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新札幌市史 第1巻 通史1
(荒井金助の事蹟)
荒井
金助
の事蹟
荒井
金助
は安政四年六月に、イシカリ詰の調役に就任以降、種々様々な事蹟を残してきた。,
金助
のイシカリ建府論に関しては第一〇章であつかうが、
金助
はこの構想をもとに、積極的にイシカリの町づくりと,
金助
自身も農民を招募し、シノロに
荒井
村をおこしている(第九章参照)。,また、
金助
の子弟の多くもイシカリに関係をもっていた。,まず
金助
の息子の好太郎は、イシカリ在住や学問教授所の御用書物出役となり、
金助
が開いた
荒井
村の農場経営にも /
荒井
金助
の事蹟
新札幌市史 第1巻 通史1
(荒井金助のイシカリ到着)
荒井
金助
のイシカリ到着 イシカリ詰の首班が水野一郎右衛門、長谷川儀三郎という変則体制も、新たに
荒井
金助
,
金助
は、安政四年(一八五七)から文久三年(一八六三)の間、むこう六カ年の長期にわたりイシカリ詰の責任者,
荒井
金助
は、「由緒書」によると、文化六年(一八〇九)生まれで、文政十二年(一八二九)に父竜蔵の跡をつぎ,『公務日記』によれば、
金助
は六月十四日に箱館に着き、さっそくイシカリ詰を申し渡されている。,翌二十八日のことで、到着したのは『札幌沿革史』(明治三十年刊)の編纂史料として、永田方正がまとめた『
荒井
金助
事蹟材料 /
荒井
金助
のイシカリ到着
新札幌市史 第1巻 通史1
(金助の死)
金助
の死
金助
は、翌元治元年にはムロラン詰となったが、慶応二年(一八六六)十一月二十六日に不慮の死をむかえた,
荒井
金助
儀、此程中出函之処、御用済ニ付明日帰村可致処、不快ニ付立渋療治罷在、一両日殊ニ様子不宜趣之処、,不明となった
金助
の死体は、十二月二十三日に発見された。,
荒井
金助
の長男好太郎をはじめ遺族は、その後もシノロ村に住み(第九章参照)、
金助
の三十三回忌にあたる明治三十一年,写真-6
荒井
金助
の墓 (北区篠路 龍雲寺) /
金助
の死
新札幌市史 第1巻 通史1
(荒井村の設置)
荒井
村の設置 のちにシノロ村と称せられる
荒井
村・中嶋村についても、当時の史料はきわめて少なく、これまでも,『
荒井
金助
事蹟材料』(以下『事蹟材料』と略記)等、後世の編纂物あるいは聞取りによって記述されてきた。,(
荒井
)
金助
又(早山)清太郎に命じて、運輸利便の耕地を探索せしむ。,…清太郎命を奉じ、農業の余暇を以て処々の地勢を察し、篠路村の地味肥沃にして水運の利あるを発見し、以て
金助
,
金助
此報を得て自費農夫を募り、篠路に移住せしめ、新井村と名く(のち
荒井
村といふ)。 /
荒井
村の設置
新札幌市史 第1巻 通史1
(荒井好太郎・鎗次郎)
荒井
好太郎・鎗次郎 ここで
荒井
・シノロ村と深く関わったとみられる、
金助
長男の好太郎および三男の鎗次郎,について、この関連を中心にふれてみたい(
荒井
金助
については第一章第三節参照)。 ,、九年記事各一つずつ)と記されたものがあり、また
金助
の『三十三回忌吊祭諷誦』中に「吾カ墳墓ヲ当地ニトテ,……五代
荒井
芳太郎ニ居住セシメ」云々とあり、さらに
金助
の墓碑銘中「村落ヲ拓キ
荒井
邨ト称シ……邸宅ヲ起シ,明治以降、篠路村に
金助
のことはくわしく伝承されているが、好太郎についての事蹟がほとんど残っていないのも /
