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札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

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新札幌市史 第3巻 通史3 (軽川市街)

軽川市街 軽川市街は札幌、小樽の中間に位置し、石狩へ連絡する交通の要衝に当たっていた。,明治十三年十一月に開通した幌内鉄道に軽川停車場が十四年十一月に置かれて以来、小市街が形成され、さらに二十一年,また、この年(明33)は軽川停車場の拡張、村上藤吉が劇場(共魁館)の設立も出願しており、繁華な市街に発展,『札幌郡調』はこの軽川市街の三十四年頃の状況につき、以下のように記述している。,このように順調な発展をみせていた軽川市街も、しかしながら三十九年七月十日に五〇戸余を焼失する大火に見舞 / 軽川市街
新札幌市史 第2巻 通史2 (下手稲村と軽川の発展)

下手稲村と軽川の発展 下手稲村は二十一年八月に、上手稲、下手稲、山口村の三カ村戸長役場が上手稲村より,下手稲村の中でも軽川(手稲区本町)は、十四年十月二十五日に幌内鉄道の簡易停車場が設置され、市街地の形成,三十一年に軽川に郵便局の設置を求めた陳情文によると、「軽川地方の住民は農業家のみにあらずして、全く諸種,の住民多く」、「石狩港並に附近の村落は、冬春積雪の候は凡て物貨は我が軽川に運送し来り」、軽川には戸数二八一戸,またこの頃は、軽川倉庫会社、勝山農林場(小作四〇戸)もおこり(道毎日 三十一年十一月二十二日付)、軽川市街 / 下手稲村と軽川の発展
新札幌市史 第3巻 通史3 (軽川石狩間の馬車輸送)

軽川石狩間の馬車輸送 手稲と石狩の交通路は、明治二十一年に軽川花畔間の排水渠の開削とともに作られていた,四十四年七月十二日軽川石狩間の馬車運賃値下げ広告では、軽川石狩間の五〇銭を三〇銭へ、石狩茨戸間を二〇銭 / 軽川石狩間の馬車輸送
新札幌市史 第4巻 通史4 (手稲村)

軽川は村の中心部であり、役場や停車場が所在し、北海道造林会社、前田農場、極東煉乳会社、日本石油製油所、,陸軍無線電信所などが設けられており、大正十一年十月二十九日には軽石軌道も営業を開始しており、軽川は市街地,大正十二年の軽川市街の連担戸数は二二八戸で、人口は一〇七八人に達していた。,十三年には各種集会、興行に利用された軽川倶楽部も作られている。,十五年十月に札樽国道の改良と新線の設定を控え、市街地発展を目的とした百数十人の地主により軽川地主会が組織
新札幌市史 第4巻 通史4 (軽石軌道)

軽石軌道 大正十年軽川と石狩との間に馬車鉄道を敷設して、一般の貨物や旅客を運搬することを目的として、,創立総会は、五月四日発起人である軽川番外地の近藤新太郎宅で開かれた。,路線は現在の道道石狩手稲線上を軽川駅(現手稲駅)から花畔(現在の石狩市役所前辺か)まで、八・二一キロメートル,株主の一覧表から見ると、昭和二年に筆頭株主近藤新太郎をはじめ軽川に住所のあるものが二〇人に対し、石狩はわずか,経営の主体が軽川から石狩に移ったことが何らかの問題を引き起こしたのであろうか。  
新札幌市史 第2巻 通史2 (札幌周辺の原野排水)

札幌近傍原野排水(後に新川となる琴似川小樽内川間の排水渠と発寒川追分間の支線排水渠,新川に沿う道路とそれから札幌と軽川,に通じる支線道路,札幌村方面の原野の排水渠など). 21年度 札幌近傍排水(花畔軽川間の直線排水渠とそれに,沿った現在の道道石狩手稲線にあたる道路,琴似村と札幌桑園間道路,軽川の道路,篠路村の排水渠など).豊平川堤防,札幌近傍原野排水. 26年度 札幌郡琴似村原野排水.札幌郡月寒村原野排水.札幌郡対雁村原野排水. 28年度 軽川花畔原野排水,. 29年度 軽川花畔原野排水. 30年度 石狩川浚渫工事.石狩川堤防修繕工事.豊平川堤防工事.
新札幌市史 第4巻 通史4 (養狐)

札幌では大正九年、軽川に養狐場(東京高田商会経営)が創立している。,『札幌郊外・円山町・琴似・軽川・明細図』(昭13)には札幌の養狐場がほとんど記載されている。,円山では滝ノ沢、旭ヶ丘、円山第二小学校裏、山鼻では南二四条石山通附近(図1)、手稲では軽川に多い。,早川頼房 札幌市外軽川 中崎養狐場 中崎正敏 札幌市外軽川 『札幌郊外・円山町・琴似・軽川・明細図』,図-1 南24条石山通付近の養狐場案内図 『札幌郊外・円山町・琴似・軽川・明細図』(昭13 部分)
新札幌市史 第3巻 通史3 (前田農場の経営状況)

