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工事の進行と工夫暴動

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 ところがこの工事の遅れは、さらに大きな問題を引き起こした。前述の「諸職働之順序」の相違と石材不足は他の工事に影響を及ぼし、工事全体が進行しなくなった。特に建物を作る大工たちなどの職人に仕事がまわらなかった。そうすると職人たちへの賃金は支払われなくなる。職人たちには、三割ほど(三分または三歩一などと表現されている)を支払って急場をしのいでいた(部類抄録 道図)。その問題が深刻になっていた七月頃、岩村判官は病気(『貫堂存稿』では質扶斯)で出勤できないことが多かった(細大日誌 道図、公務摘要日誌 岩村家)。そのため職人たちへの対応が不十分な状態が続いたのであろう。また札幌にはもともと邏卒が配備されていなかった。そのため大量の職人や人夫を押さえ込んでおく権力に乏しかった。おそらく暇な職人人夫たちに不穏な動きがではじめていたのであろう。その最中の七月末に函館から邏卒が二五人到着した(公務摘要日誌)。邏卒本営竣工前の到着であるから、不穏な状況を見て、予定を早めたのではないだろうか。そして八月三日職人の削減を行い、一部を小樽から船で送り出そうとした(同前)。仕事も与えられず、手当も不十分なまま帰還させられそうになって、職人たちは不満を爆発させて、その夜二〇〇人ばかりで開拓使へ強訴した(十文字日記 市史 第六巻)。岩村自身の『貫堂存稿』にあるように、病身の岩村判官がその強訴をうまく鎮めたかは不明である。現在のところ公式の記録からは明確にできない。しかし工事の遅れの状況などから、以上のような背景をもった事件が五年八月三日夜に起こったことは確認できる。