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札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

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新札幌市史 第2巻 通史2 (札幌・茨戸間、花畔・銭函間運河開削)

それが、銭函と札幌を運河で結ぼうというものであった。,北垣の運河はその運河に加え、石狩川を通じてさらに花畔から銭函までの運河を開削し、札幌と銭函を運河で結ぼうというものである,花畔・銭函間については、途中の新川をはさんで石狩側と銭函側で差が出た。,銭函側は水量も豊富で、銭函と手稲村山口との間の輸送路として利用された。,表-5 札幌銭函間及び銭函花畔間運航実績 札幌~銭函 銭函~花畔 閘門番号/船数 貨物 船数 貨物 / 札幌・茨戸間、花畔・銭函間運河開削
新札幌市史 第2巻 通史2 (札幌への道路の開削)

札幌への道路の開削 島判官の計画の「石狩大府指図」には、銭函道・杓子琴似道・千歳道・有珠道・室蘭道が,しかし近世に銭函道と千歳道の開削はなされていた。  ,明治二年(一八六九)十月島判官は陸路銭函に到着したが、その途中黒松内越山道・余市越山道・雷電道路等の函館,その中に札幌銭函間道路もあった。銭函道は前述のとおり十月頃から着工した。,そのため三、四年頃に改修工事を計画している(銭函新道見取図 北大図)。
新札幌市史 第2巻 通史2 (運河跡の破壊)

運河跡の破壊 この運河の跡は、札幌・茨戸間は創成川として改修されて残り、花畔・銭函間の部分もほとんどが,また札幌市手稲山口・同星置地区の部分は放置された状態であり、小樽市銭函にある部分は、多くは畑の中に低い,土堤とともに残されているが、一部は銭函の工業団地建設などで改修されたり破壊されたりしている。,しかし現在でも原野に取り残されている銭函・花畔間運河は、そのような運河が残っていることも広く知られていないようで
新札幌市史 第2巻 通史2 (物流の拠点)

初め島判官は、銭函から札幌への物資輸送を考えて銭函道の整備を行った。,夏は小樽銭函間を小船または人力で、銭函札幌間は馬背で、銭函道を通って物資を運んだ。
新札幌市史 第2巻 通史2 (札幌での商業の発祥地)

札幌での商業の発祥地 島判官は、銭函道と千歳道と大友堀の交差点を札幌開発の基点としたといわれている。,大友堀の西側、銭函道を挟んで北側に、銭函の清水利左衛門(屋号は〓)、南側に同じく菅原治左衛門(秋田屋)
新札幌市史 第2巻 通史2 (初期開拓使機関の分課)

初期開拓使機関の分課 札幌本庁の前身として、札幌にかかわる初期の開拓使機関には、明治二年十月設置の開拓使銭函仮役所,表-1 銭函仮役所・小樽仮役所・札幌開拓使庁の分課とその変遷
新札幌市史 第2巻 通史2 (新川開削)

新川開削 島判官が銭函への途中で歌棄で佐々木弥吉に黒松内山道の仕込みをさせていること、余市越山道などの,見積りをしていること、雪中に銭函道の整備をしていることなどは、本府建設のための準備事業として、本府建設前,交通路と物資輸送路の確保の具体的な動きが、銭函道開削を別にすると三年七月頃からおこってくる。,その結果佐々木は小樽からの薪の運送料の半額で、札幌本府地から銭函のポンナイ川まで運河を開削できることを,写真-9 札幌ヨリ銭函新川迄之図(北大図)
新札幌市史 第2巻 通史2 (人足などの札幌への送り込み)

それらの人びとへどれほどの米や金を支払ったかを明確にできる史料はないが、さきの『開拓使銭函方御蔵米御用金請払, 明治二、三年』にある「巳十月より同十二月迄諸渡方類寄」「銭函御蔵玄白米諸渡調」がそれを示唆している。,「巳十月より同十二月迄諸渡方類寄」では、三カ月間で二六〇石弱が銭函御蔵から人足飯米や札幌送り米などの名目,で支払われ、「銭函御蔵玄白米諸渡調」では一月分九五石余、二月分一四六石余という蔵出高があったことを示している
新札幌市史 第2巻 通史2 (境神としての地蔵)

また南一条通は、近世末からいわゆる銭函道として銭函から札幌へ通じる、すなわち札幌にとっての基幹道路であった,また銭函道の境界に設けられたということは、千歳道の境界にも設置された可能性がある。
新札幌市史 第2巻 通史2 (周辺村落との連絡路)

