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新札幌市史 第1巻 通史1
(通行屋の整備)
通行
屋
の整備 『北地内状留』(村山家資料 北大図)には、文久元年(一八六一)五月八日付の城六郎から荒井金助,・梨本弥五郎へ宛てた書状の中に、トヨヒラ
通行
屋
に関し次の記載がみられる。,、第三に
通行
屋
に宿泊設備のなかったことなどが指摘できる。,そして、文久元年五月以降に、渡舟料の徴収、
通行
屋
に夜具の設備がおかれたことがわかるのである。,このようにトヨヒラ
通行
屋
が整備され、新道利用者とともに
通行
屋
の利用者も増加していったとみられるのである /
通行
屋
の整備
新札幌市史 第1巻 通史1
(通行屋の建設)
通行
屋
の建設 新道の開削とともに、現在の豊平三条一丁目付近にトヨヒラの
通行
屋
がおかれた。,
通行
屋
は旅行者の休憩・宿泊施設で、トヨヒラ
通行
屋
は豊平川の渡舟業務もはたした。,トヨヒラ
通行
屋
は安政四年(一八五七)に、サッポロ越新道の開削とともに建設工事が着手された。,しかし、新道も四年中に工事中途のままで中断されたように、
通行
屋
も未完成のままであった。,トヨヒラの
通行
屋
がいつ完成し、番人がおかれるようになったのか定かではない。 /
通行
屋
の建設
新札幌市史 第1巻 通史1
(通行屋番人の役割)
通行
屋
番人の役割 鉄一がその後、いつ
通行
屋
の番人になったか不明である。,松浦武四郎の『新道日誌』によると、安政五年六月の時点では、
通行
屋
は無人であった。,それ故、安政五年六月以降、文久元年五月までの間に鉄一は
通行
屋
の番人となったとしか、現在のところおさえることができない,志村鉄一の役割は、『さっぽろ昔話』によると、(一)
通行
家の番人、(二)渡守、(三)豊平川の密漁取締り、,明治に入り
通行
守は停止となるが、明治四年(一八七一)四月に、豊平橋が架設されるに及び、鉄一は六月に橋守 /
通行
屋
番人の役割
新札幌市史 第3巻 通史3
(左側通行)
左側
通行
札幌区内の人口は、大正九年の国勢調査の段階で一〇万二四三〇人と明らかにされた。,まず大正十年一月一日を期して、人力車・橇・馬車
屋
に対して左側
通行
の励行を通達するとともに、夜間
通行
に際,さらに同年六月一日からは全区一般に左側
通行
の励行を実施し、そのため、区内質
屋
業、古物商、料理
屋
業といった,各同業者組合の役員を招集して左側
通行
励行の協議会を開催したり、宣伝ビラを配って徹底を図るのだった(北タイ,六月一日当日、札幌警察署では車に乗ってメガホンで道行く人びとに左側
通行
を宣伝するとともに、区内四二カ所 / 左側
通行
新札幌市史 第1巻 通史1
(運上屋)
運上
屋
場所請負制下で場所経営のセンターとなるのが運上
屋
(所)で、漁場の諸務一般をはじめとして、宿泊,この建物の一部が宿泊用にもあてられ、運上
屋
は
通行
屋
とも称されていた。,洪水ニ付
通行
家ハ番人壱人も無之、明家(あきや)ニテ私共ノ蝦夷持余ノ米ヲカギ、誠ニ野宿同様ノ事ニ御座候。,安政二年(一八五五)以降、東北諸藩が蝦夷地の警備につき、鶴岡・秋田藩が西海岸の担当になり、イシカリの
通行
,多人数の
通行
の折に、運上(
通行
)
屋
での宿泊がまかないきれなくなるのである。 / 運上
屋
新札幌市史 第2巻 通史2
(辛未移民の小屋と御用火事)
辛未移民の小
屋
と御用火事 『細大日誌』に「辛未移住民明小
屋
」を焼いたとある。,彼らは東本願寺付近から豊平川端辺(南六条西一~六丁目辺か)に建てられた茅造りの移民小
屋
に一時収容され、,この小
屋
は空家としてしばらく残され、六月
通行
人の煙草の投げ捨てのためか、その空小
屋
の一つから失火し、焼失,その後この空小
屋
は、市中へ移住してきた商人が家作ができるまでの臨時の住まいとして、開拓使から拝借して利用,後に開拓使は家
屋
改良政策を進めていく。 / 辛未移民の小
屋
と御用火事
新札幌市史 第1巻 通史1
(銭箱よりハッサムへ)
