脇本陣近傍本願寺より薄野辺ニ有之辛未移住民明小屋,この事件については、市中へ移住して来た商工民の家作に問題があったために起こされた事件であるという話が残,また家屋改良の方針が示されるのは九年九月であり、その場合も家屋が草小屋か板小屋かではなく、耐火・耐寒のための,家屋改良である(布令類聚)。
新札幌市史 第2巻 通史2 (人口比率と「家」)

「拓地植民とは何ぞや、新土に植民をして茲に家を作るにあらずや、然らば即ち北海道拓地植民をして男女双栖其処,に、真に北海道が欲している女性は、「娼妓ならざる、芸妓ならざる、白首ならざる女性にして、真正の本道殖民人,の良妻となり賢母となり、良好なる家を作るべき女性」と明言している。,伊東の論は、「殖民人」のための「良妻」、「賢母」であり、「家」を作る女性を北海道に大量に「輸入」することであった,国権意識高揚時の殖民論としての女性論であるといえようか。
新札幌市史 第2巻 通史2 (六グループの結社団体)

①学習・自己啓発 ②勧業・勧農 ③社会改良・慈善・衛生 ④政治・社会問題演説会 ⑤趣味・愉楽 ⑥親睦・,②は、稼いだり、働いたりの勧業・勧農を目的とし、勧業・勧農のための技術改良普及活動を行ったり、移民募集,から拓地殖民事業を奨励する活動である。  ,③は、社会を改善してゆく社会改良・慈善・衛生を目的とし、禁酒・矯風の社会改良、貧窮民の救援の慈善活動、,グループは、その目的・趣旨に従って大きくまとめると、①と②は、社会啓蒙型団体活動(Ⅰ)、③と④は、社会改良型団体活動
新札幌市史 第4巻 通史4 (店頭の読書観)

冨貴堂を例に市民の読書傾向を見てみる。,大正十三年は、雑誌類、特に『主婦の友』などの婦人ものが良く売れている。,一般書では『結婚愛』(ストウプス夫人著・矢口達訳)、『近代の恋愛観』(厨川白村著)の売行きが良く、『泉谷集,文学関係は四割減少し、時局関係のものが良く売れるようになった。,そのことから「札幌市民の銃後生活にはまだ時間的に余裕がある」(北タイ 昭13・8・6)ものと見られた。
新札幌市史 第4巻 通史4 (道会の論議)

道会の論議 それでは道庁は住民自治の現状をどのように捉え、いかなる振興策をたてようとしていたのだろうか,今後ハ一般道内ノ各地方ニ於キマシテ、自治ニ関スル地方改良ノ事ニ対シテノ一般ノ思想ヲ高メル必要ヲ見マシテ,、本年度ヨリハ御承知ノ通リ各地方ニ於テ改良講話ヲ催シマシテ、一般ノ自治及ビ改良ニ関スル思想ノ涵養普及ヲ,対シテ地方改良ノ講習ヲ致シマシテ、一般ノ観念ヲ養成スルト云フ積リデアリマス。,(同前)  これによれば、道庁は道民の自治思想が低いので涵養し普及しなければならない。
新札幌市史 第3巻 通史3 (国家神道と札幌)

基くものではなく、所謂報国の赤誠に依るので、其崇敬の極が信仰といふことになって来るのであります」(国民教育,・教派神道・キリスト教といった諸宗教の上に君臨し、全体として国家神道体制を形成したといえよう(村上重良 ,が雑居する植民地に比べれば北海道の方がはるかに条件が良いとの論旨である。,「大日本帝国」における植民地群の中に位置づく北海道という官僚の視座である。  ,この日露戦後の地方改良運動から民力涵養運動へと続く国民教化の中で、地域の神社がいかに統合の場たりえたかは
新札幌市史 第5巻 通史5上 (『札幌市建設五年計画』の策定)

さらにそのために札幌市が直接実施すべき事業を中心に、国・道・公社・公団・その他民間等に期待する事業をも,北海道新聞では、それぞれの項目を解説する際、総てを公社公団や民間などに期待している電力・ガス供給施設以外,市民やマスコミなどの関心が先の新産業都市適用の時よりも大きいことがうかがえる。  ,改良(国鉄札沼線跨線橋新設を含む) 開発道路札幌沼田線 北3条雁来通,改良(苗穂駅東側跨線橋新設を,札幌支笏湖線の路線変更 平岸通,改良・舗装・道道昇格要望 真駒内西の里線 真駒内~36号,改良
新札幌市史 第2巻 通史2 (馬匹飼養)

表21は、二十九年より三十二年までの札幌区・札幌郡の農耕馬(官民)数の総馬数に占める割合を示したものである,表-21 官・民札幌区・札幌郡の農耕馬の割合(明治29~32年) 馬 数 内農耕馬 農耕馬割合 明治,ところで、道庁設置以後真駒内種畜場では馬匹改良に積極的に取り組んできたが、二十七年になり馬匹改良を乗馬用,その結果、両種を交配させてこれで得た良種を土産馬の牝と交配させて「農トロ」種を得た。
新札幌市史 第2巻 通史2 (辛未村の計画)