創成通円山間(南1条通),豊平川平岸村間(平岸街道),札幌元村篠路村間,偕楽園琴似村間(杓子琴似道),銭函道,間 5 対雁街道,銭函道札幌神社追分間,市街白石村間,豊平村島松村間,本願寺脇石山間 6 篠路村花畔村間,7 円山銭函間新道修繕工事 8 篠路村花畔村間 9 円山小樽間道路修繕,雨竜通篠路駅逓間道路修繕,石山新道開削
新札幌市史 第2巻 通史2 (物資の輸送と輸送方法の整備)

島判官の時代は兵部省が石狩・小樽を支配していた関係で、厚田浜益や余市忍路から人夫に背負わせて札幌または銭函,そのため銭函到着後すぐから銭函道の開削を行っている。,その様子を、その輸送手配のために銭函から石狩へ派遣された藪内少主典は、次のように小樽へ書き送っている。
新札幌市史 第4巻 通史4 (札樽国道の整備)

第二期拓殖計画の中で道路改良政策の方針をとり、六年からの三カ年継続事業として、失業対策事業を兼ねて小樽~銭函間,さらに昭和九年春、小樽~銭函間の第一期札樽国道改良事業が終了すると、銭函~札幌神社前間の第二期札樽国道改良事業,札幌に関係する分については、秋に銭函御膳水と札幌神社前の間は測量が完了した。,この間の道路幅員は札幌神社鳥居前~琴似間は八間、琴似~軽川間は六間、軽川~銭函間は四間半の予定で、全区間一六
新札幌市史 第2巻 通史2 (豊平開墾の実態)

豊平開墾の実態 まず豊平開墾の時期は、島判官一行が銭函に到着した直後から十一月中旬である。,平田使掌并楠元権少主典右両人エ相渡す 但小樽内買上物 10.23 300両 札幌官員役宅建て方之義に付於銭函金穀掛,両 同札幌より豊平迄御買上物運送に付百姓代宅四郎承りに相渡す  立合 平田使掌 11. 3 3分 銭函,更に小樽・石狩・銭函で諸品の買物をしていること、山夫の活動が始まっていること、早山清太郎が鍛冶、木挽、,また④の史料から、豊平開墾で働いた人夫たちは銭函新道や本府建設の方に回されている。
新札幌市史 第2巻 通史2 (昇平丸の運航)

荷物三九個、函館銭函行きの米一三〇二俵を積み込んでいた(開拓使公文録 道文五七〇二)。,別な史料には「米千五百俵」とあり、内訳は一〇〇〇俵は函館、五〇〇俵は銭函とある(諸布達并大蔵省へ定額金之儀照合書類綴込,(旧開拓使会計書類 道文六四八二)  史料にあるように、船長喜代蔵は函館に到着以降、再三開拓使から銭函,このことは、開拓使が昇平丸を早く銭函へ派遣したかったことを示していると思われる。,だから喜代蔵に銭函へ行くことを強要しているのである。
新札幌市史 第2巻 通史2 (本府の建設の開始)

本府の建設の開始 島判官は十月十二日銭函に到着した。,十月二十一日平山七三大主典に率いられて函館を出発し(明治二己巳年日記 竹内運平ノート 道文)、十一月六日銭函,一方札幌銭函間の道路の建設のために、十一月から林少主典(当時札幌には林幸吉郎と林復太郎の両少主典がいるが
新札幌市史 第2巻 通史2 (西地諸郡からの物資調達)

余市の林家では、二年十月二十三日銭函で「米穀諸品御差支に付当余市泊番備米外品々とも一時融通可致旨島判官殿,この頃の米の調達や蔵米の出納簿と思われる史料に、『開拓使銭函方御蔵米御用金請払 明治二、三年』(北大図,厚田郡は備米高米八〇石のうち七五石余で、全体の九四・一パーセントを銭函・札幌に送り込み、忍路郡は高米六,〇石に対し六三石余を銭函・札幌へ送り、三石余も超過している。,これらの数字から諸場所にあった備米のかなりの部分が銭函または札幌へ送り込まれたことがわかる。
新札幌市史 第2巻 通史2 (昇平丸の役割)

この開拓使管轄後の初仕事が、銭函への物資輸送であった。,積荷は、東京出帆時には函館銭函行きの一三〇〇俵余の米、函館では柾貫木タル木など二三八石余の材木を積み込
新札幌市史 第2巻 通史2 (開拓使初期の機構)

根室開拓使出張所が、竹田判官により宗谷開拓使出張所が、そして島判官によって札幌建府を主体とした開拓使銭函仮役所,その後、三年一月に至り宗谷開拓使出張所は廃され、また銭函の仮役所も同年四月小樽に移されて開拓使小樽仮役所
新札幌市史 第1巻 通史1 (石狩海岸砂丘)

石狩海岸砂丘 石狩湾を望む平野の前縁部をなし、小樽市銭函海岸から東北に向かって約二〇キロメートル、石狩川河口
新札幌市史 第2巻 通史2 (札幌本道の建設)

