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元慶の反乱

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 貞観十七年(八七五)十一月十六日、渡島荒狄が乱を起こし水軍八〇艘をもって、秋田・飽海両郡の百姓二一人を殺略したので、係官に命じてこれを平げた旨、出羽国から報告されている(三代実録)。この反乱の理由はわからないが、この年より三年後の元慶二年(八七八)三月に秋田城下で夷俘たちが反乱を起こし、秋田城並びに郡院屋舎、城辺民家を焼き払う事件が起きている。この事件に関して「藤原保則伝」(続群書類従 伝の部)に、聞くところによると秋田城司良岑近(ママ)は、厭(あく)なく全てのものに対して税を徴したために、夷の怨怒を買い反逆するに至ったとあり、また豪吏並びにかねて、極まりなく私に租税をまし、ほしいままに徭賦を加え、なお権門の者が子年すなわち貞観十年(八六八)以来、善馬良鷹をもとめて集まり、言いなりにこれを求め、民は訴えにすべなく困窮し、奸猾の輩は富をいたしているので、乱鎮定後これを正した、とあるが、加えて前年不作で百姓が飢弊したことにもある。したがって、貞観十七年の渡島荒狄の反乱も、交易関係にからむ矛盾から発した蜂起であると考えられる。
 元慶二年の夷俘の反乱について、出羽国守が鎮兵をもって防守し、かつ諸郡の軍を徴発して変に対処している旨を上奏すると、これに対する勅符は方略によって事態を収拾せよというものであった(三代実録)。
 六月陸奥鎮守将軍小野春風が陸奥に入り、軍に精鋭を加えると共に、反抗勢力の中で秋田城から最も遠く、城の統治に利害関係の比較的薄い夷囚を説得、その試みが成功し、八月津軽渡島の俘囚らが帰属して来た。九月、国司宛の勅書は、夷を以て夷を撃つは古(いにしえ)からの上計であるが、夷の野心のほども測り難いから状勢によって対処するようにと指令されている。
 翌三年一月渡島夷首一〇三人が仲間三〇〇〇人を率いて秋田城に来たので、津軽俘囚と反乱に加わらなかった者、百余人共に聖代を慕って来たものゆえ労をねぎらいたい旨の奏上があって、使者が派遣されている(三代実録)。
 さらに元慶五年(八八一)八月十四日の条に、元慶元年は穀類実りなく、したがって調庸も不備の上、翌二年には夷虜反して国内乱れ、義に従った俘囚及び諸郡の田夷並びに渡島らの、あるいは警戒につかれ、あるいは化を慕って来たこれらのものに不動穀を開いて饗宴したとの報告もある(三代実録)。
 なお寛平五年(八九三)、渡島が奥地の俘囚と戦闘をしようとしているので、城塞を固め、軍士を選練させた記事があるが、前後の事情は不明である(日本紀略)。