銭箱よりハッサムへ 武四郎は六月十七日に銭箱
通行
屋
を出発する。,この
通行
屋
も一年余りにて、「座敷八坪程出来て、美々敷
通行
屋
と成たり」とある。,また、同じく武四郎の『西蝦夷日誌』には、この
通行
屋
のことを旅籠(はたご)と呼び、
屋
内には屛風(びょうぶ,武四郎はここで左行し、大
屋
文右衛門・大竹慎十郎・永田休蔵・弓気多内匠の在住地にいたる。
新札幌市史 第1巻 通史1
(交通路の大系)
ここにはツイシカリに
通行
屋
、札沼線石狩鉄橋の札幌市側の付近にビトエの小休所も設けられていた。,・ツイシカリ、ツイシカリ・イシカリ間は、上下により時間差がおおきく異なるものの、ほぼ一日行程で、ツイシカリには
通行
屋
,この
通行
屋
は安政四年三月に焼失している。 写真-6 フンベムイの現在の風景(石狩の浜)
新札幌市史 第1巻 通史1
(ハッサムよりシユママツフへ)
渡橋前のホンナツチヤには、炭焼小
屋
が多くできていたという。,トイヒラには渡舟場と
通行
屋
が所在した。,
通行
屋
は二棟の茅小
屋
(かやごや)であった。この夜、武四郎はここに宿泊する。,まだ渡守等もおらず、
通行
屋
は無人であったが、シコツのハレタク、定山渓の温泉帰りの和人二人、案内のハッサム
新札幌市史 第1巻 通史1
(志村鉄一の経歴)
志村鉄一の経歴 トヨヒラの
通行
屋
の管理にあたったのは、札幌市内最初の和人居住者として名高い志村鉄一(,市)であったが、鉄一がどのような経緯で
通行
屋
守になったのかは不明である。,(石狩在勤ニテ漢学及弓術指南)鈴木顕輔の家来にて、石狩に来りしを荒井氏之れに命じて宿
屋
守としたり。,
通行
屋
ハ間口十間、奥行四間なり、鈴木の家来にして俸禄なき故に、世間ハ浪人といひしならん。 ,また
通行
屋
は、間口一〇間、奥行四間の規模であった。
新札幌市史 第1巻 通史1
(新道の必要性)
その派遣を前にした二月に、ユウフツ場所請負人の山田
屋
に、イシカリまで
通行
が可能かどうかの照会がなされている,それに申答した山田
屋
文右衛門代理の寿兵衛の回答によると、冬季間の
通行
は次の状態であった(御用留策 第二巻,尤其年々季節遅速ニも寄、五月ニ至候得ハ全落水ニ相成、御
通行
御継立通船聊差支無御座候。 ,これによると、十月下旬から三月下旬までは川・沼が結氷のために
通行
不能となるが、その間、特に厚氷期のみは,冬季間の
通行
が困難であったことを示す一例に、安政四年(一八五七)二月におこなわれた、村垣範正の千歳越の
新札幌市史 第1巻 通史1
(本陣経営の転変)
この中で、 昨亥年(文久三)御本陣御免已来、
通行
取扱御用品入用之儀ハ、連々歩合を以返納可仕、産物方拝借金上納之義,阿部
屋
の本陣差免中は、宿泊は旅籠
屋
がいくつか出現していて困らなかったが、運送・通信に支障をきたすようになった,このため、イシカリ市中の住民組織である町会所が、「御
通行
取扱も市中一同にて相勤可申」(函館日記留)と、,げ、「御
通行
取扱本陣守」が差免されている。,この後、本陣・
通行
取扱いは稲田
屋
富右衛門によりおこなわれる(村山家文書 御用留)。
新札幌市史 第1巻 通史1
(遠山・村垣一行)
草
屋
の、たゞ雨露をしのぐのみ。 (中略) 十二日、又川船にて泝る。ヰベツに入る。,則西地の運上
屋
船なりしかども、東方には会所といふもの二軒を置て、一所にては夷人の品を買上て、其あたひを,しかも、この遠山、村垣一行の
通行
によって、前章でも触れたように、シコツ越え道整備のためイザリブトに
通行
屋
,を建てることにし、
通行
屋
番人二人の飯料としてシレマウカのイザリブトのウライ二カ所のうち一カ所をそれにあてることに,また、この
通行
で大いに異なったのは、東蝦夷地の直轄によって千歳会所のところで触れているように、アイヌから
新札幌市史 第1巻 通史1
(ハッサム道)
『入北記』にはこの道の様子も記しているが、ポシポキ(ホシオキ)川は丸木橋で馬の
通行
もかなわず、道幅も狭,く一人の
通行
しかできず、樹々や熊笹・砥草(とくさ)の中を歩く、苅り分け道であった。,フシコベツブトと呼ばれたハッサム在住地へのハッサム道は、阿部
