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札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

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新札幌市史 第1巻 通史1 (荒井金助の事蹟)

荒井金助の事蹟 荒井金助は安政四年六月に、イシカリ詰の調役に就任以降、種々様々な事蹟を残してきた。 / 荒井金助の事蹟
新札幌市史 第1巻 通史1 (荒井金助のイシカリ到着)

荒井金助のイシカリ到着 イシカリ詰の首班が水野一郎右衛門、長谷川儀三郎という変則体制も、新たに荒井金助,荒井金助は、「由緒書」によると、文化六年(一八〇九)生まれで、文政十二年(一八二九)に父竜蔵の跡をつぎ,翌二十八日のことで、到着したのは『札幌沿革史』(明治三十年刊)の編纂史料として、永田方正がまとめた『荒井金助事蹟材料 / 荒井金助のイシカリ到着
新札幌市史 第1巻 通史1 (改革発表後の動向)

ヨイチ場所請負人の竹屋(林家)長左衛門は、ちょうどこの発表の翌日の十四日にイシカリに来ており、荒井金助,帳役などの任命もなされたが、阿部屋から石狩役所へ正式に場所引継、直捌場所の公布がおこなわれたのは、『荒井金助事蹟材料,荒井金助の妻方の縁者、下宮(中村)精一郎の『荒井金助逸伝』には、盛大にオムシャをおこない、「在住諸士及部下各氏秘蔵,『公務日記』によると、七月十九日条に、「石狩、荒井金助ヨリ改革筋之儀取計候趣、自書ニテ、書類相添申越候
新札幌市史 第1巻 通史1 (【主要参考文献・史料】)

村並仕法替書類』、林家文書『御賄留』(北大図)、同『御場所見廻日記』、玉虫左太夫『入北記』(東大史)、『荒井金助事蹟材料,』(道文)、『荒井金助逸伝』(道文)、岩村判官『札幌開拓記』(道図)、「御用控 慶応四年」『大友亀太郎文書
新札幌市史 第1巻 通史1 (農民の招募)

農民の招募 この荒井金助の招募による農民について、招募年、農民名など、史料によって若干の異同がある。,『事蹟材料』、『荒井金助逸伝』(以下『逸伝』)などは、むしろ一時に入地したように読める表現であるが、これは
新札幌市史 第1巻 通史1 (金助の死)

荒井金助儀、此程中出函之処、御用済ニ付明日帰村可致処、不快ニ付立渋療治罷在、一両日殊ニ様子不宜趣之処、,荒井金助の長男好太郎をはじめ遺族は、その後もシノロ村に住み(第九章参照)、金助の三十三回忌にあたる明治三十一年,写真-6 荒井金助の墓 (北区篠路 龍雲寺)
新札幌市史 第1巻 通史1 (【主要参考文献・史料】)

高島運上家日記」(越崎宗一『鰊場史話』)、広瀬豊「肝付兼武伝」『伝記』第四巻一号~六号、杉浦勝誠『日次記』、「荒井金助事蹟材料,」、「荒井金助逸伝」、「モンベツ御用所 御用留」、「紋別御用留」、「北蝦夷地仕出之部御用留」、「トンナイ
新札幌市史 第1巻 通史1 (村役人)

村役人 荒井金助が村役人を定めた際の考え方はよく知られている。,ここでは『事蹟材料』中の「荒井金助殿履歴」によるとつぎのとおりである。
新札幌市史 第1巻 通史1 (【主要参考文献・史料】)

地理諸留』(道文)、『手稲町誌』、『手稲村史原稿』(手稲記念館)、『札幌郡調』(北大図)、『札幌区史』、『荒井金助事蹟材料,』(道文)、『荒井金助逸伝』(道文)、岩村判官『札幌開拓記』(道図)、『自安政四年至明治十一年本庁管下各郡水田段別及収穫調
新札幌市史 第1巻 通史1 (【主要参考文献・史料】)

【主要参考文献・史料】 『荒井金助事蹟材料』(道文)、『岡本氏自伝』(北大図 写本)、『箱館蝦夷地江御出張所御取立一件
新札幌市史 第1巻 通史1 (村垣範正の廻浦)

この折、トマコマイ休所には荒井金助、飯田豊之助が出迎えていた。,そもそも、荒井金助、飯田豊之助などのイシカリ詰役人が、ユウフツ・シラオイ場所の境界であるトマコマイまで
新札幌市史 第1巻 通史1 (後年の聞取り等によるもの)

箱館奉行堀織部正およびイシカリ役所調役荒井金助の意見については、直接の史料は見出してはいないが、数種の,すなわち『荒井金助事蹟材料』中の「一 金助勤倹の事 附石狩中都計画之事」中では、 其志を遂げしめば石狩,堀織部正ハ、対雁に城を築く見込なりし、其他北海道の見込ありけるを、安藤(信正―老中)と論協ハずして切腹し、荒井金助
新札幌市史 第1巻 通史1 (城六郎開墾地)

