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新札幌市史 第2巻 通史2
(豊平川の堤防)
豊平川
の堤防 明治六年春の融雪期、雪解けに加えての霖雨で
豊平川
が増水し、四月十六日鴨々川水門が破損して,
豊平川
に関する水防工事は、四年の
豊平川
の水防棚も鴨々川水門もすでに「重修」(開拓使事業報告)とあるから,その後十年、十四年の
豊平川
の堤防工事を中心に札幌の水防工事は進められた。,そのため九、十月北海道巡視をした内務卿山田顕義は
豊平川
堤防建築を計画し、十六年六月起工し十七年九月竣工, 道文七九二六、
豊平川
堤防書類 道文七九二七、豊平堤防書類 道文八六五七)。 /
豊平川
の堤防
新札幌市史 第2巻 通史2
(豊平川の治水)
豊平川
の治水 札幌市街に与える影響の大きい豊平橋付近の堤防は、札幌県時代に整備され、札幌市街が大きな,しかしその以北の
豊平川
はまだまだ暴れ川であった。,その他二十三年はじめには
豊平川
の岩石の破砕をして、木材を流しやすくした(事業功程報告 二十一~二十三年度 /
豊平川
の治水
新札幌市史 第1巻 通史1
(豊平川扇状地の遺跡)
豊平川
扇状地の遺跡 縄文時代前期の土器が発見される遺跡も平岸地区(
豊平川
扇状地のいわゆる平岸面を含む /
豊平川
扇状地の遺跡
新札幌市史 第1巻 通史1
(豊平川の誕生)
豊平川
の誕生 前述したように、イシカリ川は、記録にあらわれはじめると同時に洪水をくり返しおこしていることも,こうして、現在
豊平川
と呼んでいる川が誕生したわけである。 /
豊平川
の誕生
新札幌市史 第1巻 通史1
(古豊平川にまつわる泥炭地)
古
豊平川
にまつわる泥炭地 古
豊平川
の氾らん原堆積物をおおっていくつかの小規模な泥炭地が発達している。 / 古
豊平川
にまつわる泥炭地
新札幌市史 第1巻 通史1
(後背低地)
この低地は石狩川・旧
豊平川
・厚別川・伏篭川(古
豊平川
)・発寒川など各河川が運搬してきた土砂によって埋められた,大昔は
豊平川
の下流であったが、幾たびかの洪水で
豊平川
の本流は江別市対雁の方向に流路を変えてしまった。,
豊平川
と分離された伏篭川は札幌扇状地の湧水を集めて流れるようになったのである。
新札幌市史 第1巻 通史1
(◇発寒川扇状地)
◇発寒川扇状地 手稲山の南東を流れる発寒川は、小規模ながら
豊平川
と同様の扇状地を作り出している。,その成立は、
豊平川
のそれより古く安定し
豊平川
扇状地(いわゆる札幌面)にはない縄文時代前期の遺跡が六カ所程確認
新札幌市史 第1巻 通史1
(分布の範囲)
めた野幌丘陵、月寒・平岸台地、発寒川扇状地、紅葉山砂丘のみならず、縄文時代には遺跡が立地していなかった
豊平川
扇状地,
豊平川
は、後背の山岳地から膨大な土砂を運び、現在の札幌市の中心部となった大規模な扇状地を作り出したことは,
豊平川
の一部は、地下水脈となって地中を流れ、南一条から北一条付近で湧き水となって地上に出、湧水池が数カ,ただし
豊平川
の氾濫は激しく、扇端部付近は低湿地で人々が自由に生活・往来できるよう固定化したのは比較的新
新札幌市史 第3巻 通史3
(水害)
水害 白石村の北部は望月寒、月寒、厚別、三里、野津幌川など
豊平川
に注ぐ小河川が形成した冲積地となっているが,特に
豊平川
に面した白石村で米里、上白石村では岡田開墾と呼ばれた菊水上町付近が水害地帯であった。,米里は望月寒川と月寒川が合流して逆川となって
