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新札幌市史 第1巻 通史1
(運上屋)
運上屋
場所請負制下で場所経営のセンターとなるのが
運上屋
(所)で、漁場の諸務一般をはじめとして、宿泊,イシカリの
運上屋
は、イシカリ場所が十三場所よりなり、それぞれに番屋がおかれていたためか、十三場所の元締,図-3
運上屋
の図(東徼私筆より) この図版・写真等は、著作権の保護期間中であるか、 著作権,この建物の一部が宿泊用にもあてられ、
運上屋
は通行屋とも称されていた。,
運上屋
の建物は石狩川左岸の屈曲部(現在の石狩町弁天町)にあり、水害の恐れの多い所であった。 /
運上屋
新札幌市史 第1巻 通史1
(諸施設)
①勤番所
運上屋
の前方にある。玄関付きで長屋がずいぶん大きい。アイヌ二人付添。 ②
運上屋
南向。,⑥弁天社
運上屋
の裏にある。石鳥居、石灯籠があり、石の柵が美しい。 ,⑦アイヌの住居
運上屋
辺にわずかに六、七戸。茅葺の家で美しく暮らす。中川筋のアイヌが中心。 ,以上が、弘化三年に松浦武四郎が見たイシカリ
運上屋
付近の諸施設である。
新札幌市史 第1巻 通史1
(雇の実態と代償)
雇の実態と代償 雇には、大きく分けて春・夏・秋の漁場労働と、一年中
運上屋
に雇われる雑用、それに
運上屋
,普通一般に、漁業中アイヌを雇う場合、
運上屋
において一日三度の食事を給することになっており、それ以外でも,これ以外の雇のうち、
運上屋
での雑用には次のようなものがあり、賃金も定められていた。 ,さらに、
運上屋
・番屋間を往来する用状継立や通行継立も、アイヌに課せられた仕事であった。,この場合の賃金は距離によって異なり、
運上屋
を基点に、アツタ賃米五合、オタルナイ同七合五勺、千歳川(川上
新札幌市史 第1巻 通史1
(運送と通信)
運送と通信
運上屋
・本陣の役割のうち、運送と通信についてみておこう。,
運上屋
・本陣が担当した運送・通信は、隣接の各場所・
運上屋
との間におけるもので、いわゆる継(つ)ぎ送りの
新札幌市史 第1巻 通史1
(東寗元稹のみたイシカリ)
イシカリ[夷百軒余、
運上屋
十一軒]蝦夷地秋味大猟の所、三、四十年以前には、十二はひ程有しが、近来不猟と,このように、イシカリにはアイヌの家が一〇〇軒ほど、
運上屋
が一一軒あって、秋味漁もかつては一〇〇〇石積一二艘分
新札幌市史 第1巻 通史1
(御救交易)
それによれば、一行がイシカリに到着したのは三月晦日、
運上屋
に止宿して、四月四日まで滞在したらしい。,イシカリ川口には、十三場所の
運上屋
が軒をつらねて並んでおり、付近一帯には平地が続き、枝川が諸方に通じていた,クマウシより此処へ着
運上屋
へ同宿四月四日出船仕候。 此辺一円平地ニて枝川諸方へ通し通路自由。
新札幌市史 第1巻 通史1
(弘化三年の調査)
運上屋
も大変大きな建物で、附属して魚見台、蔵(二〇余戸)、塩切長屋(大小八、九戸)、弁天社、それに夷人小屋,〈ハッサム〉八月十九日にイシカリ
運上屋
を丸木舟で発して石狩川をさかのぼり、二里三二町余でハッサムに至る,番屋あり、傍らに蔵、弁天社があって小
運上屋
の態である。夷人小屋もあるが皆出稼ぎの由。
新札幌市史 第1巻 通史1
(依田次郎助)
○は休泊所、□は岩石崎、△は川沢、○は漁家夷家村) 一リ十八丁、海陸共同シ 休 ヲタルナイ
運上屋
,但し、ユウツ(ママ)
運上屋
有 ヤワスケ嶽 是も東蝦夷地の山ニして、遥ニ向幽に見ゆル。,御着七ツ半時
運上屋
城下河原町 阿部屋伝次郎 支配人 林(ママ)吉 但し、元小家,扨、アツタ
運上屋
ニて、半分貝、半分石の化石、其外種々見物仕候。,甚タ珍敷事 海陸共三リ余 休 アツタ
運上屋
〓印 〓 浜屋与右(ママ)衛門 支配人
新札幌市史 第1巻 通史1
(カラフト・千島襲撃事件)
さらに、クシュンコタンの
運上屋
を襲い、食糧等を略奪、
運上屋
、倉庫、弁天社を焼き、アイヌの子供のみ釈放して
新札幌市史 第1巻 通史1
(イシカリ役所の創設)
当時の勤番所は、現在の石狩町弁天町に所在し、村山家の旧
運上屋
に隣接していた。,これによると、旧
運上屋
の場所はイシカリ川の屈曲部にあたり水難の恐れがあり、地積も狭隘で不充分なために、
新札幌市史 第1巻 通史1