荒井
好太郎・鎗次郎
新札幌市史 第1巻 通史1
(イシカリ開拓と荒井村の性格)
イシカリ開拓と
荒井
村の性格 以上みてきたように、
荒井
村は
荒井
金助
が自費で開いた村であるが、幕吏の自費開墾,また
荒井
村開墾の動機を、
荒井
が堀織部正の屯田農兵の制の意図に基づき、国家のために行った、と記されているものが,
荒井
好太郎らが終始本拠を
荒井
・シノロ村においていたのも、おそらくはこれと関わってのことと思われる。,と同時に、城六郎開墾地がその後消滅したのに対し、
荒井
・シノロ村が明治に至るまで存続し得たのは、
金助
その,他
荒井
一家が、おそらく扶助を含めてこの村と関わってきたことが、ひとつの要因であると考えられる。 / イシカリ開拓と
荒井
村の性格
新札幌市史 第1巻 通史1
(『岡本氏自伝』中の荒井の意見)
『岡本氏自伝』中の
荒井
の意見 岡本監輔については次節で述べるが、その『岡本氏自伝』中、文久三年にイシカリ,で会った
荒井
金助
の意見が書留められているので紹介する。,自伝』は、後述するようにかなり後、すなわち札幌が北海道の首都として定着した後に記されたものであり、また
荒井
/ 『岡本氏自伝』中の
荒井
の意見
新札幌市史 第1巻 通史1
(城六郎開墾地)
しかし参考になるものとして、
荒井
金助
の部下で、北蝦夷地クシュンナイ勤番所の責任者でもあった城六郎のイシカリ,とあり、これに対して同月晦日、
荒井
・梨本から城あてにはこれに関し、 一 御開墾地
金助
廿一日より廿五日迨所々見分仕候所,この点は、
荒井
村が
荒井
金助
個人の費用によって設置されたと伝えられているのと同様で、これからいえば、
荒井
村,また「見廻之節ハ、同様御見分」という文言、
荒井
らが開墾地の実状と対応策にまでふれている点、それに
荒井
・,
金助
の弟
荒井
蘭台をチーフとするモーライ開墾も、同じ性格のものであろう。
新札幌市史 第1巻 通史1
(改革発表後の動向)
ヨイチ場所請負人の竹屋(林家)長左衛門は、ちょうどこの発表の翌日の十四日にイシカリに来ており、
荒井
金助
,この日、長左衛門は昼の四ツ半(十一時)にイシカリに到着したが、
金助
は御用所に詰めており、夕の八ツ半(三時,帳役などの任命もなされたが、阿部屋から石狩役所へ正式に場所引継、直捌場所の公布がおこなわれたのは、『
荒井
金助
事蹟材料,
荒井
金助
の妻方の縁者、下宮(中村)精一郎の『
荒井
金助
逸伝』には、盛大にオムシャをおこない、「在住諸士及部下各氏秘蔵,『公務日記』によると、七月十九日条に、「石狩、
荒井
金助
ヨリ改革筋之儀取計候趣、自書ニテ、書類相添申越候
新札幌市史 第1巻 通史1
(村役人)
村役人
荒井
金助
が村役人を定めた際の考え方はよく知られている。,ここでは『事蹟材料』中の「
荒井
金助
殿履歴」によるとつぎのとおりである。,[篠路開墾
荒井
手農夫名主役] 渋田 畑六 仝 順番 仝 乙吉 仝 仝 仝 弥平 仝 七之丞,しかし同史料の「
金助
開墾の意は屯田にある事」中では「高梨忠次郎(ママ)を名主とし、弥平、乙吉、七之丞、
新札幌市史 第1巻 通史1
(【主要参考文献・史料】)
村並仕法替書類』、林家文書『御賄留』(北大図)、同『御場所見廻日記』、玉虫左太夫『入北記』(東大史)、『
荒井
金助
事蹟材料,』(道文)、『
荒井
金助
