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札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

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新札幌市史 第1巻 通史1 (西蝦夷地見回りへ)

西蝦夷地見回りへ 文化三年九月に、カラフトを襲撃したロシア船は、翌四年四月にはエトロフを襲撃、ついで,五月から六月にかけて西蝦夷地リシリ島をも襲撃し、商船を拿捕したり積荷を略奪するなど「乱暴」を働いた。,八月二日堀田正敦は、東西蝦夷地を二手に分けて見回る命を下し、近藤重蔵らは西蝦夷地の見回りを行うこととなった,近藤重蔵ら西蝦夷地見回りの一行は、八月七日箱館を出立した。,②西蝦夷地は、船路不自由のうえ陸路もないところが少なくなく、急用の際には不便である。 / 西蝦夷地見回りへ
新札幌市史 第1巻 通史1 (松前蝦夷御用取扱)

以来文化四年(一八〇七)の西蝦夷地見回りにいたるまで、蝦夷地と江戸を往復すること一二回、また越年すること,寛政十年、幕府は連年異国船が蝦夷地に来舶するようになり、北辺の不安が高まってきたため、東西蝦夷地の調査,近藤重蔵が、西蝦夷地のことに関わるのは、文化元年十月六日付で「西蝦夷地上地処分方幷取締法」を建議したのにはじまる,やがて同四年には、西蝦夷地も直轄下におかれ、同年八月近藤重蔵をはじめ、鷹野方山田忠兵衛、小人目付田草川伝次郎,らに西蝦夷地リシリ島辺まで見回りの命が下る。
新札幌市史 第1巻 通史1 (【主要参考文献・史料】)

『蝦夷地御用見合書面類』(阿部家文書―東京都阿部正道氏蔵)、『村山家資料』(道開)、田草川伝次郎『西蝦夷地日記,付心得候趣申上候書付」『近藤正齋全集』第一、「蝦夷商賈聞書」『松前町史』史料編第三巻、『松前随商録』(函図)、『西蝦夷地場所地名産物方程控,』(函図)、『西蝦夷地分間』(東大史)、松浦武四郎『野帳巳第一番』(国立史料館)、小林真人「石狩場所について
新札幌市史 第1巻 通史1 (【主要参考文献・史料】)

)、『松前町史』通説編第一巻上、『熊野屋忠右衛門前々由来書』(函図)、『松前産物大概鑑』(道文)、『西蝦夷地場所地名産物方程控,』(函図)、『松前随商録』(函図)、『松前志』(国公文)、『北藩風土記』(函図)、『西蝦夷地分間』(東大史,)、「東西蝦夷地場所附」『武川家文書』、『村山家資料』(道開)
新札幌市史 第1巻 通史1 (【主要参考文献・史料】)

『新撰北海道史』第七巻、柿園主人『毛夷東環記』(道文)、『北巡録』(早稲田大学図書館蔵)、「遠山村垣西蝦夷地日記,多気志楼蝦夷日誌集』第二、『札幌区史』、『新撰北海道史』第二巻、『宗谷詰合山崎半蔵日誌』(函図)、田草川伝次郎『西蝦夷地日記,』、『津軽藩士石郷岡伝内諸事覚』(函図)、『西蝦夷地高島日記』(道文)
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリ建府との関係)

東本願寺でも安政三年五月に、西蝦夷地へ寺院取建が申請され、イワナイ・オタルナイに安政六年に寺院がおかれた,なお、この他仏光寺でも西蝦夷地の進出を計画していたが、このように多くの教団・教派が西蝦夷地へ進出してきたのは
新札幌市史 第1巻 通史1 (サッポロ調査)

最初のサッポロ行は弘化三年(再航)で、この時は松前より西蝦夷地の沿岸を船で北上して北蝦夷地に入り、帰途八月,は安政三年(廻浦)であるが、この時は前年の暮に箱館奉行所雇に任用されており、蝦夷地の幕府直轄に基づき西蝦夷地,三回目は安政四年(丁巳)で、この踏査は西蝦夷地の内陸部を主体としたものであったが、石狩川上流の諸河川調査,四回目は安政五年(戊午)の東西蝦夷地を縦横に巡った大踏査行で、今回は厳冬の中をウスより中山峠付近を越え,を経て二月にサッポロの地に入り、トイヒラ、コトニ、ハッサム、フシコを通過してゼニバコに抜け、さらに東西蝦夷地巡回後
新札幌市史 第1巻 通史1 (直轄の実態)

