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新札幌市史 第2巻 通史2
(東久世長官らの赴任)
東久世長官らの赴任 東久世の長官任用が内定した明治二年八月二十四日の夜、岩倉は島義勇・岩村通俊・岡本監輔の
開拓判官
,しかし
開拓判官
のまま北海道へ赴任した。 ,ともあれ、八月二十六日東久世開拓長官、島
開拓判官
、船越兵部大丞、丸山外務大丞、岩村
開拓判官
、岡本
開拓判官
,この時出席したのは前記官員のうち船越が抜け、竹田・松本の両
開拓判官
と杉浦開拓権判官が新たに加わった一〇
新札幌市史 第1巻 通史1
(岡本監輔)
明治以後も、箱館裁判所権判事、
開拓判官
となり、カラフト問題の処理にあたった。
新札幌市史 第2巻 通史2
(口絵)
札幌本府建設は、
開拓判官
島義勇を担当責任者として明治2年暮から始まり、多少の曲折を経た後、6年中には白亜
新札幌市史 第6巻 史料編1
(解題)
りょうすけ)関係文書(以下十文字文書と略す)は、明治二年八月より同四年七月まで開拓使の開拓大主典として、
開拓判官
島義勇,すなわち、
開拓判官
島義勇は、同年十月十二日銭函に到着して銭函仮役所を開設し、札幌本府建設をはじめ管轄になった,公務では、三年二月の島
開拓判官
の東京召還とその後の混乱、同年五月の一の宮御神鏡遷座式、同年十月の麻畑(,岩村通俊(
開拓判官
)、佐々木貫三(相馬藩出身、請負師)、佐藤金治(開拓使の使部、のち荒物屋)、島義勇(,
開拓判官
)、清水三次郎(龍助の従者、旅籠屋、副戸長)、同辰次(治)郎・つね(三次郎の息子・三次郎の妻)
新札幌市史 第2巻 通史2
(周辺村落の形成と移民)
ただ札幌本府論は開拓使や明治政府の内部でも迂余曲折を経ていることは、第一節で詳述した通りであるが、
開拓判官
新札幌市史 第1巻 通史1
(佐賀藩と開拓使)
六月四日に蝦夷開拓督務、七月十三日に開拓長官に任じられ、島義勇も六月六日に蝦夷開拓御用掛、七月二十二日に
開拓判官
新札幌市史 第1巻 通史1
(ハッサム村の成立)
ただ後年開拓大主典として、
開拓判官
島義勇の部下であった十文字龍助の文書『御金遣払帖』明治三年(一八七〇
新札幌市史 第1巻 通史1
(『入北記』)
義勇は、明治二年(一八六九)に
開拓判官
となり、札幌の本府建設にあたることになる。
新札幌市史 第2巻 通史2
(豊水吟社など)
中でも
開拓判官
島義勇は札幌本府選定に関し、「他日五州第一都」の有名な句を含むものをはじめ多くの漢詩を残
新札幌市史 第1巻 通史1
(早山清太郎による道路開削)
「札幌開拓記」は、明治三年(一八七〇)から札幌本庁の担当となった
開拓判官
岩村通俊が、明治六年二月に辞職
新札幌市史 第2巻 通史2
(開拓使の絵師たち)
があり、漠々たる広野の中に丸山村、市街、モレヘツ、コトニ、初覚(ハッサム)等の文字が書き入れられ、さらに
開拓判官
岩村通俊
新札幌市史 第1巻 通史1
(この時期の評価)
これまでともすれば、開拓使の設置及び
開拓判官
島義勇の到来により、未開の荒野に突如として本府建設が開始されたかのように
新札幌市史 第2巻 通史2
(霊代の札幌奉遷)
さらにここからは
開拓判官
島義勇らによってほぼ陸路銭函へ運ばれ、仮役所となった通行屋におかれた。
新札幌市史 第1巻 通史1
(仙台藩と十文字龍助)
明治二年八月に開拓大主典に任じられ、
開拓判官
として札幌本府の建設等にあたった島義勇を補佐して、札幌草創期
新札幌市史 第1巻 通史1
(武四郎その後の去就)
その後維新政権成立後、一時箱館府(判事)、さらに開拓使(
開拓判官
)に仕官するが、これも明治三年三月には
新札幌市史 第2巻 通史2
(丸山外務大丞の樺太建議)
丸山外務大丞の樺太建議 明治二年九月二十二日岡本
開拓判官
、丸山外務大丞、谷元外務権大丞らが農工民を伴
新札幌市史 第2巻 通史2
(「官設」東京楼)
