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擦文土器と文化

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 擦文とは、土器の表面にこすったような刷毛目がみられるところから名づけられた。近年の研究では、幅のせまい木のへらを土器の成形の際の調整に使うことによってできたことがわかっている。
 擦文土器は、早・前・中・後・晩期の五段階に分けられる。はじめは、北大式の名残りの刺突文がみられ、鋸歯状の沈線文が基本である。その後、横の平行沈線文に鋸歯状文や交叉文、針葉樹状文が加わるもの、横の刻線文が消え、複段文様へと移り、最後は再び鋸歯状文、交叉文、羽状文などの単純なものへ戻る。文様の主体はこれら刻線文である(写真20)。器形は大中小の甕形・浅鉢形や高坏形などがあり、一軒の家が所有していた基本形態である。

写真-20 擦文式土器(札幌市K466遺跡)

 他に糸をつむぐときのはずみ車につかう土製の紡錘車があるが、これは紡糸、織布の技術が盛んに行われたことを示している。天塩町の豊富遺跡や恵庭市のカリンバ遺跡などで炭化した布やアイヌのキナ(ゴザ)に似たものが存在したことがわかっている。
 住居跡は方形でカマドが一方の壁にとりつけられる(写真21)。石器はほとんど用いられなくなり、刀子、鉄斧、鍬先、鎌などの鉄製品が盛んに使われた。鞴(ふいご)の土製羽口が出土していることから鍛冶の存在したことがわかっている。

写真-21 擦文文化の住居跡(札幌市K36遺跡)

 擦文人の墓は、発見例が少なく、そのため彼らがどのような形質的特徴をもっていたかよくわかっていない。
 擦文文化は、全道にほぼ均一に分布する。津軽海峡をわたって青森県の下北、津軽の両半島を中心にかなりの密度で分布する。