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新札幌市史 第2巻 通史2
(養蚕農家)
養蚕
農家
養蚕
は、開拓使以来移住農家の経営の副業として奨励されてきた。,
養蚕
の普及奨励に努めた。 ,村内には
養蚕
室があり、季節になると兵員とその家族が寄り集まって昼夜
養蚕
に従事した。,
養蚕
室は、ふだんは紡織場にあてられ、兵員の妻や娘たちが紬を織る場となっていた。,二十三年に七八四戸あった
養蚕
農家が、二十九年には三四六戸となっている。 /
養蚕
農家
新札幌市史 第2巻 通史2
(桑樹養蚕)
桑樹
養蚕
開拓使は札幌市中及び周辺住民の就産策として、野桑保護、桑園開墾、
養蚕
所、製糸工場設置等を積極的,この桑を飼料とする
養蚕
所(室)を九年に両兵村にそれぞれ開設し、用具をそろえ指導者を招聘して屯田兵の家族,に
養蚕
技術を教え、さらに十二年にかけて施設の拡充整備につとめたが、両兵村で技法は異なった。,一方、
養蚕
、製糸、機織技術の習得が札幌市中の施設だけでなく、本州先進地でなされた。,こうした努力にかかわらず、両兵村の
養蚕
事業は成果をあげるにいたらなかった。 / 桑樹
養蚕
新札幌市史 第2巻 通史2
(養蚕施設と桑園)
養蚕
施設と桑園 安政六年(一八五九)南部藩士が幌別で
養蚕
を試みたといわれるが、明治三年開拓使少主典河辺盈徳,この年苗穂村でも移民が
養蚕
を試みた。以後も連年札幌郡内各村で
養蚕
及び蚕種製造が行われた。,〇人を
養蚕
に従事させた。,写真-4 札幌
養蚕
室(北大図) 開拓使の
養蚕
関係規則はきめ細かく定められている(市史 第七巻)。,まとまったものとして八年四月布達の「
養蚕
成繭条例」一七条、九年五月布達の「
養蚕
条例」(十一年十一月改正 /
養蚕
施設と桑園
新札幌市史 第2巻 通史2
(養蚕・製麻の奨励)
養蚕
・製麻の奨励
養蚕
奨励策の大略は前章第二節において述べたが、桑苗の移植によって札幌とその周辺は一大桑園,と化したにもかかわらず、
養蚕
は種々の障害のため所期の成績はあげ得なかった。,次の市在正副戸長あての達も
養蚕
奨励の実状を伝えるものの一つである。,
養蚕
ハ民間第一ノ恒産ニシテ幸ヒ当地ハ天然ノ桑樹多ク
養蚕
相応ノ土地柄ニ候得共、イマタ十分ニ手ヲ下シ候者無之,
養蚕
、製麻ともに移民の出身地での農事体験に適合していたはずである。 /
養蚕
・製麻の奨励
新札幌市史 第2巻 通史2
(亜麻等特約農家)
亜麻等特約農家
養蚕
業が減少していったのとは逆に、二十年北海道製麻会社(資本金八〇万円)が、また二十一年札幌製糖会社,この表からもわかるとおり、篠路・新琴似・苗穂・丘珠各村および兵村の亜麻栽培が多い一方、
養蚕
を其幹産業としていた,山鼻村等屯田兵村や
養蚕
の発祥地桑園までが亜麻の特約農家になっている。,
養蚕
から亜麻への転換が行われたのである。
新札幌市史 第7巻 史料編2
(一 農業)
一三
養蚕
志望の者へは蚕種下付の義(明治四年二月二五日) 一四 蚕卵紙献上(明治五年二月八日,) 一五 種紙払下出願の義(明治六年一二月二八日) 一六
養蚕
修業志願の婦女募集(明治七年五月二八日,河岸伐木制限(明治八年六月二八日) 二四 蚕種製造自用に限り差許(明治八年八月一七日) 二五
養蚕
条例,) 二八 生繭買上(明治九年六月二二日) 二九 琴似山鼻両村へ
養蚕