逸伝』(道文)、岩村判官『札幌開拓記』(道図)、「御用控 慶応四年」『大友亀太郎文書
新札幌市史 第1巻 通史1
(後年の聞取り等によるもの)
箱館奉行堀織部正およびイシカリ役所調役
荒井
金助
の意見については、直接の史料は見出してはいないが、数種の,すなわち『
荒井
金助
事蹟材料』中の「一
金助
勤倹の事 附石狩中都計画之事」中では、 其志を遂げしめば石狩,となさんと願し、之を函館奉行に納金せさるを以て、或は
金助
を譖するあり。,堀織部正ハ、対雁に城を築く見込なりし、其他北海道の見込ありけるを、安藤(信正―老中)と論協ハずして切腹し、
荒井
金助
,これらを総合してみると、種々記述の混乱はみられるものの、この問題に関しては、堀・
荒井
がイシカリを「中都
新札幌市史 第1巻 通史1
(農民の招募)
農民の招募 この
荒井
金助
の招募による農民について、招募年、農民名など、史料によって若干の異同がある。,『事蹟材料』、『
荒井
金助
逸伝』(以下『逸伝』)などは、むしろ一時に入地したように読める表現であるが、これは
新札幌市史 第1巻 通史1
(村垣範正の廻浦)
この折、トマコマイ休所には
荒井
金助
、飯田豊之助が出迎えていた。,『公務日記』によると、二十五日条には「
金助
へイシカリ改革筋之儀、得(とく)と申談」とあり、また堀利熙・,竹内保徳あてに、「イシカリ表(ママ)発後之様子等、くわしく
金助
談(はな)し之趣等、夫々申遣」とある。,範正が
金助
ヘイシカリ改革発表後のイシカリの様子を種々たずね、その返答を両奉行に書き送っている。,そもそも、
荒井
金助
、飯田豊之助などのイシカリ詰役人が、ユウフツ・シラオイ場所の境界であるトマコマイまで
新札幌市史 第1巻 通史1
(シノロ村との関係)
すなわちイシカリ役所調役
荒井
金助
は「剱客下國雪之進、鎗(ママ)術士荒谷兵三郎をして農村(
荒井
村―シノロ,村)に撃剣を教え」させていたが、「
金助
函館に転任せし後も、雪之丞兵三郎ハ永嶋(玄造)の引立にて武勇の名手,まったく帰農したのならともかく、戸数十数戸の
荒井
村、二十数戸のシノロ村に、武術指南二人が、それを主目的
新札幌市史 第1巻 通史1
(改革にむけての動向)
改革にむけての動向 すでに述べたとおり、十月十八日に「石狩一件
金助
調出来、織部方へ出ス、同人附札ニテ,廻シ有之」とあり、
荒井
金助
の調査書を堀利熙も一覧し、これに附札をさげて村垣範正へ廻している。,十一月七日には、「イシカリ調評議之趣、尚又
金助
方へ今日差立候事」とされ、
荒井
金助
へ「評議之趣」が報告されている,一方で、照会事項もまだいくつかあったらしく、二十七日には
金助
よりの内状が届き、十二月二十三日にも、「昨日石狩御用状来,これらは、「イシカリ調物彼地ヨリ来リ候分一袋」として、
金助
からの内状とともに、翌安政五年一月二日に江戸
新札幌市史 第1巻 通史1
(吉田茂八)
再び『
荒井
金助
事蹟材料』の亀谷丑太郎の聞き取り調査によると、茂八は丑太郎がハッサム番所に勤番していた安政五年,(一八五八)から文久元年(一八六一)頃の間に、「
荒井
(
金助
)氏に上申の上、茂八を抱へて豊平川に置きたり
新札幌市史 第1巻 通史1
(【主要参考文献・史料】)
高島運上家日記」(越崎宗一『鰊場史話』)、広瀬豊「肝付兼武伝」『伝記』第四巻一号~六号、杉浦勝誠『日次記』、「
荒井
金助
事蹟材料,」、「
荒井
金助