豊平川
に注ぐ地域であり、逆川の名のとおり
豊平川
の水が逆流して,三十五年五月の洪水の場合、「
豊平川
一丈二尺余の増水となり各所の堤防破壊せし為め三里四方浸水し、宛然(さながら
新札幌市史 第1巻 通史1
(河岸段丘)
河岸段丘 典型的な河岸段丘は
豊平川
流域の定山渓から石山の間でよくみることができる。,高い段丘は現河床からの比高が四〇~五〇メートルで、藤の沢と簾舞との間の
豊平川
右岸に分布する。,地表面は
豊平川
に向かって緩く傾斜し起伏に富んでいる。この段丘堆積物は支笏軽石流堆積物をおおっている。
新札幌市史 第1巻 通史1
(後背低地の堆積物)
この浅い湖は、石狩川・
豊平川
・発寒川などから運ばれた土砂で次第に埋積されていった。,とくに、
豊平川
は晩氷期から引き続き、大量の砂礫を運び、札幌扇状地を形成しつつ、浅い湖をも土砂で埋め立てたのである,沖積低地となった東区、北区の大部分および西区の一部などの地域は、その後も、
豊平川
、琴似川、発寒川などが,たとえば、古
豊平川
の初期は、おそらく、札幌扇状地の西縁からJR札沼線の東側に沿う流路であったが、次第に,古
豊平川
や古発寒川の形成した氾らん原の地域にもいくつかの小規模な泥炭地が分布している。
新札幌市史 第1巻 通史1
(完新世の冷涼期(五〇〇〇年~四〇〇〇年前))
一方、六〇〇〇年前ころ紅葉山砂礫堤で隔離された潟湖も
豊平川
や発寒川の土砂で西側から埋め立てられ、この時期,その平地は、
豊平川
の洪水氾らんをうけ、めまぐるしく、その景観を変えていたのである。,札幌扇状地も次第に安定化にむかい、
豊平川
の流路が東へ移動したあと、扇状地の西の方は、
豊平川
からの分流が
新札幌市史 第3巻 通史3
(暴風と水の被害)
〔明治三十二年〕十月七~九日にかけての降雨により石狩・
豊平川
氾濫、雁来村民耕作物流失。,再び九日より十一日の降雨により
豊平川
氾濫、区内床上浸水家屋多数、各村とも耕地浸水、作物被害甚大。,五月十七~十八日の降雨により
豊平川
堤防決壊、浸水家屋三七戸、田畑浸水あるいは流失。,六月六日
豊平川
増水のため豊平橋脚流失。白石村二戸流失。水田一〇〇町歩埋没。,(この後石狩川治水工事着手さる) 〔明治四十五年〕五月四日
豊平川
増水、堤防決壊。建物倒壊多し。
新札幌市史 第1巻 通史1
(札幌扇状地の特性)
札幌扇状地の特性 札幌の母なる川、
豊平川
は、余市岳・朝里岳・喜茂別岳・空沼岳・漁岳・札幌岳などから水,札幌扇状地は、この
豊平川
が急流を駆け下り、それまで運搬してきた土砂を堆積させてつくりあげたものなのである,だからこの扇状地と
豊平川
は切っても切り離せないものであり、この両者こそ、札幌の発展を支えてきた土台なのである,また、その頃には、
豊平川
から分流した鴨々川は、いったん、扇状地の地下へ伏流して伏篭川の水源となっていた,しかし、開発が進むにつれ、
豊平川
の河道も改良され、下流部では捷水路で石狩川へ排水されるようになった。
新札幌市史 第1巻 通史1
(札幌扇状地)
札幌扇状地 札幌の中心部は、
豊平川
によって形成された扇状地の上に発達している。,この扇状地は札幌扇状地(
豊平川
扇状地)とよばれている。,市内にはこの扇状地のほかにも、琴似川や発寒川が形成した扇状地や
豊平川
の河岸段丘、西部山地の山麓緩斜面や,この札幌扇状地は単一の地形面ではなく、真駒内から中の島間の
豊平川