所新設の儀伺(明治九年九月二五日,) 三〇
養蚕
修業人賄の義伺(明治九年一一月二八日) 三一
養蚕
世話役賞与の義伺(明治九年一二月四日
新札幌市史 第2巻 通史2
(副業)
副業 この時期の農家では、以上のような
養蚕
や亜麻栽培のほかに大小麦、蕎麦、大小豆等も栽培していた。,このため副業として女は
養蚕
を営み、男は春雪解けとともに伐木に従事した。,二十二、三年の豊平村外四カ村の場合、農業従事者三七七八人のうち、日雇四三五人、
養蚕
七人、炭焼一四二人がいることも
新札幌市史 第2巻 通史2
(実業教育)
上・下手稲村で、「将来の為め」児童に本業を教えるとして上手稲・下手稲両校に「本年より小学校の実業科に
養蚕
,これによれば、おそらく従来からの科目(農業と思われる)にさらに
養蚕
を追加したものと思われる。,二十九年には、札幌女子尋常高等小学校で
養蚕
を実業科として週二時間実施することとした(北海道教育週報 九七
新札幌市史 第2巻 通史2
(札幌製糸場の開業と工女呼戻し)
さらに開拓使では、福島・置賜両県へも札幌本庁から
養蚕
伝習生・伝習工女として夫婦もの六組を派遣している。,伝習工女を各地へ派遣する一方、開拓使では八年四月、札幌浜益通(現北一条西八丁目)に札幌
養蚕
場を新築し、,各郡移民男女三〇人および屯田兵家族二〇人を
養蚕
修行人として募った。,また、前年より札幌製糸場
養蚕
修業人に応募していた屯田兵家族等は、一〇等および一〇等見習に格付けされた。,8年10月札幌製糸場
養蚕
修業人 61 赤井たき 〃 〃 8 元斗南藩士琴似屯田兵赤井捨八妹 8年7月札幌製糸場
養蚕
修業人
新札幌市史 第2巻 通史2
(実業教育の奨励)
十二年七月には第一小学校に附属園を設置して生徒に農業の初歩を教え、また同年琴似・山鼻両校に略則を定めて
養蚕
,十四年四月には第一小学校をはじめ、藻岩・山鼻・琴似その他近傍の学校の教員を集めて協議の上「農事規則」、「
養蚕
規則
新札幌市史 第2巻 通史2
(製麻製網)
製麻製網
養蚕
とともに屯田兵自活のための授産事業として奨励されたのは大麻栽培による製麻である(表8),製麻の一部は
養蚕
所に集め、屯田兵の家族によって麻糸を製造し漁網や綱を試作したが、十年に西南戦争から帰った,屯田兵は冬に向かって農作業が困難なため、もっぱら
養蚕
所の一部を借りて製麻製網にたずさわった。 ,このように大麻栽培と製網事業は
養蚕
にくらべると着実な進展をみせ、自活の一歩となり得たが、生産の中心的役割
新札幌市史 第2巻 通史2
(農業の指導・奨励)
また道庁が
養蚕
教師を嘱託して行った指導としては、「蚕業視察」、「桑園手入法示教」などがあげられる。,その大きなものは畜産・
養蚕
・果樹など全道規模で行われたが、同時に札幌郡では戸長役場単位での農産物品評会等
新札幌市史 第2巻 通史2
(農産加工用原料の生産状況)
生産状況 札幌区および村々の主要農産物のなかには、麻、亜麻、藍など即農産加工用原料となる特用作物や
養蚕
,〈繭〉 開拓使時代以来官の手厚い保護を受けた
養蚕
は、道庁時代に入り、技術の進歩により種紙の数に比較し収繭,
養蚕
は、その年の気候と桑の成育状況あるいは蚕の病気・人手の有無に左右され、
養蚕
農家はきわめて不安定な状況,その後、三十年代に入って盛り返したが、物価騰貴による
養蚕
雇人の賃金や桑葉の高騰によって
養蚕
農家は少なからぬ,三十年代の