逸伝」、「モンベツ御用所 御用留」、「紋別御用留」、「北蝦夷地仕出之部御用留」、「トンナイ
新札幌市史 第1巻 通史1
(【主要参考文献・史料】)
地理諸留』(道文)、『手稲町誌』、『手稲村史原稿』(手稲記念館)、『札幌郡調』(北大図)、『札幌区史』、『
荒井
金助
事蹟材料,』(道文)、『
荒井
金助
逸伝』(道文)、岩村判官『札幌開拓記』(道図)、『自安政四年至明治十一年本庁管下各郡水田段別及収穫調
新札幌市史 第1巻 通史1
(【主要参考文献・史料】)
【主要参考文献・史料】 『
荒井
金助
事蹟材料』(道文)、『岡本氏自伝』(北大図 写本)、『箱館蝦夷地江御出張所御取立一件
新札幌市史 第1巻 通史1
(第二次直轄とイシカリ)
その中にあって諸事を統轄し、改革の成功とイシカリ役所の運営をまとめあげたのが
荒井
金助
であった。,
金助
はシノロに農場を開き(
荒井
村と称された)、この時期、イシカリ・サッポロの発展に最も寄与した人物といえよう
新札幌市史 第1巻 通史1
(堀利熙の再訪)
堀利熙の再訪
荒井
金助
は七月下旬前には、前任者の長谷川儀三郎と引継をすませたようだが、ほどなく九月七日,今度の再訪の主目的は、廻浦中に
金助
がイシカリ詰となったので、イシカリ改革につき
金助
と協議することにあったのであろう,しかし、イシカリ改革へむけての準備とプランの作成を、
金助
へ命じたことは確かなようである。,『公務日記』によると、十月十八日に、「石狩一件
金助
調出来、織部方へ出ス、同人附札ニテ廻シ有之」と記され,、
金助
による調査書が送られてきている。
新札幌市史 第1巻 通史1
(幕末の変転)
大友亀太郎の指導する御手作場が開かれ(第八章参照)、イシカリ役所ではこの統轄をなし、これまでの在住の開拓地、
荒井
金助
,が開いたシノロの
荒井
村などと共に、イシカリ・サッポロの開拓が徐々に進行していく。
新札幌市史 第1巻 通史1
(地下資源の関心)
、ペンケケフシナイ、モシリノシケオマナイ、ホロナイ(いずれも現赤平市)に石炭が豊富に産出すると報じ、
荒井
金助
,これが海底から湧出すると考える人が多かったらしく、
荒井
は下僚を派遣して油脈の山中にあるのを発見したという
新札幌市史 第1巻 通史1
(トシキランの死)
一度故郷え見舞に遣し呉と頻に願ひしが、会所は中々免(ゆ)るさゞりしによって、兄アイクシテを余(武四郎)
荒井
某,(
金助
)え願、帰郷を謀遣したるに、帰郷するや三日計(ばかり)を過て姉は死したりしとかや、モニヲマは姉の,そこで武四郎は義弟アイクシテを、調役並
荒井
金助
のもとに遣わし、モニヲマの帰郷をとりはからったのである。
新札幌市史 第1巻 通史1
(詰合役人の刷新)
詰合役人の刷新
荒井
金助
がイシカリ詰の首班となるに前後して、イシカリ詰の下役たちもあいついで刷新されることとなった,
金助
がイシカリ詰を申し渡される前日、すなわち六月十三日に、堀利熙の内状を組頭力石勝之助が取調べた結果が,村垣範正の信頼の厚かった人物で、
荒井
金助
を補佐して、イシカリ改革をすみやかに実行することが期待されていたのであろう
新札幌市史 第1巻 通史1
(産業・生活など)
に記したように、清太郎はコトニ川支流近辺において、おそらく安政五年(一八五八)から稲作を開始したが、
荒井
村,また当時、村の生活にとって必要な神社は、
荒井
金助
により八幡社が氏神として建立され、八月十五日を祭日とした,このほか、