いま、明治四十五年頃の前田農場の土地利用状況を示せば表3のようになるが、みられるように同農場は、軽川本場,このうち、農場全体の約八五パーセントを占める軽川本場は、もともと明治十四年に北海道開進会社が開墾の許可,その中の未開墾地三六八町を二十八年に前田利為が譲り受け、当初は軽川支場として発足した。,表-3 前田農場の土地利用状況(明45頃) 土地利用 軽川本場 茨戸支場 計 耕地 自作 42.7町
新札幌市史 第3巻 通史3 (前田農場章程)

また、軽川支場は「土地泥炭地ニシテ開墾前ノ樹林地少ク多クハ叢野ヲ以テ全面ヲ包マレ」ていたが、「年々開拓,しかし、茨戸本場は石狩川の水害を受けやすく、また幌内鉄道に近接した軽川支場に較べて不便なため、四十年度,より軽川を本場とし、茨戸を支場とすることにした(前田農場 牧畜経営法)。  ,また軽川支場は、そのほとんどを小作地とし、支場全体の七三・一パーセントを占める三〇九町二反三畝余歩に四五戸
新札幌市史 第3巻 通史3 (手稲村の概況)

上手稲村と山口村が純農村であったのに対し、下手稲村には停車場、村役場がある軽川に市街が開けており、前田農場,行政区域は七部に分かれていたが、大字上手稲村は上手稲・西野、大字下手稲村は軽川・三樽別・下手稲星置、大字山口村
新札幌市史 第2巻 通史2 (新川の開削)

二十一年度分の『事業功程報告』をみると、二十一年度の花畔、軽川辺の排水溝を小樽内排水渠へ注ぐように開削,また前述の札幌・銭函間運河開削計画の新聞記事によると、軽川大排水とも呼んでいる。
新札幌市史 第4巻 通史4 (養鶏)

1)、札幌市、二〇人、八〇〇〇羽、⑤石山養鶏組合(昭3・2)、豊平町大字石山、三一人、一五〇〇羽、⑥軽川養鶏組合,、手稲村字軽川、三〇人、一五〇〇羽となっている(農林省畜産局 本邦ニ於ケル養鶏団体 昭5、昭8)。
新札幌市史 第5巻 通史5上 (PTAの設置と活動)

表3は当時の手稲村の軽川小学校・中学校のPTAの会報から、その活動状況をまとめたものである。,表-3 軽川小・中学校育成会の活動(昭23年7月~10月) 小学校 中学校 総務部 学校給食指導者講習会出席補助,分団別対抗男野球・ドッチボール大会(8.1) 村内管内競技会後援 編集部 育成会報第五号発行(10.3) 「軽川小学校
新札幌市史 第3巻 通史3 (札幌の郵便局)

)、厚別三等郵便局(明29・10・16設置、官報)、月寒郵便受取所(明30・12・11設置、官報)、軽川郵便受取所,新琴似郵便受取所 38 . 4 . 1 新琴似郵便局 受取所を改称,三等局 明治32 . 3.16 軽川郵便受取所,手稲村大字下手稲村字軽川 34 . 2 . 1 下手稲郵便局 軽川郵便受取所を改称,集配三等郵便局,39 . 1 . 1 軽川郵便局 下手稲を改称 明治13 . 7.13 篠路郵便局 篠路村字本村64(
新札幌市史 第3巻 通史3 (その他の産業組合と農会)

もっとも設立が古いのは、軽川産業組合(購買販売組合)であるが、これは前田農場(一六七四町、うち小作地二三二町,6,037 琴似村 琴似 購販 明45 280 3,080 137,152 1,570 手稲村 軽川,29,513 5,229 上手稲 信購販 大 2 155 2,876 2,022 5,675 3,791 軽川増資
新札幌市史 第3巻 通史3 (手稲村の発展)

鉱産増加の最大の原因は、明治四十五年五月に軽川に創設された日本石油北海道製油所の操業によるものである。,四十一年三月に小川次郎が創設した興農園(明43・9小田良治が買収)をもとに、大正七年に開設された極東煉乳会社軽川農場
新札幌市史 第3巻 通史3 (連絡道路の整備)

そのほか、四十一年以降札幌より琴似経由軽川までを鉄道線路沿いに道路を開削しようとした。,発寒川縁から軽川までの工事は四十五年度に行われたようだ(北タイ 明41・5・4、42・7・21、43・,この道路は、まず通称新琴似四番通を延長して、軽川花畔間道路に結ばれ(北タイ 明40・1・8)、さらに西五丁目通
新札幌市史 第4巻 通史4 (教会の消長)

