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新札幌市史 第4巻 通史4
(薄野遊廓移転問題)
薄野遊廓
移転問題 大正五年(一九一六)、元旦の新聞紙上に札幌区長阿部宇之八は「本道政治の中心たる札幌区,その一つは
薄野遊廓
の移転問題である。 /
薄野遊廓
移転問題
新札幌市史 第2巻 通史2
(都市景観に関するもの)
都市景観に関するもの 前述のように札幌県時代、
薄野遊廓
の周囲がゴミ捨て場化していて不潔であるという市民,
薄野遊廓
は設置当時市街地に隣接した位置にあった。,狸小路の私娼は
薄野遊廓
よりも市街地の中心部に位置したため、より大きな批判が出される。,これらの運動の結果、狸小路の曖昧飲食店の一部は
薄野遊廓
へ移転し、三等貸座敷として開業することになった。,そして後世
薄野遊廓
も白石へ移転することになる。
新札幌市史 第3巻 通史3
(遊廓の移転)
遊廓の移転
薄野遊廓
の移転は明治三十四年一月の区会で決議された(同前、道毎日 明34・1・20)。,札幌区大字白石町の畑地(面積二万五九二坪、現在の白石区菊水二~三条一~二丁目辺)とし、札幌遊廓と改称すること、
薄野遊廓
,醜景である
薄野遊廓
は、市街地の発展で区の中心部に位置してしまったために、以前のように樹木などで封じ込めようとするのではなく,しかしこの
薄野遊廓
のあった場所とその周辺の飲食店街を含めた歓楽街としての位置付けは大きく変わらず、現在
新札幌市史 第3巻 通史3
(都市の醜景と遊廓の機能)
都市の醜景と遊廓の機能 札幌区民にとって
薄野遊廓
は、「一種の醜的連想が起こるゆゑ識者は『遊廓移転問題,それによると「
薄野遊廓
は区の中央部に位し、中島公園に通する要路に当るを以て、風紀上并体面上其移転を必要,ところがこの頃には、
薄野遊廓
は売春を行うことで男性中心の開拓地での社会の安寧を図る機能だけでなく、札幌,
薄野遊廓
が中島遊園地内に新築中の女子職業学校に近くなり、通学路上にあるという問題を指摘された(北タイ ,しかし、
薄野遊廓
が区市街地の中央に位置を占めるようになったことで、その跡地の利用についてもすでに考慮しようとしていたことがうかがわれる
新札幌市史 第2巻 通史2
(「公然売女」)
開拓使は、「公然売女」を「御届申上」ぐことで黙許されたと解したのか、これまで
薄野遊廓
内の「売女屋」を旅籠屋,こうして札幌の
薄野遊廓
は、「公然売女」を開拓使から公認された。
新札幌市史 第2巻 通史2
(市民意識の継承)
薄野遊廓
の土塁跡地は本来植樹するはずであったのが、放置されてゴミ捨て場化していた。,この問題は結局
薄野遊廓
の貸座敷側が植樹や定期清掃をすることで一応の決着がついた(札幌県治類典 道文八七七四
新札幌市史 第2巻 通史2
(『札幌区劃図』の年代考証)
また、
薄野遊廓
は六月から道路工事が始まり、七月に薄野の名称が決まり、八月には薄野内の町名も決まる。,
薄野遊廓
は、札幌全体の町区画にとっては四丁を占める大きな区画であり、都市機能としても一定の役割を占める
新札幌市史 第2巻 通史2
(口絵)
その反面、
薄野遊廓
などは実際よりは1丁東へずれており、必ずしも「真景」と言い切れない面も多少はある。
新札幌市史 第2巻 通史2
(娯楽・遊楽の街と旅客)
表-7 札幌の娯楽場・遊楽場 名称 位置 概 要 劇場 大黒座 南四条西三丁目
薄野遊廓
内 明治初年南四条西六丁目,西の宮 南四条西四丁目
薄野遊廓
内。 松月 大通西四丁目 大正亭 南二条西三丁目 抱芸妓五人。,一方の
薄野遊廓
の一郭にある大黒座では、座付俳優による狂言等のほかに地方巡行の一座による壮士芝居も興行され,また
薄野遊廓
には三十二年当時貸座敷が三九軒あり、二九七人の娼妓が抱えられていた。
新札幌市史 第2巻 通史2
(人身売買の実態)
表-16 札幌
薄野遊廓
における貸座敷・芸妓・娼妓数 年 貸座敷数 芸妓 娼妓 典拠文献 明治6 28戸