荒井
村で注目すべきは、二人の武術教師が一応在地していたことである。
新札幌市史 第1巻 通史1
(在住の移動)
また、
荒井
金助
三男の
荒井
鎗(槍)次郎のように、さらに不確実なもの若干は、表からはぶいた。,シノロ 明治1.8 箱館府任用
荒井
金助
長男 文久1.3箱館書物御用出役 井上斧太郎,小普請組 岡田将監組 万延1.2現 イシカリ在住 明治1.8 箱館府任用
荒井
金助
甥 上野吉之助,、
荒井
金助
逸伝、岩村判官 札幌開拓記、谷澤尚一 札幌創建への史的階梯―札幌の歴史12号所収、等より作成,(2) 入地場所は、『
荒井
金助
事蹟材料』など後年の編さん物によっていることが多い。
新札幌市史 第2巻 通史2
(篠路村と早山清太郎)
第一の村には、在住ではないがイシカリ役所調役並
荒井
金助
が万延元年(一八六〇)頃に開いた
荒井
村、その南隣,中嶋村は文久二年(一八六二)に中嶋彦左衛門が退去したことにより
荒井
村に吸収されたが、慶応二年(一八六六,
荒井
村、シノロ村には村役人も任命されていた。,設置の年代は不明であるが、『
荒井
金助
事蹟材料』(道文旧記一四三七)には、名主・百姓代・農夫取締の村役人,は札幌本府への玄関口として物資の集散地の役割を果たしていた(北大図) ここで名主は二人みえるが、
荒井
村
新札幌市史 第1巻 通史1
(生活)
このほか、イシカリ役所調役の
荒井
金助
は、安政四年十一月にオタルナイ川付近で波にさらわれて死亡した永田久蔵,をあわれみ「小祀を建て祭て田祖霊神となし、農夫吉蔵に命じて之を祭らしめ」(
荒井
金助
事蹟材料)たという。
新札幌市史 第1巻 通史1
(改革まで)
この年、イシカリ詰の責任者水野一郎右衛門が左遷され、後任の
荒井
金助
が箱館を出発したのは六月二十八日だから,『公務日記』安政四年十月十八日条に「石狩一件、
金助
調出来」とあり、二十一日阿部屋は「土人遣ひ方非道の儀有之,に付、心得方申渡」され、十一月七日条には「イシカリ調、評議の趣、尚又
金助
方へ今日差立」とみえる。,この間、二月二十二日、奉行所の調役下役元締山口顕之進が奉行の指示を受けてイシカリに到着、
荒井
金助
ら現地
新札幌市史 第1巻 通史1
(シノロ番所)
シノロ番所は、鮭漁の臨時の番所か、または
荒井
金助
、中島彦左衛門などの主導による開墾、大友亀太郎による御手作場
新札幌市史 第1巻 通史1
(通行屋の整備)
通行屋の整備 『北地内状留』(村山家資料 北大図)には、文久元年(一八六一)五月八日付の城六郎から
荒井
金助
,この書状をうけた五月三十日付、
金助
・弥五郎より六郎への返信には、「豊平渡守銭取立方取極、同所へ夜具遣置候様致可申候
新札幌市史 第1巻 通史1
(サッポロ村の誕生)
イシカリ御手作場に隣接するシノロにおいても
荒井
金助
による
荒井
村が建設され、
金助
が名主、百姓代の村役人を
新札幌市史 第1巻 通史1
(堀と村垣の廻浦史料)
ヨイチ御場所見廻日記 6 津田 正路 万延1・5 白主御用留 7 糟谷 義明 文久1
荒井
金助
事蹟材料
新札幌市史 第1巻 通史1
(イシカリの繁栄)
荒井
金助
は、イシカリに本府を建設し、将来は〝北京〟にしようとする壮大なプランをもっていたので、移民の奨励,この
金助
のプラン及び箱館奉行の政策により、イシカリに永住人も次第にふえ、イシカリが繁栄してくる様子は、
