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後期の土器

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 縄文時代後期の土器群について概観してみよう。まず、後期前葉の道南部では、東北地方北部から波及した十腰内系文化の強い影響を受けた土器がみられる。円筒形や頸部のややくびれた鉢形の器形で、波状の口縁をもち、沈線文、S字状入組文、それに磨消縄文で文様を描く涌元式土器である。
 つぎの段階は曲線文、入組文の多くなる虻田町入江貝塚を標式とする入江式土器(写真9)である。

写真-9 入江式土器(森町鳥崎川遺跡)

 後期中葉になると、全道的に斉一性のある土器がひろまる。深鉢や浅鉢の口縁部に横に数本の沈線が入れられ、それを縦の沈線で区切る手法や、沈線文で雲形に区画したなかを磨り消す磨消縄文が極度に発達し、後半には曲線文や入組文、短刻文、それに突瘤文なども加わってくる。
 土器型式からみると礼文島船泊第四遺跡出土の船泊上層式、札幌市手稲遺跡出土の手稲式土器などがあり、つづいて小樽市𩸽澗遺跡(ほっけまいせき)出土の𩸽澗式土器、えりも町エリモ遺跡B地点出土のエリモB式土器などがある。船泊上層式の深鉢の口縁部にみられる平行沈線には、縦につなぐ短い沈線が入れられるが、手稲式のようにS字状にはならない。また鋸歯状文は船泊上層式だけにあり、それ以降の型式にはない。手稲式(写真10)は、深鉢や浅鉢の平行沈線をつなぐ弧線にさまざまなバラエティがあり、磨消手法もよく発達するが、以降の型式に出てくる羽状縄文はまだない。手稲式土器は、関東地方の加曽利B式土器の系列につらなる土器で、類縁の土器は東海、近畿にまで広くみられ、磨消縄文の系譜は四国、九州にまでたどれる。まさに全国を風靡した土器ということができる。𩸽澗式は深鉢などの口頸部や頸部のくびれに上下を沈線で区切った刻み列が特徴であり、また羽状縄文が付されるようになる。エリモB式は、土器の内側から細い棒で突いて、表面に小さな瘤をつくる突瘤文が特徴であり、また貼瘤文も盛行する。

写真-10 手稲式土器(札幌市手稲遺跡)

 後期後葉では、長沼町幌内堂林遺跡出土の土器を標式とする堂林式土器と、その流れをくむ静内町御殿山遺跡出土の土器を標式とする御殿山式土器、斜里町朱円環状土籬遺跡出土の土器を標式とする朱円式土器などがある。
 堂林式は、斜行・羽状の縄文を地文として、平行沈線文、弧線文、渦巻文、曲線文、磨消縄文、突瘤文などが組み合わさり、精製・粗製の二種類がある。精製土器には貼瘤文が付されるものもある。御殿山式、栗沢式はともに墓地遺跡から出土した土器である。前者は斜行縄文に沈線文、磨消縄文、列点文などをもつものと、三叉文や丈の高い注口土器を含むものとの二群に分けられる。栗沢式も磨消縄文、貼瘤文や奔放な曲線文、三叉文などがあり、御殿山式の後者に近いグループでともに縄文後期終末に位置づけられている。