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新札幌市史 第4巻 通史4
(豊羽鉱山)
豊羽鉱山
大正十年以来閉山していた
豊羽鉱山
は、昭和九年九月日本鉱業(前時代に
豊羽鉱山
を経営していた久原鉱業,日本鉱業は、
豊羽鉱山
再開計画書(昭和九年九月付)を作成し、それに基づいて十一年頃から鉱山の取り明けをはじめ,昭和十四年に、
豊羽鉱山
は札幌鉱山監督局から産金鉱山として、施設の拡充と大規模採鉱を命じられた。,十九年九月白井川河床陥没で坑内が水没し、二十年四月事業休止令が出されて、一旦廃坑となった(豊平町史、浅田政弘
豊羽鉱山
小史 /
豊羽鉱山
新札幌市史 第3巻 通史3
(豊羽鉱山)
豊羽鉱山
北海道の主要産業の一つに鉱業があげられるが、現札幌市域の鉱山は
豊羽鉱山
と手稲金山の二カ所のみであった,
豊羽鉱山
は豊平川の支流白井川上流に位置し、行政区は札幌郡豊平町大字平岸村字定山渓である。,
豊羽鉱山
の名は豊平川の豊と丹羽定吉の羽をとって命名されたものである(
豊羽鉱山
概況 殖民公報 九三号)。,大正六年七月に北海タイムス記者が
豊羽鉱山
を訪ねている。,を余儀なくされた(
豊羽鉱山
30年史)。 /
豊羽鉱山
新札幌市史 第5巻 通史5上
(戦後復興と豊羽鉱山株式会社設立)
戦後復興と
豊羽鉱山
株式会社設立 戦後になって本鉱山は復興されるが、それには二つの要素が深く絡み合っていた,この工事(延長七五四メートル)は二十一年十二月二十二日に完成(
豊羽鉱山
株式会社十年史)し、そのことが
豊羽鉱山
再開,二十三年二月、「
豊羽鉱山
復興計画書」が成り、それに基づいて同年十二月「
豊羽鉱山
株式会社設立委員会」が発足,そして
豊羽鉱山
株式会社は同年八月一日付けで日鉱との間で正式契約を締結し、
豊羽鉱山
の事業一切が継承された,写真-7
豊羽鉱山
選鉱場全景 / 戦後復興と
豊羽鉱山
株式会社設立
新札幌市史 第1巻 通史1
(豊羽鉱山と手稲鉱山)
豊羽鉱山
と手稲鉱山 豊平川の支流、白井川上流にある
豊羽鉱山
は、鉛、亜鉛、硫化鉄などを産出する道内最大 /
豊羽鉱山
と手稲鉱山
新札幌市史 第5巻 通史5下
(日本鉱業株式会社からの分離・独立)
日本鉱業株式会社からの分離・独立 昭和四十六年(一九七一)に手稲鉱山が閉山して以降、
豊羽鉱山
は札幌市,その結果、四十八年六月、
豊羽鉱山
株式会社(資本金四億五〇〇〇万円)が設立され、
豊羽鉱山
は装いを新たに再出発,鉱業権は日本鉱業(株)から
豊羽鉱山
(株)に所有移転された。,』は「第二次
豊羽鉱山
時代」と称している。 ,なお神岡鉱山(岐阜県)が平成十三年六月に事実上の閉山を迎えた後、
豊羽鉱山
はわが国唯一の銅鉛亜鉛鉱山となり
新札幌市史 第5巻 通史5下
(世界一のインジウム鉱山)
世界一のインジウム鉱山 最近、
豊羽鉱山
が脚光を浴びているのは世界最大のインジウム鉱山だからである。,すなわちインジウムはハイテク製品等の原材料として欠かせないものであり、その最大の供給元が
豊羽鉱山
なのである,
豊羽鉱山
のインジウムが注目を集めるようになったのは平成四年頃からであるが、その二年前には、「豊羽で鉛、,「鉱脈が確認されたのは
豊羽鉱山
南西部で、平成元年度に三カ所のボーリング調査を行った。,「
豊羽鉱山
の南に有望3鉱脈 亜鉛、銀、液晶に必要なインジウム」(道新 平5・4・27)、「
豊羽鉱山
有望
新札幌市史 第5巻 通史5上
(労働組合の結成・分裂・統一)
労働組合の結成・分裂・統一 昭和二十六年六月十四日、
豊羽鉱山
労働組合が結成された。,
豊羽鉱山