直轄の実態 文化四年(一八〇七)、松前および西蝦夷地も直轄となり、これで松前、蝦夷地の全域が直轄となった,文化四年、松前、西蝦夷地もその管轄に入ると、その地の収入を加えても、さしあたって多額の経費が必要なので,しかも、西蝦夷地の直轄は、東蝦夷地のそれと異なり、場所の直捌も行わず、場所請負人も廃さずそのまま置くことにした,のロシア人のカラフト来襲の第一報が福山に、五月にはエトロフ島来襲の第一報が箱館に届くといった具合に、西蝦夷地直轄
新札幌市史 第1巻 通史1 (ウライの没収と出漁禁止)

通して、「尤以後東西一統御用地ニも被仰出候ハヽ其節は、元成ニ可申付候儀ニ御座候」(由来記)と通達し、西蝦夷地,さらに、文化三年(一八〇六)、西蝦夷地直轄を決定する幕府目付遠山金四郎と勘定吟味役村垣左太夫の西蝦夷地調査,の際、ユウフツから西蝦夷地イシカリへ抜けるいわゆるシコツ越え道を整備することになり、イザリブトに通行屋
新札幌市史 第1巻 通史1 (調査の目的)

調査の目的 東蝦夷地が、享和二年(一八〇二)永久上知となり、松前藩は、西蝦夷地のみの経営および永久上知代価,これを受けて幕府は、同年七月十六日、目付遠山金四郎景晋、勘定吟味役村垣左太夫定行に、西蝦夷地派遣につき,この調査の目的は、西蝦夷地を収公するための事前調査であった。
新札幌市史 第1巻 通史1 (【主要参考文献・史料】)

、磯谷則吉『蝦夷道中記』(函図)、東寗元稹「東海参譚」『日本庶民生活史料集成』第四巻、田草川伝次郎『西蝦夷地日記,』(石原求龍堂刊)、『宗谷詰合山崎半蔵日誌』(函図)、『西蝦夷地高島日記』(道文)、近藤重蔵『蝦夷地絵図
新札幌市史 第1巻 通史1 (和人地と蝦夷地)

したがってこの範囲を和人地とし、それ以北を蝦夷地とし、熊石以北の地を西蝦夷地または上蝦夷地、亀田から東,を東蝦夷地または下蝦夷地と称し、知床岬をもって、東西蝦夷地の分岐点とし、東・西地の境、亀田、熊石に番所
新札幌市史 第1巻 通史1 (蝦夷地見回りとイシカリ場所)

この時西蝦夷地リシリ島辺までの見回りには、小普請方近藤重蔵、鷹野方山田忠兵衛、小人目付田草川伝次郎が命,一行の一人田草川伝次郎の『西蝦夷地日記』には、イシカリ十三場所の知行主、請負人、支配人、アイヌ人口、アイヌ,4.田草川伝次郎『西蝦夷地日記』より作成。  ,西蝦夷地直轄後の警備は、前述のようにロシア人の襲撃事件もあり、弘前・盛岡・久保田・酒田藩から三〇〇〇人余,同六年以降は、毎年盛岡藩より六五〇人、弘前藩より四五〇人を出兵させ、西蝦夷地は弘前藩に守備させた。
新札幌市史 第1巻 通史1 (寛政十年蝦夷地調査)

一行は、東西蝦夷地二手に分かれて調査を行った。西蝦夷地調査隊は、三橋藤右衛門等上下二七人であった。,当所は西蝦夷地第一繁昌の地にて、諸国の船繫りあり。
新札幌市史 第1巻 通史1 (十三場所の変遷と請負人)

表6は、天明六年『西蝦夷地場所地名産物方程控』(以下『産物方程控』と略記)に記録されて以来、寛政四年『,東西蝦夷地場所附』(武川家文書)にいたる七種類の史料から、知行主名を軸とし、場所名、請負人名、運上金等,「チイカルシ」、あるいは「ツフカルイシ」は、イシカリ川上流域の地名を指すようで、『西蝦夷地分間』(東大史,それが、『西蝦夷地分間』段階になると、近江商人では天満屋、浜屋はしりぞき、代わりに近江屋、恵比須屋が入,『産物方程控』と『西蝦夷地分間』段階では、わずか数年間の違いと思われるが、運上金合計は、前者が三一六両
新札幌市史 第1巻 通史1 (『北海随筆』)

