この中で、住居跡の床面ないし床面直上からまとまって単一型式の土器が出土し、時期が明確にできる例は、北筒式土器の中のトコロ第六類期のものが一〇例で最も多く、それに円筒上層式のサイベ沢V、Ⅵ式期のもの一例、余市式土器期のものが二例あるだけである。残りは、覆土中からサイベ沢Ⅵ、Ⅶ式、トコロ第六類、天神山式、伊達山式土器などが出土しているだけのもので、おおまかに縄文中期中葉から後期初頭の所産と推定できるものである。
住居跡の平面形でみると、ベンチを有するものとして、S二六七・二六八遺跡第二号竪穴住居跡、S二六五遺跡第二号竪穴住居跡の二例がある。前者は、外形・内形ともに楕円形で、ベンチは一五~六〇センチと狭い。柱穴は、内形の壁周沿いを中心に三〇本みつかっており、焼土は中央に二カ所ある(図9-2)。後者は、外形が菱形に近い不整楕円形で、内形は不整五角形である。焼土、柱穴は検出されていないが、内形の中央と長軸端の西壁付近に一メートル前後の大型の土壙がある。一方、ベンチのないものについては、不整五角形のもの四例(図9-1)、不整五角形に近い卵形のもの五例、卵形のもの九例、不整楕円形のもの七例、不整多角形(六角形?)のもの一例、形状不明のもの九例である。おおむね、プランは五角形を基本にして、その角が不明確になった卵形から楕円形が主流を占めているといえる。
図-9 縄文中期の住居跡(1:N309遺跡,2:S267・268遺跡)
住居跡内の構造については、石組炉のあるもの五例(T四六四遺跡第一号、M六七遺跡第二~五号竪穴住居跡)、地床炉の可能性のある大型の掘り込みが認められる例が四例(内トコロ第六類期三例)あるが、いずれも焼土は掘り込みの上部、床面のレベルにある。なお、S二五五遺跡第四号竪穴住居跡のごとく掘り込みを粘土貼りで覆ったあとでその上に焼土が認められる例もある。床面ないし床面直上の住居跡のほぼ中央に焼土が認められる例は、前述した石組ないし地床炉の例も含めると三七例中二〇例ある。柱穴については、二本以上の柱穴が検出され、しかもその配列がほぼ明確なものは一〇例しかなく、それ以外はまったくないものあるいは検出できなかったものが九例、柱穴は検出されているが配列が不規則だったり、攪乱などのため一部欠如し全体の配置が不明のものが一六例ある。
土器型式ごとにみると、トコロ第六類期は、形状の明確なものは、ベンチを有する楕円形のもの一例(S二六七・二六八遺跡第二号竪穴住居跡)、不整五角形に近い卵形ないし楕円形のものが五例である。炉は、住居跡のほぼ中央に焼土のマウンドが一〇例中七例に認められる。柱穴は、まったくないか一本のみのものが五例、壁周に沿って六~三〇本の柱穴が配列されるもの三例、長軸両端にやや大きいピットがあるものが一例(S二六七・二六八遺跡第一号竪穴住居跡)ある。また、住居跡中央の焼土の下に不整楕円形・不整四角形の土壙があるものが三例あり(S二六七・二六八遺跡およびS二六五遺跡第一号竪穴住居跡、S二五五遺跡第五号竪穴住居跡)、これらは地床炉の可能性もある。
円筒上層式期で確実な例は、サイベ沢V、Ⅵ式の半完形土器が数個体みつかったN三〇九遺跡第一二号ピットがある。プランは不整楕円形を呈し、焼土・柱穴等はない。余市式期の確実な例は、T四六四遺跡第一号竪穴住居跡、M六七遺跡第五号竪穴住居跡で、前者は不整五角形を呈し、石組炉が二個、柱穴が壁周に沿って一〇本あるものである。