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開拓の進展と遺跡の消滅

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 札幌人類学会の会合は、明治三十五年三月までに大会二回、例会三四回を開き、講話や遺物、土俗品、参考図書の陳列などをやり、明治三十六年に解散したという。その最後の例会で河野常吉は、「遺跡遺物の保存に就て」として、およそ次のような講演を行い、その記録が残されている。
 北海道は人類学上遺跡遺物の調査には、甚だ便宜多き所なり。本邦に於て、早く開けたる地は、即ち対外にては、其遺跡は概ね形状を損じ、其遺物は散乱して、今日研究上頗る物足らざる心地がする。唯、北海道は対外之に比すれば、開く方が甚だ後れたり。其遺跡は尚ほ多く存在し、遺物も亦未だ甚だしく散乱せず。然れども、今日に於て早く遺物遺跡の法を講ぜざるは、開拓の業日に月に進歩せる故、従ひ其遺跡は存外早く湮滅し、其遺物は存外早く散乱せんとするの憂あり。……次は、石狩国は開拓の進歩により、大に遺跡を失へり。例えば、琴似川の沿岸には高畑氏の調査によれば、八百六十個の竪穴あり。農園内のみでも百余個あり。従て、土器、石器、鉄器なども多かりしが今は開墾せられて、殆んど其遺跡を見る能はず。当別川沿岸にも亦、数百個の竪穴ありしが、是亦開墾せられて今は其跡を見ず。如此有様にて其他石狩国に於ても諸処の遺跡は、大半既に湮滅せりと云ふも可なり。其他の諸国も亦、皆開拓の進歩に応じて、多少其遺跡を失ひ、或は失ひつつあらざるなし。
(北海道先史時代の遺跡遺物並に人種)

 開拓が遅く始まった北海道には、他の地域に比較して人類学上の遺跡・遺物がまだはなはだしい散乱を受けずに残っているが、開拓の進展に伴い、湮滅、散乱する可能性があることを憂えたものである。その例として、さきに述べた琴似川沿岸にあった八百六十個の竪穴や当別川沿岸の数百個の竪穴が開墾されて大半が湮滅したことをあげている。