シコツよりユウバリの通路を追て亦西蝦夷地の大道を開き、イシカリ川に船通路なす時は、東西の通路猶々自由なり,金銀山調査の過程で、当然シコツ(古くはユウフツのこともシコツと呼んでシコツが広域地名であった)から川伝いに西蝦夷地
新札幌市史 第1巻 通史1 (旧幕軍の蝦夷島占拠)

蝦夷島政権は蝦夷地の支配のため開拓奉行(沢太郎左衛門)を置き、二〇〇人余の移住者を伴って室蘭を本営として東・西蝦夷地,そして西蝦夷地に関しては、一小隊もしくは二〇~三〇人あてを石狩、小樽内、歌棄に在番させることとした。
新札幌市史 第1巻 通史1 (東北からの目)

東北諸藩にとって、北地の動きは直接自藩にかかわる関心事だったから、弘前藩は十月山田左四郎と早道の者を送り、西蝦夷地,から上田吉三郎、そして鶴岡藩(庄内)とかかわりをもつ旗本仁賀保家から三森穀之助、三森多吉等が、箱館や西蝦夷地,なお、西蝦夷地への渡航基地として重要な役割をはたした弘前藩と仙台藩では事情が大きく異なるので、本項のうしろに
新札幌市史 第1巻 通史1 (弘前藩の関心)

弘前領民の西蝦夷地往来はこれを例外としない。,嘉永六年春は、今別、三厩、増川の三町村だけで一一二人の領民が、一人五升の米を背負って西蝦夷地に鯡漁夫として,しかし郡奉行は、これら領民の生活が西蝦夷地への出稼をぬきにして成り立たぬと指摘、労賃は前金で受け取っているし,このように、第二次幕府直轄期をむかえた西蝦夷地は、弘前領民の出稼なくして鯡漁が成り立たず、両地は経済的,直ちに早道の者を、イシカリを含めて西蝦夷地とカラフトへ内偵に送り、さらに家臣山田左四郎を派遣し実態の把握
新札幌市史 第1巻 通史1 (武四郎の新道構想)

武四郎の新道構想 かつて幕府が文化四年(一八〇七)に西蝦夷地をも上地して、全蝦夷島を直領とした直接の,ところで東蝦夷地は、その海岸線に沿ってネモロに至る陸路はそれほど困難はなかったが、西蝦夷地の箱館よりソウヤ,文化期に近藤重蔵らが西蝦夷地の内陸踏査をなしたのも、まさにこの課題に対する最初の試行であった。
新札幌市史 第1巻 通史1 (十三場所の人口把握)

管見した範囲では、天明六年(一七八六)の『西蝦夷地場所地名産物方程控』(以下『産物方程控』と略記)の「,表3は、前述の『産物方程控』の段階より、文化四年の西蝦夷地の直轄を経て、文化七年(一八一〇)にいたる間,2.天明末~寛政初年は、『西蝦夷地分間』(東大史)によった。,3.文化4年は、田草川伝次郎『西蝦夷地日記』によった。,まず、『西蝦夷地分間』によれば、十三場所各場所の戸数は、多くて四〇戸、もっとも少ないので六戸である。
新札幌市史 第1巻 通史1 (調査の概要)

西蝦夷地巡見に出発したのは、翌三年三月十六日であるから、五カ月余の福山滞在中、巡見に先立って松前藩側から,これらの質問項目に、松前藩側はいちいち答えているが、幕府側がもっとも知りたかったのは、西蝦夷地内の場所経営,遠山景晋は、福山で西蝦夷地巡見の下準備をしながら、村垣定行の到着を待って、文化三年三月十六日松前を出発,し、西蝦夷地へ向かった(村垣は、三月二十三日に出発)。  ,『遠山村垣西蝦夷地日記』には、イシカリの状況を次のように記している。
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリの機能)

イシカリは西蝦夷地の海上航路において、箱館とソウヤの間のほぼ中間に位置し、またすでにユウフツとをもって,東・西蝦夷地を結ぶ重要な陸路の起点でもあった。
新札幌市史 第1巻 通史1 (井上貫流一行)

井上貫流一行 文化四年の西蝦夷地の直轄にともない、見回りや警備のために蝦夷地に赴く人びとの往来がますます,近藤重蔵が西蝦夷地を巡見し、『総蝦夷地御要害之儀ニ付心得候趣申上候書付』で、西蝦夷地のタカシマを要害候補地,その道中日記が『西蝦夷地高島日記』として残されているが、幕吏やアイヌの人びとを見る目が非常に詳細で、他,東西蝦夷地を結ぶ両関門は、直轄とともにさらに交通の要路として人や物の往来が盛んとなり、交通手段をはじめ
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリの開発)