右岸(東側)でみられるように、比高一五,新しい方の札幌面は
豊平川
の流路が石山~川沿方向に変わってから形成されたものである。
新札幌市史 第4巻 通史4
(発電事業の公営計画)
しかしこの電業公営問題は、上水道事業にともなう
豊平川
水利権問題や札幌市営電車計画とも絡む問題であった。,電車買収は電業公営問題と切り放して実現したが、
豊平川
の水利権に固執した札幌市は、最後に上水道敷設計画と,絡めて
豊平川
水利権を確保するために、電業市営計画を進めた。,昭和六年に
豊平川
水利権が認可されると、その二つをセットとして政府の認可を申請した。
新札幌市史 第1巻 通史1
(札幌の続縄文時代遺跡)
続縄文時代遺跡の分布は、縄文時代にくらべると一段とひろがり、野幌丘陵や月寒台地、平岸台地、紅葉山砂丘、
豊平川
,特に
豊平川
扇状地の扇端には、K一三五遺跡(札幌駅北口遺跡)をはじめ大規模な遺跡が多い。
新札幌市史 第1巻 通史1
(台地の区分)
台地の区分
豊平川
の東側は、西部山地とはまったく対照的に、平坦な台地や丘陵地が広がっている。,これらの台地や丘陵地は、
豊平川
右岸の平岸の台地(平岸面=次節参照)を除き、地形や地質の特性から次のように
新札幌市史 第1巻 通史1
(河岸段丘堆積物)
河岸段丘堆積物
豊平川
の流域、とくに、石山から定山渓にかけては、二~三段の河岸段丘がみられ、それぞれの,図-8
豊平川
河岸段丘の分布
新札幌市史 第2巻 通史2
(札幌周辺の原野排水)
とそれに沿った現在の道道石狩手稲線にあたる道路,琴似村と札幌桑園間道路,軽川の道路,篠路村の排水渠など).
豊平川
堤防,. 22年度
豊平川
堤防.札幌近傍原野排水(野幌排水渠,厚別川排水渠,月寒川排水渠,苗穂排水渠,安春川,と思われる琴似花畔間排水渠,レツレツプの排水渠など). 23年度 札幌近傍排水(継続事業).
豊平川
堤防,年度 軽川花畔原野排水. 29年度 軽川花畔原野排水. 30年度 石狩川浚渫工事.石狩川堤防修繕工事.
豊平川
堤防工事
新札幌市史 第2巻 通史2
(水害)
水害 札幌の市街は
豊平川
の扇状地の上に形成されているため、札幌の人びとは毎年のごとくくりかえされる水害,琴似村民中田儀右衛門外四人が家屋もろとも流されそうになったが、村民の必死の努力で救出されるといった一幕もあった(
豊平川
洪水之書類綴,このように頻繁に繰り返される水害のために開拓使では、
豊平川
の堤防工事に力を注がなければならなかった(第二章参照
新札幌市史 第5巻 通史5下
(カムバック・サーモンと環境保全運動の多様化)
都市化により水質汚染が進んだ
豊平川
からサケの遡上が消えたことから、五十三年に発足した「さっぽろサケの会,五十四年、水産庁などの協力を得て稚魚一〇〇万匹を放流したところ、五十六年秋、三年魚となった約一五〇〇匹が
豊平川
,
豊平川
下流の汚染原因は支流の野津幌川、厚別川、月寒川流域の下水整備が遅れ、厚別・平岡などの宅地化の進展,六十年以降は、サケ回帰を契機に五十九年に開設された札幌市立
豊平川
さけ科学館が水産庁から事業を引き継ぎ、,また、河川流域の野生生物の生態について平成九年、市民グループ
豊平川
ウォッチャーズ(代表・竹中万紀子)が
新札幌市史 第2巻 通史2
(市街地の拡大)
また開拓使時代の工業局の跡地の市街化、
豊平川
の分流跡地の市街化、中島公園予定地の条丁目編入、さらに西方,
豊平川
方面である南東方向は、
豊平川