養蚕
農家は、技術も逐次進歩して増加し、札幌周辺より当別、月形、奈井江方面へと移行していった(
新札幌市史 第3巻 通史3
(内職の奨励)
園田長官は、道庁や各支庁の官吏に対し、戦時における国家への義務を尽すため節約につとめ、妻子その他の家族が
養蚕
新札幌市史 第3巻 通史3
(製糸女工)
一方北海道庁も
養蚕
・製糸の奨励に努力し、三十八年には北三条西一一丁目の農桑館において女子
養蚕
伝習所を設立,して
養蚕
伝習にあたった(北タイ 明38・6・3)。
新札幌市史 第2巻 通史2
(札幌紡織所)
札幌の開発が進むにつれ、七年五月丘珠村の蚕室を旧庁内の一室に移し
養蚕
所とした。,そこで志願の婦女に
養蚕
を教えた。,八年六月さらに物産局に蚕事係を設け、民間の
養蚕
を進めると共に八月製糸室、貯繭室、蒸繭室各一棟を雨竜通(,札幌紡織所は廃使後、農商務省の札幌紡織場となり、十六年同省北海道事業管理局管轄下におかれ、
養蚕
・製糸等
新札幌市史 第2巻 通史2
(北の農村建設)
尤も該十日間は
養蚕
結繭前に付、開墾進歩せざるの景況なり。,類なり」(北海道毎日新聞 明治二十一年八月二十六日付)と報じられており、成墾地への大根や蕎麦の作付が
養蚕
,扁豆、えん豆)のほか、蕎麦、粟、きび、とうもろこし、馬鈴薯、麻、亜麻、藍等多様な作物が栽培され、果樹、
養蚕
新札幌市史 第2巻 通史2
(開墾)
大鳥圭介、安田定則等は農業の中から特に
養蚕
と製麻の二種を選んで自活の方策に据えようと考え、屯田兵入地に,昨年七月熊谷県下ヘ出張、蚕業実施ノ模様ヲモ目撃シ、猶官員ヲ各処ニ派出セシメ、天度ノ寒温地味ノ肥瘠等比較斟酌ノ上、
養蚕
植麻,まず未開の適地を選定し、伐木抜根整地耕転し、そこに
養蚕
のための桑苗や製網の麻種を植播することが急務となった
新札幌市史 第3巻 通史3
(大学昇格の具体化)
(講座数二)・農芸化学(同二)・農芸物理学(同一)・植物学(同一)・動物学(同一)・昆虫学(同一)・
養蚕
学,写真-19 東北帝国大学農科大学
養蚕
室
新札幌市史 第2巻 通史2
(対雁教育所)
上学年のみソロバン・地理等があったが一般小学校とはおのずと異なり、目標は日常生活に役立つ「俗文」と「耕漁
養蚕
新札幌市史 第2巻 通史2
(私立水沼製糸所製糸女生徒)
六人の伝習工女を派遣したのちも開拓使は、「屯田殖産授産救育のため」にさらに製糸生徒夫婦にて男女五〇人、
養蚕
生徒夫婦,それは、屯田兵入植を翌年に控え、開拓使における
養蚕
・製糸の着業を目前に控えていたからである。 ,伊達片倉元家来ノ内ヲ重ニ撰年齢十五歳ヨリニ十歳位迄ノ女生徒」を選んで派遣するというもので、期間も「来年の
養蚕
,熊谷県の東北部を流れる渡瀬渓谷沿いの谷間の村は、村の九九パーセントが山林におおわれ、近世から農業の傍ら、
養蚕
新札幌市史 第2巻 通史2
(北海道事業管理局の設置)
さらに事業の拡張を目指したのは札幌の麦酒醸造場・製粉場に大野
養蚕
場で、逆に縮小は石狩・厚岸・別海の各缶詰場,札幌牧羊場(17・5) 真駒内牧牛場 札幌葎草園 → 札幌育種場に併合(18) 札幌桑園及蚕室 → 札幌
養蚕
場,・5) →七重育種場(18・6) → 七重製煉場(17・5) →七重水車場(18・6) → 大野
養蚕
場
新札幌市史 第2巻 通史2
(各種学校)
北海道庁監獄署内看守教習所 監獄実務 六〇日(前期) 九〇日(後期) 苗穂監獄署内 北海道庁監獄署 22 札幌