このような中にあって、西蝦夷地のイシカリは、つとに箱館奉行所においても注目するところの地であった。,も有之、蝦夷地第一之地勢ニテ、抑厚き見込も有之」(諸伺書類)と記されているように、イシカリは古くから西蝦夷地
新札幌市史 第6巻 史料編1 (解題)

また、天明~寛政期の「蝦夷草紙別録」、「西蝦夷地場所地名産物方程扣」、「西蝦夷地分間」に、上下サッホロ,えがくれする札幌、その札幌を石狩から抜き出して集中的に究明しようとしても、容易につかみえない状況こそ、近世西蝦夷地石狩
新札幌市史 第1巻 通史1 (稲荷丸と山田家出稼荷物)

前述(七六六頁)のように沖の口徴税が東西二分されると、請負場所は東蝦夷地にあるが、そこのアイヌを西蝦夷地,ユウフツ御場所川下け名代免判」を山田家に与え、しかも、イシカリへの立船に役銭減免の優遇措置をとってきた(東西蝦夷地場所請負人問屋共
新札幌市史 第1巻 通史1 (カラフト・千島襲撃事件)

藩兵は、まもなくソウヤへ引き返し、西蝦夷地シャウ、モヘツ(シャリ、モンベツか)を守衛した。  ,その一方、フヴォストフは、再びカラフトにあらわれ、さらに五月には西蝦夷地リシリ付近にあらわれた。
新札幌市史 第1巻 通史1 (八幡宮の勧請)

それによると、八幡宮を「東西蝦夷地惣鎮守といたし立祠造営」するもので、「天下泰平、国家安穏、五穀豊穰、
新札幌市史 第1巻 通史1 (民族的蜂起)

、味噌などを取って兵粮とし、東西のアイヌが幾万と限りなく松前へ攻め上るから、皆々我々に味方せよ〟と、西蝦夷地,るアイヌの多くは、一斉に蜂起し、蝦夷地にいた商船を襲い、つぎつぎに和人の水主、鷹待、金掘を殺戮し、東西蝦夷地,七人 一  マシケにて弐拾三人 都合百四十三人相果る  なお『蝦夷蜂起』によれば、殺された人々は、西蝦夷地
新札幌市史 第1巻 通史1 (四望開豁)

一行はオシャマンベでエトロフ班に別れ、クロマツナイ越して西蝦夷地オタスツに出、日本海岸を北上し五月二日,一次調査が東西蝦夷地に主眼をおいたので、須藤の報文はカラフトのみを取り上げ、イシカリの記事はない。
新札幌市史 第1巻 通史1 (アイヌへの種痘)

また安政二年(一八五五)から四年にかけても、西蝦夷地を中心に疱瘡の流行をみた。
新札幌市史 第1巻 通史1 (網漁法の導入と塩引鮭)

文化四年(一八〇七)、ちょうど秋味漁の季節にイシカリを通った幕府吏員田草川伝次郎の『西蝦夷地日記』にも,第四章においても触れたように、天明五年(一七八五)段階では、一万二〇〇〇石の産出があった(西蝦夷地場所地名産物方程控,一万二〇〇〇石)程有しが、近年不猟となり、五、六はひ許」(東海参譚)りとなり、同四年では、六五〇〇石(西蝦夷地日記
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリの詰役)

日本海沿岸の西蝦夷地は、はじめスッツ・イシカリ・ルルモッヘ(留萌)の三カ所の持場(詰)割とされた(後に,「東西蝦夷地場所詰正月廿八日被仰付候公辺御役方面附写」(松前箱館雑記 巻五)によると、イシカリ・アツタ
新札幌市史 第1巻 通史1 (『野作東部日誌』)

安政四年の調査は、今度は西蝦夷地をまわり、カラフトの北部にまで至っている。,四、五年の調査の道程は、断片的にしかわかっていないのであるが、カラフト、西蝦夷地、道南六カ場所を巡回していたようである
新札幌市史 第1巻 通史1 (蝦夷紀行等)

三 『従松前西蝦夷地北蝦夷地唐太嶋東蝦夷地日記覚』 市立函館図書館所蔵、同館目録には『西蝦夷地東蝦夷地松前北蝦夷地唐太嶋日記覚,四 『奥州街道松前幷西蝦夷地唐太東蝦夷地見聞日誌写』 札幌市海保嶺夫氏所蔵、昭和四十四年北海道立図書館
新札幌市史 第1巻 通史1 (請負方式の変化)