八年、日本基督教会は軽川伝道所を新設した。,の琴似講義所が十四年に廃止となったほか、日中戦争以降、対米英開戦のあたりまでには日本基督教会の豊平・軽川
新札幌市史 第2巻 通史2 (殖民地の設定と貸下)

札幌郡では二十七年一月に月寒原野一五〇画、石狩郡では軽川原野一九〇画の貸下が告示され、月寒原野は人気を,なお、この折の区画地は月寒原野は現広島町、軽川原野は石狩町に所在した。
新札幌市史 第4巻 通史4 (電気企業の合同)

さらに帝国電灯は、大正九年には軽川にあった軽川電気株式会社(大7設立、手稲・銭函へ供給)を合併し、十五年
新札幌市史 第8巻1 統計編 (総説)

軽石軌道株式会社は,22年軽川駅(現手稲駅)と石狩の花畔を結ぶ路線を開業した。,開業当初は苗穂~手宮間4往復,札幌~軽川(現手稲)間2往復であった(北海道鉄道百年史 中 1980)。,軽川駅は,札幌駅とは逆に発送貨物が到着貨物を大幅に超越していることが多い。,それに対し軽川駅の発送貨物が多いのは,それまでの農業の成長に加え,畜産業の発達,鉱山の開業などを示しているようである,[グラフ] 札幌駅 苗穂駅 軽川駅 琴似駅   [グラフ] 白石駅 厚別駅    
新札幌市史 第4巻 通史4 (商業組合による組織化)

,石狩呉服洋太物小売(65/205),軽川(49/52),札幌村(11/13),琴似(66/71)  ,琴似、軽川などの地区商業組合はそのような事情から生まれたものであろう。,軽川商業組合も同じ性格であり、表34のような事業を行っていた。,表-34 軽川商業組合の事業 昭15年度 16年度 組合員数 37人 49人 出資口数 400口 500,49,988 164,078 貯金残高 15,612 25,656 剰余金 1,055 1,210 保証責任軽川商業組合
新札幌市史 第4巻 通史4 (諸町村の連絡道路)

  7 札幌新篠津線 札幌区 石狩郡新篠津村 国道27号線(札幌郡江別村に於て分岐)石狩橋 8 石狩軽川停車場線,石狩郡石狩町 軽川停車場 準地方費道札幌留萌線(石狩郡石狩町大字花畔村に於て分岐) 37 札幌夕張線
新札幌市史 第3巻 通史3 (ブリーダー牧場の概況)

極東煉乳株式会社軽川農場 (手稲村大字下手稲村字軽川) 極東煉乳株式会社の経営にして、大正六年の創業なり
新札幌市史 第4巻 通史4 (鉱山街の形成)

また最寄りの駅である軽川には、鉱山関係者が利用する飲食店や料理屋が集まった(手稲町史、浅田政弘 手稲鉱山
新札幌市史 第4巻 通史4 (無線電信の開設)

札幌では大正十年、軽川に設置されていた陸軍の石狩無線電信所があった。
新札幌市史 第5巻 通史5上 (『緑礁』『彩北』)

国鉄苗穂工場苗工短歌会(二十一年、金山昭市)、篠路短歌会(二十二年、宮西頼母)、軽川樹華会(二十三年、
新札幌市史 第5巻 通史5上 (「決戦教育」下の学校)

敗戦後の十二月まで軽川・新川・札苗国民学校では運動場を占拠された。
新札幌市史 第4巻 通史4 (札樽国道の整備)

この間の道路幅員は札幌神社鳥居前~琴似間は八間、琴似~軽川間は六間、軽川~銭函間は四間半の予定で、全区間一六
新札幌市史 第4巻 通史4 (産業組合)

(保)厚 別 信購 豊平町大字月寒村 147 大 9. 7. 8 合併 昭16. 4. 1 (有)軽川酪農,篠路村 信販購利 篠路村字篠路 〔502〕 昭 8.10. 3 - - (保)手 稲 信購販利 手稲村字軽川,手稲村においては、(無)軽川購販組合(大13・4解散)、(無)上手稲信購販組合(昭8・10解散)、(有,)軽川酪農信購販組合(昭8以降の動向は不詳)があり、これらとの関連は不明であるが、昭和九年十月、(保),琴似町大字琴似村字新琴似 大字琴似村西八軒 大字琴似村字新琴似兵村 北聯,全購聯,中金,監聯 手稲信購販利 手稲村字軽川
新札幌市史 第5巻 通史5上 (近郊の観光―手稲町、その他)

手稲町観光協会は、中央バスと協力して、星置の滝―軽川牛乳の試飲―山口スイカの試食―手稲温泉をまわる観光
新札幌市史 第5巻 通史5上 (農業団体)