養蚕
伝習所,
養蚕
六カ月 北一西一九 北海道庁殖民課 22・6・1 札幌薬学校 化・物・調剤・製薬 二年 24,必要上設置したものとしては北海道電気通信技術伝習生養成所(札幌電信局内)、北海道庁監獄署内看守教習所、札幌
養蚕
伝習所
新札幌市史 第7巻 史料編2
(解題)
(二)
養蚕
養蚕
の奨励については、まず志望者へ蚕種の下付が始まり、
養蚕
所を設けて授業を行い、生繭
新札幌市史 第2巻 通史2
(元仙台藩士片倉家従者の場合)
から十年まで満三年間、そして置賜・福島派遣の五人は、八年から九年にかけて一年数カ月にわたってそれぞれ
養蚕
,なお、置賜・福島へ派遣された工女たちは、夫婦で派遣され、夫は主に
養蚕
を、妻は主に製糸伝習に携わっている
新札幌市史 第2巻 通史2
(開成社と厚別の信濃開墾)
宮坂坂蔵は諏訪郡上諏訪村(現諏訪市)の出身で、最初は琴似村で果樹と
養蚕
を営み、特に
養蚕
では良繭を作り何度
新札幌市史 第3巻 通史3
(許士農場の設立)
開拓使との契約期間は三年間で、清国の
養蚕
や農業技術を普及するのが目的であった。
新札幌市史 第2巻 通史2
(衣服の改良)
また衣服の自給のため
養蚕
を奨励して製糸・機織を盛んにしたり、また麻を栽培させ、洋風の衣料に改善するよう
新札幌市史 第1巻 通史1
(士分の雇農民)
また、将来の
養蚕
事業を予定して、原生桑樹の伐採禁止と苗木移植がはかられた。
新札幌市史 第2巻 通史2
(開墾・営農の推進者たち)
・りんご・あんず・桃苗一〇本 大豆五石八斗、菜種八石、大麦一石七斗、小麦一石一斗 大豆は同村立花由松の種子 九
養蚕
,を試験 十 二反三畝 この年より十四年まで
養蚕
、梨・りんご・梅・あんず・桜・桃苗二七本 黄繭を札幌紡織場,穀菽、
養蚕
、園芸とやや経営に広がりが見える。
新札幌市史 第2巻 通史2
(管理共用施設)
学校は「一宇ヲ毎中隊ニ支給シ、之ニ所用ノ器具ヲ属ス」とし、授産所は事業場の名で「
養蚕
製糸ノ器具及麻蒸場並,製麻器具ヲ属ス」ことになったが、後者は二十三年改正給与規則により各兵村四棟の建築となり、さらに翌年の改正で
養蚕
製麻
新札幌市史 第1巻 通史1
(産物会所とのつながり)
上方商人の出資を求め、会所はこの資金を蝦夷地での生産者に貸し付ける元仕入仕法をとり入れ、また鉱山開採、
養蚕
機織奨励
新札幌市史 第7巻 史料編2
(一 社会・生活)
三 移住農民へ告諭(明治四年一月一二日) 四 札幌市民へ備馬貸与(明治四年一月二五日) 五
養蚕
志望,は地方官にも届出の義(明治一〇年一月一一日) 七三 勧業課に網漉人差出の義(明治一〇年) 七四
養蚕
修業人
新札幌市史 第2巻 通史2
(区内職業別表)
247 21 洋服裁縫師 32 - 教員 26 5 漁業雇 2 - 縫箔 1 - 神官 7 -
養蚕
新札幌市史 第2巻 通史2
(福岡県士族と開墾社)
福岡県では当時、一万五七〇〇戸余の士族がおり、多くの士族が秩禄公債も手離し窮乏し、
養蚕
、製糸、織物、炭鉱
新札幌市史 第2巻 通史2
(山口県士族の山口村移住)
ここも十年以降士族の窮乏が問題となり、旧藩主吉川家(きっかわけ)でも義済社をおこし
養蚕
、製糸、製紙などの
新札幌市史 第3巻 通史3
(上手稲と分村運動)
また
養蚕
も開拓使の時期以来さかんであり、丘陵地では果樹栽培も行われていた。