請負方式の変化 文化四年(一八〇七)の西蝦夷地の直轄以降、イシカリ場所の経営は、東蝦夷地のように請負制,により半減 1,500両 2,500両 2,200両 2,250両 1.文化4年は、田草川伝次郎『西蝦夷地日記,文化四年の西蝦夷地直轄時には、「六千五百石宛年々栖原屋引請」(西蝦夷地日記)といったように、栖原屋が請負
新札幌市史 第1巻 通史1 (近藤重蔵)

近藤重蔵 文化四年(一八〇七)、前年来のロシア船によるカラフト・千島襲撃が直轄になったばかりの西蝦夷地
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリ要害論)

この書付は、近藤重蔵が西蝦夷地見回り中にイシカリから、あるいはソウヤから遠山景晋宛に書き送った用状のなかでも,①イシカリ川について  イシカリ川は総蝦夷地(この場合東西蝦夷地の意か)の中央にあり、かつ第一の大河,ここは、「其間僅一里許リニテ、テミヤト申西蝦夷地第一の上湊有之。
新札幌市史 第1巻 通史1 (アイヌ支配の構造)

十三場所のアイヌの三役名(天明6~安政元年) 年場所 天明6(1786) 蝦夷草紙別録 天明~寛政初 西蝦夷地分間,文化4(1807) 西蝦夷地日記 安政元(1854) 蝦夷誌 トクヒラ 乙 シラシヤマ 脇 ,はマキリ三〇八枚、針一六七〇本の、人数になおして合計六四一人に「賜り物」がなされたことになる(寅二月西蝦夷地,文化十二年(一八一五)、西蝦夷地を五組に分け翌年から順番に福山に上る方法がとられた(御用留 伊達家文書
新札幌市史 第1巻 通史1 (蝦夷地での活躍)

今度は松前藩カラフト詰として赴任する医師西川春庵の下僕となって随行することとし、三月八日に松前を出立、西蝦夷地,の海岸に沿ってソウヤに至り、渡海して北蝦夷地のマアヌイ、クシュンナイを巡ってソウヤに帰り、さらに西蝦夷地
新札幌市史 第1巻 通史1 (遠山・村垣一行)

遠山・村垣一行 文化四年(一八〇七)の西蝦夷地直轄の前年、幕府目付遠山金四郎景晋、勘定吟味役村垣左太夫定行,ら一行が、西蝦夷地を見分したことは前述したとおりである。
新札幌市史 第1巻 通史1 (知行と勤番)

ただし、西蝦夷地は幕府直轄時には、勤番所が五カ所あったが、今回はイシカリ・ソウヤ・カラフトの三カ所に減,天保九年(一八三八)の『蝦夷情実』(函図)によれば、イシカリ、ソウヤ、カラフトの西蝦夷地の勤番人数は四二人
新札幌市史 第1巻 通史1 (直轄と経営方針)

当時松前藩領である西蝦夷地には、まだ直接関係しなかったものの、文化四年の西蝦夷地直轄以後深く関わることになるので
新札幌市史 第1巻 通史1 (武藤勘蔵)

この一行中に、三橋藤右衛門に従って西蝦夷地を宗谷まで巡回して往返した用人武藤勘蔵は、その著『蝦夷日記』
新札幌市史 第1巻 通史1 (山岡精次郎の退去と農民)

さらに『西蝦夷地高島運上家日記』には同年十月十日の項に「今日山岡様御通行相成、見立番人兵七殿喜太郎弐人
新札幌市史 第1巻 通史1 (【主要参考文献・史料】)

モンベツ御用所 御用留」「荒井金助事蹟材料」、「兵部省分引継書類」(以上道文)、「御用留策」第二巻、「従西蝦夷地石狩宗谷渡海
新札幌市史 第1巻 通史1 (松浦武四郎と蝦夷地)

弘化二年(一八四五)を皮切りに、翌三年と嘉永二年(一八四九)の三回にわたって東西蝦夷地のみならず、カラフト
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリ通過の第一報)

『蝦夷地為御用、松前より西蝦夷地宗谷迄迴浦仕候行程荒増申上候書付』がそれで、経過した地名に一、二行の簡単
新札幌市史 第1巻 通史1 (犬塚与七郎)

先の武四郎との西蝦夷地への同道に関し、『奥羽幷箱館松前日記』には、「犬塚彼是の図合(はからい)にて、追々帰郷之筈
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