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明治六年の工事縮小

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 明治六年の事業計画は、全般的建設型から事業による緩急の差をつけた予算優先型の建設方針に変更された。それによると、本庁建築、元「ケフロン」官邸建築、教師五人住居建築、「メシヨル」官邸建築、官宅一〇棟建築、商家四棟建築、病院建築、本庁の門馬寄せ土塁井戸建築、勅奏邸一棟並び厩物置井戸建築などが計画されている。ほとんどが前年に建設予定のものである。これらの事業については、東京の方で削減して、本庁の門馬寄せ土塁井戸建築などいくつかが廃止、各建築工事費も削減された。その他札幌側は非常用として備金一万円を要望したが、黒田は六〇〇〇円で許可した(開拓使公文録 道文五七四六)。この情勢のなかで六年の事業が開始された。六年八月までには盛んに行われていた諸工事が続々と竣工していったが、それ以降新たな工事は開始されなかった。建設方針の変更による経費の減少のためである。また庶民からみると工事を盛大に行ったあとの工事縮小だから、市中での金まわりが悪くなった。いわゆる明治六年の不況である(九章一節参照)。