ところで、西本豊弘は、北海道の狩猟・漁撈活動の問題を論じた中で、擦文時代の生業についても触れている。それによれば、貝塚は青苗貝塚、小幌洞穴A地点しかなく、あとは遺跡内の土壌からサケ類の骨がみつかるだけであるが、海岸部の遺跡ではニッポンアシカ、オットセイなどがまとまって出土していることから海獣猟と魚類を中心とした漁撈を行い、また動物儀礼も行われ、一方内陸の遺跡ではサケ類の出土例が多く、サケ類への依存が高かったようにみえると述べている。しかし、擦文文化においても、おそらく少なくとも擦文文化期以降と同程度の狩猟・漁撈・採集活動を行っていたと想定されることから、サケ漁についても、サケは多くの主食の中のひとつであって、川に遡上し産卵場付近まできたサケを獲ることは、漁というより採集活動に近く、川でのサケ漁そのものは地理的な場所と密着した生業活動で、サケ漁のみを目的として河川上・中流域にまで居住したとは思われないとし、暗にこの頃一般化してきたと考えられる農耕ないし農産物の積極的な利用がこういった立地に住居を構えさせた理由の一つであろうと述べている。