. 4   205 厚別町東区 軽川酪農業協同組合  27. 2.33,昭和四十三年十月、札幌市農協・藻岩農協・白石農協・琴似町農協・西豊平農協・平岸農協・手稲町農協・上手稲農協・軽川酪農協
新札幌市史 第2巻 通史2 (四季と遊覧)

炭礦鉄道札幌駅より軽川まで六マイル五〇、同駅より一五丁。,市中より少し足を伸ばせば軽川の光風館、平岸村の定山渓温泉があり、種々の病に効用あるところから近郷近在から
新札幌市史 第1巻 通史1 (銭箱よりハッサムへ)

ホシオキより、トシリコマナイ(軽川)、サンダラツケ(三樽別川)、テイネニタツ・チラエウツ(追分川)などの
新札幌市史 第4巻 通史4 (「郊外繁昌記」)

郊外繁昌記」 昭和二年(一九二七)の『北海タイムス』に「郊外繁昌記」が連載され、山鼻、円山、桑園、琴似、軽川
新札幌市史 第3巻 通史3 (札幌圏の生成)

②は札幌区周辺地域のみならず、交通の便があり原料供給地を控えた鉄道沿線の軽川、琴似、白石、厚別駅周辺にも
新札幌市史 第2巻 通史2 (幌内鉄道の完成)

停車場は、鉄道開業と共に開業した札幌駅に加え、現札幌市内には簡易停車場として軽川(現手稲、十四年十一月二十五日開業
新札幌市史 第2巻 通史2 (農場の設置)

前田農場では二十八年に手稲村軽川にも地所を収得し、両者あわせて二〇〇〇町にも達する札幌市域では最大地積,ついで前田農場は軽川本場、茨戸支場をあわせ二〇〇一町、四九戸を擁している。,屯田兵公有地 9 稲積 発寒 36 稲積豊次郎 454 - 自作,もと屯田兵公有地 10 前田 下手稲村軽川
新札幌市史 第5巻 通史5上 (その他の金属鉱山)

、豊平町、江口達夫)、③鹿内(金・銀・銅・鉛・亜鉛・硫化鉄マンガン、豊平町・京極村、松浦虎五郎)、④軽川
新札幌市史 第3巻 通史3 (地域女性団体)

このほか日露戦争を契機に設立された地域女性団体に、軽川婦人懇話会、豊平婦人会がある。
新札幌市史 第4巻 通史4 (【主要参考文献・史料】)

、北海道庁『養狐について』(北大資料パンフレット)、鈴木太代治『最新狐飼育』(昭6 北大図)、手稲町軽川小学校,『郷土調査資料』(昭7 道図)、『札幌郊外・円山町・琴似・軽川・明細図』(昭13 文資)、『北海道亜麻事業七十周年記念史
新札幌市史 第4巻 通史4 (手稲村)

村自治に関した組織としては、昭和二年九月十一日に村の発展振興を協議する手稲(軽川)昭和会(会長近藤新太郎
新札幌市史 第5巻 通史5上 (復興にむけて)

をはかるべきこと、また「付近町村の衛星的商店街」として白石、江別、月寒市街地、茨戸、石狩市街地、琴似、軽川市街地
新札幌市史 第4巻 通史4 (製薬工業)

図-2 工業地区となった琴似駅周辺 『札幌郊外・円山町・琴似・軽川・明細図』(昭和13 部分)
新札幌市史 第2巻 通史2 (郵便の発達)

二十八年七月篠路村に為替貯金局の設置運動、三十年十二月月寒村郵便取扱所を吉田宅に変更、三十一年十一月軽川
新札幌市史 第4巻 通史4 (区から部へ)

上手稲東、上手稲西、西野、南西野、軽川第一、軽川第二、三樽別(さんたるべつ)、新川、下手稲、山口、星置
新札幌市史 第4巻 通史4 (町村部の商業)

手稲村では、大正期の当座帳によると軽川に国領商店など一一軒、手稲東に久守商店など二軒、西野二股、星置に
新札幌市史 第2巻 通史2 (下手稲村の成立)

村内のサンタロベツ(三樽別、後の軽川)と呼ばれたいまの手稲区本町付近は、四年に通行屋(取扱人吉田新兵衛
新札幌市史 第4巻 通史4 (出征と凱旋)

軽川(現手稲)駅では、出征部隊が通過するたびに、兵士全員に菓子を贈る親子三人のお菓子屋さんが現われている
新札幌市史 第3巻 通史3 (生産額と産業形態)

これは軽川に日本石油北海道製油所(大1操業)があり、これがひとえに鉱産の割合を高めていた。,手稲村には前田農場(明28開設)、極東煉乳会社軽川農場(大6)、農家でも副業として乳牛の飼育がさかんにおこなわれており
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