新札幌市史 第1巻 通史1
(直場所の経営費)
小嶋源兵衛調役の時にして、文久二年十一月廿一日箱館奉行所へ納めたり(註 文久二年は
荒井
、尚石狩在勤)。,其時
金助
に逢ひて、其事を話せしに、
金助
手を打て歓ひたり。,元来、
金助
は石狩を改革し、従来より五倍の利ありしを、一文も箱館へ納めすして之を開拓発展に投したれは、箱館,にては甚た不満にて、
金助
室蘭へ転勤せしも、実は左遷の姿なり。,
金助
の意は石狩を首府として、蝦夷地を守護せんには大金を要すへし。
新札幌市史 第1巻 通史1
(志村鉄一の経歴)
『
荒井
金助
事蹟材料』の中には、当時イシカリ役所の足軽であった亀谷丑太郎の聞き取り調査が収録されている。,(石狩在勤ニテ漢学及弓術指南)鈴木顕輔の家来にて、石狩に来りしを
荒井
氏之れに命じて宿屋守としたり。
新札幌市史 第1巻 通史1
(本陣経営の転変)
荒井
金助
は、八月九日にユウフツ詰の鈴木歳郎へ、以下のように連絡している(蝦夷地御用留 道図)。,先に例証した
荒井
金助
の鈴木歳郎への書簡が、町会所に連絡先を指定したのはこのことによる。
新札幌市史 第1巻 通史1
(温泉の利用と新道)
イシカリでは早速、温泉のことを調役並
荒井
金助
へ報告し、
金助
は検分のために同心広田八十五郎を派遣する。
新札幌市史 第1巻 通史1
(「新道甚麁にして不宜」)
その折に、「イシカリ持之新道甚麁にして不宜、追々手入之積り
金助
へ談し置」と、
荒井
金助
に「手入」を指示している
新札幌市史 第1巻 通史1
(【主要参考文献・史料】)
河野常吉編「石狩場所請負人村山家記録」、「蝦夷地御用留」(以上道図)、「安政七年モンベツ御用所 御用留」「
荒井
金助
事蹟材料
新札幌市史 第1巻 通史1
(エンカルシベの山霊)
イシカリに「東西蝦夷地総鎮守」の設立が企図されたのは、
荒井
金助
がイシカリに本府をおき、将来は日本の〝北京
新札幌市史 第1巻 通史1
(学問教授所)
亀谷丑太郎の談(
荒井
金助
事蹟材料)では、学問教授所は「教導館」と名付けられ、命名者は糟谷筑後守義明であったという,また、学問教授所の御用書物出役に、
荒井
金助
の息子好太郎が文久元年四月十五日に任命された。
新札幌市史 第1巻 通史1
(早山清太郎の談話)
清太郎は翌六年五月に、新道開削のことを
荒井
金助
に届け、温泉に小屋一棟をたて、六月から九月まで湯番として
新札幌市史 第2巻 通史2
(説教所の設立)
説教所の設立 以上二つの寺院のうち、龍雲寺は開村者で石狩役所在勤の調役であった
荒井
金助
長男の未亡人の
新札幌市史 第1巻 通史1
(御手作場の地所選定)
そのころ近辺にはすでにハッサムに山岡精次郎、シノロに
荒井
金助
らによる開墾地があった。
新札幌市史 第1巻 通史1
(漁間農業の育成)
この時、イシカリには「畑作物は一切なし」(永田方正
荒井
金助
事蹟材料)と伝えられる。
新札幌市史 第1巻 通史1
(沖の口体制)
生活物資や漁業に必要な資材が豊富に移入されるよう努め、改革前にくらべると「士民の便利言はん方なし」(
荒井
金助
事蹟材料
新札幌市史 第1巻 通史1
(サッポロの開発)
これには、
荒井
金助
によるシノロ開墾も加わるが、これらはいわば封建制的な知行地としての開拓であった。
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