辛未村の計画 四年の辛未移民の募集計画と併行して、札幌近在に渡来していた農民や日本海沿岸に出稼ぎに来,さらに、「北海道居合之良民取立候ハハ転居之費無之、開作之運宜敷」(同前七七頁)と諸県での募集にくらべ移住費用,十文字等は移民の入植時期を二月に主張しており、この点でも辛未移民の札幌周辺での募集が有利と考えられたのである,この計画は、函館詰の開拓使首脳部の計画とは相違するので、十月二十一日に「良民」三〇戸に限り許可し、計画,「良民」とは、身許が確かな農民を指し、出稼ぎなどの雑業者は忌避されたのであろう。
新札幌市史 第4巻 通史4 (琴似村・琴似町)

清水凉は、「良く村治に致し役場の移転、工業、農事の両試験場敷地問題の解決、住宅新設、納税上の改善、青年団統一,、自治協会、道路保護組合、農事改良組合、奨学資金造成会の組織、新川小学校増設等、其他の施設に尽し村民の,この時期、村民が一致して反対運動を展開したものに、札幌市立結核療養所の設立がある。,・果樹の栽培地域であり、しかも将来の高級住宅地に目されるところであっただけに、風評被害を恐れる付近住民を,昭和三年に建設着手が決定されるにしたがい、四月九日に村民大会を琴似座に開き強硬な反対姿勢を示すなどしたが
新札幌市史 第2巻 通史2 (労働者救済会)

毎年札樽間に集合スルモ北海道ノ常トシテ冬季降雪ノ候ニ到レハ自活ノ途ヲ失ヒ飢餓ニ頻シ其局遂ニ不正ノ心ヲ起シ良民,其筋ノ煩労ヲ蒙ムルコト枚挙に暇アラス(中略)其自活ノ途ヲ与ヘ尚ホ且保護スヘキ義務ヲ担フ周旋屋等ニモ不良不親切,名称は、あたかも労働者を保護するかのような印象を与えるが、それは名目であって内実は自活の道を失って細民化
新札幌市史 第4巻 通史4 (軍用施設)

市有民有施設などを借り上げて使用している分は対象外であろうし、後述の航空隊関連のものも収録されていない,不良 26 双発戦闘機  Fighting plane(two engines) 不良 4 偵察機, Scout plane 不良 2 攻撃機  Attacking plane 不良 1 練習機, Training plane 良 8 不良 11 計 73 “The table which gives,道民の一人/\がその責任に於て断乎蹶起すべきの秋が来た。前線に飛行機を送れ!」
新札幌市史 第7巻 史料編2 (一 明治二年)

一 明治二年 一 十文字龍助宛函館出張指令(八月三日)  二 蝦夷地へ人民送り方の詳細北島従五位より, 北海道開拓御用に付盛岡藩支配地より職人徴募の件(八月二五日)  四 宋也・根室・樺太・函館等役々良民職人数,一二月) 一〇 石狩国札幌郡へ本府造営に付田畑切起し人足三十人手配依頼(一二月) 一一 酒田県向け移民募集依頼
新札幌市史 第3巻 通史3 (「円山村独立陳情書」)

この結果、「万々一にも他村に附属せしめらるゝ事に相成候へば村民の不便不利実に鮮少にあらざる」とし、編入,四百二十余町歩有之、外に官幣大社札幌神社境内あり御料養樹園あり、其他は官林にして尚ほ官林中には耕牧に適する良好,ここでは村の歴史、面積、経済、村民の生計などのあらゆる面から、円山村が一村として「独立」できることを訴,入植により開かれ、それ以来、後続移民も山形県出身者を主としていた。,或ハ耕作ノ改良、種子ノ撰択ニ至ルマテ相互ニ研究シテ其善良ナルヲ勧メ、劣悪ナルヲ退クル等一致協同ノ心ニ富
新札幌市史 第5巻 通史5下 (土地区画整理事業)

また同じ特定地区再開発事業のなかに住宅地区改良事業として光星地区ほか三地区の区画整理事業が盛り込まれた,住宅地区改良事業は、住宅地区改良法に基づき、不良住宅が密集する住宅地域を住宅の集団的建設等の施策により,により生ずる空地は、近隣公園や児童公園などの緑地化を図り、集中暖房による公害の排除、さらに区役所、区民センター,四十六年度中に真駒内本町地区では、七二戸の改良住宅を建設して事業を終えた(概要 昭49)。  ,の土地区画整理事業は、一一八地区六三八四・二ヘクタールで、市街化区域面積の約二五パーセントを占め、市民の
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