労働組合は、主として鉱山労働に従事する本山地区の労働者と、主として選鉱労働に従事する労働者とによって,構成されていたが、両地区の対立から分裂し、三十二年十二月、組合を解散した上で、翌年それぞれ
豊羽鉱山
本山労働組合,と
豊羽鉱山
石山労働組合を結成した。,とか生活環境からくる〝ものの考え方〟の相違が、融合する機会をもたずそれぞれに発酵したためと見られ」(
豊羽鉱山
株式会社十年史
新札幌市史 第5巻 通史5上
(赤字決算から黒字へ)
赤字決算から黒字へ
豊羽鉱山
株式会社の設立年月は、奇しくも朝鮮戦争の勃発と重なり、その影響による国内物価,そこで
豊羽鉱山
は二十八年五月、日鉱審議室の「
豊羽鉱山
株式会社の経営合理化に関する考察」を受けて、五〇〇〇,この期において株主への配当(一割)が初めておこなわれ、十一月には全社員に祝い金が支給された(
豊羽鉱山
株式会社十年史,理由は、「元」には戻るという字義もあることから「水没・閉山の過去に〝かえる〟ことを忌む」(岩田真一
豊羽鉱山
新札幌市史 第5巻 通史5下
(従業員数推移と鉱災害)
表-76
豊羽鉱山
従業員数推移(昭和48~55年) 昭48 584 49 410 50 436 ,
豊羽鉱山
30年史。,
豊羽鉱山
株式会社総務課より。 ,30年史、それ以降は
豊羽鉱山
株式会社総務課より。 ,この対策を怠ったとして
豊羽鉱山
が提訴されたことが二度ある。
新札幌市史 第3巻 通史3
(鉱山町の出現)
鉱山町の出現 大字平岸村字白井川御料地にある
豊羽鉱山
は、大正四年三月から大手の久原鉱業会社が本格的な,
豊羽鉱山
のめざましい発展ぶりは、『北海タイムス』に掲載された「
豊羽鉱山
の祭典」(大6・7・19、20),
豊羽鉱山
の発展の恩恵を受け、鉱山景気に湧いて栄えたのが定山渓温泉であった。,定山渓温泉は
豊羽鉱山
の社交場、娯楽場の役割をになっていたといえる。,再び
豊羽鉱山
が開かれ、鉱山町が再現されるのは昭和十二年である。
新札幌市史 第4巻 通史4
(鉱山の戦時体制)
これは昭和十四年七月に閣議決定され、八月には道庁、手稲鉱山、
豊羽鉱山
と鴻之舞鉱山から各一名が調査団として,ついで十五年三月には
豊羽鉱山
にも送り込まれたようである。,
豊羽鉱山
にもこの承認数に近い人数が入山したものと思われる。 ,手稲鉱山や
豊羽鉱山
に動員されたのは、主に札幌・小樽の商工業者である。,
豊羽鉱山
には十六年八月、十七年七月、九月、十八年二月の計四回動員されている。
新札幌市史 第5巻 通史5下
(探鉱開発状況と高品位鉱脈の発見)
探鉱開発状況と高品位鉱脈の発見 「第二次
豊羽鉱山
時代」すなわち昭和四十八年の再出発は、
豊羽鉱山
としても,メートル坑の基幹坑道化が進行し、さらに平成元年(一九八九)三月には第六立坑の積み込み設備が完成した(
豊羽鉱山
株式会社総務課,表-71
豊羽鉱山
探鉱延長推移 年度 坑道探鉱 (m) 年度 坑道探鉱 (m) 昭48 3,450,14 3,366 62 3,369 15 3,107 63 4,107 昭和54年度までは
豊羽鉱山
,30年史、それ以降は
豊羽鉱山
株式会社総務課より。
新札幌市史 第4巻 通史4
(鉱山街の形成)
鉱山街の形成 上記のような諸鉱山があったが、特に大きな鉱山であった手稲鉱山と
豊羽鉱山
には、そこで働く,
豊羽鉱山
には、上記の連担戸口表では昭和十五年末に三〇一世帯、一八九五人が住んでいた。,物品配給所、食料品市場、寺院、火葬場などの設備まで整って、やはり鉱山街が形成されていた(豊平町史、浅田政弘
豊羽鉱山
小史
新札幌市史 第5巻 通史5上
(生産量と従業員推移)