しかし参考になるものとして、荒井金助の部下で、北蝦夷地クシュンナイ勤番所の責任者でもあった城六郎のイシカリ,この点は、荒井村が荒井金助個人の費用によって設置されたと伝えられているのと同様で、これからいえば、荒井村
新札幌市史 第1巻 通史1 (生活)

このほか、イシカリ役所調役の荒井金助は、安政四年十一月にオタルナイ川付近で波にさらわれて死亡した永田久蔵,をあわれみ「小祀を建て祭て田祖霊神となし、農夫吉蔵に命じて之を祭らしめ」(荒井金助事蹟材料)たという。
新札幌市史 第1巻 通史1 (シノロ番所)

シノロ番所は、鮭漁の臨時の番所か、または荒井金助、中島彦左衛門などの主導による開墾、大友亀太郎による御手作場
新札幌市史 第1巻 通史1 (在住の移動)

また、荒井金助三男の荒井鎗(槍)次郎のように、さらに不確実なもの若干は、表からはぶいた。,シップ 文久1.2 死去 200俵 荒井好太郎 シノロ 明治1.8 箱館府任用 荒井金助長男,井上斧太郎 小普請組 岡田将監組 万延1.2現 イシカリ在住 明治1.8 箱館府任用 荒井金助甥,、荒井金助逸伝、岩村判官 札幌開拓記、谷澤尚一 札幌創建への史的階梯―札幌の歴史12号所収、等より作成,(2) 入地場所は、『荒井金助事蹟材料』など後年の編さん物によっていることが多い。
新札幌市史 第1巻 通史1 (改革にむけての動向)

すでに述べたとおり、十月十八日に「石狩一件金助調出来、織部方へ出ス、同人附札ニテ廻シ有之」とあり、荒井金助,十一月七日には、「イシカリ調評議之趣、尚又金助方へ今日差立候事」とされ、荒井金助へ「評議之趣」が報告されている
新札幌市史 第1巻 通史1 (詰合役人の刷新)

詰合役人の刷新 荒井金助がイシカリ詰の首班となるに前後して、イシカリ詰の下役たちもあいついで刷新されることとなった,村垣範正の信頼の厚かった人物で、荒井金助を補佐して、イシカリ改革をすみやかに実行することが期待されていたのであろう
新札幌市史 第1巻 通史1 (堀と村垣の廻浦史料)

  ヨイチ御場所見廻日記 6 津田 正路  万延1・5   白主御用留 7 糟谷 義明  文久1   荒井金助事蹟材料
新札幌市史 第1巻 通史1 (幕末の変転)

大友亀太郎の指導する御手作場が開かれ(第八章参照)、イシカリ役所ではこの統轄をなし、これまでの在住の開拓地、荒井金助
新札幌市史 第1巻 通史1 (地下資源の関心)

、ペンケケフシナイ、モシリノシケオマナイ、ホロナイ(いずれも現赤平市)に石炭が豊富に産出すると報じ、荒井金助
新札幌市史 第1巻 通史1 (『岡本氏自伝』中の荒井の意見)

中の荒井の意見 岡本監輔については次節で述べるが、その『岡本氏自伝』中、文久三年にイシカリで会った荒井金助
新札幌市史 第1巻 通史1 (本陣経営の転変)

荒井金助は、八月九日にユウフツ詰の鈴木歳郎へ、以下のように連絡している(蝦夷地御用留 道図)。,先に例証した荒井金助の鈴木歳郎への書簡が、町会所に連絡先を指定したのはこのことによる。  
新札幌市史 第1巻 通史1 (吉田茂八)

再び『荒井金助事蹟材料』の亀谷丑太郎の聞き取り調査によると、茂八は丑太郎がハッサム番所に勤番していた安政五年
新札幌市史 第1巻 通史1 (【主要参考文献・史料】)

河野常吉編「石狩場所請負人村山家記録」、「蝦夷地御用留」(以上道図)、「安政七年モンベツ御用所 御用留」「荒井金助事蹟材料
新札幌市史 第1巻 通史1 (改革まで)

この年、イシカリ詰の責任者水野一郎右衛門が左遷され、後任の荒井金助が箱館を出発したのは六月二十八日だから,この間、二月二十二日、奉行所の調役下役元締山口顕之進が奉行の指示を受けてイシカリに到着、荒井金助ら現地
新札幌市史 第1巻 通史1 (エンカルシベの山霊)

イシカリに「東西蝦夷地総鎮守」の設立が企図されたのは、荒井金助がイシカリに本府をおき、将来は日本の〝北京
新札幌市史 第1巻 通史1 (産業・生活など)

また当時、村の生活にとって必要な神社は、荒井金助により八幡社が氏神として建立され、八月十五日を祭日とした
新札幌市史 第1巻 通史1 (通行屋の整備)