屋
に命じて開削されたとみられる。,後六月一日までイシカリに滞在し、二日にアツタへ向け出発することになるが、一日に重要な仰せ渡しが請負人の阿部
屋
(,このうち②は、サッポロ越新道のことで、新道開削が阿部
屋
に命じられたものであろう。
新札幌市史 第6巻 史料編1
(件名目次)
馬草刈取の廻文(同年七月二八日) 二四 秋味漁業取調参集の廻文(同年七月二八日) 二五 奉行
通行
,につき準備の達 二六 奉行
通行
人足等の廻文(同年八月三日) 二七 奉行到着につき人足割の達,(同年八月三日) 二八 石狩漁場割渡名 二九 奉行
通行
人足数調書 三〇 役鮭上納心得八,(同年八月) 二七 出稼
通行
の覚(同年八月四日) 二八 網返上永住等許認者名(同年八月四日,) 四〇 石狩行
通行
手形(同年七月二三日) 四一 石狩行
通行
手形(同年七月一九日)
新札幌市史 第1巻 通史1
(吉田茂八)
吉田茂八 志村鉄一とならび、
通行
屋
に深い関係をもったのが吉田茂八であった。,場所は『札幌区史』によると、鉄一のいた
通行
家の対岸で、現在の南四条東四丁目付近であった。
新札幌市史 第1巻 通史1
(場所運営の手抜き)
船馬の継ぎ立て、休息や宿泊、公文書や金銭の伝送等すべて請負人の責務とされ、長旅の疲れを癒すには元小家、
通行
屋
,阿部
屋
のイシカリ場所運営は閉鎖的で、和人の漁業進出を極力排除し、幕吏や諸藩士の場所内
通行
を快く思わなかったから,阿部
屋
の責任のみではなかった。 ,また、箱館奉行所雇松浦武四郎は上川からの帰途ツイシカリ
通行
屋
に一泊を申し出たが、元小家から連絡がないので,しかし、阿部
屋
の安政四年勘定帳(決算報告)には新道開削の費目は見あたらない。
新札幌市史 第1巻 通史1
(雇の実態と代償)
雇の実態と代償 雇には、大きく分けて春・夏・秋の漁場労働と、一年中運上
屋
に雇われる雑用、それに運上
屋
,・番
屋
間の用状・
通行
継立等があった。,さらに、運上
屋
・番
屋
間を往来する用状継立や
通行
継立も、アイヌに課せられた仕事であった。,一方、
通行
継立も用状継立とほぼ同様な賃金であった。,ただし、千歳川への
通行
送りの場合のみは、実際に清酒、濁酒を支給した。
新札幌市史 第1巻 通史1
(堀利熙の再訪)
十一日は新道を視察しながらトヨヒラの
通行
家にいたる。,
通行
家とはいえども、まだ普請中で「丸小
屋
同様」であった。ここで宿泊し、翌十二日に千歳の会所へ向かう。,アイヌへの非道も報告されていたようで、二十一日には、テシオ請負人栖原六右衛門と共に、イシカリの村山(阿部
屋
)
新札幌市史 第1巻 通史1
(ウライの没収と出漁禁止)
西蝦夷地調査の際、ユウフツから西蝦夷地イシカリへ抜けるいわゆるシコツ越え道を整備することになり、イザリブトに
通行
屋
,このため、
通行
屋
の番人にリキヤとカシュヒタの二人の千歳アイヌを配置することとし、その飯料として、シレマウカ
新札幌市史 第5巻 通史5下
(新琴似屯田兵中隊本部・旧黒岩家住宅)
〃 旧黒岩家住宅 (旧簾舞
通行
屋
) 南区簾舞1条2丁目 札幌市 昭59. 3.28 明治5年に有珠新道,の交通の要所となるミソマップ(簾舞)に建築されたもので、札幌における
通行
屋
の唯一の遺構。,旧黒岩家住宅(旧簾舞
通行
屋
)は、明治五年(一八七二)に有珠新道の開拓使の駅逓として建設されたものであり,この結果、旧黒岩家住宅(旧簾舞
通行
屋
)が五十九年三月二十八日に指定となり、同年に解体調査、六十年に復元,旧黒岩家住宅(旧簾舞
通行
屋
)保存会では、六十一年に郷土資料館設置委員会を設けて資料収集と展示などを行い
新札幌市史 第5巻 通史5下
(【主要参考文献・史料】)
札幌市教育文化財団、昭59~平13年版)、『北海道演劇史稿』(北海道教育委員会、昭48)、『開拓使直営簾舞
通行
屋
新札幌市史 第1巻 通史1
(住人の組織化)
後者は道路の改修工事、役人
通行
の継立人足、馬飼料の草刈り、さらに役宅で使う縄の上納まで種々にわたった。,依之奉願上候も重々恐多く奉存候得共、毎月三日つゝ以御役手間を御人足相勤、外御