新札幌市史 第2巻 通史2
(まつりと遊興の世界)
これは
薄野遊廓
へ登楼した遊興人員数や揚代金にも顕著にあらわれた。,たとえぼ三十二年六月一カ月間に
薄野遊廓
へ登楼した遊興人員数は六八四一人、揚代金は一万七四三八円余にものぼった
新札幌市史 第3巻 通史3
(廃娼運動)
三十三年九月に
薄野遊廓
でも娼妓の自由廃業第一号が出て以来、前述したごとく廃業するものがあとをたたなかった,当時は、
薄野遊廓
が豊平川を越えた対岸の白石に移転が決まりちょうど工事の真最中で、札幌は「廃娼論」よりは
新札幌市史 第3巻 通史3
(娼妓の実態)
薄野遊廓
でも、大正二年(一九一三)から「健康娼妓」制度を設け、健康体で楼主に忠実に稼業に専念した娼妓の,なお、
薄野遊廓
にはいわゆる「女紅場(じよこうば)」(娼妓更正のための教育施設)は設けられなかったが、三十三年
新札幌市史 第2巻 通史2
(開拓地から都市へ)
また前述したように、二十年代には下水や屎尿処理など劣悪な生活環境への批判や、
薄野遊廓
、狸小路など都市景観
新札幌市史 第3巻 通史3
(札幌神社祭典)
物 4区 南4西1より西4まで,南5西1より南6西1~4まで,遊園地の全部 9・0 神功皇后 5区
薄野遊廓
全部,山車の由来については、たとえば「第五区は
薄野遊廓
で(中略)毎年旧見番(今の元見(もとけん))の踊り屋台
新札幌市史 第2巻 通史2
(福岡県士族と開墾社)
福本の本道における行程は『北門時事』にまとめられているが、滞札中は連夜にわたり
薄野遊廓
に通い、彼の計画
新札幌市史 第3巻 通史3
(札幌区の仏事暦)
これらの寺院は
薄野遊廓
の近辺に集中しており、「面白半分、信心二分、後の三分は色気」といわれ(北タイ 明
新札幌市史 第2巻 通史2
(私生児の問題)
このことは、この地域がいわゆる商業地域で、特に南四条から南六条にかけては
薄野遊廓
も有することから貸座敷業
新札幌市史 第3巻 通史3
(大審院判決と自由廃業)
一方札幌の
薄野遊廓
においても、三十三年八月に三七九人いた娼妓が、三十四年五月には二二五人となり、約四一
新札幌市史 第3巻 通史3
(貧民救済施設)
一時的金品恵与よりは彼らに適当な職業と資本をとの判断にいたり、貯金一七〇円を出資して、十二月二十六日
薄野遊廓
付近
新札幌市史 第2巻 通史2
(遊廓地の決定)
相唱江且売女屋之儀ハ当分之処都て旅籠屋と為相唱被為申度此段奉伺候(評議留 道図) 図-1 明治8年
薄野遊廓
図
新札幌市史 第2巻 通史2
(「解放令」の影響)
高見沢は、五年函館から家族を札幌に呼び寄せ、以来さきは
薄野遊廓
若松富蔵方で芸妓兼娼妓奉公をさせられていた
新札幌市史 第2巻 通史2
(「官設」東京楼)
「官設」東京楼 明治五年四月、
薄野遊廓
内の旅籠屋を「遊女屋」と称することを宣言した時点で、開拓判官岩村通俊
新札幌市史 第4巻 通史4
(娼妓の実態)
娼妓の実態 大正八年十一月から翌年十月にかけて、札幌
薄野遊廓
は豊平川の東側の大字白石町に移転した(図
新札幌市史 第2巻 通史2
(年中行事)
下女等の年二回の藪入りで、この日を楽しみに働いてきた人びとで狸小路の勧工場、芝居小屋、寄席、飲食店、
薄野遊廓
等
新札幌市史 第4巻 通史4
(余暇・娯楽)
当時の繁華街は、映画館の集まる
薄野遊廓
跡地のほかに、やはり何といっても狸小路商店街であった。
新札幌市史 第2巻 通史2
(図版・写真・表組一覧)
『札幌県治類典』(道文7421)より作成 (502頁) 第9章 図-1 明治8年
薄野遊廓
図,新札幌市史 第6巻),『札幌昔日譚』(北海道郷土研究資料 第二)より作成 (579頁) 表-16 札幌
薄野遊廓
新札幌市史 第4巻 通史4
(新札幌市史 第四巻 通史四/総目次)
から市制へ 札幌の問題点 道会の論議 市制建議案 二 自治権拡張論
薄野遊廓
移転問題
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