通行屋の整備 『北地内状留』(村山家資料 北大図)には、文久元年(一八六一)五月八日付の城六郎から荒井金助
新札幌市史 第1巻 通史1 (シノロ村との関係)

すなわちイシカリ役所調役荒井金助は「剱客下國雪之進、鎗(ママ)術士荒谷兵三郎をして農村(荒井村―シノロ
新札幌市史 第1巻 通史1 (学問教授所)

亀谷丑太郎の談(荒井金助事蹟材料)では、学問教授所は「教導館」と名付けられ、命名者は糟谷筑後守義明であったという,また、学問教授所の御用書物出役に、荒井金助の息子好太郎が文久元年四月十五日に任命された。
新札幌市史 第2巻 通史2 (篠路村と早山清太郎)

第一の村には、在住ではないがイシカリ役所調役並荒井金助が万延元年(一八六〇)頃に開いた荒井村、その南隣,設置の年代は不明であるが、『荒井金助事蹟材料』(道文旧記一四三七)には、名主・百姓代・農夫取締の村役人
新札幌市史 第1巻 通史1 (第二次直轄とイシカリ)

その中にあって諸事を統轄し、改革の成功とイシカリ役所の運営をまとめあげたのが荒井金助であった。
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリの繁栄)

荒井金助は、イシカリに本府を建設し、将来は〝北京〟にしようとする壮大なプランをもっていたので、移民の奨励
新札幌市史 第1巻 通史1 (早山清太郎の談話)

清太郎は翌六年五月に、新道開削のことを荒井金助に届け、温泉に小屋一棟をたて、六月から九月まで湯番として
新札幌市史 第1巻 通史1 (御手作場の地所選定)

そのころ近辺にはすでにハッサムに山岡精次郎、シノロに荒井金助らによる開墾地があった。  
新札幌市史 第2巻 通史2 (説教所の設立)

説教所の設立 以上二つの寺院のうち、龍雲寺は開村者で石狩役所在勤の調役であった荒井金助長男の未亡人の
新札幌市史 第1巻 通史1 (サッポロの開発)

これには、荒井金助によるシノロ開墾も加わるが、これらはいわば封建制的な知行地としての開拓であった。
新札幌市史 第1巻 通史1 (トシキランの死)

そこで武四郎は義弟アイクシテを、調役並荒井金助のもとに遣わし、モニヲマの帰郷をとりはからったのである。
新札幌市史 第1巻 通史1 (漁間農業の育成)

この時、イシカリには「畑作物は一切なし」(永田方正 荒井金助事蹟材料)と伝えられる。
新札幌市史 第1巻 通史1 (沖の口体制)

生活物資や漁業に必要な資材が豊富に移入されるよう努め、改革前にくらべると「士民の便利言はん方なし」(荒井金助事蹟材料
新札幌市史 第1巻 通史1 (志村鉄一の経歴)

『荒井金助事蹟材料』の中には、当時イシカリ役所の足軽であった亀谷丑太郎の聞き取り調査が収録されている。
新札幌市史 第1巻 通史1 (「新道甚麁にして不宜」)

その折に、「イシカリ持之新道甚麁にして不宜、追々手入之積り金助へ談し置」と、荒井金助に「手入」を指示している
新札幌市史 第1巻 通史1 (荒井村の設置)

設置 のちにシノロ村と称せられる荒井村・中嶋村についても、当時の史料はきわめて少なく、これまでも『荒井金助事蹟材料
新札幌市史 第1巻 通史1 (温泉の利用と新道)

イシカリでは早速、温泉のことを調役並荒井金助へ報告し、金助は検分のために同心広田八十五郎を派遣する。
新札幌市史 第1巻 通史1 (運送と通信)

足軽亀谷丑太郎はオシャマンベ・ウス・ユウフツ・ニイカップ・サルなどを巡回して、四〇余頭を買い集めたという(荒井金助事蹟材料
新札幌市史 第1巻 通史1 (堀利熙の再訪)

堀利熙の再訪 荒井金助は七月下旬前には、前任者の長谷川儀三郎と引継をすませたようだが、ほどなく九月七日
新札幌市史 第2巻 通史2 (【主要参考文献・史料】)

』(北大図)、『札幌県 拓殖』(北大図)、『札幌郡調』(北大図)、『明治六年市在布達』(北大図)、『荒井金助事蹟材料
新札幌市史 第1巻 通史1 (林木の保護)

荒井金助は袴のすそに鹿皮をぬいつけ、自ら紫根で染めて常用したと伝えられるが、佐渡から来てハッサムに永住
新札幌市史 第1巻 通史1 (直䑺)

荒井金助自ら、天候などを理由に漂流したことにして、直接イシカリ入津を「御指図とは申兼候へ共」(生田目氏日記
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