通行
の人足の義は御免被仰渡被下置度,これら住人をまとめていく町役人的な業務は、まず阿部
屋
に与えられた。,すなわち「石狩中、諸願書本陣支配人の末印を以指出」(生田目氏日記)さねばならないから、阿部
屋
は住人と役所,初代浜名主は文久二年交代し(あるいは前年末で解任か)、本陣守(阿部
屋
)も同三年願い出て任を解かれるが、
新札幌市史 第1巻 通史1
(依田次郎助)
、イシカリ─ユウフツ間の千歳越については、帰路ユウフツの項で、「当所より西海岸石狩迄、右沼弐リ計、陸
通行
有,て川舟
通行
す。,但し、番
屋
も有之。,但し、
通行
家も弐軒計も有之由。扨、石狩ニ椛の大木多し。,
通行
も出来申候の由。
新札幌市史 第1巻 通史1
(新道切開之儀申上)
陸路往来無之、殊ニ年々十月より三月迄ハ積雪竪(堅)氷ニテ通路難相成、冬春六ケ月ハ通路絶候間、何れニも陸路切開
通行
在自,山添ニテ地味水利之便も宜敷、海岸セニハコ漁場より三四里も隔都テ弁利之場処故、在住之者共え同処ニテ夫々
屋
敷地割渡開発等,それゆえ、冬季の
通行
もかなうような陸路を切り開くというもので、ルートは銭箱からサッポロ・ハッサムの山麓,そして第二には、運上
屋
のあるイシカリ川口は永住に向かないのに対し、ハッサム山麓は地味・水利とも便利な地域
新札幌市史 第1巻 通史1
(出稼の諸相)
安政三年西隣りのオタルナイ場所の内、クマウス~銭箱間には二八出稼小
屋
が二〇六軒もあり、急増する家木伐採,で森林が荒れるのを心配、
屋
根や壁に木材を使うことを禁じたほど(廻浦日記)。,出稼人(開墾、台場建設等)は越年役も免除することになり、文久元年にはヤムコシナイの関所を廃止し、自由に
通行
,こうした封建的
通行
流通の制限撤廃とともに、道路や
通行
家の整備をすすめ、出稼の便をはかった。,茶
屋
兼旅籠
屋
も十軒許出来たり。
新札幌市史 第1巻 通史1
(イシカリの繁栄)
また箱館奉行でも、旅人役・越年役の免除、
通行
改の廃止などをおこない、蝦夷地への出稼・移住が簡便になると,翌六年になると、豆腐
屋
・髪結・小商内・渡方・料理仕出・油揚小間物・餅
屋
・饂飩蕎麦
屋
(うどんそばや)などの,五十嵐勝右衛門は、阿部
屋
伝治郎の本陣とならび浜名主という町役をつとめており、『五十嵐勝右衛門文書』には
新札幌市史 第5巻 通史5下
(地下街開業とその影響)
まり、冬季オリンピックの開催が決定する一方、翌四十二年には、四十年四月駅前に開業した月賦販売専門店の緑
屋
が,南二条店を開店し、長崎
屋
や婦人服・子供服小売の大晃も開店するなど西二丁目に大型店の集中がみられた。,からテナントの募集が開始されたが、できるだけ地元資本の商店を優先し小規模資本の商店も入居できるよう名古
屋
や,地下街は地下鉄と直結していることもあり、開業一カ月で一日約三〇万人が
通行
し、その後も「冬の通路」として,都心部の
通行
に重要な役割を果たした。
新札幌市史 第2巻 通史2
(遊廓地の決定)
・
通行
屋
に対し「飯盛女」を抱え置くことを許可する達を出した。 ,「抱女」とすることで取締(監視)も行届き、その地方の繁盛のもとともなるので、旅店(本陣、
通行
屋
も含む),今般割渡シニ相成候郭地之儀以来薄野(新地を抹消)と相唱江且売女
屋
之儀ハ当分之処都て旅籠
屋
と為相唱被為申度此段奉伺候,一三軒以上の旅籠
屋
が存在し、「売女
屋
」を営んでいたようである(同前)。,それゆえに、遊廓地の決定は官主導のもとに土地区画割と同時に行われ、旅籠
屋
の名目で存在していた「売女
屋
」
新札幌市史 第2巻 通史2
(豊平開墾)
また豊平
通行
屋
を役所とするのも不自然である。
新札幌市史 第2巻 通史2
(「開かれた」街と住民)
その内容は、荷担商人による往来の妨げの禁止、邏卒の設置と乱暴人の申出、
通行
の妨げとなる積み物の禁止、小荷駄,わしめた当時の札幌も、市中の建造物で目ぼしいのは官衙や諸施設で、一般の工商の住宅は勾配のゆるい石置き
屋
根,九年九月、黒田長官が家
屋