を越えて豊平村と市街を接するようになる。
新札幌市史 第4巻 通史4
(札幌市第二期下水道及び側溝工事)
下水道の排水区域は、
豊平川
流域(集水面積六九万五七一二坪、想定人口一万七五六九人、下水道延長三二一六・,表-20 下水道路線一覧と施工年(第2期)
豊平川
流域 路線名 施工 区間 豊平回線 昭 6,7 精進川,豊平本線連絡線 6 豊平3条4~3丁目連絡 白石延長線 6,7 白石中央線6条~白石2丁目~白石9条~
豊平川
,に放流 豊平1条線 8,10 豊平3条14丁目~同1条通~
豊平川
放流 琴似川流域 西12丁目北線 7,8
新札幌市史 第4巻 通史4
(都市計画風致地区)
都市計画風致地区 決定された風致地区は、1大通、2清華亭、3創成川通、4大学雁来通、5伏籠西公園通、6
豊平川
下,、7白石平岸、8月寒台、9
豊平川
上、10藻岩山、11札幌神社、12発寒川、13新川公園通、14やちだも
新札幌市史 第2巻 通史2
(札幌の橋)
その後
豊平川
、胆振川、創成川の整備にあわせて各通に橋がかけられていった。 ,
豊平川
にはもと橋はなく、渡守として志村鉄一・吉田茂八が配置された話は有名である。,四年に
豊平川
に四月、七月起工の橋二本がかけられた(開拓使事業報告)。,
豊平川
のどこにかけられたのかは不明だが、おそらく現在の国道三六号の近く、元渡し場の辺りと考えられる。,二本あるのは、当時
豊平川
は現豊平橋を中心に上下数百メートルにわたって分流が数本あったからである。
新札幌市史 第2巻 通史2
(札幌近傍の林相)
篠路太ヨリ石狩川筋対雁村迄両側平林、琴似村ヨリ西南円山ニ接ス 篠路村ヨリ花畔村ノ間 雁来村ヨリ
豊平川
沿岸対雁村迄平林,下手稲村星置往還筋、小樽内川迄平林 篠路太ヨリ石狩川筋幌向太迄両側平林 三等官林 「ヘンケハツタリベツ」ヨリ
豊平川
上,、両側定山渓迄山林、定山渓ヨリ
豊平川
上筋山林 同所ヨリ白井川筋山林 上手稲村ヨリ西方二股迄平林 ,発寒三樽別落合迄平林、月寒村ヨリ新道筋「アシヽベツ」迄 白石月寒両村間平林 平岸村東方「モツキ」川筋 有珠新道筋
豊平川
筋湯,、軽川、星置、山林 発寒川字「モリ」辺ヨリ西北平林 琴似川ヨリ西北発寒川迄平林 丘珠村ヨリ東南
豊平川
方面平林
新札幌市史 第2巻 通史2
(市民意識の継承)
また十六、七年の
豊平川
の堤防建設の際、市街総代が連署してわざわざお礼の文書を差し出すということがあった,(
豊平川
堤防書類 道文七九二七)。,さらに前述のように、
豊平川
堤防竣工と同時に、市民側は区役所を通して棚上げにされていた市中の大下水工事開始
新札幌市史 第1巻 通史1
(通行屋番人の役割)
志村鉄一の役割は、『さっぽろ昔話』によると、(一)通行家の番人、(二)渡守、(三)
豊平川
の密漁取締り、,ただ(三)に関していうと、
豊平川
が幕末の頃にすでに、鮭の産卵と保護のために種川に指定されたかどうかは不明,このように、鉄一は
豊平川
の通行に深い関係をもち、彼の功績を記念して大正九年(一九二〇)に、「札幌開祖志村鉄一碑
新札幌市史 第3巻 通史3
(石材の運搬軌道)
穴ノ沢から札幌駅の間の軌道が敷設されるが、そのルートは穴ノ沢から
豊平川
に沿って少しさかのぼる位置で
豊平川
新札幌市史 第2巻 通史2
(【主要参考文献・史料】)
郵便駅逓川渡守人名録』(道文五二二八)、『取裁録』(道文一五八〇、二四七二)、『本庁焼失一件録』(道文三〇五八)、『
豊平川
