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続縄文時代の石器

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 恵山式土器、後北式土器に伴う石器類は、主な器種を列挙すると、以下のものがある。石鏃、銛先、ナイフ、削器、搔器、石錐、石斧、敲石、擦石、石皿、砥石等があり、恵山式土器には、魚形石器、打製岩偶といった特異な石器もある。そして漁具を主とした骨角器の多様さと良質なことは、特筆に値するものである。

図-6 続縄文時代の代表的な石器群
(1~7:石鏃,8:石錐,9~12:ナイフ,13~15:削器,16・17:石斧,18:魚形石器)

 石鏃が非常に多く土壙墓に副葬されることは、続縄文時代末期に至るまで普遍的な特徴とされる。N二九五遺跡第一号ピットは、壙底面に一〇八本の石鏃が置かれていた。しかし、中には黒曜石の薄い剝片を石鏃の形に折り取って作り出した非常に粗雑な作りのものも数点見られた。
 恵山式土器、後北C2式土器までの石鏃は、鏃身が長い二等辺三角形をなし、有茎のものと無茎のものの二種の形態がある。有茎は恵山式土器に、無茎は後北式土器に特徴的に伴い、地域文化の伝統の差と考えることができる。ただし恵山式土器の三・四期では、石狩低地帯を中心として後北式土器を生み出したこともあり、有茎・無茎の石鏃が混在した状況で検出されることも多い。さらに、恵山式土器の末期では渡島半島においても、無茎の鏃が多く検出されるようになる。
 後北C2・D式土器になると、石鏃の数は減少し、形も無茎で基底部が丸味を帯びた水滴型へと変化する。石鏃の数を確保するため、スレート・泥岩・片岩の剝片を折り取って作った粗雑な作りの石鏃をも含めて、土壙墓の中に副葬品として入れることは、墓としての必須条件であったかのようである。このことは、続縄文時代の生業(狩猟・漁撈等)と密接に関連したもので、精神文化の一端を示したものである。
 銛先は大型の石鏃といった形状を呈し、有柄・無柄の二種がある。恵山貝塚、噴火湾沿岸の礼文華貝塚では、燕型双尾式の入念な彫刻が施された先端部に、有柄の石銛先を装着するよう溝が掘られている鹿角製離頭銛が発見されている。礼文華貝塚では、有柄の石銛が先端に装着された状態のものも発見されている。
 ナイフ類は道東北部の縄文時代晩期から見られ、特に恵山式土器の時期に定型化したものである。太い柄を作り出し幅広の刃の入念な両面加工を施したもの、片刃で背の高い斜めの刃を作り出したものの二種がある。江別市江別太遺跡では、この種の石器に木製の棒が柄として装着され、樹皮にて結束された状態で発見されている。この種のナイフは、類似した資料の分布よりサケ・マス漁を生業の主体とした民族の分布圏と一致することから、紀元前後のオホーツク海・ベーリング海沿岸地域の先海獣狩猟民族に共通した技術的伝統が指摘されるという論もある。
 石錐は、縄文時代一般に見られるつまみ付のタイプ、棒状のものの、基本的には二種があり変化はあまりない。瀬棚町南川遺跡では、瑪瑙製の細い棒状を呈した、先端がかなり摩滅している錐状の石器が数万点と多量に発見されている。形状に均一性が認められ、多量にあることから「舞い錐」等の先端に装着する特殊な錐と考えられるが他に類例はない。用途としては、骨角器・貝製平玉等の制作に用いられた可能性が高い。
 石斧は、入念に研磨加工が施された柱状片刃石斧、偏平片刃石斧が主流となる。柱状片刃石斧の形は本州の弥生文化期に特有の形であり、弥生文化の影響が強く作用したものと考えられる。しかし縄文時代早期より伝統的に続く石斧製作技法の伝統である擦り切り手法が多く見られることが留意される。後北C1式土器以降では、石斧の形も定型化したものでなくなり、数も極端に減少する傾向がみられる。
 敲石、擦石、石皿、砥石は、縄文時代後期・晩期からの伝統を保持しているが、擦石、石皿は非常に少なくなる。
 恵山式土器に特有の石器に、魚形石器と称される特異な形の石器があり、N二九五遺跡発掘区からも一点発見されている。砂岩、凝灰岩、片岩を素材に研磨整形し魚の形に作り出したもので、通常尾部または胴部中央に溝がめぐらされている。先端部は斜めの平坦面となるように作られ、この面には何らかのものが装着されていたものと思われる。形状のみ見ると、現在魚を釣るのに用いられている疑似餌に最も似ている。