表-43
豊羽鉱山
粗鉱生産量(昭和26~47年度) 年度 鉱量 (t) 銀 鉛 亜鉛 硫黄 品位,四十七年度における鉱量の減少はドル・ショックに続く円切り上げの打撃等によるものであった(
豊羽鉱山
三十年史,表-44
豊羽鉱山
従業員数比較 職員 職長 坑内員 坑外員 臨時員 計 昭和25年8月(創立当初),表-45
豊羽鉱山
従業員数推移 年 従業員 年 従業員 昭27 536 昭38 638 28 502,45 527 35 596 46 564 36 617 47 613 37 647 『
豊羽鉱山
新札幌市史 第5巻 通史5上
(事故と水質汚染問題)
表-46
豊羽鉱山
における事故件数 年度 死亡 重傷 軽傷 計 昭27 0 39 85 124 28,44 0 2 9 11 45 4 7 7 18 46 0 5 6 11 47 0 4 4 8 『
豊羽鉱山
,調査の結果は、鉄分の度合いが二月一日一リットル中〇・〇七であったのに対して、今回は〇・七二であり、
豊羽鉱山
,
豊羽鉱山
は道立衛生研究所に依頼して三十七年から水質検査をし、四十四年には初めてカドミウムについても調査,においても依然として基準を超える数値が検出されており、決して汚染自体がなくなったわけではない(浅田政広 戦後
豊羽鉱山
新札幌市史 第5巻 通史5下
(採鉱生産体制とコラム浮選機導入)
表-72
豊羽鉱山
粗鉱生産量(昭和48年度~) 年度 鉱量 (t) 銀 鉛 亜鉛 硫黄 銅 インジウム,30年史』200頁、それ以降は
豊羽鉱山
株式会社『報告書』各期より作成。,表-73
豊羽鉱山
埋蔵鉱量推移(昭和48年度~) (鉱量:トン) 年度 確定 推定 予想 合計 年度,昭和54年度までは
豊羽鉱山
30年史、それ以降は
豊羽鉱山
総務課より。 ,30年史、それ以降は
豊羽鉱山
総務課、ただし平成15年度は会社現況より。
新札幌市史 第4巻 通史4
(豊平町)
やがて
豊羽鉱山
が復活するにしたがい定山渓も賑わいを回復するようになり、十八年四月十日には豊平町定山渓出張所,写真-6 ホテル,旅館が建ち並ぶ湯の町・定山渓市街(昭和10年頃) 大正十年に休山した
豊羽鉱山
,十七年の従業員数は元山、石山洗鉱所を合わせて一二二七人、戸数は五八〇戸、人口三九〇〇人とされている(
豊羽鉱山
三十年史
新札幌市史 第4巻 通史4
(一 札幌の鉱山業)
そのような状況の中で、現在の札幌市域に昭和に入って鉱山経営を行ったのは、手稲鉱山、
豊羽鉱山
、札幌鉱山などであった
新札幌市史 第5巻 通史5下
(機械化、自動化等の進展と「渡辺賞」受賞)
豊羽鉱山
の全容 わが国鉱業界最高の栄誉 『渡辺賞』受賞に輝く」という見出しで次のように伝えている。,「日本鉱業系列の
豊羽鉱山
(社長・賀川鐵一氏)は、かねてから積極的な探鉱活動で発見した新鉱脈・信濃𨫤,こうして先の業界新聞は、
豊羽鉱山
について「長期安定操業」可能な「強靱な体質を持つ鉱山」となった、としている
新札幌市史 第5巻 通史5下
(鉱山街の変化)
四十九年四月には
豊羽鉱山
専用バスの地下鉄真駒内駅前への乗り入れが実現したり、おりからのマイカー時代到来,また無意根山への登山客や
豊羽鉱山
の工事関係者の宿泊施設として昭和四十年二月に建てられ、同五十年前後の年間宿泊者
新札幌市史 第5巻 通史5上
(鉱山街の形成)
このほか四十年二月には札幌市によって無意根山荘、市民集会場が建設されている(
豊羽鉱山
株式会社十年史、同三十年史
新札幌市史 第3巻 通史3
(定山渓と定山渓温泉)
その大きな契機となったのは、大正四年の
豊羽鉱山
の開鉱であった。
新札幌市史 第5巻 通史5下