洪水之書類綴,』(道文七三三四)、『
豊平川
堤防予算差引簿』(道文七九二六)、『
豊平川
堤防書類』(道文七九二七)、『豊平堤防書類
新札幌市史 第2巻 通史2
(種川の設定と鮭・鱒の保護)
六年十月三日にいったん諸川の引網漁を許可したが、翌七年八月二十九日には
豊平川
を除き再び禁止し、種川に指定,十一年十二月十七日に至り、「札幌郡内諸川ニ鮭鱒漁獲一切差止」(布令類聚 上編)とし、これにより
豊平川
も
新札幌市史 第1巻 通史1
(札幌の擦文時代遺跡)
札幌の擦文時代遺跡 札幌市内における擦文時代の遺跡は、旧琴似川流域、札幌扇状地、
豊平川
上流部、月寒川流域
新札幌市史 第1巻 通史1
(石山・藻岩山麓の遺跡)
豊平川
に直接注ぐ中小河川に関連する台地上、藻岩山の山麓等である。
新札幌市史 第4巻 通史4
(篠路村)
〔同年十月〕
豊平川
の氾濫により沼の端方面が冠水。 ,一方、
豊平川
の増水によっても大正十五年十月に大きな被害を受け、村役場では水災凶作者の救済のために一〇〇〇,円の起債を出すほどであったが、
豊平川
の治水事業に対しても篠路村では大正十四年に
豊平川
改修工事速成同盟会,道庁では
豊平川
の治水対策のために堤防新設、護岸工事、河岸拡張、そして米里から当別太まで一里二四町に及ぶ,この完成によって篠路村をはじめ札幌市、豊平町、白石村、札幌村の流域市町村は
豊平川
洪水から救われることとなり
新札幌市史 第1巻 通史1
(硬石山と八剣山)
豊平川
右岸の石切場では、後述する支笏溶結凝灰岩の採石が行われ、「札幌軟石」として市内の著名な建築物に使,
豊平川
沿いの奇観の一つとされる八剣山(写真3)は、砥山層群の堆積末期に板割沢層に貫入した輝石安山岩で本体
新札幌市史 第1巻 通史1
(他地域の遺跡)
他地域の遺跡 南区石山、藤の沢の
豊平川
を直接望む山岳地形に近い地域、藻岩山山麓、手稲山山麓にも続縄文時代
新札幌市史 第2巻 通史2
(本府計画)
南西には後の北海道神宮にあたるお宮や琴似村・発寒村が配置され、南東には
豊平川
東側に豊平村を配置している,この大府図は、全体として石狩大府が大きく描かれすぎていたり、札幌川(
豊平川
)が南北に描かれていて、本来西方面,
豊平川
沿いには町屋など諸屋敷が配置されている。
新札幌市史 第1巻 通史1
(早山清太郎による道路開削)
清太郎[当時篠路村名主]
豊平川
上温泉[是丈山渓之温泉也]を開かんと欲し、小樽住荒屋孫兵衛に相請致し出金,を乞ひ、則孫兵衛奮発
豊平川
向より温泉迄一條之新道を開。
新札幌市史 第4巻 通史4
(バタヤと新スラムの形成)
スラムの形成 大正末から昭和初期の不況期に、札幌に流入してくる失業者が浮浪者化し、豊平の細民街をはじめ
豊平川
沿,
豊平川
にかかる東橋の右岸に、丸太を寄せ集めた上に鉄板を張り合わせて雨風をしのぐ程度の小屋が建ちはじめ、
新札幌市史 第2巻 通史2
(三十一年大洪水)
三十一年大洪水 札幌区と豊平村、上白石村と苗穂村との境を流れる
豊平川
は、春先の融雪期と秋の台風の季節,『札幌消防百年の歩み』によって札幌の水害の歴史をみても、
豊平川
の出水は五年、六年、九年、十年、十二年、,
豊平川
の氾らんは、さらにその支流の小河川の氾らんをしばしばひきおこしたことはいうまでもない。,しかも開拓使以来開始されたところの
豊平川
の治水工事は、二十二年三月ひとまず竣工したが、同年九月の札幌地方,を襲った暴風雨はたちまち
豊平川