この道路の完成は、それ以前の函館小樽間、さらに石狩または銭函までの水運に比べ、安全で恒常的な運送を可能,札幌本庁からは開拓使の決定事項として、鹿児島から雇ってきた串木野人夫一一〇〇人を越冬させることを、銭函
新札幌市史 第1巻 通史1 (【主要参考文献・史料】)

と鉱床―地質構造発達史を中心として」『地下資源調査所研究報告』、杉本良也『五万分の一地質図幅説明書〈銭函
新札幌市史 第3巻 通史3 (札幌茨戸間の運河)

そのため銭函花畔間と茨戸札幌間の運河を利用した輸送も三十四年まで行われた。
新札幌市史 第2巻 通史2 (米の確保)

明治初年、開拓大主典を務めた十文字龍助が残した廻米関係の請払簿によれば、二年十月から三年五月までの間、銭函方,で扱った蔵米の請払高は、表4のごとく合計二六八石五斗六升八合余となっている(明治二、三年開拓使銭函方御蔵米御用金請払,表-4 銭函方扱蔵米請払高(明治2年10月~3年5月) 玄米 官員願受 4石6斗1升9合8勺8才 札幌送,7斗7升1合     合 計 268石5斗6升8合3勺8才 『明治二、三年開拓使銭函方御蔵米御用金請払
新札幌市史 第7巻 史料編2 (四 明治五年)

件(七月二二日) 八八 御雇諸職人手明に付差戻相成賃銀の義に付掛合(八月二〇日) 八九 函館より銭函建築用金回方
新札幌市史 第2巻 通史2 (町区画の開始と道路開削)

町区画の開始と道路開削 開拓使は四年四月から、「銭函本道並札幌市中往来」一〇四〇間、幅八間の工事を皮切, これらの区画が『開拓使事業報告』土木の部にある、四年四月から着工した一〇四〇間、幅八間の「銭函本道並札幌市中往来
新札幌市史 第2巻 通史2 (民有林・造林)

造林面積は年間数十町歩から百数十町歩にすぎなかったが、次第に拡大し、事業地は上手稲より下手稲、山口、銭函
新札幌市史 第2巻 通史2 (札幌周辺地域との連絡網の整備)

例えば、十五年には篠路村福岡開墾地から里道開削願い、篠路・銭函間道路開削計画、十六年手稲山口村里道開削願,開拓使時代には、銭函道・千歳道・札幌本道の主要幹線道路の整備、そして平岸・白石・山鼻村など、どちらかというと
新札幌市史 第6巻 史料編1 (解題)

うち「評議留 銭函分」は、明治二年十一月十三日から十二月はじめまでの、開拓使銭函仮役所分の決裁綴原本である,すなわち、開拓判官島義勇は、同年十月十二日銭函に到着して銭函仮役所を開設し、札幌本府建設をはじめ管轄になった,また「御金遣払帖 札幌控」は、明治二年十一月十七日から翌三年十二月にいたる開拓使の銭函仮役所-小樽仮役所,すなわち、龍助にとって銭函仮役所-札幌詰-開拓使被免-札幌出立-函館着の間である。  
新札幌市史 第2巻 通史2 (下手稲村の成立)

三樽別、後の軽川)と呼ばれたいまの手稲区本町付近は、四年に通行屋(取扱人吉田新兵衛)がおかれたように銭函,・札幌間、あるいは銭函・石狩間の交通の要衝にあたっており、「旅人宿、飲食店、馬夫、樵夫、炭焼等ヲ業ト為
新札幌市史 第2巻 通史2 (本府計画)

きく描かれすぎていたり、札幌川(豊平川)が南北に描かれていて、本来西方面にあたるお宮、琴似・発寒村や銭函,全体としての位置関係が、当時としてはかなり正確に描かれていることから見て、この大府図は、島判官一行が銭函
新札幌市史 第3巻 通史3 (日本弘道会札幌支会)

は、会長である山田札幌中学校長のもと、本道に「精神的拓殖上貢献」しており、札幌だけでなく琴似・円山・銭函
新札幌市史 第2巻 通史2 (島判官の専断)

ところが十一月末に銭函に来た西地一三郡の請負人たちに島が指令した内容は、場所請負人の廃止と官による直捌,これに対し請負人たちは容易に納得せず交渉は続いたが、その衝に当たっていた銭函の十文字龍助開拓大主典は、
新札幌市史 第2巻 通史2 (豊平開墾を巡る事情)

官員一同諸郡え詰替被申付、其節石山大主典江刺海官所詰被命、楠元権少主典岩内石炭山詰被命、藤沢使掌荒井使掌銭函詰平田使掌札幌詰被命,この山田大主典とは忍藩出身の山田一太夫のことで、二年十、十一月頃の銭函札幌の金穀掛の責任者であった。
新札幌市史 第2巻 通史2 (水原県からの定額米)