「官設」東京楼 明治五年四月、薄野遊廓内の旅籠屋を「遊女屋」と称することを宣言した時点で、
開拓判官
岩村通俊,、松本や城戸のような民間人であったが、資金面の動きからみれば実態は「官設」であり、五年四月時点の岩村
開拓判官
新札幌市史 第4巻 通史4
(刊行の趣旨(昭和五十六年九月十八日))
明治二年(一八六九)に
開拓判官
島義勇によって本道の首府として建設の礎が築かれて以来、すでに一一〇余年が
新札幌市史 第5巻 通史5上
(刊行の趣旨(昭和五十六年九月十八日))
明治二年(一八六九)に
開拓判官
島義勇によって本道の首府として建設の礎が築かれて以来、すでに一一〇余年が
新札幌市史 第5巻 通史5下
(刊行の趣旨(昭和五十六年九月十八日))
明治二年(一八六九)に
開拓判官
島義勇によって本道の首府として建設の礎が築かれて以来、すでに一一〇余年が
新札幌市史 第3巻 通史3
(刊行の趣旨(昭和五十六年九月十八日))
明治二年(一八六九)に
開拓判官
島義勇によって本道の首府として建設の礎が築かれて以来、すでに一一〇余年が
新札幌市史 第8巻2 年表・索引編
(刊行の趣旨(昭和五十六年九月十八日))
明治二年(一八六九)に
開拓判官
島義勇によって本道の首府として建設の礎が築かれて以来,すでに一一〇余年が
新札幌市史 第1巻 通史1
(刊行の趣旨(昭和五十六年九月十八日))
明治二年(一八六九)に
開拓判官
島義勇によって本道の首府として建設の礎が築かれて以来、すでに一一〇余年が
新札幌市史 第2巻 通史2
(刊行の趣旨(昭和五十六年九月十八日))
明治二年(一八六九)に
開拓判官
島義勇によって本道の首府として建設の礎が築かれて以来、すでに一一〇余年が
新札幌市史 第2巻 通史2
(開拓使の発足)
長官に引き続き、七月二十日に前会計官判事兼蝦夷開拓御用掛の島義勇を
開拓判官
に、七月二十三日に前箱館府知事
新札幌市史 第6巻 史料編1
(解題)
周知のように、札幌本府および周辺村落の建設は、明治二年(一八六九)十月に
開拓判官
島義勇を責任者とする銭函仮役所
新札幌市史 第6巻 史料編1
(刊行の趣旨(昭和五十六年九月十八日))
明治二年(一八六九)に
開拓判官
島義勇によって本道の首府として建設の礎が築かれて以来、すでに一一〇余年が
新札幌市史 第1巻 通史1
(兵部省の石狩支配)
のもとに会津降伏人処置の事業が着手して進展し始めた矢先に、開拓使は札幌に本府を建設しようと、明治二年十月に
開拓判官
島義勇以下
新札幌市史 第1巻 通史1
(開墾取扱所ほか建造物)
ると、あるいはこの在住家作二軒分が利用されたものであろうか(明治二年札幌本府建設のため乗り込んできた
開拓判官
島義勇
新札幌市史 第8巻1 統計編
(刊行の趣旨(昭和56年9月18日))
明治2年(1869)に
開拓判官
島義勇によって本道の首府として建設の礎が築かれて以来,すでに110余年が
新札幌市史 第7巻 史料編2
(刊行の趣旨(昭和五十六年九月十八日))
明治二年(一八六九)に
開拓判官
島義勇によって本道の首府として建設の礎が築かれて以来、すでに一一〇余年が
新札幌市史 第1巻 通史1
(幕府の倒壊と大友亀太郎の去就)
これより先に石狩において、札幌本府建設に奔走していた
開拓判官
島義勇に大友は招かれ、開拓事業推進のため開拓使
新札幌市史 第2巻 通史2
(「解放令」の影響)
六年一月以降の
開拓判官
松本十郎の『札幌滞在事務取扱備忘誌』を見ると札幌における実際の対応ぶりがわかる。
新札幌市史 第6巻 史料編1
(解題)
この間亀太郎は
開拓判官
島義勇より開拓使事業への尽力を墾請されたけれども応ぜず、明治三年(一八七〇)四月二十三日改
新札幌市史 第8巻1 統計編
(総説)
札幌市中では岩村通俊
開拓判官
が72年1月25日「戸籍取調等ニ而特御用多之折柄」町代見習2名を任命し,同年
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