この時期の本州と北海道の関係を見ると、晩期終末の青森県の土器は、渡島半島をはじめ札幌付近にも製品が持ち込まれ、垂柳遺跡出土土器は、渡島半島の続縄文時代はじめの土器と強い類縁関係が認められる。さらに、最近のニュースでは、伊達市内の遺跡からは北九州にしかみられないイモ貝の腕輪が出土している。これらの事実から、縄文時代晩期には、東北と北九州、東北と北海道を結ぶ物流システムがすでに確立され、続縄文時代はじめには、北九州からのルートが直接北海道にまで及んでいたと見ることができる。
続縄文時代の人々は、このようなルートにより畑作農耕ばかりでなく、稲作農耕の存在さえも知っていたと見ることができる。先駆的な渡島半島の一部の人々の間では、稲作農耕の試みも行われたかもしれない。近い将来道南の遺跡から籾の圧痕のついた土器や炭火米、場合によっては水田跡さえも発見される可能性さえ考えられる。そうなれば北海道における水稲耕作を試みた第一号の栄誉は、明治時代よりはるか古く続縄文時代の人々に与えられることとなるであろう。
しかし、このように農耕を試みた人々が存在するにしても、続縄文時代の中頃までは、遺跡から発見される石器などを見る限り石鏃、銛、ヤスなどの狩猟・漁撈用具が圧倒的多数を占めること、カムチャツカ半島、アリューシャン列島、樺太南部など、サケ属の分布と同一のひろがりを持つ太い柄のナイフの存在などとも考えあわせると、その生業主体は狩猟・漁撈・採集にあったと見ることができる。
続縄文時代の物流システムは、その後ますます活発となり、多量の鉄器がもたらされるようになり、後北C2式土器の時期になると石器が激減する。後北C2式土器に至って、その分布域を仙台平野までにひろげる背景として、古墳寒冷期に伴う稲作の後退、オホーツク文化の南下などいくつかの説が示されているが、かくも短期間に南下した背景の一つには、従来から確立していた物流のシステムにより、後北人と東北弥生人、後北人とオホーツク人、オホーツク人と更に北の人達というように、相互の往来があり、後北人が南下することに何らのためらいも感じなかったことも大きな原因となっていたと思われる。その一つの証左として、札幌駅北口K一三五遺跡の後北C2式土器に伴って発見された東北の弥生式土器、紡垂車、ガラス玉やオホーツク式土器などがある。この遺跡では炭化した麦も発見されているため、一部には畑作農耕も行われていたとも考えられるが、まだ確証を得るに至っていない。
この物流システムの一層の発達と本州の中央集権国家の統一国家作りの気運とがあいまって、より多くの文物が北海道に流入することにより、続縄文文化が変質し、次の擦文文化の成立を見ることとなったのであろう。