新札幌市史 第2巻 通史2
(前期兵村の変貌)
諸般の農産物より収入せしもの金二万二千四百二十五円九十八銭二厘、
養蚕
収入八百九十二円六十六銭、家畜収入百十円
新札幌市史 第2巻 通史2
(農産の中心・札幌)
十年桑園ヲ開キ
養蚕
ニ従事ス。苗穂村ハ明治三年四月粟稗大小豆蕎麦ヲ播種ス。爾来農事頗ル盛ナリ。,白石村ハ明治四年十一月雑蔬疏菜ヲ種ルニ瘠土ニシテ収穫薄キヲ以テ野桑ヲ採リ
養蚕
ニ従事ス。
新札幌市史 第4巻 通史4
(労働者の状態)
表-6 おもな職種別賃金(一日当り,大正13年) 職種 賃金 職種 賃金 男 女 男 女
養蚕
新札幌市史 第2巻 通史2
(仮学校とアイヌ教育)
また札幌村の六三郎妻とらの場合、
養蚕
、製糸、機織、和服仕立なども修業していた(同前 五七三三、五七八五
新札幌市史 第8巻1 統計編
(【産業】)
生産・購買(北海道) 第214表 ビール麦の作付面積・反当収量・買入石数(北海道) 第215表
養蚕
新札幌市史 第8巻1 統計編
(総説)
第3に,
養蚕
業について。第215表は『札幌区(市)』統計書』に基づいて作表したものである。,1922年(大11)以後には,
養蚕
業の統計資料は独立した項目ではなくなり,一般の農作物中に含まれる形で,表示されるようになるが,このこと自体が,札幌における
養蚕
業の停滞ないし衰退を示すものと思われる。,町村部の
養蚕
業についてはまとまった統計数値を得ることができなかった。 第4に,酪農・畜産について。
新札幌市史 第5巻 通史5下
(北海道開拓記念館と北海道開拓の村)
山本理髪店、南一条巡査派出所、札幌拓殖倉庫、太田装蹄所、農村群に樋口家住宅、信濃神社、河西家米倉、山田家
養蚕
板倉
新札幌市史 第1巻 通史1
(北方未来考)
④農業および諸産業(
養蚕
、麻、からむし)の開発。 ⑤防寒の方法(家作、衣服、皮革)。
新札幌市史 第3巻 通史3
(施設と観客)
〔農業別館〕 一五〇坪の館内には、農具、亜麻、麻茎、
養蚕
、畜産肥料類の一般出品。
新札幌市史 第2巻 通史2
(兵屋)
ただ十五年に全兵屋に六坪の
養蚕
製麻用作業庫を増築する費用として、一戸八三円余が開拓使から給与されるが、
新札幌市史 第7巻 史料編2
(件名目次)
一二 麻―麦、大豆、麻買上(明治一二年九月八日)…580 (二)養 蚕 一三
養蚕
志望,明治九年五月一三日)…586 二六 野桑伐採を禁ず(明治九年五月一三日)…587 二七
養蚕
人,の儀伺(明治九年九月二五日)…588 三〇
養蚕
修業人賄の義伺(明治九年一一月二八日)…588, 三一
養蚕
世話役賞与の義伺(明治九年一二月四日)…589 三二 蚕繭買上方(明治一〇,〇年一月一一日)…793 七三 勧業課に網漉人差出の義(明治一〇年)…793 七四
養蚕
修業人
新札幌市史 第2巻 通史2
(札幌製糸場等)
45 40 35 45 40 35 日女 25 20 18 30 29 20
養蚕
新札幌市史 第2巻 通史2
(新札幌市史 第二巻 通史二/総目次)
217 一 官園、牧場、その他勧業施設 札幌官園 果樹園 葡萄園 葎草園
養蚕
施設,奨励と勧農規則 二 新しい農業政策の推進 新しい農業の導入 農産物の買上
養蚕
,の練兵 衛兵と警衛勤務 非常時の出兵 装備・施設 二 授産事業 開墾 桑樹
養蚕
, 薄野・密売淫問題 廃娼論 移転論の台頭 四 農家の実態
養蚕
農家
/ 2ページ