私の考えは主に聖書から取られているので、絶えず聖書に言及せずに(道徳を)教えることは不可能である──実は自分は新入生用の聖書を既に三〇冊持っている。長官が私がそれらを配り使用することを許してくれるならば、それは非常に彼(黒田)の名誉を高める行為だと答えました。私は彼に、やがてすべての学校で聖書が使われるようにきっとなるに違いない、私は札幌でこの先鞭をつけたいのだと言いました。
(太田雄三 クラークの一年)
クラークが妻などにあてた手紙によると、黒田との徳育論争はこれまで言われているような、札幌への赴任途中の玄武丸船中ではなく、着札後ということになる。
ともあれ、クラークは聖書を用いて生徒の徳育にあたろうとした。彼はマサチューセッツ農科大学での教育を札幌に移植しようとしていたが、そこでは農業知識や技術の伝達だけではなく、平等・進歩・労働尊重を基本的理念として謳い、教育を通じすべての者を威厳ある自由人として向上させることをその方針としていた。学生たちは日曜礼拝か聖書研究会のいずれかに出席することになっていた。クラークは会衆派の教会に属し、アマーストでは日曜日ごとに一家揃って礼拝に出席していたが、特に目立った教会生活や伝道活動を行ったことはなかったらしい。ただ、マサチューセッツ州はニューイングランドのピューリタン発祥の地でもあり、アマーストは敬虔な信仰と倫理的な生活、奴隷解放や禁酒運動など社会改良運動が評価を受ける、ピューリタンの伝統を継承する地であった。クラークもその伝統の中に生きた一人であったから、札幌に着任し彼を慕う生徒たちを前にして、伝道の意欲を触発させられたようである。
黒田は最初聖書の配付を渋っていたが、のちにこれをクラークに許し、クラークは聖書に生徒の名を記して配った。やがて生徒たち全員から、彼のもとに聖書を教えてほしいとの申出が寄せられた。クラークはそれは日本の法律で禁じられていると言ったが、彼らは法律を破ることから生ずる結果は我々が引き受けるから教えてほしいという請願書まで出したという。
クラークの聖書講義は、毎朝授業の前に聖書の数節を朗読し、キリスト教の信仰について述べ、「主の祈り」を一同で祈るものであった。しかし、授業前の聖書朗読や祈りは間もなくやめ、もっぱら日曜日午前中の聖書研究会(バイブル・クラス)を行うことにした。集会では生徒に聖書を輪読させ、また暗記させた。のちには朗読する個所を生徒自身に探させた。讃美歌は彼が不得意だったのか、生徒に詞句を味わわせようとしたのか、抑揚をつけて朗誦する程度であり、歌詞をどなって唱えているように聞こえたという。
クラークは宣教師ではなく一信徒であったので、キリスト教の教理を教えたり牧師のように説教をすることはなかった。ただ、万物の創造主なる神を信じ、キリストの十字架によって人間の罪が許されたことを信ずるという単純な信仰を説き、「何でも祈れ」と奨めた。教師としてのクラークの人柄と行動に惹きつけられていた農学校一期生は、クラークが伝えたキリスト教信仰をも受け入れようとした。その一人、田内捨六は「私は未来の生命など考えてもみませんでした。『死んだら塵に帰す』と考えていたのですが、深く考えてみて、何処か行きつく処があるに違いないと思いました。……私が宇宙のことを考えると、それを造ったある力強い存在、すなわち聖書で言うように神があるに違いないと思うようになります。」(J・M・マキ W・S・クラーク―その栄光と挫折)と告白している。クラークの徳育は農学校教育の枠を越えて、一期生をしてキリスト教を信ずる決断へと導いた。