市内で発掘した遺跡は、S二六七・二六八遺跡(図22-4、5)、S三五四遺跡、N一九九遺跡(図22-6、7)、T一五一遺跡、T四六六遺跡(図22-1~3)、T二一〇遺跡(図22-8~14)など九遺跡を挙げることができる。これらの遺跡から出土した土器は、すべて後葉から終末に位置づけられる。各遺跡の土器を詳細に観察すると、T四六六遺跡では、波状と直線の沈線が組み合わされる文様の出現率が高く、S三五四遺跡では、太い磨消帯と太い横走沈線による文様が多く、N一九九遺跡では、磨消帯あるいは沈線の上下に刺突を施文し、T一五一遺跡では、縦の刻みを持つ貼瘤文が多く、T二一〇遺跡では、沈線による三角形の組み合わせによる工字文風の文様と刻みのある貼瘤文を持つというように、それぞれに特徴がある。
図-22 縄文晩期の土器
(1~3:T466遺跡,4・5:S267・268遺跡,6・7:N199遺跡,8~14:T210遺跡)
同一地域内の遺跡ごとに見られる特徴の差は、多くの場合土器の作られた時代がわずかに異なることを示す場合が多い。前述の遺跡群のなかでT二一〇遺跡の土器は、青森県あたりで製作され製品として持ち込まれた台付鉢の破片などから、他の遺跡出土の土器よりやや新しく、晩期の終末か続縄文時代の初頭に編年されると考えてまちがいないであろう。他の遺跡出土の土器は、T二一〇遺跡出土の土器より古く位置することが確実視されているが、それぞれの遺跡間の土器が、どのような関連を持つものであるか、今後の資料の増加と検討を待たねばならない。