改良の諭告を出し、欧米をモデルに家
屋
構造を防寒に適した建築構造に改良するよう指導,第三には道路交通についてのもので、馬や馬車の早駆け、
通行
禁止区域への侵入、往来に蔬菜を植えたり妨害となるものを
新札幌市史 第2巻 通史2
(霊代の札幌奉遷)
さらにここからは開拓判官島義勇らによってほぼ陸路銭函へ運ばれ、仮役所となった
通行
屋
におかれた。
新札幌市史 第1巻 通史1
(「新道甚麁にして不宜」)
阿部
屋
の施工部分に関してみると、『入北記』には、「新道ノ事ユヘ道路未ダ堅ナラズ、折々泥濘ニ苦メラルヽ処,堀利熙が阿部
屋
に開削を命じたのは六月一日で、完成したのは七月である。,この短期間に工事がなされたわけで、まだトヨヒラの
通行
屋
も仮普請の丸太小
屋
も同然であったという。,これは請負人側の態度、工事の難易度などにも関係するであろうが、阿部
屋
が施工した路線部分は、高い評価が与
新札幌市史 第1巻 通史1
(玉虫左太夫『入北記』(カラフトからの帰り))
夫ヨリ又行クコト二里計リニシテ豊平ニ至リ、此処ニ
通行
家アリ。併シ仮家ニテ未タ普請ナラズ。,此川ヲ下ルコト(是ヲ去ル)二十余ニシテ深シテ舟
通行
叶フ。,サテ此辺初夏
通行
ノ節ハ真ノ草原ニシテ、鹿跡ノミ多カリケルカ、今ハ早ヤ在住ノ家三四戸モ立ツ、大ニ開ケ近々,ホシホキヨリ此迄ノ道ハ初夏
通行
ノ節、谷地且ツ熊笹ノ中ニテ路程(足場)宜シカラザルニ、今ハ早ヤ新道ヲ築キタルトテ,此処ハ
通行
家建ツベキ処ナレトモ未タ仮小家ニテ、例ノ丸小
屋
同様ノ処ナリ。併シ雨凌キニハ極上ナリ。
新札幌市史 第1巻 通史1
(ハッサム川の利用)
ハッサム川の利用 この小休所の所には、ハッサム番
屋
もおかれており、足軽亀谷丑太郎が在勤することになる,なお、小休所・番
屋
はハッサム川(現琴似発寒川)のそばに建てられたが、このハッサム川はイシカリに向かう舟運,前者の時、玉虫左太夫はハッサム川の船運に関して、「此度
通行
セシニ大木縦横ニ倒レ川道ヲ塞グ、……能ク是ヲ
新札幌市史 第3巻 通史3
(西四丁目通(停車場通)の景観)
焼失家
屋
八八七戸、札幌における史上最大の災禍となった。,大火直後の五月十五日、北海道庁は延焼拡大を招いた木造家
屋
の柾葺
屋
根を不燃材料で葺くよう改善勧告する。,同年北三条西四丁目に鉄道集会所が、また北五条西三丁目に北海道炭礦汽船本社社
屋
が落成する。,大通以南の元町
屋
地については、『札幌狸小路発展史』(昭35・9)が商家の景況の変遷を詳述しているので省略,駅前通は南四条通以南から遊廓であるため、一般の
通行
は中断される形となっていた。
新札幌市史 第1巻 通史1
(共同体意識の成長)
たとえば文久三年阿部
屋
が本陣を返上し、イシカリの町は混乱、衰微に向かいそうになると、困難をのりきり景気回復,「阿部
屋
伝治郎返上の引場、不残石狩永住の村網に被仰付候はゝ、御
通行
取扱も市中一同にて相勤可申」(五十嵐勝右衛門文書,翌年の阿部
屋
再任により、この住人共同事業は陽の目を見なかったとはいえ、安政五年にはじまる出稼へのイシカリ
新札幌市史 第1巻 通史1
(イシカリ見聞)
だからハッサムの在住
屋
敷地経営に関心を持ったが実査はしていない。,日本海岸を往来する船便、川口の渡し舟、千歳越の丸木舟や
通行
屋
、新開の道路等、サッポロへの足音が、この頃
新札幌市史 第1巻 通史1
(トシキランの死)
モニヲマは会所(運上
屋
)の許可が得られず、見舞いにも行けなかったのであった。,モニヲマの家が所在した上サッポロは、豊平川の左岸で、後のトヨヒラ
通行
家の対岸部に位置していた。
新札幌市史 第1巻 通史1
(田草川伝次郎)
一 ツエシカリ泊小
屋
は石狩より建しよし誠之小
屋
也。,同所迄千年川よりくり舟数艘此方乗船はアクツ舟と唱来たり舟程之舟に
屋
根附なり。,このように一行は、イシカリ・ユウフツ間三五里半を五日をかけて
通行
している。,イシカリを出てから第一日目のツイシカリの泊小
屋
は、「石狩より建てし誠の小
屋
」であり、前年にここを通った,それに、シコツ越えのみならず蝦夷地の
通行
