ビューア該当ページ

集落

298 ~ 299 / 1039ページ
 擦文時代の集落については、道東部では河口近くにある大集落と川の上中流部にある中小集落の間で季節的な移動があったと考えられているが、旧琴似川水系にある遺跡群については、海から遠い河川上流部の河川沿いの微高地上に立地し、それらは直線距離で五〇〇メートル前後の間隙がある部分もあるが、多くの場合対岸に位置するものも加えて、ほとんど連続的な形で分布している。これらの大集落は、小集落が近接した地域に集まった形態で、同様な例は同じ道央部の千歳川流域でも認められる。この一見大集落と思われる擦文時代の集落については、宇田川、藤本らによる常呂川流域についての分析例がある。それによると、中小規模の遺跡では、同時に一~三軒の住居、一般的には二軒からなる住居によって集落がなりたっており、集落もしくは住居の変遷については、以下の規制(法則)が厳格に守られている結果として、次々に新しい地点に住居が作られることになり、ついには今日みられるように、非常に数多くの住居跡が遺されることになったといわれる。その規制とは、以下の内容である。
擦文文化の住居は前の時代・時期に竪穴があったことが明確な窪地をさけて、たてられている。
同時に存在する住居は一~三軒である。この一~三軒の住居が一集落を構成する。
同時に存在する住居相互の方向は近くの沢の方向もしくは台地縁の方向と平行する。
同時に存在する住居の方向はカマドの方向を含め一致する。
住居相互の距離は地形、前代の窪みの位置によって違ってくるが、原則として住居の一辺と等しいか一辺の二倍くらいの距離である。
もっとも好適と考えられる位置に住居はまず作られ、次第に劣悪な条件の地に移っていく。
一遺跡内に居住適地がないと、新しい地点に移動する。そこで適地がなくなると再び前の地点に帰る。したがってそれぞれの地点にはかなり長期の不在期間が存在する。

 ところで、旧琴似川水系で竪穴住居跡が数多く発掘調査されたK四四六遺跡(一一軒)、K四六〇遺跡(一七軒)についても、出土遺物から明確な年代を確定できる住居跡は少ないものの、住居の規模・かまどの位置・相互の距離関係などからおおまかな同時併存の可能性を調べてみると、一つの遺跡で同時期に存在した住居の数はいずれも二ないし三軒であることがわかる。ただ、唯一、三軒のK四六〇遺跡第一三、一七号と第一〇号(擦文前期前半)例については、第一〇号竪穴住居跡の規模が九・五×八・五メートルと大きく、しかも床面が三枚認められる特異なものであるところから、基本的には二軒単位の集落であった可能性が高い。