(【主要参考文献・史料】)
豊水すすきの~福住間)』平7、札幌市交通局『札幌市高速鉄道東西線工事記録(琴似~宮の沢間)』平11、『
豊羽鉱山
三十年史,』昭56、『鉱業新聞』、札幌市立豊羽小中学校『雪と緑の中に育って』昭55、
豊羽鉱山
株式会社『報告書』各期
新札幌市史 第5巻 通史5上
(【主要参考文献・史料】)
;47版』、北海道鉱業会『北海道の金属鉱業』(昭27)、浅田政広『北海道金鉱山史研究』(平11)、『
豊羽鉱山
,30年史』(昭56)、
豊羽鉱山
株式会社『10年史』(昭36)、豊羽鉱業所労働組合『しあわせを求めて』(
新札幌市史 第5巻 通史5上
(中国人・朝鮮人労働者の送還)
札幌市の場合、移入中国人労働者の使役事業場はなかったが、朝鮮人労働者は、手稲鉱山(三菱鉱業)と
豊羽鉱山
,一方、
豊羽鉱山
(豊平町=現札幌市域)の場合も同様に十四年から朝鮮人労働者の移入が開始され、十七年六月末,また手稲鉱山と同様に、定着率を高めるため家族を朝鮮から呼び寄せていた者は一〇〇世帯にも及んだ(
豊羽鉱山
三十年史
新札幌市史 第3巻 通史3
(定山渓鉄道)
一つは
豊羽鉱山
の建設である。
新札幌市史 第1巻 通史1
(大海進)
その代表的なものが
豊羽鉱山
である。
新札幌市史 第4巻 通史4
(町村部の商業)
また定山渓は、
豊羽鉱山
の需要と行楽・観光客需要により土産店、菓子店、飲食店が多かったという(豊平町史)
新札幌市史 第4巻 通史4
(札幌の朝鮮人)
最初は手稲鉱山、
豊羽鉱山
への連行であったが、丘珠の飛行場建設が開始されると、工事場に多数の朝鮮人が連行
新札幌市史 第8巻1 統計編
(総説)
鉱 業 第231表は鉱産額を町村別に示したものであるが,このうち鉱石は
豊羽鉱山
の金・銀・銅・鉛などの,本格的な採鉱が開始され,第1次世界大戦後の戦後恐慌により打撃を受け,1921年に休山に追い込まれた(
豊羽鉱山
三十年史,ところで手稲鉱山と
豊羽鉱山
は,いうまでもなく札幌を代表する金鉱山であったが,第232表はこの両鉱山の主要,
豊羽鉱山
は1939年に操業を本格的に再開したものの,坑内が水没するという事態に見舞われ,45年に再び休山,に追い込まれた(
豊羽鉱山
三十年史)。
新札幌市史 第3巻 通史3
(【主要参考文献・史料】)
苗穂工場五十年のあゆみ』、野村商店調査部『株式年鑑』(各年)、農商務省鉱山局『本邦鉱業ノ趨勢』(各年)、 『
豊羽鉱山
新札幌市史 第4巻 通史4
(職人から労働者へ)
近郊では、定山渓の奥に
豊羽鉱山
が開業し、鉱山労働者が出現した。
新札幌市史 第4巻 通史4
(【主要参考文献・史料】)
帝国議会貴族院議事速記録』、『大政翼賛会実践要綱の基礎解説』、鈴木源十郎『札幌紳士録』、杉山潔『現代札幌人物史』、『
豊羽鉱山
三十年史
新札幌市史 第5巻 通史5下
(図版・写真・表組一覧)
白旗山都市環境林(札幌市写真ライブラリー提供) (334頁) 写真-2 坑内用積込機(ロードホールダンプ)(
豊羽鉱山
,(344頁) 表-72
豊羽鉱山
粗鉱生産量(昭48年度~) (346頁) 表-73
豊羽鉱山
埋蔵鉱量推移,(昭48年度~) (347頁) 表-74
豊羽鉱山
精鉱生産量 (348頁) 表-75
豊羽鉱山
亜鉛精鉱生産量,とインジウム含有量 (351頁) 表-76
豊羽鉱山
従業員数推移(昭和48~55年) (352頁) 表,-77
豊羽鉱山
従業員数推移(昭和55~平成15年度) (352頁) 表-78
豊羽鉱山
における被災者数
新札幌市史 第4巻 通史4
(市街地の広がりと郵便局の新設)