を決壊させ、このため市街は洪水に見舞われた。
新札幌市史 第5巻 通史5上
(下水道網の整備と終末処理場の建設)
下水道網の整備と終末処理場の建設 真駒内に駐屯したアメリカ軍は、生活排水やトイレなどの汚水を当初
豊平川
,に垂れ流していたが、これは
豊平川
の汚染を引き起こした。,このアメリカ軍の垂れ流しにかぎらず、工場排水や札幌市民の生活排水をほとんど創成川、伏籠川、
豊平川
、琴似川,#160; 創成川 96,000 昭42.4 伏古川 61,000 昭43.4
豊平川
新札幌市史 第4巻 通史4
(第一期下水道及び側溝敷設工事計画)
第四区は
豊平川
流域で、市内東部に当たり、東五丁目線から苗穂、豊平、白石の各線を包含して
豊平川
に排水し、,大通~北6間 東6丁目北線 5 北8東4~北12東8間 東8丁目線 3 大通~北6間 第4区
豊平川
流域,東5丁目線 3 南5東2~大通
豊平川
間 北1条線 2 東8~東橋間 豊平本線 2 2号用水路~,4号用水路間 豊平北中通線 5 3号用水路~4号用水路間 白石中央線 4 豊平本通~
豊平川
間 白石北
新札幌市史 第5巻 通史5下
(舗装率の向上と道路整備の進行)
平成十五年度までに大規模自転車道は、
豊平川
自転車道、真駒内手稲
豊平川
自転車道、札幌北広島自転車道の三路線,、自転車道は
豊平川
サイクリング園路ほか七路線が整備された(概要 平15)。
新札幌市史 第1巻 通史1
(砥山層群)
簾舞付近の
豊平川
左岸の道路の切り割りには、頁岩や泥岩が露出している。,写真-1 玄能石 簾舞から
豊平川
を少しさかのぼり、鱒ノ沢付近に至ると、板割沢層の下位に、礫岩・泥岩
新札幌市史 第1巻 通史1
(通行屋の整備)
リニテ取賄、止宿差出無之様いたし置度之事 但土人ハ渡シ賃不取立之事 これによるとまず、(一)
豊平川
,以上の『北地内状留』からは、まず第一に志村鉄一が通行屋の管理にあたっていたこと、第二に
豊平川
にて渡舟がなされていたこと
新札幌市史 第7巻 史料編2
(五 明治六年)
五 明治六年 九二 札幌表板蔵一棟建設の件(三月八日) 九三
豊平川
出水堤防破損に付修繕の件(四月
新札幌市史 第4巻 通史4
(市域)
この道路を横切る馬頭川(山鼻川)にそって
豊平川
との合流点に至り、そこから
豊平川
を下流へ向かい幌平橋の下流地点,ここから東側に折れて
豊平川
右岸に渡り、水車町・旭町と平岸の境を東進し、平岸街道(道道札幌支笏湖線)に合,ここで東に折れて白石区に入り国道一二号に至り(コ)、国道一二号にそって
豊平川
まで達する。,国道一二号と
豊平川
の接点と、東区苗穂丘珠通り(苗穂町と条丁目の境)がJR線路にぶつかる点を直線で結んで,68.501 南2条東3丁目 頓宮西北ノ角 34 83.965 豊平3条1丁目
豊平川
右岸上流堤防
新札幌市史 第1巻 通史1
(◇T七六遺跡(豊平区平岸四条一一丁目))
平岸坊主山の西側の
豊平川
扇状地(平岸面)と月寒台地の接する地域にあたり、標高は五〇~六〇メートルである
新札幌市史 第1巻 通史1
(遺跡の立地と地形)
このことから、札幌扇状地は
豊平川
が頻繁に氾濫を繰り返し、長い間不安定な土地であったと推測される。 ,また、
豊平川
に流れ込む藻岩山山麓の北の沢・中の沢・南の沢流域(標高八〇~二〇〇メートル程)、
豊平川
上流部
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