佐藤編年のⅣの後半およびⅤの前半にあたる。甕形土器には、複段文様は残るが、徐々に単帯にもどる。高坏もこの段階の頃に消失する。文様の基本形は、大柄な鋸歯状文、交叉文、羽状文で、列点文も加わり、短刻線文は形式的につけられる程度になる。晩期終末期の土器は、胴部から直線的に開く器形となり、大型の器形のものはなくなる。ところで、佐藤編年のⅤの後半のものは、擦文式土器とオホーツク式土器の融合型式といわれるトビニタイ土器群の一部を指している。
なお、石附喜三男によれば、奥尻町青苗貝塚、根室市西月ケ岡七号竪穴住居跡、瀬棚町利別川(としべつがわ)河口などから、明らかに擦文晩期の文様がつけられた内耳土器がみつかっているといわれる。内耳土器は、本州より移入された内耳鉄鍋を模してつくられたもので、その道内での使用時期は、宇田川洋は一三世紀末から一四~一五世紀で、一部は北方地域との関係から一六世紀まで残るとしている。しかし、石附は擦文時代の終末を一二世紀から一三世紀初めとし、その論拠のひとつに内耳土器をあげているところから、もう少し古く考えているようである。
現在、擦文時代の終末年代については、一三世紀(~一四世紀初頭)、一六世紀~一七世紀頃、道西南部は一二世紀末から一三世紀前半で、道東北部は一六世紀末から一七世紀初頭などといった諸説があり確定していないが、一三世紀説が最も多い。