(井上貫流一行)
此所にも
運上屋
ありしか御奉行始諸家の通行道に付拾弐三軒(間)川上エヘツブトといふ所へ引移候よしにて夷屋斗,是は何の荷物なるやと舟頭に尋けれハ石狩よりエヘツフトの
運上屋
へ送る荷物なりといふ。,してきつ石狩にエヘツフト 蝦夷いひわけは なんと舟頭 エヘツフト 此所小屋掛なれとも
運上屋
大,で八月二十六日にイシカリを立ち、ツイシカリに到着したが、前年田草川伝次郎らが宿泊した泊小屋(ここでは
運上屋
新札幌市史 第1巻 通史1
(松浦武四郎のイシカリ川筋探検)
船懸り、
運上屋
前大船小船入津して艫着にて荷役。川底枯木埋木多く引網に迷惑。網漁場では枯木を引上る。,勤番所、
運上屋
、魚見台、塩切長屋、弁天社、アイヌ小屋、鎮守妙亀法鮫大明神あり。,松浦武四郎『再航蝦夷日誌』より作成 イシカリ十三場所のうち、川筋の、あるいは枝川上流の
運上屋
・番屋,明けて八月二十二日、千歳よりビビまでは山中を歩行し、ビビよりは小船で川を下り、ユウフツの
運上屋
に到着している
新札幌市史 第1巻 通史1
(支配人、役人への申渡し)
支配人、役人への申渡し 翌六月一日は、「
運上屋
請負人代並支配人等え御沙汰書、並に東西詰合の有司えの御沙汰等御触出
新札幌市史 第1巻 通史1
(飛驒屋伐木図)
さらに、イシカリ川河口には、「山方
運上屋
」があって、それぞれの「伐出場所」とをつなぐ通路を川沿いに、あるいは,「山方
運上屋
」を発した通路には、「山方道」と「川流シ道」の二種類があって、「山方道」の方は、ハッサム川
新札幌市史 第1巻 通史1
(村垣範正)
奥州路松前在西蝦夷地北蝦夷地日記 行』と表記された巻に含まれ、経過地の地名、地形、天候、里程と交通の便否、
運上屋
新札幌市史 第6巻 史料編1
(解題)
いずれも場所が幕府に引渡しがあった安政三年から翌年にかけてのもので、
運上屋
や会所に備えつけの帳面の写しである,ずる形で次第に作成され、それも毎年ではなく支配者の交代ごとに引継ぎのために調査されたに過ぎず、帳面は
運上屋
新札幌市史 第1巻 通史1
(安政三年の調査)
〈イシカリ〉嘉永四年(一八五一)七月の長雨で出水し、イシカリの建物等すべて流され、
運上屋
、勤番所等は浜手,元小屋と呼ばれる
運上屋
(梁八間半、桁二七間半)、勤番所(梁六間半、桁一二間)のほか、武器蔵(梁一間半、
新札幌市史 第1巻 通史1
(磯谷則吉)
此所は松前の
運上屋
其外松前の商人共の仮小屋等あまたありて秋あし時分には所々より輻湊して賑ひをたに勝れたり,2~3 小流合す シフシフシ 2~3 マクンベツ 2~3 トクヒラ 7~8 石狩
運上屋
新札幌市史 第1巻 通史1
(箱館奉行への対捍)
[イシカリ場所請負人伝二郎代]吉右衛門 其方共儀、請負場所土人之中達者向、
運上屋
元浜下ケいたし置ニ依
新札幌市史 第1巻 通史1
(トシキランの死)
モニヲマは会所(
運上屋
)の許可が得られず、見舞いにも行けなかったのであった。
新札幌市史 第1巻 通史1
(アイヌ支配の構造)
②難船や異国船等を見かけ次第、
運上屋
へ知らせること。 ,④病気手当のため医師を派遣するので、軽い病気の場合でも
運上屋
や元番屋へ届け出ること。 ,⑨
運上屋
の者や船方の者へ、アイヌ女性と心安くしてはならないときつく申渡してあるが、もしアイヌ女性と密通
新札幌市史 第1巻 通史1
(動員されるアイヌ)
このため、イシカリ
運上屋
から遠く離れたイシカリ川上流から、あるいは漁事の乏しい他場所(たとえばユウフツ,そこで
運上屋
ではその対策として、イシカリ場所の人別帳に入っていない上流域のアイヌを使役の対象にするため
新札幌市史 第1巻 通史1
(調査の概要)
石狩川附之諸役所、
運上屋
、蝦夷家モ有之候。ヲタルナイ川端より陸路凡三里余、大体丑寅に向ひ罷越申候。],以上からしても、イシカリには松前藩の役人が上役下役各一人ずつ詰めており、イシカリ川付の役所や
運上屋
、アイヌ
新札幌市史 第1巻 通史1
(詰合役人の役割)
イシカリは一三カ場所の
運上屋
(元小屋)が所在する本拠で、蔵や出稼小屋など四十数棟が立ち並び、勤番所・武器庫
新札幌市史 第1巻 通史1
(上サッポロとモニヲマ)
イシカリ
運上屋
には細工小屋があり、モニヲマは当時ここで使役されていた。
新札幌市史 第1巻 通史1