. 1 石狩白石郵便局 白石郵便局を改称,白石村字中央 大 5.11.21
豊羽鉱山
郵便局,新設,三等局,平岸村字定山渓 大14.10.15 廃止,平岸村字定山渓白井川 昭16. 4 .11
豊羽鉱山
郵便局
新札幌市史 第5巻 通史5上
(経済の拡大と争議の激化)
三十六年春闘でも、北海道放送労組が四月に五波にわたる八時間から二四時間波状スト、五月には
豊羽鉱山
労組が
新札幌市史 第8巻1 統計編
(【産業】)
町村別) 第230表 林産額(町村別) 第231表 鉱産額(町村別) 第232表 手稲鉱山及び
豊羽鉱山
新札幌市史 第3巻 通史3
(人口推移)
豊平町のその後の人口増大の原因は月寒の市街化、
豊羽鉱山
の開鉱と鉱山町の出現などであった。
新札幌市史 第4巻 通史4
(部落会・町内会)
下野々沢 東簾舞 御料 砥山 宮ノ下 宮ノ上 滝ノ沢 一ノ沢 定山渓第一~六 定山渓農地 白井川 水松沢
豊羽鑛山
新札幌市史 第5巻 通史5上
(山神碑)
(さっぽろ藻岩郷土史) 表-6 南区内の山神碑 碑石 概要 山神社碑
豊羽鉱山
山神境内にある石碑。
新札幌市史 第4巻 通史4
(タコ部屋存続)
入込土工夫数 場所年 札幌市 篠路村 札幌村 平岸村 手稲村 豊平町 白石村 藻岩村 琴似村 定山渓 平岸
豊羽鉱山
新札幌市史 第4巻 通史4
(戦時下の警察)
手稲東、平岸、石山、月寒、東月寒、白石村、上白石、厚別、定山渓、簾舞(一七) 〔請願巡査派出所〕
豊羽鉱山
新札幌市史 第5巻 通史5上
(家族計画と人口政策)
三十六年当時白石保健所の家族計画実施指導員・松浦二枝は、受胎調節指導に
豊羽鉱山
株式会社へ出かけ、会社の
新札幌市史 第5巻 通史5上
(開拓地の諸相)
さらに同年、
豊羽鉱山
の離職者など二六戸が、翌二十二年にも道内離職者八戸が入植して開拓地が形成された。
新札幌市史 第5巻 通史5上
(図版・写真・表組一覧)
FICTION OF HOKKAIDO JAPAN 北大附属図書館北方資料室蔵) (442頁) 写真-7
豊羽鉱山
, 選鉱場全景(
豊羽鉱山
30年史 昭56所収) (446頁) 写真-8 茨戸油田(石油資源開発(株)札幌鉱業所,における従業員数推移 (444頁) 表-42 戦後の手稲鉱山粗鉱生産量と品位 (444頁) 表-43
豊羽鉱山
粗鉱生産量,(昭和26~47年度) (449頁) 表-44
豊羽鉱山
従業員数比較 (449頁) 表-45
豊羽鉱山
従業員数推移,(449頁) 表-46
豊羽鉱山
における事故件数 (450頁) 表-47 北海道電力の概要 (457
新札幌市史 第5巻 通史5下
(企業の合理化と紛争議の多発)
紛争議の多発 北海道内では、高度経済成長の過程で炭鉱・鉱山の合理化や閉山が加速し、鴻之舞鉱山の閉山や
豊羽鉱山
新札幌市史 第5巻 通史5上
(戦後の経営の変遷)
戦後の経営の変遷 戦後の札幌における鉱業は、手稲鉱山と
豊羽鉱山
に代表されるといってよいだろう。
新札幌市史 第4巻 通史4
(【主要参考文献・史料】)
中原謹司文書』(国図)、手稲鉱業所『手稲鉱山史』、浅田政弘「手稲鉱山について」『札幌の歴史』29号、『
豊羽鉱山
三十年史
新札幌市史 第4巻 通史4
(諸町村の生産額)
琴似、藻岩村は工場の進出により工産が増大し、手稲村、豊平町は手稲鉱山、
豊羽鉱山
の発展による鉱産の増大に
新札幌市史 第4巻 通史4
(警防団の編成)
十八年二月九日付道庁告示によれば、豊平町に豊平
豊羽鉱山
警防団が本部と二分団をもって設置されている(北海道庁公報
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