に欠くことのできないアイヌの手伝い人についてまで目配りしているのが
新札幌市史 第1巻 通史1
(第二回訴願)
シレマウカ夫妻も次第に年老いて言語も自由にならないほどとなり、おまけに子供が若年のためイシカリの運上
屋
の,②シレマウカのイザリブトの二カ所のウライのうち一カ所は、
通行
屋
普請に際し没収されたので、今は一カ所のみである,このような報告書を踏まえて、同年十二月には、イシカリ十三場所内の米
屋
孫兵衛請負のハッサム、下ユウバリ、,しかも、ウライ復活の条件として、ユウフツ場所請負人阿部
屋
と、イシカリ場所のうち五場所請負人の米
屋
と双方,が熟談のうえ、米
屋
から阿部
屋
へ運上金を上納したらよかろうというものであった。
新札幌市史 第1巻 通史1
(村垣範正の廻浦)
村垣範正はこの後、二十七日に千歳川を下り、その夜はツイシカリの
通行
屋
に宿泊し、翌二十八日にイシカリ・ハッサム
新札幌市史 第1巻 通史1
(移住の自由)
安政五年四月十三日、阿部
屋
伝治郎にイシカリ場所請負の差免を令し出稼人となることを命じ、この日から一漁場経営者,だが阿部
屋
が従来直接漁獲にたずさわってきた引網は原則としてすべて継承できたから、好条件の鮭網場をひきつづき,これにともない阿部
屋
は請負の運上金仕向金の上納、備米積替え、
通行
屋
や道路の修理建築等をしなくてすむが、,四月十三日、阿部
屋
のほか五人へ、表1のように箱館奉行所で申渡しがあった。,これをみると、阿部
屋
、山田、孫兵衛、吉五郎(梶浦
屋
の名代)の四人は改革直前、すでにイシカリで何らかの形
新札幌市史 第1巻 通史1
(温泉の利用と新道)
この年(安政五)六月十八日に、武四郎がサッポロ越新道の調査のために、トヨヒラ
通行
屋
に宿泊した折のこととして
新札幌市史 第2巻 通史2
(下手稲村の成立)
村内のサンタロベツ(三樽別、後の軽川)と呼ばれたいまの手稲区本町付近は、四年に
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(取扱人吉田新兵衛
新札幌市史 第7巻 史料編2
(一 社会・生活)
明治六年一二月一五日) 豊平川堤防落成に付取締方(明治六年一二月一四日) 三六 豊平川仮橋落成に付
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心得,〇月二三日) 放馬取押の際届出の義 開墾地巡視時刻変更の義 乗馬にて兵
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近傍
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新札幌市史 第1巻 通史1
(安政五年の調査)
〈トイヒラ〉秋味漁小
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一軒あり。,三、四丁下ると夷人小
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三、四軒あり。,昨年まで一宇の小
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であったが、今年は座敷八坪ほど完成し、りっぱな
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に改められている。,、秋場熊蔵の在住二軒あり、少し上に夷人小
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五軒。,昨春堀奉行巡回の折休息された茅小
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二つあり。ここに止宿。
新札幌市史 第1巻 通史1
(新札幌市史 第一巻 通史一/総目次)
「しやつほろ」夏商 (3) その他の場合 熊野
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菊池忠右衛門 南部