(その他の産物)
主に椴材、雑木の類で、冬期に雪車(ソリ)で川の側まで運搬しておき、夏期に川に流してイシカリ元小家(
運上屋
新札幌市史 第1巻 通史1
(平山謙二郎と一瀬紀一郎)
写真1 イシカリ 河野によると「石狩
運上屋
ノ景ニテ、河岸ニ魚見台アリ。川ハ石狩川ナリ。,当時、東蝦夷地各場所ニテハ会所ト称シ、西蝦夷地各場所ニテハ
運上屋
ト呼ブ」とあり、阿部屋の元小家と魚見台
新札幌市史 第1巻 通史1
(調役の政務)
同十日朝迄] 一、御賄 六賄 此御代料百拾文 右之通御払被 この林家の「御賄留」は、ヨイチの
運上屋
新札幌市史 第1巻 通史1
(新道切開之儀申上)
そして第二には、
運上屋
のあるイシカリ川口は永住に向かないのに対し、ハッサム山麓は地味・水利とも便利な地域
新札幌市史 第1巻 通史1
(第二回訴願)
ツイシカリのシレマウカ夫妻も次第に年老いて言語も自由にならないほどとなり、おまけに子供が若年のためイシカリの
運上屋
新札幌市史 第1巻 通史1
(小野寺篤謙の遊歴)
五月二十三日シマコマキの
運上屋
で、松前藩士らがイシカリ勤番をおえて帰郷する途中、船便の風にめぐまれず、
新札幌市史 第1巻 通史1
(遠山・村垣一行)
則西地の
運上屋
船なりしかども、東方には会所といふもの二軒を置て、一所にては夷人の品を買上て、其あたひを
新札幌市史 第1巻 通史1
(西蝦夷地見回りへ)
イシカリは、蝦夷地第一の大河で、川上枝川東西惣蝦夷地へ連なって、川上にはアイヌも所々に住んでいて、河口には
運上屋
新札幌市史 第1巻 通史1
(第三回訴願と収拾)
飯料だけはこれまでどおり、千歳・イシカリの区別なく親類に分配し、余剰があった場合にはイシカリ・千歳両
運上屋
新札幌市史 第1巻 通史1
(ハッサム番所)
軽物はもともと、
運上屋
のみの交易では不足であったので、番人が番屋に越年して捕獲と収集にあたることも多かった
新札幌市史 第1巻 通史1
(改役所の設置)
写真-2 明治初年のアイヌ漁場の風景(北海道大学附属図書館蔵) 次に、アイヌの労働雇用の問題では、
運上屋
新札幌市史 第1巻 通史1
(『土人由来記』)
この事件の顚末については、当時ユウフツ会所(東蝦夷地の仮直轄を機に
運上屋
を会所と改めた)の請負人を務めていた
新札幌市史 第1巻 通史1
(モニヲマの家族)
しかし、農業は漁業の妨げとなるために支配人に禁止され、山中へ行くことも制限され、イシカリの
運上屋
に緊縛
新札幌市史 第1巻 通史1
(第一回訴願)
するようにかつて、シレマウカのムイザリのウライからは、年によって異なるが干鮭一四〇〇~一五〇〇束がイシカリの
運上屋
,ウライ返還は、あくまでシレマウカ妻子の飯料とりのためであり、余剰が生じた場合はイシカリと千歳の各
運上屋
新札幌市史 第1巻 通史1
(場所運営の手抜き)
森一馬は「諸事丁寧に賄もよし」とアツタ
運上屋
をほめ、成石修輔はアツタ場所支配人を「いと信実なる人にて、
新札幌市史 第1巻 通史1
(網漁法の導入と塩引鮭)
総蝦夷地御要害之儀ニ付心得候趣申上候書付』(以下『書付』と略記)にも「イシカリ鮭漁ノ仕法其外場所々々ト違ヒ夷人共
運上屋
新札幌市史 第1巻 通史1
(鮭漁の発展と変わる漁法)
一九カ所に分けた網引場は、いわゆる和人網引場と呼ばれている引場で、イシカリ元小家分(
運上屋
)が二三統、
新札幌市史 第1巻 通史1
(疱瘡の犠牲)
イシカリ川口には、十三場所の一三の
運上屋
が、すでに天明年代(一七八一~八八)から軒をつらねており、このほかに
新札幌市史 第1巻 通史1
(新札幌市史 第一巻 通史一/総目次)
定山の経歴 定山の温泉開発 第四節 イシカリの交通…837 一 交通路と
運上屋
, 交通路の大系 その他の系路 二 運送と通信 運送と通信 人足役
運上屋
新札幌市史 第1巻 通史1
(玉虫左太夫『入北記』(カラフトからの帰り))
尤セニ箱ニ至リテモ投宿所ヲ立波ニ補理ヒ置、却テ
運上屋
ニモ劣ラサル程ナリ。併シ未タ落成ニハ至ラズ。
新札幌市史 第1巻 通史1
(図版・写真・表組一覧)
と諸河川 『新道日誌』より (821頁) 図-2 イシカリ、サッポロの交通路 (838頁) 図-3
運上屋
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