札幌県時代より札幌区では、市街地に大下水を開削していた。区制時代初期にはその路線の増加とその整備が問題となっている。明治三十三年二月、大通以北西四丁目筋北五条通創成川までの石造大下水開削の工事入札が行われた(道毎日 明33・1・28)。この工事について、区民からその大下水を非常用水溝として、北八条まで延長してほしいという希望がだされた(道毎日 明33・6・8)。区役所では三十四年度に西五丁目通の排水溝を北七条通で東進する予定であった。しかし北八条辺の住民から、当時の北七条辺との発展の比較やその将来の発展の展望を踏まえて、北八条通に開削するように要望が出された(道毎日 明33・12・11)。さらに地形上や衛生上などを考慮して、北八条への下水開削に変更するよう第一四衛生組長からも出願された(道毎日 明34・1・8)。おそらくこのような経過を踏まえてであろう、翌三十四年九月、北四条西四丁目から北進し、北八条で東進して創成川までの下水開削工事が開始された(北タイ 明34・9・12)。
その後、上水道敷設の方針を示した四十三年一月の区会での青木区長の施政方針演説には、「下水道ノ敷設モ都市健康ノ為ニハ殆ント上水同一ノ関係ヲ有シ固ヨリ忽諸ニ付スヘカラス然ルニ本区ハ従来仮設的開溝ニ依リ不完全ナル排水ヲナシツツアリテ衛生及交通上障害少ナカラザルノミナラス年々多額ノ費用ヲ要シ経済上亦不利ナルヲ以テ早晩根本的ニ之カ改良ヲ要ス」(区会決議録 明43)として、下水道を敷設する計画方針を示した。そして同区会に諮問案として「札幌区下水道工事計画」を提出した。
この計画書では、札幌区では区内の南七条以北西一五丁目以東札幌村界までの区域を一四の区域に分割し、各区域内の汚水や雨水を下水管に集め、豊平川・創成川・伏篭川・琴似川支流に放流するという計画であった(同前)。しかしこの時は、調査の継続の意向などで区会側から撤回を要求され、「本案は専門家の鑑定を経たる上更に改め提出」することにして撤回した(北タイ 明43・1・20)。この後四十三年九月に設置された臨時水道調査委員は、大正四年一月委員規則の改正で、調査項目に下水の敷設順序方法と財政計画も調査事項に含められ(区規定関係書 自大正四年至同十一年)、上水道だけでなく下水道事業も本格的調査がなされることになった。
大正五年一月の区会に「下水道調査報告」が提出された(区会会議録 大5、なお小樽新聞紙上では大正四年十月にこの報告書の紹介がなされている)。その内容は、当時の下水の不備の指摘と下水設備の必要性の強調にはじまり、札幌区の将来人口や最大降雨量の考察などのほかに、下水の構造・敷設予算まで含む全部で一五丁のものである。