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本州勢力の北進

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 大和朝廷の基盤が確立し、古代国家体制の機能が発揮されはじめた七世紀後半になると北方経営が律令政府の関心事となる。それを物語るかのように古墳時代末期から奈良時代にかけての文化の北上は、ますます勢いを強め遅くとも八世紀、奈良時代には、石狩平野まで本州の人と文化が直接及んだ。
 この文化は東北北部にみられるような土師器を伴い、壁にカマドを取りつけた方形の竪穴住居跡や、ソバ、ヒエ、アワ、緑豆などの穀物を栽培する初期的農耕を伴っていた。それに、東北地方の末期古墳とおなじ蕨手形や直刀、刀子類、鍬先、それに勾玉や和同開珎といった貨幣を伴う径数メートル、高さ一メートルほどの小円墳「北海道式古墳」も出現する。江別市の後藤遺跡古墳群(写真19)、同じく町村農場古墳群、恵庭市柏木東古墳群などである。

写真-19 北海道式古墳(江別市後藤遺跡)

 このように、狩漁撈経済に基盤をおいた続縄文文化のなかに奈良時代ころの大和政権を背景とした本州勢力が、楔(くさび)を打ち込むかのようにコロニーを築いていく。そのような状況のなかから、「擦文式土器文化」が成立する。