ところで開墾地において農民たちは何を生産しようとしていたのであろうか。農民ならば各自が種子を所持して入植してきたであろうことも考えられるが、しかし入植地の気候も土壌も未知であることや、あるいは彼らの経済的状況からも、その可能性は乏しいと推測される。またそれゆえにこそ大友は、これら移住農民に給付すべき種子を購入しているのである。慶応二・三年に準備した種子は、籾(七斗)、粟(二斗)、稗(一俵)、きび(五升)、蕎麦(五俵二斗)、大麦(四俵一斗)、小麦(七俵六升)、大豆(四俵)、小豆(二斗)、黒大豆(一斗)、五升芋(三俵)、大根(二升)、その他野菜物種となっている。これらの種子の一部は、シノロ村や箱館近在の大野村より供給を受けている。
大友の計画では、移住農民の主食は初年度には扶持米をもって賄い、次年度以降(四年目まで)は扶持米の減量分を自己生産物で補食することになっていたが、まさに初期の農業経営はこのような即刻の自給を目的とした生産を指向しているといえよう。なお味噌においてもその扶助は初年のみで、以後は給付した塩をもって自己の収穫物により自製しうるものと大友は目論んでいた。したがって水田はさきにふれたように開発田四反四畝歩にとどまり、しかもそのうちの二反四畝歩は中川金之助の開発の既墾地を組み入れたものであって、水稲耕作は充分浸透するまでにはいたらなかった。