河野常吉が明治三十四年頃にまとめた『札幌郡調』には、篠路村における当時の漁業状況につき、「魚族ノ遡上旧時ノ如クナラズ、只二ケ所ニ於鮭鱒各二ケ統ノ就業有ノミ。其所有者ハ石狩若クハ小樽、或ハ札幌ノ商家、漁業者ノ手ニ帰シ……」とあり、三十三年は収穫がなく「多クハ休業セリ」と伝えている。
また、漁業従事者については着業一〇戸、人口四五人(休業は数値未記載)、鮭の就業網数は八統(曳網)、漁業者九一人、鱒は二統で二〇人としており、このころまでは石狩川にて多少の漁業を行っていたことがわかる。海産干場(かんば)も一一カ所あったという。当時の漁業の様子を伝える資料はこれが唯一であるが、おそらく間もなく「休業」となったのではないかと思われる。