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浅間嘉右衛門, 新道の必要性 ハッサム道 新道切開之儀申上 ルートの選定と飯田豊之助 第二節 新道と
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, 武四郎の新道検分 銭箱よりハッサムへ ハッサムよりシュママツフへ 三 トヨヒラ
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,
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の建設
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の整備 四 志村鉄一と吉田茂八 志村鉄一,の経歴
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番人の役割 吉田茂八 五 ハッサム小休所とハッサム川 小休所の
新札幌市史 第3巻 通史3
(日常生活の変貌)
四十一年段階では豊平館、丸吉、精養軒、西洋軒、米風亭、有合亭、乳楽軒、幌陽軒等のアメリカ風の西洋料理
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があった,写真-1 西洋料理
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「乳楽軒」(札幌区実業家案内双六 明36) しかし、まだ洋食は一般化されたとはいえず,需要の増加につれ、洋服
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、帽子
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営業者が増加し、古着と洋服とを同時に扱う商店も出てきた(最近之札幌)。,しかし、一般的にまだ洋装よりも和装が幅を利かした時代で、毎年秋の取り入れが終わった頃、近郷近在から古着
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目指,停車場通の人びとの往来が一層頻繁となってきたのも日露戦争前後からで、三十九年以降札幌警察署では「左側
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新札幌市史 第1巻 通史1
(第一回訴願)
シコツ越え道整備のためイザリブトに
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を建てることとし、
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番人のリキヤとカシュヒタの2人の千歳アイヌ,12-イシカリ13場所内米
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孫兵衛請負のトクヒラ以下5場所の通詞ら、イシカリ詰合平島長左衛門に宛てて、,その条件として、米
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からユウフツ場所請負の阿部
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へ運上金の上納を提案。,2ヵ所返還する条件として、イシカリ川にユウフツアイヌのウライ3ヵ所設置を提案(ユウフツ場所請負人は米
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孫兵衛,ウライ返還は、あくまでシレマウカ妻子の飯料とりのためであり、余剰が生じた場合はイシカリと千歳の各運上
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に
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