このような北海道での物資不足の状況は、函館の東久世長官からも、銭函の島判官からも中央政府や東京詰へ報告,島判官は銭函へ到着後、本府建設開始以前に東京の岩倉具視へ次のように報告している。
新札幌市史 第2巻 通史2 (明治三、四年成立の村)

村落の配置と移民の入植は、札幌本府を基点に銭函、千歳、篠路、石狩へ向かう官道上の沿線が選ばれている(以上
新札幌市史 第2巻 通史2 (岩村判官の札幌赴任と本府建設計画)

とくに土木工事については、新川の銭函への計画は中止され、松前・函館などからの商工民たちもその移住地は、
新札幌市史 第4巻 通史4 (札沼線の敷設)

この時の路線は沼田から石狩川の右岸を通り石狩町を経由して銭函へ通じるものであった(北タイ 大2・1・21,七年になると鉄道速成期成同盟会の会長が岩村八作にかわり、札幌区との交渉の中で銭函への接続から札幌区に変更
新札幌市史 第2巻 通史2 (札幌本府経営と兵部省支配)

札幌本府経営と兵部省支配 二年十月十二日銭函に入った島判官らは、早速当役々上下七、八〇人ほどをもって,例えば島たちが乗り込んでくるや、兵部省小樽役所は厚泊から銭函までの宿駅に対し、次のような布達を出していた
新札幌市史 第2巻 通史2 (石狩の米不足の状態と対策)

島判官は、十二月に昇平丸の到着を期待して石井少主典を銭函へ派遣している。
新札幌市史 第2巻 通史2 (「札幌開府に付当使一般会計の目途」の札幌経営案)

新道は銭函道の整備が中心であろう。新川は当時工事が進行していた銭函への運河と考えられる。  
新札幌市史 第1巻 通史1 (兵部省の石狩支配)

同九月降伏人百戸(約四百余名)移住セシムヘキノ命アリ、之ヲ引率シテ石狩ニ出張、与市、古平、忍路、小樽、銭函,矢先に、開拓使は札幌に本府を建設しようと、明治二年十月に開拓判官島義勇以下が赴任し、同月十二日に小樽郡銭函
新札幌市史 第2巻 通史2 (札幌の水運)

三年に佐々木貫蔵の計画に端を発する、札幌本府から小樽方面への水路確保は、五年十月札幌運漕掛から、銭函
新札幌市史 第2巻 通史2 (札幌の景気と市街の拡大)

しかし二十年代後半は、北海道鉄道の建設、月寒への師団建設、札幌・銭函間運河の開削工事などが相次いで起こり
新札幌市史 第2巻 通史2 (新川の開削)

また前述の札幌・銭函間運河開削計画の新聞記事によると、軽川大排水とも呼んでいる。
新札幌市史 第2巻 通史2 (合同運動会・修学旅行)

またこの時期には修学旅行も行われたが、今のところ二十八年十月に豊平・平岸・月寒・白石・信濃の各校男子生徒が銭函
新札幌市史 第2巻 通史2 (豊平開墾)

豊平開墾 島判官が銭函に到着したのが十月十二日、札幌に本府の官衙建設に着手したのは十一月中旬である。
新札幌市史 第4巻 通史4 (石狩工業港構想)

場所は、札樽間、銭函、石狩河口といくつか提示され、三沢市長もたびたび現地に足を運んでいる。,翌十四年も、北海道における工業港開発構想は、石狩、銭函、苫小牧、留萌を候補地として調査・検討が継続された
新札幌市史 第3巻 通史3 (連絡道路の整備)

そのため白井川から上がる路線ではなく、小樽内川(豊平川の支流)から銭函へぬけ、山腹を縫って小樽へ抜ける,この路線は、現在では小樽内川上流から銭函ではなく、より西方の小樽市朝里へ抜けている道路であろう。  
新札幌市史 第2巻 通史2 (市中商業地の景況)

北海道毎日新聞明治三十年二月二十日付の記事に「開拓使の当時は東一丁目以東二丁目、三丁目より千歳街道に通じ、西は南一条より銭函街道即,ち円山村に抵るの街衢最も繁盛を極め、殊に百貨の運送悉く馬牛の負牽に托したるの時に在りては銭函より千歳に,このように、当時東二、三丁目は千歳街道より銭函街道へ、そして札幌元村、篠路方面へ抜ける街道筋に当たって
新札幌市史 第2巻 通史2 (霊代の札幌奉遷)

さらにここからは開拓判官島義勇らによってほぼ陸路銭函へ運ばれ、仮役所となった通行屋におかれた。
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